午後の穏やかな日差しが、眠気を誘う。
閉じそうになる瞼を、微睡む意識を繋ぎ止めるため、頭を振った。
それでも、少し経てばまた瞼は重く、微睡んで。
仕方がないと、読んでいた本を閉じた。
これはもう、少し眠ってしまった方が良いだろう。
欠伸をひとつして、伸びをする。
本を手に立ち上がると、丁度良く兄が帰宅したみたいだった。
「おかえりなさい」
「ただいま」
いつものように挨拶を交わせば、穏やかに笑んで挨拶を返してくれる。
しかし、その笑みはこちらを認識して、訝しげなものへと変わった。
「泣いていたの?」
側に寄り、目尻を拭われる。
さっき欠伸をした時だろう。その指先についた滴に、またかと苦笑し首を振る。
「本、読んでたら暖かくなって、眠くなってきちゃった」
「夜更かしするからだろう」
「そんな事ないと思うけどなあ。ちゃんと日付が変わる前にはベッドに入ってるよ」
兄はいつもこうだ。
心配性で、過保護。
昔から少しでも泣けば、すぐに側にきて心配し、泣く原因を取り除こうとする。
まるで、泣く事を恐れているみたいだった。
その心配が、いつからか息苦しくなる時があり、以前よりも兄が苦手になってしまっていた。
だから進学を機に、兄から離れようと一人暮らしを選択したはずなのに。
何故か一緒に暮らす事になってしまった理由は、未だによく分からない。
「でも、最近夜中に起きているじゃあないか。眠れないの?」
気づかれていたのか。
どうしようかと、表情には出さずに悩む。
正直に嫌な夢を見ると言う気にはならなかった。
眠れるようにとあれこれ世話を焼かれるのも嫌だし、言って夢の内容を詳しく聞かれるのも嫌だ。
「早く寝過ぎちゃってるのかも。もう少し起きていようかな」
「そんな訳ないだろう。途中で目が覚めるというなら、悪い夢でも見ているのかな」
「どうだろう。よく覚えてないから分かんないや」
相変わらず、兄は鋭い。
曖昧に笑って誤魔化すが、おそらくそれすらも分かっているのだろう。
小さく息を吐く。兄から少しだけ視線を逸らして。
「兄さんがいつまで経っても独り身だから、それが心配なのかもね」
嘘でも、本当でもない答えを呟いて、自室へと戻った。
目はすっかり冴えてしまっていた。
今日もまた、同じ夢を見る。
暗い部屋。
その奥に積み上がる、たくさんの同じ顔をした人形達。
目の前の、無表情の兄。
「なぜ」
冷たい指先が、目尻をなぞる。
「なぜ、泣く」
指先を濡らす涙は、止まる事はなく。
声もなく、表情ひとつ変えずにただ涙を流す。
もう、これしか出来ないからだ。
声もなく、四肢の自由もない自分には、もうこれだけしか意思を伝える術がない。
「また失敗か」
無機質な声音。
涙で濡れた手が首を掴み、そのまま引きずられていく。
部屋の奥。さらに深い暗がりに積み上がる人形の数が、また一つ増えた。
いつまで繰り返すのだろうか。
すでに兄の目的は達せられたはずだ。
彼女を取り戻すために、代価品として元のこの身を燃やしたのは兄だろうに。
何故、今更。
燃え滓を集めた所で、元には戻る事など決してない。
記憶をかき集めた所で、それが命になる事などあるはずがない。
分かっているだろうに。どうして認めようとしないのか。
兄の去った部屋。
静寂の中、涙を流す。
悲しいのか、苦しいのか。今はもう、その理由は擦り切れ思い出す事はない。
積み重なる、たくさんの失敗作の自分達が、声もなく泣いている。
部屋を濡らす涙は嵩を増し、それはいつしか部屋を沈めていく。
悲しみも、苦しみも、寂しさも。身も心もすべてを涙は鎮め解かしていく。
願わくは、兄がこの部屋を忘れ、二度と戻る事がないように。
苦海に永く沈む事のないように。
無意味と知りながらも、思わずにはいられなかった。
目が覚めた。
まだ空は暗く、朝は遠い。
溢れ落ちる涙を拭い、息を吐いた。
いつからか見るようになった夢。
最初は、逃げ出した。部屋から出る事は出来たが、それだけだった。
