「すみません。少し話を聞いてもいいですか」
問われて振り返る。
柔和な笑みを浮かべた少年が、男の返答を待っていた。
「私で答えられる事であれば」
「えっと、この神社の事なんですけど」
浮かべた笑みに安堵の色を乗せた少年は、どうやら旅行者のようであった。
スマホを片手にこちらへと歩み寄るその姿に、男は僅かに目を細める。
「ここはどんな神様が奉られているんですか?調べても出てこなくって」
時折、少年のように観光目的で訪れる者はいる。
観光目的であり、興味本位であり。
理由は様々ではあるが、こうして人が完全に途絶える事がないのだから、それは悪い事ではないのだろう。
「ここには遠い過去に、国に抗った民の長が奉られています」
「国に?逆らったんですか?どうして」
「従えば、殺されていた。それ故に抗った。それだけです」
笑みが訝しげなものへと変わる。
理解はされないだろう。
血を絶やせなど。命ずる皇尊の意思も、意図も。絶やされる側からしても分からぬ事であるのだから。
「外部の干渉を受けず暮らしてきた少数の民ですから、淘汰されたのかもしれません。ですがその滅びから一つでも残そうと、その民の長は最期まで抗ったのです」
分からぬままに蹂躙され、屍を積み上げられる。
足掻いても、受け入れても結果は同じ事だというならば。適わぬと知りながらも、主は最後まで民のために刀を振るった。
その覚悟すら踏み躙り、民の血は絶えた。
残すものはなく、歴史に語られる事もなく。
「じゃあこの神社は、祟りを鎮めるために造られたんですか?」
少年の疑問に、男は首を振る。
勝者が敗者の影を恐れる事は良くある事だ。そうして奉られ、鎮められてきた御霊は数多くある。
しかしこの社は、違う。
「いいえ。ここは主を慕う者らが建てました。御霊を奉り、それを己の慰めとしたのです」
勝者の安寧を守るためではない。
民のために生きた御霊の眠りを祈るものですらない。
これは、過去を忘れる事が出来ぬ愚かな者らのよすがだ。
慰め、と繰り返す少年の表情には、最初の柔和さなど欠片も見えない。
普段ならばここまで子細を語る事のない男は、己自身に驚きながらも表情には出さず、取り繕うように言葉を続けた。
「なので、ここは他の神社とは成り立ちが異なります。御利益等は期待されない方が賢明でしょう」
観光目的であれば、酷な事を言っている。だが、男にはそれ以外の説明のしようがない。
気分を害したかと、少年を見る。
「大丈夫です。それを目的に来た訳じゃあないですから」
社を見る少年の横顔に、何故だか違和感を感じた。
原因を探ろうと、少年を注視し。すぐに理解する。
大人になりきれていない、まだ成長途中の幼さが残る顔。
その眼が。眼だけが、不釣り合いな鋭さを抱いていた。
「もう一つ、聞いてもいいですか?」
社から男へと視線を移し、少年は笑う。
人好きのする笑みに、消えぬ眼の鋭さが異様だった。
「ここに、女の子が来ていませんか?髪の短い、活発な子。写真とかは、全部消えてなくなってしまったんですけど」
女の子。今はいない彼女が思い浮かぶ。
「消えてなくなった、とは」
「消えたんです、全部。写真も動画も、記憶からも。今は俺以外、誰も覚えていないんですよ。俺の家の隣に住んでいて、幼なじみだったはずなんですけど」
笑いながら、眼だけは強く訴える。
逃がさない、と刃の切っ先の如く鋭さを増して、声なく叫んでいる。
「朝起きたら、消えていたんです。誰に聞いても知らないって。彼女の家もずっと空家だったって。そんなわけないのに」
「何も残っていないのならば、ここに来た理由は?」
愚問だとは思いながらも、男は問う。
少年の笑みが深くなり、眼の鋭さがさらに増した。
