彼女の式は、生きているのだという。
人の形を取っている事だけではない。
中身が、式を構成する核が人のそれである、と。
ならば、それは最早式ではなく。
それは言葉にするのも悍ましい、最悪の外法だ。
それ故に、彼女は幼き頃から疎まれ、忌み嫌われ。
呪われ続けているのだといわれていた。
虚ろな式に、意思が宿り始めたのはいつの頃からか。
否、それは正確ではない。
意思はあった。ただそれが、今まで器を通して表に出なかっただけの事。
それの意味を理解した時、周囲の悪意に抗う事を止めた。
ようやくだ。
ここまでに費やした時間は、想定していたものよりも長くなってしまった。だが、それでも長すぎるという訳でもない。
傍らに座る式を見る。
虚ろに悲哀を浮かべるその瞳に、そんな顔をしないでくれと、自由に動かせなくなってきた手を必死に伸ばした。
どうか悲しまないで欲しい。
ようやく願いを叶える事が出来るのだから。
生きたい、と。
あの日藻掻いた小さな手に、これで応えられる。
伸ばした手を取られ、口付けられる。
その熱を感じる事が出来ぬのが、ただ口惜しい。
彼の背越しに広がる夜空をぼんやりと見つめ。ふと、昔に聞いた星座の話を思い出す。
記憶を辿り見る空に、暗い星の集まりを認め、あぁ、と声が漏れる。
善悪を計る天秤。
この身に宿るそれを計ったとするならば、やはり悪に傾くのだろう。
それでも構わない。確かに端から見れば、これは外法であり、禁術だ。
故に人は誹り憎み、排除するべきと死の呪いを放つ。
抗う事を止め呪いに蝕まれた体は、冬を越す事なく朽ちて行くのだろう。
小さく笑みを浮かべる。
置いていく事に僅かな寂しさと不安があるが、できる限りの事はした。
この体が終われば、彼は目を覚ます。
そういう術だ。共に生きる事は叶わない。
あとは、ただ。
これから先に訪れる、人となるであろう彼の生が実り豊かなものであればと願うだけだ。
静かに眠る彼女の頬に触れた。
その冷たさに、唇を噛みしめる。
朧気な意識が鮮明になり、己の意思で体を動かせるようになった日。
人となった彼が最初に行ったのは、彼女を連れて空間を閉じる事だった。
彼女と共有していた記憶ではなく、本能で歪を作り上げた。
「お姉ちゃん」
その呼び方が適切かは分からない。
どちらが最初か、知るよしもない。
だが産まれたのは彼女一人だったのだから、これで構わないはずだ。
これからどうするべきか。
彼女は人として生きる事を望んでいたが、彼女なくして生きるつもりは毛頭ない。
すれ違う想いを正せぬまま、こうして最悪を迎えてしまった事に歯がみする。
生きたい、と。
藻掻いたのは確かだ。しかしそれに続く想いを、彼女は最後まで知る事はなかった。
生きたい、ふたり一緒に。
願いはそれだけだ。
彼女がいないのであれば、意味がない事だ。
空を見上げる。
閉じたその日から動きを止めた夜空に、明るい星の集まりを認め、知らず睨み付けた。
神の子達。不死の体を持つ弟と、持たぬ兄。
兄の死後、弟は父である神に、己の不死を兄に分け与えたいと願ったのだという。果たしてその願いは聞き届けられ、彼らは星座に召し上げられて永久に共に在る。
彼女は生を分けはしなかった。
彼女はその生をすべて与え入れた。自身のために、一滴も一欠片も残そうとはしなかった。
もしも彼女が、空で寄り添うあの弟のように不死であったならば。或いは共に生きる先があったのかもしれない。
星から目を逸らし、眠る彼女を見る。
今更だ。もしもを想像したとして、今ここにいる彼女が目を覚ます事はない。
「お姉ちゃん」
呼ぶ声に返るものはない。
「一緒にいられるのなら、影の中でも、式の中でも、それで幸せだったんだよ」