次は、歩く事が出来ず、床を這いながら逃げようと足掻いた。小さな舌打ちと共に視界が暗転した。
何度も繰り返す夢。夢だと笑い飛ばす事は、もう出来なくなっていた。
体を起こそうとして、止める。
顔を洗いに行きたいが、兄に気づかれる訳にはいかない。それよりはと、体を起こす事なくもう一度目を閉じた。
こんこんと、扉を叩く音。
「大丈夫?」
「寝てるんだから、起こさないでよ」
かちゃりと、扉が開く音がして、兄が入ってくる。
「まだ入っていいよって、言ってないよ」
「ごめんね」
軽い謝罪に、いつもそうだと愚痴を溢す。
戻る気配のない兄に、体を起こして何、と要件を尋ねた。
「目が覚めたみたいだから。ほら、タオルを持ってきたから、目を冷やして。腫れてしまうよ」
準備の良すぎる兄に思う所はあれど、素直に渡されたタオルを目に当てる。
冷えたタオルの心地良さを堪能していれば、兄の静かな声が鼓膜を揺すった。
「どんな夢を見た?」
忘れた、と言葉にするのは簡単だ。
けれどそれを、兄が許してはくれないのだろうと、そう思った。
「兄さんがいつまでもお婿に行かないで、ずっと部屋に籠もってお人形遊びをしている夢」
何それ、と困惑を含んだ声。
それに、正夢にはしないでね、と呟いた。
20241011 『涙の理由』
赤く艶やかな果実を一つもぎ取る。
しゃり、と音を立てて囓れば、広がる甘酸っぱさに目を細めた。
今年も無事に実りを迎える事が出来た。
上等だ。きっと満足してもらえるはず。
そう思えば、緩む口元を押さえる事が出来なかった。
手をかけてきたものが、こうして最良の結果を伴って応えてくれる。この瞬間が、何よりも好きだ。
たわわに実る種々の果実も。
一面に広がる黄金の稲穂の海も。
心を躍らせ、目を楽しませてくれる。
しゃり、とまた一口果実を囓る。
ふふ、と声には出さずに笑んで。
瑞々しさを咀嚼し、甘露を嚥下する。
また一口、と口にしようとして。
「あぁ、今年もよく実っているなぁ。実にうまそうだ」
しかし背後から聞こえた声に、手を取られてかなう事はなかった。
しゃり、と手にした果実を囓られる音がする。
「うん。やはりうまいな」
穏やかな声に、硬直する。
一呼吸置いて、じわじわと全身に巡る熱に、慌てたように身を捩った。
「ちょっと、勝手に食べるな」
「いいじゃあないか。少し前までは、儂の膝の上で喜んで食わせてくれただろうに」
「それは小さい時の話だろうに。いつまでも引きずるな、じじい」
「すっかり口が悪くなってしまって。儂は悲しいぞ」
まったく悲しげなそぶりも見せない、笑いを含んだ声音。
さらに熱が駆け巡り出すような錯覚に、耐えきれずに逃れようと暴れ出す。
だがその反応すらも楽しむように、腰に手を回され体を引き寄せられ、いとも簡単に抵抗を封じられてしまう。
「ちょっ、と。離せ、こら。このっ、変態!」
「酷いなぁ。大きくなったら儂のお嫁さんになると、あれだけ言ってくれていたのになぁ」
「だからっ、それは小さい時の話でっ!」
触れている体に、呼吸がうまく出来なくなってくる。
胸の鼓動が忙しなく、巡る熱が動けない体の代わりに暴れ出す。
後ろにいてくれて良かった。今のこの顔を見られずにすんでいるのだから。
恥ずかしくて、うれしくて、死んでしまいそうだ。
「おまえが育てたものは実にうまいな。あやつに引けを取らん。あやつが常世を渡り心配ではあったが、おまえは実によくやってくれているよ」
しゃりしゃり、と果実を食べる音。
合間に囁かれる言葉に、暴れていた熱が勢いを少しだけ殺し、胸の痛みを生み出した。
「寂しくはないか。一人で泣く事はなくなったと聞いているが、我慢はするなよ。溜め込まずに、儂らに吐き出してしまえ」
「別に、我慢なんてしてないし。一人でも、大丈夫だから」
熱が勢いを殺していく。
胸の痛みが強くなり、きゅっと唇を噛みしめた。
恥ずかしい気持ちも、うれしい気持ちも凪いでしまい、虚ろな残り滓が澱みのように溜まっていく。
「強情者め。一体誰に似てしまったのだろうな」
呟く声は、珍しく少し寂しげだ。