「彼女が来ると思ったから。分からなかったけれど、今、理解した」
男から視線を逸らし、境内を見回す。
鳥居、社、社務所。
目を細める。
「ずっと比べられてきて腹立たしかったけど、こういう事か。ならやりようはいくらでもある」
呟いて、男に視線を戻す。
彼女の居場所を、視線だけで問いただしている。
「探している本人かは分からないが、先日一人の娘は来た。主を迎えに行くと出てしまったが」
「誤魔化さないんですね。意外だな。同胞を隠すのかと思ったのに」
「あれが憎み厭うているわけでもなし。ならば匿う理由はない」
男の答えに、少年の纏う鋭さが僅かに和らぐ。
「そう。じゃあ、戻るまで待っていてもいいですか?」
「いつ戻るか分からない。もてなせるものもないが、それでもよいと言うならば」
形だけの許可を願う少年に、男は特に否を返さず。
「大丈夫です。少し待って、戻りそうになかったらまた追いかけます」
男の了承に、少年は笑って礼を述べた。
その言葉に、少年の執着に、ふと疑問が浮かぶ。
「何故、そこまで求める?」
彼女の話と、目の前の少年の差異。
確か、振られたのだと彼女は言っていなかっただろうか。
それを契機にすべてを思い出し、ここまで来たのだと彼女は話していたはずだ。
男の問いに、少年は眼を瞬いて。
「彼女が俺を見ない事が許せない。過去に恋い焦がれて今を見ない振りをするのが我慢ならない…それだけです」
少年の、獣のそれに似た眼を、かつて見たような気がした。
20241016 『鋭い眼差し』
夜空を優雅に舞う、青白い火を目で追いかける。
腕を伸ばしても火は高く、遠く。ちっぽけな自分の、短い腕では届くはずもない。
はぁ、と吐息が漏れる。
白く濁る息が外気の冷たさを余計に感じさせ、思わず身を震わせた。
さて、これからどうしようか。
何をするべきなのか、何処へ行くべきなのか。
考える。悩み見上げる空に、もうあの青白い火は何処にも見えない。
途端に心細くなり、慰めるように合わせた手を胸元に抱いて目を閉じた。
「取り繕った所で、踏み惑っている事に変わりはないがな」
「やめろ。そういう酷い事を平然と言うんじゃない」
目を開ける。
青白い火はやはり見えない。だが、背後の馴染みのある声に、気づかれぬよう微かに安堵の息を漏らした。
「酷くはないだろう。真の事だ」
「飛べないんだから仕方がない。同じような木々が続けば、誰でも迷うだろう。木々の上まで高く飛べれば、きっとすぐにでも道は見つかるはず」
屁理屈でしかないと思いながらも思った事を口にすれば、呆れた笑い声が響く。
それを咎めようと振り返り、絶句する。
思い描いていた姿とは異なる、半身を黒く焦がした知人が、記憶と違わぬ子供のような眼をして笑っていた。
「見苦しくてすまん。相手を侮っていた」
「……今度は何をやらかした」
見目以外には何一つ変わらぬ様子に、胡乱げな視線を向ける。
どこぞの狐らの喧嘩に巻き込まれにいったか。あるいは腹を空かせるがあまりに怪火でも呑み込んだか。
「神に手を出した」
「馬鹿か?それとも気が狂ったか?」
思わず、正直な感想が漏れる。
予想していたものの斜め上をいく理由に、それ以上の言葉が出てこない。
常から危ういと思う事はあれど、まさかここまでとは。
「信仰の途絶えかけた神ならば何とかなるとは思ったのだが、やはり神ではあるな。話が通じるものでなければ、残るものなどなかっただろう」
呵々と笑ってはいるものの、その声にいつもの覇気はない。
よく見れば、その笑みすら僅かに引き攣っているのが見て取れて、馬鹿か、と声には出さずに繰り返した。
「まあ、何だ。そんな訳で体が痛くて堪らない。治してはくれまいか」