言葉は、彼女に届かない。
ならばせめて、と。
冷たい彼女と寄り添って眠りにつく。
生まれる前。母の揺り籠の海にいた時のように。
双子として生まれるはずだった二つの命は、けれど生まれ落ちたのは一つだけだった。
人として生まれた彼女。いくつかの欠片を残すのみで、人の形すら持たなかった彼。
その彼の生きたいという願いに、生まれる彼女は手を伸ばし、自身の影の中に収めた。
そして時を経て、影から式へと依代を移し、人へと生まれた彼は今、こうして生を拒んでいる。
藻掻き伸ばした手を掴んだ彼女を拒んでいる。
それは彼の本意ではなかったが、彼女のいない世界にたった一人で生きられる程、彼は強くはなかった。
いずれ終わりは来る。
時を止めたこの場所が、永久になる事はない。
術師ではあるが人でしかない彼には、この歪を形成し続ける事が出来はしない。
それでいい、と思う。
力尽きた時か、外から暴かれた時か。
どちらにせよ、それは彼の終わりを意味する。
それでいい。それがいい。
彼女の側で終わる事が出来るのなら、それはなんて幸せな事だろうか。
穏やかに笑む。彼女と手を重ねて、繋ぐ。
訪れる終わりは、彼にとっての希望であり、救いだった。
ただひとつ。
もしも願う事があるとするならば。
次の生こそ、一緒に。
ただそれだけだ。
20241006 『星座』
風に舞う木の葉を見つめ、声を聞く。
きゃらきゃらと笑いさざめく木々が、おいでと招く。
促されるようにして、一歩足を踏み出した。
風に木の葉を舞わせ、踊りませんか、と誘われる。
背中を押されて、戸惑いながらも手を差し出した。
木の葉と共に風に舞う木霊に手を取られ、不格好ながらにくるりと回る。
上手だと、木霊は笑う。
その舞は風を呼ぶよ、と木々が囁いた。
大丈夫だよ、逢いに来るよ、と穏やかな声に励まされ、教えられるままに地を蹴った。
――風が来る。
兄の言葉を思い出す。
先を視る兄が示す風は、彼の事なのだろう。
私の、名付け親。
彼が来る。私に逢いに来てくれるのか。それとも兄の眼を頼りにくるのか。
詳細を聞く前に、知らず駆けだしていた。
当てもなく、目的もなく。
只管に走り、此処へ辿りついて。
そうして今、木霊に教えられながら風を呼んでいる。
まだ、迷いはある。
逢ってもよいのかを悩み、再会した後訪れるであろう別離に怯えている。
それでも、逢いたかった。
ひゅう、と風が吹いた。
風に煽られて木の葉が高く舞い上がる。
木霊が離れ空を彷徨う手を、大きな手に捕らわれて。
強く、強く抱きしめられる。
「銀花《ぎんか》」
少し掠れた背後の声に、呼ばれた。
「ずッと探してた。逢いたかッた」
それだけで、十分だった。
逢いたいの、その一言だけで満たされる。
彼はやはり、特別だ。
――東風《こち》。
りん、と鈴を鳴らす。
鈴の音に乗った言葉に、彼が息を呑んだのが背中越しに伝わってくる。
――東風。顔、見たい。
鈴を鳴らして願えば、捕らえ抱き留めていた手が緩む。
くるり、と後ろを向いて見上げれば、涙に濡れた紫烏色の眼が私を認め、微笑んだ。
「銀花」
名を、呼ばれる。
たくさんの想いを乗せて、彼が与えてくれた私の名を囁いた。
「うれしい。銀花に呼んでもらえて。まだ求めてもらえて」
また少し、抱き留める力が強くなる。
離れたくないと笑いながら泣く彼に、私もだと応えようとして。
ざぁぁ、と強く風が吹いた。
くすくすと、笑う声が響く。
揶揄うように周囲を舞う木の葉を、思わず目で追いかけ。けれど、広げられた黒い翼に隠されて、戸惑い彼を見た。
「煩い。これ以上銀花に構うな」
笑い声が大きくなる。
――東風?
