燃えるように赤い夕焼けに向かい、ひとり歩いて行く。
辺りには誰もいない。
これはきっと夢の中なのだろう。だから誰も居らず、この場所に見覚えもないのも納得が出来る。
どこから来て、どこへ行こうとしているのか分からないのも、きっと夢の中だからだ。
無理矢理納得して。足を止めずに歩き続ける。
随分長い間歩いている気もする。目の前の夕焼けも、少しずつ赤から紺へと色を染め変えている。
ふと後ろが気になった。
立ち止まり、振り返ろうかとも思ったが、思っただけだった。結局は立ち止まる事もなく、振り返る事さえなく歩いていく。
薄暗さはあるものの、まだ日の赤は鮮やかだ。
しかしそれは前方、見えている部分だけの事。
おそらく後方の、見えていない影の部分では、すでに夜に染められて形を失っているのかもしれない。
そんな想像に苦笑して。
早く目が覚めれば良いのに、と只々目覚めを待った。
歩く先。佇む誰かの影が見えた。
影は動かない。だが影に向かって歩いているために、その距離は段々と短くなっていく。
近づくにつれ、姿形がはっきりと見えてくる。体格からして女性。髪の長い、小柄な女の人。
それでもその影の顔は、近づいても一向に分からない。影が彼女の顔を隠してしまっている。
誰そ彼時。
昼と夜の混じり合う時間。
人と魔がまみえる、禍を呼び寄せる時間。
果たして彼女は人なのか、魔なのか。
少しだけ、歩みが遅くなる。
恐怖からではない。
これは夢だ。醒めれば消えてしまう、一時の幻だ。
ならば、彼女を恐れる理由はない。
彼女はきっと――
「誰ですか?」
彼女を前に、少しだけ距離を開けて立ち止まる。
この時間特有の言葉をかければ、彼女は小さく笑ったようだった。
「元気そうね。安心したわ」
柔らかな声音。
その声を、知っている。
「母さん」
「お父さんと仲良くやっていけてるかしら?お話するのも、いつもわたしを介しているのだもの。心配だわ」
くすくすと、笑う声。
記憶にある少女のような可憐な姿が、鮮やかに思い浮かぶ。
彼女は、母は、離れても変わらないようだ。
「心配ないよ。最近は何かと一緒にいる時間が増えたし。話す事も増えた」
「そうなの?良かった。ちゃんとお話できていて」
「母さんの方は?何かあった?」
こうして夢の中にまで出てくるくらいだ。何かあったのだろうか。
だが母はゆるゆると首を振り、否を示す。
「記憶の一部を飛ばしているだけよ。わたしはもう、眠っているもの」
「そうなの?」
「そうよ。少し心配だったから。あなたはわたしによく似てしまったもの」
眼の事だろうか。
父や他の人とは異なるものを視る眼は、確かに厄介な事はあるが、今はそれを気にする事などほとんどなくなっている。
だから、と心配させないように笑ってみせる。
「大丈夫。庭の子たちは優しいのが多いから。助けてもらう事もあるし。今はもう大丈夫だよ」
「そう。良かったわ。あの子たちと仲良くなれていたのなら、心配はなさそうね」
「そうだよ。だから安心して。父さんの事も任せてくれていいよ、母さん」
戯けてみせれば、ひとつ頷いてほぅ、と息を溢した。
安堵してくれたのだろう。ならばそろそろ行かなければ。
「じゃあ、もう行くね。いつまでも寝てたら、父さんが心配するから」
「元気でね。無理はしちゃ駄目よ」
「分かってるよ。母さんこそ、元気で…は、おかしいか。どっちかって言えば、よく寝てね、とか?」
上手な言い回しが出来ずにいれば、母は確かにね、と笑う。
それでいい。もうたくさん泣いたのだから。今は笑顔で別れるのが一番いいと、そう思う。
「振り返っては駄目よ。隠されてしまうわ。真っ直ぐ前だけを見ていてね」
「うん。それじゃあ、さよなら」
「さようなら」
母に別れを告げて、再び歩き出す。
振り返る事はしない。
追いかけたりはしない。
父が待っているのだから。
目が、醒めた。
ベッドから抜け出して、そのままリビングへと向かう。
「おはよう。父さん」
「あぁ、おはよう。珍しいね、寝坊するなんて」
「ちょっとね」
曖昧に笑う。
長い夢を見ていた。寝坊はきっと、そのせいだ。
目が覚めて、父に会いたくなったのも、きっと。
「おや?」
何か気になる事があるのか。
少し険しい顔をした父が、側に来て目尻をなぞる。
「泣いていたのか?」
「ん。少し、夢を見てたから」
涙を拭う手が、今度は優しく頭を撫でる。
嫌な夢か、と聞かれるが、よくは覚えていない。
夢なんて、そんなものだ。
「顔を洗っておいで。朝食にしよう」
穏やかな声に促され、頷いてリビングを出た。
顔を洗って、それから着替えてしまおうか。
ふと、窓から見える空の青が目にとまる。
雲ひとつない快晴だ。そこに赤や紺の色はどこにもない。
当たり前の事が、何故か今、寂しいと思ってしまった。
20241002 『たそがれ』
10/2/2024, 8:43:04 PM