「好き好んで焼かれにいったのだろう?そのままで良くないか」
「いみじき事を言うな。わざわざ迎えに来たのだ。もっと優しくしてくれ」
「自業自得だろう。優しくするべき部分が何処にもない」
そうは言えど、痛む体で無理をしてまで迎えに来てもらったのだ。その礼くらいはするべきだろう。
誰にでもなく言い訳をしながら、背負っていた籠から竹筒を取り出す。
栓を抜き、中の水を振りかければ、ぎゃっと短く叫ぶ声が上がった。
「優しくしてくれと言っただろうに!痛みで、真に気が触れそうだ!」
「優しくするべき部分がないと言った。それに、これが一番早く、良く効く」
空になった竹筒を籠に戻し、背負う。
「迎えに来てもらった事に対しての対価は支払った。それで?帰り道は何処だ?」
「少しは心を惑わしたりはないのか、薄情め」
「それくらい耐えられるだろうし、もう痛みはなくなったはずだ。気を引きたいがために、痛む振りをするのは止めてくれ」
視線を向ける事なく、空を見た。
月も星も雲に隠れているために、己が今何処にいるのかをさらに曖昧にさせている。
もしも空を飛べたのならば。
鬱蒼と生い茂る木々より高く、遮るものの一切が存在しない空から見下ろせば。
きっと、還る道はすぐにでも見つかるだろうに。
「汝人は飛べん。飛べたとて、帰る道など見えはせぬ」
知らず言葉が漏れてしまったのか。
答える声に、先ほどまでの気軽さはない。淡々と紡がれる、慈悲の欠片もない言葉に、逸らしていた視線を向けた。
表情の抜け落ちた熱のない目が、咎めるようにただ己を見ていた。
それを気づかない振りをして、気分を害したように睨めつける。
「嫌がらせか?なんでそうも酷い事を言うんだ」
「事実だ。試してみるか?」
言葉より早く、抱きかかえられ強く風が吹いた。
思わず目を閉じ。感じる浮遊感に、落ちぬようにと強くしがみつく。
「ほら。此処から見えるのか?」
促され、目を開ける。
見下ろす木々は、何処までも広がり。
何処までも同じようで、還る道など何一つ分かりはしない。
「汝人には見えんだろう。たとえ地の果てまで駆けようと、空高く飛ぼうと、それは変わらぬ。此処は我らの領域故に」
言葉を失った己を哀れむような、穏やかな声が降り注ぐ。
「汝人を還す訳にはいかぬ。我らのためにここに在る。還れはせぬが、帰る場所は与えよう」
「今更。それを敢えて言うなんて、本当に酷い」
常を装い、嘯いて。
空を見上げる。今の場所よりももっと高く。雲のさらに上へと憧れる。
あの青白い火は、還るための道標は、きっとこの妖にすら届かない程の高みへ行ってしまったのだろう。
だから見つからない。届かない。
だからこそ、分からなくなる。
帰りたいのか。還りたいのか。
分からないからこそ、また道に迷い続けるのだろう。
「さて、帰るとするか」
風が吹く。
心の底の灯火が、風に掻き消され凪いでいく。
「泣かなくなったな。良い事だ」
呟く声に、当たり前だろうと苦笑する。
疾うの昔に涙は涸れ、帰してと泣き叫ぶ声すらも嗄れ果てた。
残るのはもう、諦念にすらなりえない無だ。
表を取り繕う事は出来る。誤魔化し続けるのは簡単だ。
「迎えに来てもらって、泣く必要があるもんか」
嘘を吐く。人にしか出来ぬ事だ。
偽りを積み上げ、本当だと騙し込む。
簡単な事だ。
ただ笑えばいい。
20241015 『高く高く』
「やめて。来ないで。嫌だってば!」
「そんなに嫌がる事はないだろう。前は喜んでいたじゃあないか」
「だから!それは子供の時の話だって!」
部屋の中を逃げ回る。
悲しげな表情に心が痛むが、だからといって捕まるわけにはいかない。