「銀花。頼むから今は此だけを見てて。此以外に心を傾けるな」
願う声に頷けば、笑っていい子と頭を撫でられた。
髪紐の鈴をあやすように触れられ、こそばゆさに身を捩る。
柔らかく細まる紫烏色に、どうしようもなく泣きたくなった。
「銀花?どうした」
何でもないと首を振る。
大丈夫だと、笑みを溢した。
――逢いに来てくれてありがとう。
鈴を鳴らし、感謝の言葉を乗せる。
愛おしい、大切な私の名付け親。
彼のために歌えない事が寂しいと、つきりと痛む胸に、気づかないふりをした。
ざぁざぁ、と風が木々を揺らす。
踊りませんか、と声が響く。
風と一緒に踊りましょう、と誘われて、彼は嫌そうに顔を顰めた。
「銀花に構うな」
声はそれでも止まらない。
踊りましょう、と繰り返し。
木霊が歌うように囁いた。
忘れた歌の代わりに、今度は風と一緒に踊ればいい。と。
彼を見る。
呆けたように目を瞬いて、紫烏色が私を見た。
風が止む。声が止んで、静寂が訪れる。
「銀花」
確かめるような響きを持って、名を呼ばれた。
抱き留められていた手が離れ、一歩距離が開く。
跪いて、手を差し出され。
「銀花、踊ろう。今度は此と一緒に」
優しく笑い誘う声に、怖ず怖ずと手を重ねた。
20241005 『踊りませんか?』
ぱちん、と何かが弾けた音がした。
あまりの衝撃に、思わず尻餅をつく。
数時間前の記憶に、血の気が引いていくのを感じた。
「嘘、でしょ?」
呟くが、やはり記憶は掻き消えてはくれず。
僅かな期待に、恐る恐る頬をつねれば、鈍い痛みに色々な意味で涙が滲んだ。
「と、りあえず。戻んなきゃ。兄様の所に」
バックひとつを掴んで部屋を出て。
転がるように、日の沈んだ夜の街へと駆けだした。
放課後。いつもの帰り道。
いつもと同じ幼なじみが隣を歩いて。
変わらない日になるはずだった。
昨日見たテレビの話。今日あった出来事。
他愛のない話をして、笑いあって帰る道すがら。
急に十字路から飛び出した自転車に驚いて、ふらつく体を支えるように抱き留められ。
その熱に、たぶん酔ってしまったのだろう。
気づけば、唇から今まで隠してきた想いが溢れ落ちてしまった。
「好き」
ただ一言。
小さく呟いた。
「ごめん。好きな人がいるんだ」
けれど、その想いは叶う事はなく。
「わたしこそ、ごめんね。忘れて?」
今までの関係にすら、呆気なくひびが入るのを感じていた。
その後。どうやって戻ったのか、正確には覚えてはいない。ただ気づけば、部屋の中で一人きりで泣いていた。
泣いて。泣いて。泣いて。
そうして、泣き疲れ。
顔を洗おうと洗面台に向かい、己の泣き腫らした顔を見た時に。
ぱちん、と。
封をしていたはずの、記憶が元に戻った。
すべてを思い出して、愕然として。
こうして、思い出した記憶を辿り。泣いた理由の記憶から逃げるようにして、ここにいる。
「それで。戻るのか?」
「戻らない。何で思い出したのに、戻らなきゃなんないの」
膝を抱えて愚痴る少女に、男は表情ひとつ変えずにそうか、と相づちを打つ。
とある神社の、社務所内。
男の元に少女が転がり込んできたのは、夜明けを過ぎた、まだ薄暗い時間帯の事だ。
男に記憶がある事を喜び、己自身に怒り、社の主が不在である事に嘆く少女は、前日に泣いていたとは思えぬほどに活気に満ちあふれている。
「それほどまでに気まずいのか。もう憎んではいなかったのだろう?」
「それ以前の問題でしょ。いくら覚えてなかったとはいえ、わたしたちを殺した男に恋するのは絶対になし」
男の純粋な疑問に、少女は心底嫌そうに首を振る。
「兄様の願いでも、断ればよかった。記憶を封じて人として恋をしろ、だなんて」
何て酷い願い事、と嘆く少女は主と共に生きた頃より変わらない。
主の側室として、主一人を愛し、命を捧げた。その生き方は、何度命を巡らそうとも変わりはしなかった。
その愛を貫くために、何度目かの生で自らの時を止めてしまうほどには。