「一人にしているからか。それならば」
芯まですべて平らげて、ようやく手を離される。
けれどそれを寂しいと思うより早く、くるりと体を反転させられ、抱き上げられた。
久しぶりに見る変わらぬ姿に、間近で見る顔に、凪いでいた気持ちや熱が再びこみ上げてくる。
澱みが一瞬で流されていくのを感じた。
「なっ!?」
「前のように、儂が世話を焼いてやろうなぁ。食事も湯浴みも任せておくとよい。夜は眠れるまで話をしてやろう」
あやすように揺らされながら、歩き出す。
家に戻るのだろう。懐かしいと、微笑むその横顔に、文句は言えず。
「あやつは母でありながら、子を育てる事にはとんと向いていなかったからなぁ。儂らがおらんかったら、今頃おまえはここにいなかったかもしれん」
「お母さんの悪口は、やめて」
確かにそうではあるけれど、と思いながらも否定する。
仕方がない事だ。人には向き不向きというものがある。
それに、正確には子育てに向いていないというわけでもない。
ただ張り切れば張り切るほどに空回りをして、惨事を引き起こしていたというだけだ。
「それと、まだやる事がたくさんあるから、下ろして」
「収穫ならば、出来るモノが他にいるだろう。たまには休む事も必要だぞ」
それに、と懐かしむように、期待に心躍らせるように、彼は子供のようなきらきらした表情で笑う。
「久方ぶりにおまえの世話が焼けるのだ。儂の密やかな楽しみに付き合ってはくれないか?」
「…ずるい。収穫、楽しみにしてたのに。いやと言えなくしないで」
「ならば、明日は一緒に収穫しようなぁ」
益々笑顔になる彼から顔を背け、小さく馬鹿、と呟いた。
顔が熱い。体の熱が、ぐるりと巡る。
待ち望んだ、年にこの時期だけの特別な瞬間は。
結局は、彼と一緒に過ごす一時の喜びに負けてしまうらしい。
「さて、夕餉は子らに頼んで沢で魚でも捕ってもらうか。最近は食事が疎かになっていたとも聞く。そこはあやつに似らんでくれよ」
歌うような囁きに、肯定も否定もせずに目を閉じる。
とんとん、と背を優しく叩かれ、寝かしつける心地良さに微睡んで。
踊るような鼓動の高鳴りに、気づかれぬように一人笑った。
20241010 『ココロオドル』
名前を、呼ばれた気がした。
体を起こそうとするも、指先ひとつ動かせず。
ならばと、声を上げようとするも、掠れた吐息が漏れるだけだった。
それにしても暗い。今は何時頃なのだろう。
随分眠っていた気もするし、全く眠れなかった気もする。
夢を見ていないからかもしれない。
何時寝たのだろう。
そもそも、今は目覚めているのか。
自分は、目を開けているのだろうか。
「手に負えぬものまで対処しろなど、わっちは一言も言っていませんが。一体何をしているのですか」
聞き慣れた声。
したん、と何かを打つ音がした。
あぁ、機嫌を損ねてしまっている。
宥めなければ。
あれは構ってもらえずに、拗ねている時の打ち方だ。
早くしなければと、まだぼんやりとする意識を引き戻すように。
目を、開いた。
「やっと起きましたか」
「ち、とせ?」
「まだ呆けているのですか。わっち以外の何に見えると」
ふん、と鼻を鳴らすその姿に、ごめん、と掠れた声を漏らす。
声がうまく出ない。体が鉛のように重い。
何が、どうして、と混乱する思考で直前の記憶を辿ろうとすれば、しなやかな尾に頬を張られ妨げられる。
「わっちの社に入り込もうとした無礼者の瘴気に中てられたのです。まったく嘆かわしい」
そういえば、確かに境内の掃除中に黒い澱みを見たような気もする。
社に近づいたから、追い払おうとして。
腕を掴まれた後の記憶が、なかった。
「澱み、は?」
「犬に喰わせました。余剰分は切り裂いて燃やしましたが」
「ささら、どこ」
「そこで転がっています。たったあれだけで消化不良を起こすなど、本当に使えない」
そこ、と示された場所に視線を向ける。
視界の隅に、力なく揺れる茶色い尾が見えた。
「穢れが抜けきるまでは、おとなしく寝ている事です。社の管理の礼として、動くまでの世話を犬に行わせましょう」