「何を言う。おまえはまだまだ子供だろうに」
呆れて息を吐くその姿に、思わず唇を噛みしめる。
分かっている事であるが、それでもまだ子供としてしか見られていない事が悔しかった。
あとどれくらい歳を取れば、大人として認めてくれるのか。
「ほぅら、捕まえたぞ。鬼事は終いにして、湯浴みをしようなぁ」
「やだっ。離して、変態じじい!」
彼から意識を逸らしていたせいか、抱き上げられて逃げられない。
嫌だと暴れても全く意に介さない様子に、じわりと危機感が首を擡げた。
「そこまで言う事はないだろうに。そんなに儂と湯浴みをするのが嫌なのか?」
「一人で入りたいの!いつまでも子供扱いしないで」
半ば叫ぶように伝えれば、渋々ながらも下ろされる。
安堵に深く息を吐き、荒くなった呼吸を整える。
ちらりと横目で様子を伺えば、隠す事なく不満を表した表情がはっきりと見えた。
目が合うと眉を下げ、悲しい顔をされる。
この顔は駄目だ。弱い事を知っていて、敢えてするのだから質が悪い。
絆されないようにと、慌てて目を逸らす。
「もう一人でお風呂にも入れるし、一人で寝る事だってできるんだから。何も出来なかった子供じゃない」
世話を焼かれるばかりの子供ではないのだと繰り返す。
きっと彼には伝わらないのだろうけれど。それでも、伝えないままには出来ない。
「おまえは子供だよ」
「子供じゃない」
「子供さ。大人になろうと、必死で背伸びをしている可愛い子。親の庇護を失って、巣立つ事も出来ず。飛び方も知らずに、空へと手を伸ばして藻掻いている。哀しい、愛しい、子供だよ」
頬に触れられ、目を覗き込まれる。
一言一言、言い聞かせるように紡がれていく言葉に、彼の瞳の中の自分の顔が歪んでいくのが見えて。
聞きたくないと身を捩っても、手が離れない。
逸らそうとしても、眼が逸らす事を許さない。
「強情を張るな、愛い子。子供は子供らしく、儂に世話を焼かれていろ」
静かではあるけれど強い言葉を、否定する事は出来なかった。
「さて、では湯浴みをしようなぁ。さっきの鬼事で汗をかいただろう」
機嫌良く目が細まり、抱き上げられる。
いい子、と背を撫でられあやされながら、向かう先を見るともなく見る。
良くはない気もするが、彼が満足そうであるならば、それでいいのではないか。
微睡む意識の隅で、そういえばどこへ向かうと言っていたのかを思い返し。
途端に鮮明になる意識に、全力で抵抗した。
「だからっ!一人で、入るってば!」
耳元で叫び、頭を叩けば、さすがに堪えたのか緩んだ腕から抜け出し距離を取る。
危なかった。もう少しで流されてしまう所だった。
睨み付ければ、ちっと舌打ちをされる。
「そのまま流されてくれれば良いものを」
「変態!馬鹿!もう、あっち行って!」
「何がそんなに嫌なんだ。儂が嫌いにでもなったのか?」
「そうじゃない!一緒に入るとか、そんなの…は、はしたない、だろうに!」
力一杯に叫ぶ。
きょとり、と目を瞬かせて。そうか、と頷き笑う。
「そんな些事なぞ気にするな。お互い見慣れているだろう?」
「気にするから!見慣れてる、見慣れてないとかの話じゃないから!」
「そうか?なればそうだな…儂が女の体になれば問題はないか?」
「それはそれで、問題しかないからっ!」
何を言っているのだろうか。理解が追いつかない。
反射で否定すれば、彼は拗ねたような表情で未練がましくこちらを見つめてくる。
けれど、その表情はすぐに柔らかいものへと変わり、ふんわりと微笑んだ。
「我が儘め。だが子供とは皆、我が儘なものだ。ここは儂が折れるとしようか」
仕方がない、と手を伸ばして頭を撫でられる。
「何かあれば、すぐに声を上げるのだぞ。あぁ、だが溺れてしまっては声が出せんか。やはり共にいた方が、」