「兄様、怒るかな」
「それならば、もう一度やり直したらどうだ?」
「破れた恋でも、恋には変わらないもん。そっちじゃなくて、あれに恋してしまった方の事を言ってるの」
「記憶がなかったのだから、仕方がないのではないだろうか」
あれ、と評される程に少女にとって、その者は幼なじみとしても恋する相手としても不本意だったのだろう。
かつて主を殺した相手だ。
恨みなどはすでにないが、それでも幼なじみとして、友としてある事は男としても難しい。
記憶を封じていたとはいえ、大層な巡り合わせもあったものだ。
「そもそもわたしの好みではなかったのに。恋するなら寡黙で、常に冷静で、それでいて強くて優しい人が良かったのに」
「それは主の事だろう」
「そうよ。あれは口数は多いし、ちょっと躓くだけで乱れるの。それを慰めてたなんて、思い出しただけで嫌になる」
首を振り、腕をさする。
だが、顰めた顔は次第に悲しみを宿し、でもね、と呟いて目を伏せた。
「今更だって、分かってる。戦があったのは、遠い昔の事だもん。その時の記憶を持っている事自体がおかしいのだし、あれも記憶を持たずに今を生きているのも知ってる。分かっているの」
「そうだな。忘れる事が、正しい。記憶を有する事は、過去に縋っている事と同義なのだろうからな」
「つまりは弱いって事ね、わたしたち」
少女の言葉に男はそうだな、と呟いて、かつての終わりの記憶を辿る。
主が討たれるその刹那に入れ替わり、主として討たれた少女。
それを唯一看破し、少女を、主を、男を討ち取った敵将。
今を生きるには、足かせにすらなり得る記憶。
それでもまだ手放す事は出来そうになかった。
「これじゃあ兄様に怒られてしまうのも、仕方がないわ」
顔を上げ、少女は笑う。
泣くのを堪えるような、泣いているような笑顔だった。
「でもよかった。あいつが振ってくれて。わたしにはまだ恋は早かったみたいだし。途中で破綻するよりは、最初から始まらない方がいいもん」
笑う少女に、男は肯定も否定も返さず。
ただ、少しだけ少女の記憶が戻った事を残念に思う。
「戻らないのか。心配しているかもしれない」
「戻らない。戻れないよ。痕跡は全部消してきたからね」
「ならば、また始めからやり直せば良いのではないか」
「やだ。絶対やだ。始めるなら兄様がいい」
頬を膨らませて視線を逸らす少女は、男の言わんとしている事が分かるのだろう。
分かっていて、認められないのだ。
「どうしてもと言うなら、巻き込むからね。一人だけ残ろうなんて、許さないんだから」
「それは困る。此度の生では、まだ主に御目通りが叶っていないのだ」
「じゃあ、それ以上言わないで。どうせ兄様にも言われるんだから」
拗ねたような物言いで外へと向かう少女に、男はそうか、と一言だけ返す。
引き止める言葉も、理由もない。
ふっ、と短く息を吐く男に、少女は立ち止まり背を向けたままであのね、と声をかけた。
「今はまだ無理。兄様を愛しているもの。きっと兄様と比べてしまう。比べて、傷つけて。だからあいつは他の人を好きになったんだと思う」
「そうか」
「この生を終えない限りは、本当に無理だよ。でも術を解いて、生を終えて。新しい生の先でまた巡り会えるとしたら」
くるり、と振り返り、少女は微笑う。
「その時は、どうなるかは分からないけどね」
精一杯に強がる、かつて優れた術師として生きた少女に対して、男は一言、そうだな、と笑った。
20241004 『巡り会えたら』
目を開けると、見覚えのある薄暗い部屋。
目の前の、幾重にも巻かれた縄に封じられた木箱が、ここが社だと告げている。
「起きたのか、娘」
「神様?」
振り返れば、穏やかな表情をした神が私を見下ろしていた。
膝をつき、頬に触れる。目尻をなぞり離れていくその指についた水滴に、泣いていたのだと気づいた。
「別れが悲しいか」