そこで自ら行わないのが、猫らしい。
力なく礼を述べれば、視線を逸らし尾を揺らした。
ゆらゆらと揺れる尾を見ているうちに、段々に瞼が重くなってくる。
「ここ暫く、お前はよく働きました。ゆるりと休むが良いでしょう」
「でも」
落ちていきそうな意識を、何とか繋ぎ止める。
休むとしても、一日二日で元の通りには動ける訳でもないだろう。
その間に二人の世話や、神社の管理が出来なくなる事が不安だった。
「お前が心配するような事は、何一つありません。さっさと休みなさい」
素っ気ない言葉に、おとなしく目を閉じる。
すぐに訪れた睡魔に、今度は抗う事なく意識を落とした。
「まったく手が掛かる」
男が深い眠りについて、暫くして。
猫の姿をとる神は誰にでもなく呟くと、犬の元へと近づき、爪を出した前足を容赦なくその頭へと突き刺した。
ぎゃん、と小さく鳴いて、文字通り飛び起きる。
「な、何。あ、えと、」
「煩い」
ぴしゃり、と静かでありながら鋭い言葉に、犬は慌ててお座りをする。
「いつまで休んでいるつもりだ。さっさと動け、犬」
「はいっ!」
背筋を伸ばして返事をする。
眠る男の側へなるべく音を立てぬようにしながら近寄ると、枕元へと乗り男の額に前足を触れさせた。
僅かな険しさを浮かべる男の表情が、少しずつ穏やかなものへと変わる。
「それが終わったならば、人の形を取り、食事の準備をなさい」
「人…」
「わっちがわざわざ教えたのだ。出来ぬとは言わせぬ」
「出来ます!ボク、頑張る」
男を起こさぬよう声を潜めながらも、犬は神を見てはっきりと頷いた。
男の役に立とうと、自分から教えを請うたのだ。犬には出来ないなど言うつもりも、思ってさえもいなかった。
「よろしい。なれば、わっちは少し出る。留守中、それに何かあればその首、胴と切り離す故に心する事だな」
「大丈夫。ゴシュジンは守ります。今度こそ、絶対に」
噛みしめるように呟けば、神はそれ以上は何も言わず。
何も出来ぬ己の無力さに歯がみして、神に従い教えられるままに澱みを喰らったその従順さを、少しばかりは認めているからだ。
犬から視線を逸らす。
だが言い残した事を思い出し、振り向かすに口を開く。
「それが目覚めても、寝所からは出さぬように。無理を通すようであれば、眠らせなさい。それには休息が必要です」
「分かりました。ゴシュジン、最近は頑張りすぎてたから、しっかり休んでもらわないと」
今回の事がなくとも、男には休息が必要なのは犬の目にも明らかだった。
家事に、社の管理に、金銭を得るためのいくつかの仕事。
ここ数日の男の忙しない一日を思い返して、犬はしみじみ頷いた。
「社周りの化生を一通り狩り終えたら戻る。貴様にもいくつか残しておく故、後で狩るように」
それだけを言い残し、神の姿がゆらりと揺れて消える。
気配が完全に消えたのを確認して、犬は強張らせていた体の力をようやく抜いた。
「やっぱ、怖い。でも頑張らないと」
存在自体が畏怖するものではあるが、犬に必要だったすべてを請えば教えてくれるほどの優しさはある。
「今度はちゃんと守るから。今はゆっくり休んでね、ゴシュジン」
束の間ではあるが、ゆっくりと休んでほしい。
そのためにも、もっと出来る事を増やしていかなければ、と。
穏やかに眠る男を見て、犬は強く頷いた。
20241009 『束の間の休息』
「どちら様でございましょうか」
無感情な眼に見据えられ、どう答えるべきかを思案する。
満ちる月が照らす夜。
辺りには何もなく、目の前の袿姿の幼子以外には誰もいない。
「幼子が斯様な夜半に何をしている?」
問いには答えず、別の問いを返す。
答えが返らぬ事に対してか、それとも問いで返された事に対してか。幼子は無感情な眼を細め、口元に笑みを浮かべた。
「あなた様も幼子に変わりはないでございましょうに。異な事を仰られる」
あぁ、ですが、と、歌うような囁きが、鼓膜を揺する。
「あなた様は先の人のようでございますね。そしてわたくしの呪の残滓が感じられまする」
