白んでいく東の空が、夜の終わりを告げている。
そろそろか、と立ち上がる己の服の裾を、形を持った影が控えめに引いた。
「おねえちゃん」
「おはよう。直に朝が来るよ」
優しく声をかけ、服を掴むその手と己の手を重ねる。
まだ小さく影のままの手だ。空の明るさに反して、日の出はまだなのだろう。
「おいで。まだ時間はあるようだ。それまで少し話そうか」
先ほどまで座っていた草原に座る。手を一度離し声をかければ、影は首に腕を回し抱きついた。
その必死さは、むしろ縋り付いているようだ。
宥めるように頭を撫で、背を抱く。おねえちゃん、と微かな声が繰り返すのを目を細めて、ただ聞いていた。
「ごめんなさい。おねえちゃん、ごめんなさい」
「もういいよ。仕方がない事なのだから」
「いやだ。お姉ちゃん、お願いだから」
行かないで。
掠れた懇願に、緩く首を振り否を示す。
このやり取りはもう何度目だろうか。
大分明るくなった空と、大きく人らしくなった影を見ながら考える。
朝と夜。その境目の、刹那の時間しか共にいられないというのに。こうして触れ合う度に、泣きながら謝罪を繰り返す。
後悔し続けているのだろう。お互いに同じ時間を共に在れない事を。共に在るべき術を探して禁忌を犯し、常世の怒りに触れてしまった事を。
「お姉ちゃん」
縋り付いていた腕が背に回り、抱き上げられる。
東の山間に一等眩い光が滲み出し、己の姿を小さく黒い影に変え、彼を大きく人へと変えていく。
「そろそろ完全に夜が明ける。誰そ彼時までさよならだ」
「っ、お姉ちゃん」
「もう泣かないでくれ。次はもっと別の話をしよう。そうだな、昼の間の話が聞きたいな」
己にはもう、日の光のある場所に在る事は出来ないのだから。せめて、話を聞きたかった。
昼の話でなくてもいい。彼と、話す事も叶わぬと思っていたはずの彼と、ただ話がしたかった。
「ごめんなさい。お姉ちゃん」
流れる涙を拭おうと伸ばした手は、すでにほとんどが影になってしまっている。
朝が来る。彼の影として眠る時間が訪れる。
「おやすみ」
彼がしたように、首に腕を回し。
微笑んで目を閉じた。
「お姉ちゃん」
すっかり明けた空を睨めつける。
彼女の姿はない。伸びた影があるだけだ。
こうして出会い、そして別れを何度繰り返したのか。
日の光の下でしか人としての形を保てない己。
月の光の下でしか人としての形を保てない彼女。
太陽と月。交わる事のない光が、同じ時に在る事を許さず、己らをすれ違わせている。
「お姉ちゃん、ごめんなさい」
影に触れる。そこにはもう、先ほどまで感じた温もりなどどこにもない。
「ごめんなさい。お姉ちゃんの望みに応える事は出来ないよ」
彼女が話をしたがっている事には気づいている。気づいて、今までそれに応えず、ひたすらに謝罪を続けていた。
本当は、己も彼女と話がしたいのだけれど。
「だって、お姉ちゃんの望みに応えてしまったら、お姉ちゃんは満足してしまうでしょう?」
聞こえてはいないと知りながらも、影に向かって言い訳じみた言葉を並べる。
彼女の心残りがなくなれば、こうして境目の時間に触れ合う事が出来なくなってしまうかもしれない。
言葉を交わすだけでも、どうなるかは分からない。不確定要素が多すぎる。
「どうして刹那でも触れ合う事が出来るのか分からない。分からないからこそ、怖いんだ」
何が切っ掛けで、この奇跡にも似た時間がなくなってしまうのか。確かめる勇気はなく、必要だとも感じなかった。
今のままで十分だ。刹那でも触れ合う事が出来るだけで。
彼女はすれ違うこの状況を、常世の怒りに触れたのだと評した。
それは間違いではないのだと思う。けれどそれが正しいかは判断が出来ない。
あの時。閉じた歪が開いた時に。
逃げ出したのだ。
迎えに来た手を振り払い。彼女がかつて己にしたように、彼女の体を己の影に仕舞い込んで。
出来るだけ遠くにと、駆けだして。日の光の煌めく空の下、当てもなくただ逃げていた。
「いつまでも、このまま二人でいられるなんて思ってない。でも今だけは。もう少しだけでいいから」
呟いて、立ち上がる。
行かなければ。迎えが来る前に、逃げなければ。
見上げた空は青く、見下ろす大地はどこまでも青々とした草原が広がっている。
足を踏み出す。
かさり、と音を立てて草を踏み締める。
「ごめんなさい、お姉ちゃん」
謝罪を繰り返す。
許さなくてもいい。我が儘な己を許さないでほしい。
これは彼女に対しての冒涜だ。
己のために命を賭した彼女の眠りを妨げ、縛り付けるだけの呪いだ。
「ごめんなさい。それでも」
歩き出す。
どこへ向かうのか。向かう先に何があるのか。
何一つ分からないまま、それでも足が止まる事はない。
「一緒にいられる今が幸せで、まだそれを手放す事が出来ないんだ」
たとえすれ違うだけだとしても。
触れ合う刹那の時ですら、言葉を交わす事が出来なくとも。
彼女と共に在る。
その事実は、己にとって何よりの幸福であり。
最良の形だった。
20241020 『すれ違い』
10/20/2024, 9:31:33 PM