「溺れない!一人で入って溺れた事なんてないから!」
「今までが問題ないからといっても、絶対ではないからなぁ」
妥協を見せたというのに、すぐに撤回しないでほしい。
「落暉《らっき》」
頭を撫でている手を取る。
大人として認めてくれないのならば、彼の望むようにするだけだ。そうして、うまく扱えばいい。
子供らしくはないな、と認めてもらえず、拗ねた心が苦笑したようだった。
「お風呂上がりに、何か甘いものが食べたい。作って」
手を握り、強請る。
それだけで彼の表情は明るくなるのが分かった。
「そうか!なれば今から作ろうなぁ。何がいいか。夕餉もあるから、軽いものがいいな」
「夕ご飯は、なめこのお味噌汁にして」
さらに上機嫌になった彼の手を離す。
「お風呂、行ってくる」
「気をつけて行っておいで。作り終えたら、迎えに行こう」
「手抜きはしないで。ちゃんと作って」
「急に我が儘になりおって。いいぞ。おまえがまだ食べた事のないものを作ってやろう」
最後にもう一度頭を撫でて、彼は風呂場とは正反対の方へと向かう。
台所へと行くのだろう。
彼の背を見送って、安堵の息が漏れた。
何とか危機は脱したようだ。
しかし、ふと気づく。
「世話を焼くって…もしかして、ご飯食べさせられたり、寝かしつけされるって事?」
想像して、羞恥に顔が赤くなる。
幼い頃にされた彼の言う世話を思い出し、耐えきれずにしゃがみこんだ。
「早く、大人になりたい」
大人になりたいだなんて、そう思う事こそ子供のようだと感じながらも。
切に願わずにはいられなかった。
20241014 『子供のように』
誰もいない教室で一人、迎えを待っている。
窓の外から聞こえる運動部のかけ声。吹奏楽部の練習の音。
何一つ変わらない。いつもの放課後だ。
一人足りない事を、誰も気に留める事などいない。
存在しないとはこういう事かと、どこか呑気に考えながら、使う者のいない机の縁をそっとなぞった。
窓の外を見遣れば、赤い空が段々に色を黒に染めている。
すっかり日が沈むのが早くなってしまった。こうして待つ時間も、少しずつ短くなっていく事だろう。
椅子を引き、腰掛ける。
誰からも気に留められない、この机の前の席は、自分の席だ。
席に座り、後ろを振り返って色々な話をした事が、遠い昔のように思える。実際には、二月ほどしか経っていないというのに。
ふふ、と思わず笑う。過去を懐かしむなど、大人のような気がして可笑しくなってしまった。
「夏休みは大分濃かったから、待つ時間はこれ位がちょうどいいのかもね」
誰にでもなく呟いて、伸びをする。
待つのは嫌いじゃない。
約束をした彼女を信じているから。
彼女は彼女ではなくなるのだと言われた。神との契約によって、新しくなるのだとも。
正しく理解は出来なかった。
だから会いに行った。会って、時間の許す限り話して。
そして約束をした。
今度は会いに来てほしいと。待っていると。
待つのは嫌いじゃない。
時間が掛かる事など、分かっている。
覚えていないだろうと言われたのだ。自分の事だけを忘れず会いに来てくれるなど、都合の良いおとぎ話を信じたりはしない。
けれど、約束をしたから。
きっといつか思い出して、会いに来てくれると信じている。だから、待っているこの時間は、嫌いではなかった。
「そういえば、学生の時はここで待てるけど、卒業になったらどうしよう。いっそ留年した方がいいかな」
「それはやめて。というか、なんでそういう選択肢が当たり前のように出てくるの」
誰にも拾われる事がないであろう呟きに、返る言葉。
呆れたような、懐かしい声音。
「えっ?なんで?」
