目を開けると、見覚えのある薄暗い部屋。
目の前の、幾重にも巻かれた縄に封じられた木箱が、ここが社だと告げている。
「起きたのか、娘」
「神様?」
振り返れば、穏やかな表情をした神が私を見下ろしていた。
膝をつき、頬に触れる。目尻をなぞり離れていくその指についた水滴に、泣いていたのだと気づいた。
「別れが悲しいか」
「どうだろう。それにしては随分と落ち着いてる。ちゃんとお別れを言えなかった事が、ずっとあった後悔がなくなって、何だかすっきりした気もするよ」
それは悲しいとか、寂しいという感情ではない。嬉しいという感情でもないような気がした。
ならばその涙はきっと、私のものではないのだろう。
そう思い、木箱を見る。
御神体の収められた箱。彼を閉じ込めている封印。
目を閉じ、開いて神を見る。
穏やかな表情に僅かに混じる悲哀の色に、手を伸ばして触れた。
「神様。何が悲しいの?」
問いかければ、神はそうだな、と微笑む。
「娘が妖のような生き方しか出来ぬ事が悲しいのだろうな」
意味を分かりかねて首を傾げれば、悲哀の色が少し濃くなった気がした。
「詮無き事ではあるが、今一度問う。娘、俺の眷属として俺と共に在るか?」
「いいよ」
今更だな、と思いながら頷く。
これは対価だ。
そして彼の望みでもある。
それなのに、今更何を迷う事があるのだろう。
「彼女を救ってくれた事。過去にお別れをさせてくれた事。それらの釣り合いになるかは分からないけれど、それを望むのならば応える。それ以外に感謝を伝える方法を知らないから」
神は何も言わない。
「どんなに力を求めて呪を喰らっても、辿り着けなかった答えをくれた。擦り切れて忘れてしまった小さな想いを掬い上げて叶えてくれた。奇跡をくれた返しに、私が出来る精一杯だよ。こんな呪の塊だけど、欲しいと言ってくれるのなら、いくらでも使って」
「愚か者め。勘違いをするな」
「え?うわっ!」
頭を軽く叩かれて、そのまま乱雑に撫でられる。
揺れる視界に見る神の表情に、さっきまでの悲哀の色は一切なく。
ただ呆れを宿した不機嫌な眼が、真っ直ぐに私を見据えていた。
「お前が人に近い形で生きるために眷属にするのだ。あの下臈と一緒にするな」
「っ、でも、それじゃあ」
「言っただろう。お前が人として生きられぬ事が認められないと。すべてを零し無になるよりも、お前が生きてきた今を塗りつぶし、新しく作り上げる方の選択をしただけの事だ」
神の金の瞳の中の私が困惑する。
これでは対価にならない。
「お前の願いとは釣り合いにはならんがな。椿の祈りも、人間の娘との約束も、すべてなくすのだから。その余剰はその先で応える故に、許してくれ」
「……神様は、それで満たされるの?」
不安になり、神の眼を見た。
その望みは、すべて私のためのものだ。私だけが満たされるものでしかない。
不安で、怖くて。
問う言葉に、彼はやはり呆れを含んで笑った。
「お前は本当に、純粋で愚かだな。そして誰よりも優しい子だ。満たされるに決まっているだろう?お前が生きる先を見る事が出来るのだから」
「よく、分からない。神様がいいなら、それでいいとは思うけど」
「そうか。怖くはないのか?」
何が怖いというのだろう。
きっとこのまま呪を宿した体で彷徨う事も、神の眷属になる事もそれほど変わらない。
一人か一人でないかの違いくらいしかない。
「怖くないよ」
「すべてがなくなるのにか?」
「なくならないよ」
そういう事か。
やはり彼はどこまでも優しい神様だ。
「なくならないよ。椿も、あの子も、なくなったりしない。お父さんを忘れなかったように。大切な事は、なくなったりしないんだよ」
優しい父の手の温もりを覚えている。
母の、兄達の最後の願いを、まだ忘れてはいない。