「どうだろう。それにしては随分と落ち着いてる。ちゃんとお別れを言えなかった事が、ずっとあった後悔がなくなって、何だかすっきりした気もするよ」
それは悲しいとか、寂しいという感情ではない。嬉しいという感情でもないような気がした。
ならばその涙はきっと、私のものではないのだろう。
そう思い、木箱を見る。
御神体の収められた箱。彼を閉じ込めている封印。
目を閉じ、開いて神を見る。
穏やかな表情に僅かに混じる悲哀の色に、手を伸ばして触れた。
「神様。何が悲しいの?」
問いかければ、神はそうだな、と微笑む。
「娘が妖のような生き方しか出来ぬ事が悲しいのだろうな」
意味を分かりかねて首を傾げれば、悲哀の色が少し濃くなった気がした。
「詮無き事ではあるが、今一度問う。娘、俺の眷属として俺と共に在るか?」
「いいよ」
今更だな、と思いながら頷く。
これは対価だ。
そして彼の望みでもある。
それなのに、今更何を迷う事があるのだろう。
「彼女を救ってくれた事。過去にお別れをさせてくれた事。それらの釣り合いになるかは分からないけれど、それを望むのならば応える。それ以外に感謝を伝える方法を知らないから」
神は何も言わない。
「どんなに力を求めて呪を喰らっても、辿り着けなかった答えをくれた。擦り切れて忘れてしまった小さな想いを掬い上げて叶えてくれた。奇跡をくれた返しに、私が出来る精一杯だよ。こんな呪の塊だけど、欲しいと言ってくれるのなら、いくらでも使って」
「愚か者め。勘違いをするな」
「え?うわっ!」
頭を軽く叩かれて、そのまま乱雑に撫でられる。
揺れる視界に見る神の表情に、さっきまでの悲哀の色は一切なく。
ただ呆れを宿した不機嫌な眼が、真っ直ぐに私を見据えていた。
「お前が人に近い形で生きるために眷属にするのだ。あの下臈と一緒にするな」
「っ、でも、それじゃあ」
「言っただろう。お前が人として生きられぬ事が認められないと。すべてを零し無になるよりも、お前が生きてきた今を塗りつぶし、新しく作り上げる方の選択をしただけの事だ」
神の金の瞳の中の私が困惑する。
これでは対価にならない。
「お前の願いとは釣り合いにはならんがな。椿の祈りも、人間の娘との約束も、すべてなくすのだから。その余剰はその先で応える故に、許してくれ」
「……神様は、それで満たされるの?」
不安になり、神の眼を見た。
その望みは、すべて私のためのものだ。私だけが満たされるものでしかない。
不安で、怖くて。
問う言葉に、彼はやはり呆れを含んで笑った。
「お前は本当に、純粋で愚かだな。そして誰よりも優しい子だ。満たされるに決まっているだろう?お前が生きる先を見る事が出来るのだから」
「よく、分からない。神様がいいなら、それでいいとは思うけど」
「そうか。怖くはないのか?」
何が怖いというのだろう。
きっとこのまま呪を宿した体で彷徨う事も、神の眷属になる事もそれほど変わらない。
一人か一人でないかの違いくらいしかない。
「怖くないよ」
「すべてがなくなるのにか?」
「なくならないよ」
そういう事か。
やはり彼はどこまでも優しい神様だ。
「なくならないよ。椿も、あの子も、なくなったりしない。お父さんを忘れなかったように。大切な事は、なくなったりしないんだよ」
優しい父の手の温もりを覚えている。
母の、兄達の最後の願いを、まだ忘れてはいない。
――生きて。
声は忘れてしまった。顔も霞んで見えてはこない。
それでも言葉は残っている。
その僅かな残滓がこの体を繋ぎ止めて、こうして奇跡に出会わせてくれた。
だから、残るものは確かにあるのだ。
「そうか。そうだな。本質は変わるはずがないか」
優しい顔をして、優しく頭を撫でられる。
その撫で方はどこか父に似ていて、思わず笑みが溢れた。
「大丈夫だよ、神様。怖くないから、私を――零《れい》を終わりにして」
「あぁ。その名を終わりにしよう。新たな名を与えようか」