教室の入り口。声のした方を見ると、約束をした彼女が呆れた顔をして立っていた。
「なんでって、約束したからに決まってる」
慌てて駆け寄ると、小さく笑われる。
姿もその表情も、変わらない。
理解が追いつかず、頭にたくさんの疑問符を浮かべると、彼女の笑顔が、少し困ったようなものへと変わる。
「なんで?てっきり年単位で待つんだと思ってたのに」
「なんでだろう。割とすぐに思い出せたんだよね」
「なにそれ。あたしの覚悟をどうしてくれる。でも、早く来てくれたおかげで、留年するかどうかの究極の選択はなくなったから良かったけど」
「だから、なんでその選択肢が当たり前のように出る」
はぁ、と溜息を吐かれる。
そんな所も変わらない。夏休みが訪れる前に戻ったようだ。
「なんか、変わらないね。もっとこう、きらきらしてたり、すごい美人になったりとかも想像して、会えても分かるか少し心配だったんだけど」
「人並みで悪かったね。これでも新しくなったんだけど。元の体は厳重に封印されてしまったから」
だろうな、と頷いた。
普通の人には耐えられない程の呪を抱えて、長い年月を生きてきたのだと聞いた。
新しくなるならば、その呪とやらもなくなってしまうのだろう、むしろなくなってしまえと思っていたのだから、何の不満もない。
けれど、彼女はその肯定を別の意味で捉えたようだった。
「外側も中身も変わってしまったから、会うべきか悩んだのだけれど。一応約束だったからね」
来た事を申し訳なく思っているようなその表情に、むっとした。
頬を両手で包んで、目を合わせる。
「変な勘違いをしないで。約束する時に言ったけど、人でも呪でも関係ないの。外側がぐちゃぐちゃしてようが、中身がどろどろだろうが、あたしの親友なんだから、堂々とあたしの側にいればいいの」
目を逸らさず言い切れば、どこか幼い瞳が不思議そうに瞬く。
変わっていないように見えたが、どうやら新しく生まれたのは確からしい。
そんな事を思いながら名前を呼ぼうとして、まだ新しい名前を聞いていなかった事に気づいた。
「名前。まだ聞いてなかった。教えてくれる?」
頬から手を離し問いかければ、彼女はとても嬉しそうに笑う。
名前を聞かれるのが、それを答えるのが幸せだと、彼女の笑顔が告げていた。
「黄櫨《こうろ》」
黄櫨。新しい彼女の名前。
音の響きでしか分からないはずのそれが、正しく認識出来て少しだけ苦笑する。
名付けた神の主張の激しいその名に、呆れに似た感情が浮かんでしまう。
彼女が幸せである限りは、言葉にする事はないだろうけれど。
「じゃあ、黄櫨。改めて、会いに来てくれてありがとう。これからもあたしと親友でいてくれる?」
「もちろん。これからもよろしく、曄《よう》]
くすりと、どちらからともなく笑い合う。
「おかえり、親友。ここにはどれくらいいられるの?」
「ただいま、親友。卒業まで一緒にいられるよ。人らしく生きるのが、神様の望みだからね」
手を差し出せば、当たり前のように手を重ねて繋ぐ。
待っていた日常が戻ってきた。
それが嬉しくて、繋いだ手を揺らしてもう一度声を出して笑った。
202401013 『放課後』
気づけば、三方を白のカーテンに覆われたベッドで眠っていた。
起き上がり、あれ、と首を傾げる。少し前の記憶を辿る。
本を読んでいたはずだ。
寝付けずベッドから抜け出し、夜の音を聞きながら。
いつの間にか眠ってしまったのか。それで様子を見に来た父にベッドへと運ばれたのか。
それにしても、このカーテンは何だろう。
月に照らされているのか、その仄かな光を白が強調し、まるで映画のスクリーンのようにも見える。
ぼんやり眺めていれば、不意に目の前のカーテンに影が浮かび上がる。