――生きて。
声は忘れてしまった。顔も霞んで見えてはこない。
それでも言葉は残っている。
その僅かな残滓がこの体を繋ぎ止めて、こうして奇跡に出会わせてくれた。
だから、残るものは確かにあるのだ。
「そうか。そうだな。本質は変わるはずがないか」
優しい顔をして、優しく頭を撫でられる。
その撫で方はどこか父に似ていて、思わず笑みが溢れた。
「大丈夫だよ、神様。怖くないから、私を――零《れい》を終わりにして」
「あぁ。その名を終わりにしよう。新たな名を与えようか」
頭を撫でていた手が離れ、代わりに彼の四肢に絡みつく縄が、同じように四肢に巻き付いてくる。
逃がさないようにと縛り付ける縄に顔を顰めた。
まるで箱の中の彼のようだ。
彼はずっとこんな不快な気持ちを抱えながらも、人の願いに応え続けてきたのか。
「――黄櫨《こうろ》」
静かに、そっと。
囁く澄んだ声に、全身が硬直する。
意識が揺らぐ。
それが自分の名だと体が、心が正しく認識して。
花開くように淡く色づく世界に、ひとつの終わりと始まりを、視た。
揺り籠の中に似た温もりに、眼を開ける。
真っ直ぐな見下ろす金をぼんやりと見返して、目の前の誰かの名を探す。
空っぽだ。何もない。
伽藍堂の記憶に目を瞬いた。
「黄櫨」
静かな、けれど寂しさを含んだ声。
「かみさま」
知らずに言葉が溢れる。
伽藍堂に少しだけ色がついた。
思い出す。呼ばれたのは私の名だ。
新しい、私の名前。
もう一度瞬いて、手を伸ばした。
「かみさま、悲しいの?」
問いかければ、彼はいいや、と微笑む。
「黄櫨が生きている事が、嬉しいのさ」
よく、分からない。
けれど、とても懐かしい気持ちだった。
彼の腕の中から抜け出して、辺りを見回す。
縄が幾重にも巻かれた、古い木箱。
その傍らで眠る、四肢を黒く染めた少女。
そうか、と納得した。
「何か、不思議な感じ」
「仕方あるまい。ほぼ壊れた体で、今まで動けていた事の方が奇跡のようなものだ」
「確かに、これは酷いなって自分ながらに思うよ。記憶はないけれど」
一目見ただけでも分かるほど、少女――私の体は顔を顰めたくなるほどに酷いものだ。
傷まみれで、ぼろぼろな見た目だけでない。
木箱のように巻き付く縄が封じていなければ、この社は忽ち穢れに朽ちてしまう事だろう。
「黄櫨」
「何、神様?」
「残ったものはあるか?」
問われて、目を閉じる。
色は付けど、伽藍堂は相変わらず伽藍堂のままだ。
けれど見えていないだけで、残っているものは確かにあるのだろう。
きっと今はその時が来ていないだけだ。
「さあ?今は空っぽだから分からないよ。でも、」
目を開けて、笑ってみせる。
「大切なものはなくならないからね。こうして神様をちゃんと覚えているように」
眷属としてでなく。主従でもなく。
彼を、覚えている。
与えられた優しさは、忘れられる訳がない。
彼は、私の神様は。
ちっぽけな私には勿体ない程の奇跡だ。
どんなに足掻いても手の届かない願いを叶えてくれる、一番星だ。
「そうか。残っているのならば、それでいい」
微笑んで、頭を撫でられる。
零れてしまった記憶の中の誰かの手と似ていて、思わず頬が緩んだ。
「神様。これからどうすればいいの?」
「好きにするといい。黄櫨の望みは俺がすべて応えてやろう」
「望み。取りあえず、外に出たいかな」
そう呟けば、頭を撫でていた手が離れ、ふわりと抱き上げられた。
「ならば皆に会いに行こうか。思い出すものもあるだろうよ」
近くなった金が、柔らかく細められる。
その穏やかな懐かしい眼差しに、同じように微笑みを返した。
20241003 『奇跡をもう一度』
10/3/2024, 11:21:31 PM