「どちら様でございましょうか」
無感情な眼に見据えられ、どう答えるべきかを思案する。
満ちる月が照らす夜。
辺りには何もなく、目の前の袿姿の幼子以外には誰もいない。
「幼子が斯様な夜半に何をしている?」
問いには答えず、別の問いを返す。
答えが返らぬ事に対してか、それとも問いで返された事に対してか。幼子は無感情な眼を細め、口元に笑みを浮かべた。
「あなた様も幼子に変わりはないでございましょうに。異な事を仰られる」
あぁ、ですが、と、歌うような囁きが、鼓膜を揺する。
「あなた様は先の人のようでございますね。そしてわたくしの呪の残滓が感じられまする」
幼子の言葉に乗せた呪に、体を縫い止められる。
身じろぎ一つ出来ぬ己の頬に、幼子は愛おしげに触れ。
「なれば、あなた様はわたくしのものにございましょう」
作られたものではない、美しい微笑みを浮かべた。
意識が揺れる。
幼子の眼が、声が、触れる熱が、境界を曖昧にしていく。
「お前のものでは、ない」
声を出す。否定する。
強く、力を込めて。
絡みつく蜘蛛の糸を、振りほどくように。
「今の、お前のものではないよ」
言葉を、繰り返す。
「そうでございますね。貴様には、まだ早い」
声と共に、感じる浮遊感。
幼子とは異なる男の腕に抱き上げられ、安堵に力が抜けた。
おとなしく身を委ねれば、幼子の微笑みは消え無感情な眼に見上げられる。
「先のわたくしですか。その姿、母上はお亡くなりになられましたか。あるいは、蜘蛛が滅びたのでしょうか」
「貴様には早いと言うたであろうに。ですが、それに敢えて是と答えましょうか」
幼子の問いに吐き捨てるように答えを返し、酷薄な笑みを浮かべ。
それに気分を害して眉根を寄せたその表情に、かつての彼はこんな表情も出来たのだなと、場違いな事を思った。
「さて、戻ると致しましょうか。これ以上、見苦しいものを見せる訳にはいきませぬ故」
「見苦しい、ですか。先のわたくしは、随分と粗暴になられたようで」
「真の事にございましょうや。己を偽らねばならぬほど弱く、惨めな存在など、見苦しくてたまりませぬ」
随分な物言いだ。
幼少の頃の自身に対して、評価が厳しすぎるのではないだろうか。
眼に怒りを宿し、唇を噛みしめる幼子を見る。
綺麗だと、素直に思う。童女のような身形ではあるが、逆にそれが彼の美しさを際立たせている。
思う所はあるのだろうが、やはり見苦しいなどとは思えずに。
疲労に働かぬ思考で、深く考えもせずに思った事を口にした。
「私はきれいだと、思う。今も、昔も。きれいで、美しい」
動きが止まった。
呆れたように溜息を吐かれ。虚を衝かれたように幼い深縹の瞳が瞬いた。
ざり、と。
土を踏み締め幼子が近づき、腕を伸ばす。
だがその腕は、届かない。
幼子が近づけば、逆にその距離が開いていく。
「何度も言わせないでくださいまし」
「いずれわたくしのものになるのであれば、今のわたくしがもらっても良いではありませぬか」
「戯れ言を。母の骸の下で死んでから、出直して参れ」
ざわり、と風が舞い上がる。
月が歪み、世界が滲む。
くらりと目眩にも似た感覚に目を閉じ縋れば、宥めるような指先が髪を梳き、頬を撫ぜた。
遠くなる幼子の声を聞きながら、またいずれと胸中で束の間の別れを告げた。
目を開ければ、無数の星が瞬く夜空の下、二人きり。
「満月《みつき》。言葉は力を持ちます故、軽率に紡ぐものではありませぬ」
見上げた術師は、何とも言えぬ複雑な表情をしている。
呆れればいいのか、怒ればいいのか、はたまた喜べばいいのか。
様々な感情が入り交じる深縹に、初めて見るなと半ば感心しながら手を伸ばす。
頬に触れ、深縹を真っ直ぐに見返して。
「本当のことを言って何がわるい。満理《みつり》はきれいだ」
力を込めて言葉にすれば、見つめる深縹が柔らかく笑んだ。
「満月には殺されてもいいのかもしれませんね」
歌うような囁きに、意図が見えず困惑する。
「満理、それは」
「土蜘蛛の男は、契った妻に殺されるが定め。私の母はそれに抗い、私を女と偽って育てましたが…ああして母に望まれるままに女に成ろうとする己を見れば、無様としか言いようがありませぬ」
「そんなことはないだろう」
かつての己を嘲り逸れる視線を、頬を包み込む事で遮り。
僅かに見開かれた目を見据え、口を開く。
傷つき壊れ、頑なになった彼に届くよう、言葉に思いを乗せる。
「なんどでも言おう。満理はきれいだ。母のために生き、主のために生きた満理のその様を。その想いを、私は何よりきれいだと思う。それは満理があいされてきたことを示すものだからだ」
息が切れる。
体が重く、力が抜けていく。
「つかれた。なんだ、これは」
「術師でなき者が、軽率に言葉を紡ぐからにございましょう。自業自得です」
呆れたように息を吐き。
だが、だらりと腕が落ち弛緩する体を、抱きしめられる。強く、力を込めて。けれど壊さぬように、優しく。
離れぬように。
「愚かな満月。暫し眠りなさい。何も視えぬ程、深く」
促され、見つめる深縹が揺らぐ。
落ちていく意識に、抗う事なく目を閉じる。
「私の箱庭を照らす月。籠から逃げ出し蜘蛛の糸に絡め取られた、憐れな雛鳥よ。兄弟に飼われていた方が、幸せでしたでしょうに」
けれど。
哀しい響きを纏うその声に、目は開けぬままに口を開く。
「ばかな満理。私がえらんだんだ。私のしあわせを、かってにはかるな」
呟いて、意識を落とした。
20241008 『力を込めて』
10/8/2024, 10:42:46 PM