曖昧なその形は、次第に輪郭をはっきりとさせ、髪の長い女性の人影を取った。
「眠れないの?」
小首を傾げて、影は聞く。
「今日はたまたま、だよ」
答えるが、きっとばれているのだろう。
「俺を運んでくれたのは、誰?」
「お父さま。ずっと起きていたから、桧にお願いして香りを届けたの。眠ってしまったあなたを運んでもらったのよ」
ごめん、と謝ろうとすれば、それを遮るように影が首を振る。
謝るのは違う。そう言われたような気がして、出かけた言葉を呑み込み、改めて口を開いた。
「いつもありがとう」
「どう致しまして。あなたが元気で笑っていてくれるのならば、それでみんなが幸せになれる」
影の歌うような囁きに、何だか照れくさくなってしまって、思わず視線を逸らした。
庭にいる、人ではない彼らはいつも優しい。
その優しさに返せるものはあるのかと、優しさをもらう度に少しだけ不安になる。
「何かお返しが出来ればいいのに」
「言ったでしょう。笑ってくれていればいいの」
「それだけで、本当にいいの?」
「そうよ。でも、そうね」
影が背後を振り返る。
ひそひそと話す声に、皆いるのかと小さく笑ってしまう。
何を話しているのだろう。声は小さくうまく聞き取る事が出来ない。
暫くして影がまたこちらに向き直る。
影の表情は分からないけれど、何故か笑っているような気がした。
「あなたがもっと我が儘になってくれれば嬉しい。我慢をしないで、何でも話してくれたらいいのにといつも思っているの」
そうだそうだと、影の背後でたくさんの声が同意する。
「どんな些細な事でもいいの。嬉しいとか、楽しいとか。感じた事を話してくれたら、みんなも嬉しいし楽しくなる。寂しいとか、悲しいとか。吐き出してくれれば、安心するのよ」
「迷惑じゃない?」
「まさか。一人で耐えているのを見ているだけの方がつらいわ」
「言ってもいいの?」
「言って。何でもいいから。どんな些細な事でもいいから、みんなにお話しして」
そっか、と言葉を溢す。
うまく言葉に出来ない気がしたが、それでもいいよと言われているようで。
皆に促されるようにして、口を開いた。
「目を閉じると、母さんが出てくる。あの日の、寝ているような母さんを思い出す。寝ているんだって思って声をかけても、全然起きなくて。肩を触ったらすごく冷たくて」
涙は出ない。悲しい訳ではない。
それでも思い出してしまう。その自分でもよく分からない溜まった思いは、分からないからこそ名前をつけられず、誰かに話す事も出来ないと思っていた。
「このまま寝たら起きられるのか、とか。一人は寂しいだろうな、とか考えて。考えるから、目が冴えて。そうすると眠れなくなる。ずっと」
「そう。考えてしまうの。じゃあ、」
――考えなくてもいいように。
しゃん、と。どこからか、鈴の音。
音に合わせて、影がくるりと回る。
くるり、ふわり、と綺麗なステップを踏んで、踊り出す。
「きれい」
影が舞うのに合わせて、笛が高らかに音を響かせる。
鈴と、笛と。それから、左右から聞こえる弦の音は三味線か。
気づけば、左右のカーテンに様々な影が現れ、緩やかな曲を奏でていく。
曲に合わせて影が舞う。
ひらり、くるり、と影の舞に目を奪われて。
ふわり、くらり、と意識が揺らぐ。
いつしか微睡んで。体が揺れて、瞼が重くなっていく。
「眠る事は怖くはないでしょう。大丈夫、明日は必ず訪れる」
背中を暖かな手に支えられ、ゆっくりとベッドに寝かされて。
大丈夫、の言葉に、抵抗する事なく目を閉じる。
母の姿は見えなかった。
――おやすみなさい。可愛い子。
誰かの声。
ありがとう、と心の中で呟いた。
20241012 『カーテン』