幼子の言葉に乗せた呪に、体を縫い止められる。
身じろぎ一つ出来ぬ己の頬に、幼子は愛おしげに触れ。
「なれば、あなた様はわたくしのものにございましょう」
作られたものではない、美しい微笑みを浮かべた。
意識が揺れる。
幼子の眼が、声が、触れる熱が、境界を曖昧にしていく。
「お前のものでは、ない」
声を出す。否定する。
強く、力を込めて。
絡みつく蜘蛛の糸を、振りほどくように。
「今の、お前のものではないよ」
言葉を、繰り返す。
「そうでございますね。貴様には、まだ早い」
声と共に、感じる浮遊感。
幼子とは異なる男の腕に抱き上げられ、安堵に力が抜けた。
おとなしく身を委ねれば、幼子の微笑みは消え無感情な眼に見上げられる。
「先のわたくしですか。その姿、母上はお亡くなりになられましたか。あるいは、蜘蛛が滅びたのでしょうか」
「貴様には早いと言うたであろうに。ですが、それに敢えて是と答えましょうか」
幼子の問いに吐き捨てるように答えを返し、酷薄な笑みを浮かべ。
それに気分を害して眉根を寄せたその表情に、かつての彼はこんな表情も出来たのだなと、場違いな事を思った。
「さて、戻ると致しましょうか。これ以上、見苦しいものを見せる訳にはいきませぬ故」
「見苦しい、ですか。先のわたくしは、随分と粗暴になられたようで」
「真の事にございましょうや。己を偽らねばならぬほど弱く、惨めな存在など、見苦しくてたまりませぬ」
随分な物言いだ。
幼少の頃の自身に対して、評価が厳しすぎるのではないだろうか。
眼に怒りを宿し、唇を噛みしめる幼子を見る。
綺麗だと、素直に思う。童女のような身形ではあるが、逆にそれが彼の美しさを際立たせている。
思う所はあるのだろうが、やはり見苦しいなどとは思えずに。
疲労に働かぬ思考で、深く考えもせずに思った事を口にした。
「私はきれいだと、思う。今も、昔も。きれいで、美しい」
動きが止まった。
呆れたように溜息を吐かれ。虚を衝かれたように幼い深縹の瞳が瞬いた。
ざり、と。
土を踏み締め幼子が近づき、腕を伸ばす。
だがその腕は、届かない。
幼子が近づけば、逆にその距離が開いていく。
「何度も言わせないでくださいまし」
「いずれわたくしのものになるのであれば、今のわたくしがもらっても良いではありませぬか」
「戯れ言を。母の骸の下で死んでから、出直して参れ」
ざわり、と風が舞い上がる。
月が歪み、世界が滲む。
くらりと目眩にも似た感覚に目を閉じ縋れば、宥めるような指先が髪を梳き、頬を撫ぜた。
遠くなる幼子の声を聞きながら、またいずれと胸中で束の間の別れを告げた。
目を開ければ、無数の星が瞬く夜空の下、二人きり。
「満月《みつき》。言葉は力を持ちます故、軽率に紡ぐものではありませぬ」
見上げた術師は、何とも言えぬ複雑な表情をしている。
呆れればいいのか、怒ればいいのか、はたまた喜べばいいのか。
様々な感情が入り交じる深縹に、初めて見るなと半ば感心しながら手を伸ばす。
頬に触れ、深縹を真っ直ぐに見返して。
「本当のことを言って何がわるい。満理《みつり》はきれいだ」
力を込めて言葉にすれば、見つめる深縹が柔らかく笑んだ。
「満月には殺されてもいいのかもしれませんね」
歌うような囁きに、意図が見えず困惑する。
「満理、それは」
「土蜘蛛の男は、契った妻に殺されるが定め。私の母はそれに抗い、私を女と偽って育てましたが…ああして母に望まれるままに女に成ろうとする己を見れば、無様としか言いようがありませぬ」
「そんなことはないだろう」
かつての己を嘲り逸れる視線を、頬を包み込む事で遮り。
僅かに見開かれた目を見据え、口を開く。
傷つき壊れ、頑なになった彼に届くよう、言葉に思いを乗せる。
「なんどでも言おう。満理はきれいだ。母のために生き、主のために生きた満理のその様を。その想いを、私は何よりきれいだと思う。それは満理があいされてきたことを示すものだからだ」
息が切れる。