頭を撫でていた手が離れ、代わりに彼の四肢に絡みつく縄が、同じように四肢に巻き付いてくる。
逃がさないようにと縛り付ける縄に顔を顰めた。
まるで箱の中の彼のようだ。
彼はずっとこんな不快な気持ちを抱えながらも、人の願いに応え続けてきたのか。
「――黄櫨《こうろ》」
静かに、そっと。
囁く澄んだ声に、全身が硬直する。
意識が揺らぐ。
それが自分の名だと体が、心が正しく認識して。
花開くように淡く色づく世界に、ひとつの終わりと始まりを、視た。
揺り籠の中に似た温もりに、眼を開ける。
真っ直ぐな見下ろす金をぼんやりと見返して、目の前の誰かの名を探す。
空っぽだ。何もない。
伽藍堂の記憶に目を瞬いた。
「黄櫨」
静かな、けれど寂しさを含んだ声。
「かみさま」
知らずに言葉が溢れる。
伽藍堂に少しだけ色がついた。
思い出す。呼ばれたのは私の名だ。
新しい、私の名前。
もう一度瞬いて、手を伸ばした。
「かみさま、悲しいの?」
問いかければ、彼はいいや、と微笑む。
「黄櫨が生きている事が、嬉しいのさ」
よく、分からない。
けれど、とても懐かしい気持ちだった。
彼の腕の中から抜け出して、辺りを見回す。
縄が幾重にも巻かれた、古い木箱。
その傍らで眠る、四肢を黒く染めた少女。
そうか、と納得した。
「何か、不思議な感じ」
「仕方あるまい。ほぼ壊れた体で、今まで動けていた事の方が奇跡のようなものだ」
「確かに、これは酷いなって自分ながらに思うよ。記憶はないけれど」
一目見ただけでも分かるほど、少女――私の体は顔を顰めたくなるほどに酷いものだ。
傷まみれで、ぼろぼろな見た目だけでない。
木箱のように巻き付く縄が封じていなければ、この社は忽ち穢れに朽ちてしまう事だろう。
「黄櫨」
「何、神様?」
「残ったものはあるか?」
問われて、目を閉じる。
色は付けど、伽藍堂は相変わらず伽藍堂のままだ。
けれど見えていないだけで、残っているものは確かにあるのだろう。
きっと今はその時が来ていないだけだ。
「さあ?今は空っぽだから分からないよ。でも、」
目を開けて、笑ってみせる。
「大切なものはなくならないからね。こうして神様をちゃんと覚えているように」
眷属としてでなく。主従でもなく。
彼を、覚えている。
与えられた優しさは、忘れられる訳がない。
彼は、私の神様は。
ちっぽけな私には勿体ない程の奇跡だ。
どんなに足掻いても手の届かない願いを叶えてくれる、一番星だ。
「そうか。残っているのならば、それでいい」
微笑んで、頭を撫でられる。
零れてしまった記憶の中の誰かの手と似ていて、思わず頬が緩んだ。
「神様。これからどうすればいいの?」
「好きにするといい。黄櫨の望みは俺がすべて応えてやろう」
「望み。取りあえず、外に出たいかな」
そう呟けば、頭を撫でていた手が離れ、ふわりと抱き上げられた。
「ならば皆に会いに行こうか。思い出すものもあるだろうよ」
近くなった金が、柔らかく細められる。
その穏やかな懐かしい眼差しに、同じように微笑みを返した。
20241003 『奇跡をもう一度』
燃えるように赤い夕焼けに向かい、ひとり歩いて行く。
辺りには誰もいない。
これはきっと夢の中なのだろう。だから誰も居らず、この場所に見覚えもないのも納得が出来る。
どこから来て、どこへ行こうとしているのか分からないのも、きっと夢の中だからだ。
無理矢理納得して。足を止めずに歩き続ける。
随分長い間歩いている気もする。目の前の夕焼けも、少しずつ赤から紺へと色を染め変えている。
ふと後ろが気になった。
立ち止まり、振り返ろうかとも思ったが、思っただけだった。結局は立ち止まる事もなく、振り返る事さえなく歩いていく。
薄暗さはあるものの、まだ日の赤は鮮やかだ。
しかしそれは前方、見えている部分だけの事。
おそらく後方の、見えていない影の部分では、すでに夜に染められて形を失っているのかもしれない。
そんな想像に苦笑して。