体が重く、力が抜けていく。
「つかれた。なんだ、これは」
「術師でなき者が、軽率に言葉を紡ぐからにございましょう。自業自得です」
呆れたように息を吐き。
だが、だらりと腕が落ち弛緩する体を、抱きしめられる。強く、力を込めて。けれど壊さぬように、優しく。
離れぬように。
「愚かな満月。暫し眠りなさい。何も視えぬ程、深く」
促され、見つめる深縹が揺らぐ。
落ちていく意識に、抗う事なく目を閉じる。
「私の箱庭を照らす月。籠から逃げ出し蜘蛛の糸に絡め取られた、憐れな雛鳥よ。兄弟に飼われていた方が、幸せでしたでしょうに」
けれど。
哀しい響きを纏うその声に、目は開けぬままに口を開く。
「ばかな満理。私がえらんだんだ。私のしあわせを、かってにはかるな」
呟いて、意識を落とした。
20241008 『力を込めて』
「誕生日おめでとう、俺」
薄暗い部屋。ベッドの上。
膝を抱えて呟いた。
どうして、と幾度目かの疑問を溜息と共に溢す。
あれからどれだけの時間が経ったのか。あとどれくらいここにいれば出られるのか。
ベッドの向こう側。無駄だと思いながら、手を伸ばす。
遮るものはない。見えてはいない。
けれど、
暖かく、柔らかく。
見えない壁が手を阻む。ベッドと部屋を区切っている。
朝にはなかったものだ。
目覚めて、部屋を出て。
父と朝食を取り、急に呼び出されて仕事へと向かうその背を見送った。
出られたのだ。普通に、何の障害もなく。
だから何の気にもせず、部屋に戻り。
休日の早朝。出かけるにしてもまだ早い、と。
寂しい気持ちをいつものように蓋をして。もう一寝してから、これからどうするのかを考えようと、ベッドに飛び込んだ。
そうして、気づけば見えない壁に囲まれて、ベッドから出れなくなっていた。
かさり、と。
項垂れる自分の前に、上から紙が落ちてくる。
素人目でも分かる、上質な紙だ。鼻腔を擽る墨の匂いに紙を広げれば、文字が書き付けてあるのが薄暗い室内でもはっきりと分かった。
「読めない」
だが、哀しいかな。
達筆すぎるくずし字は、文字と認識出来るのがやっとで、何が書いてあるのかなど分かりはしない。
ぱさり、と。
今度は上から花が振ってきた。
オレンジ色のバラの花。一本の茎に五本の花を咲かせている。
何故、と首を傾げ。上を見上げて。
――待たせたね。
誰かの声と共に、手を引かれ。
世界がくるり、と反転した。
「いやぁ、すまないね。思ったよりも準備に手間取ってしまったよ」
楽しげな声と明るい光に、思わず閉じていた目を開ける。目の前の不思議な景色に、目を瞬いた。
「庭、だよな?」
いつもの自宅の庭、のようだった。
けれど花が、咲いていた。
咲き終わったはずの花も、まだ蕾すらつけていなかったはずの花も。
季節問わず、庭のすべての花が、咲き乱れていた。
これは母が愛した、窓の向こう側の世界だ。
ふと、そんな事を思った。
「説明もなく待たせてすまなかったね。驚かせようとしたのだが、寂しい思いをさせてしまったようだ」
「誰?」
背後から聞こえる知らない声に、振り返る。
やはり知らない、美しい誰かが優しい目をして笑っていた。
「なに、ただの通りすがりだよ。気まぐれにこの庭に訪れる年寄りさ」
年寄り、と自称してはいるが、父とさほど変わらないように見える。
「まあ、気にするな。それより皆が主役をお待ちかねだぞ」
にやり、と笑われ、背中を押される。
思わず足を踏み出して。
風に舞い上がる花びらが、雨のように、雪のように振ってくる。
――お誕生日、おめでとう。
木々の上から、草花の合間から、祝う声が聞こえてくる。笑う子達に手を引かれて、促され。蔓で編まれた椅子に座った。
木の葉が風と踊り、雲が絵を描く。
雨音が澄んだ音色を響かせて、木々が朗々と歌い上げる。
極彩色の鳥から渡された、籠の中の木の実は、甘く瑞々しく。
何故だろう。その味は母を思い起こさせた。
綺麗な景色が、滲む。
息が詰まり、しゃくり上げて。
自分が泣いている事に気づいた。
「好きなだけ泣くといいぞ。母御を喪って寂しいだろうに、今までよく頑張った」
偉い偉い、と褒められる。
いい子いい子、と撫でられて。
止める事が出来なくなった涙が、閉めていた気持ちの蓋を開いてしまう。
寂しい。悲しい。苦しい。
折角の誕生日なのに、どうして誰もいないの。
約束したのに、どうして置いていくの。
置いていかないで。一人にしないで。
どうか、どうか。
一緒に、連れて行って。
「うんうん。寂しいな。悲しいな。ずっと我慢をしてきたものなぁ。過ぎ去った日を、手の届かない過去を母御の部屋に閉じ込めて。父御のために尽くしてきたのは、褒められるべき事だ。儂らがたぁんと褒めてやろうなぁ」
だから、と滲む世界が囁く。
慈しむような、暖かな光に包まれる。
「閉じ込めたものを吐き出してしまえ。儂らが受け止めてやろう。そうしてすべて吐き出したなら、母御と父御と三人、笑い合った日々を思い返すといい。幸せな過去を想い、眠ると良いぞ」
「ど、して」
どうして。
どうして、そこまで心を砕いてくれるのか。
――だいすきだから。
――笑ってほしいから。
――一緒にいたいから。
しゃくり上げながら呟いた一言に、応える声はどこまでも優しい。
「この庭に好かれるよい子には、与えられて然るべきものだろう?どれ、折角のめでたき日だ。儂が言祝いでやろうなぁ」
世界が揺れる。
ゆらゆらと、穏やかに。
揺り籠のような暖かさに、意識が揺れる。
「目が覚めれば、父御が戻っているだろう。二人で誕辰の祝いの続きをするといい」
目を手で覆われて、滲む世界が暗くなる。
怖くはない。この暗闇は暖かだ。
揺らされて、包まれて。
母が亡くなったあの日から、初めて。
夢も見ないほど深く、眠りに落ちる事が出来た。
帰り道をただ急ぐ。
急に呼び出され、出る事になってしまったと話した時の息子の顔を思い出す。
無理に作った笑顔に、胸が締め付けられた。
無理をさせている。あの日からずっと。
妻を喪ってから、あの子は自分の意思を伝えなくなった気がする。過ぎていく日々に、あの子の作った笑顔を何度見た事だろう。
元より周囲に気を遣う、優しい子だ。無理をさせてしまっている事が心苦しい。
もっと我が儘になってもいいだろうに。
だがそれを伝えた所で、大丈夫だと、またあの作った笑顔を見せるのだろうが。
「ただいま」
ドアを開け、声をかける。
返事がない事に、僅かに不安が過る。
靴はある。出かけてはいないはずだ。
急くように、息子の部屋の前まで向かう。
こんこん、と。
ノックをしても返る言葉はない。
僅かだったはずの不安が大きくなり、躊躇いながらもドアを開けた。
「寝ているのか」
ベッドで穏やかに寝息を立てる息子の姿に、詰めていた息を吐く。
開いた窓から差し込む、明るい日差しの中で眠る息子の表情は、妻がいた頃のようにあどけない。
思わず笑んで近づけば、眠る息子の傍らに一枚の紙とバラの花が落ちている事に気づく。
紙を手に取り見れば、今時珍しいくずし字で書かれたもののようだった。
申し訳ないと思いながらも、目を通す。
息子の誕生日を祝う文字。
生まれてきた事を、生きていてくれる事を喜ぶ、純粋な気持ちが綴られていた。
紙を元に戻し、バラを見る。
オレンジのスプレーバラ。一つの茎に五つの花。
花言葉は『幸多かれ』。そして『あなたに出会えて本当によかった』。
「そうか。息子は愛されているんだな」
妻が愛した庭の、自分には見えないモノ達。
彼らの贈り物なのだと、何故かそう思った。
息子は一人ではない。愛してくれるモノがいる。
それが人か人ならざるモノかなど、些細な事だ。
誕生日のお祝いの最後に、庭にいる彼らの話を聞いてみるのも良いのかもしれない。
過ぎてしまった日の、彼女の言葉を想う。
――この子はきっと、わたしたち以外にもたくさん愛されて育つわ。負けていられないわね。
その意味を、ようやく理解する事が出来た。
窓に向かう。
そこから見える、庭に向けて。
深く、深く礼をした。
20241007 『過ぎた日を想う』