早く目が覚めれば良いのに、と只々目覚めを待った。
歩く先。佇む誰かの影が見えた。
影は動かない。だが影に向かって歩いているために、その距離は段々と短くなっていく。
近づくにつれ、姿形がはっきりと見えてくる。体格からして女性。髪の長い、小柄な女の人。
それでもその影の顔は、近づいても一向に分からない。影が彼女の顔を隠してしまっている。
誰そ彼時。
昼と夜の混じり合う時間。
人と魔がまみえる、禍を呼び寄せる時間。
果たして彼女は人なのか、魔なのか。
少しだけ、歩みが遅くなる。
恐怖からではない。
これは夢だ。醒めれば消えてしまう、一時の幻だ。
ならば、彼女を恐れる理由はない。
彼女はきっと――
「誰ですか?」
彼女を前に、少しだけ距離を開けて立ち止まる。
この時間特有の言葉をかければ、彼女は小さく笑ったようだった。
「元気そうね。安心したわ」
柔らかな声音。
その声を、知っている。
「母さん」
「お父さんと仲良くやっていけてるかしら?お話するのも、いつもわたしを介しているのだもの。心配だわ」
くすくすと、笑う声。
記憶にある少女のような可憐な姿が、鮮やかに思い浮かぶ。
彼女は、母は、離れても変わらないようだ。
「心配ないよ。最近は何かと一緒にいる時間が増えたし。話す事も増えた」
「そうなの?良かった。ちゃんとお話できていて」
「母さんの方は?何かあった?」
こうして夢の中にまで出てくるくらいだ。何かあったのだろうか。
だが母はゆるゆると首を振り、否を示す。
「記憶の一部を飛ばしているだけよ。わたしはもう、眠っているもの」
「そうなの?」
「そうよ。少し心配だったから。あなたはわたしによく似てしまったもの」
眼の事だろうか。
父や他の人とは異なるものを視る眼は、確かに厄介な事はあるが、今はそれを気にする事などほとんどなくなっている。
だから、と心配させないように笑ってみせる。
「大丈夫。庭の子たちは優しいのが多いから。助けてもらう事もあるし。今はもう大丈夫だよ」
「そう。良かったわ。あの子たちと仲良くなれていたのなら、心配はなさそうね」
「そうだよ。だから安心して。父さんの事も任せてくれていいよ、母さん」
戯けてみせれば、ひとつ頷いてほぅ、と息を溢した。
安堵してくれたのだろう。ならばそろそろ行かなければ。
「じゃあ、もう行くね。いつまでも寝てたら、父さんが心配するから」
「元気でね。無理はしちゃ駄目よ」
「分かってるよ。母さんこそ、元気で…は、おかしいか。どっちかって言えば、よく寝てね、とか?」
上手な言い回しが出来ずにいれば、母は確かにね、と笑う。
それでいい。もうたくさん泣いたのだから。今は笑顔で別れるのが一番いいと、そう思う。
「振り返っては駄目よ。隠されてしまうわ。真っ直ぐ前だけを見ていてね」
「うん。それじゃあ、さよなら」
「さようなら」
母に別れを告げて、再び歩き出す。
振り返る事はしない。
追いかけたりはしない。
父が待っているのだから。
目が、醒めた。
ベッドから抜け出して、そのままリビングへと向かう。
「おはよう。父さん」
「あぁ、おはよう。珍しいね、寝坊するなんて」
「ちょっとね」
曖昧に笑う。
長い夢を見ていた。寝坊はきっと、そのせいだ。
目が覚めて、父に会いたくなったのも、きっと。
「おや?」
何か気になる事があるのか。
少し険しい顔をした父が、側に来て目尻をなぞる。
「泣いていたのか?」
「ん。少し、夢を見てたから」
涙を拭う手が、今度は優しく頭を撫でる。
嫌な夢か、と聞かれるが、よくは覚えていない。
夢なんて、そんなものだ。
「顔を洗っておいで。朝食にしよう」
穏やかな声に促され、頷いてリビングを出た。
顔を洗って、それから着替えてしまおうか。
ふと、窓から見える空の青が目にとまる。
雲ひとつない快晴だ。そこに赤や紺の色はどこにもない。
当たり前の事が、何故か今、寂しいと思ってしまった。
20241002 『たそがれ』