sairo

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9/10/2024, 4:37:53 PM

「世界に一つだけ。あなただけの特別を」

繰り返される言葉と、にこにこと笑う店員に腕を引かれ、少女は店内へと足を踏み入れた。

白磁のティーセット。青の宝石の美しいネックレス。分厚い装飾の本。
外からは何の店かは分からなかった店内には様々なものが所狭しと並べられ、やはり何の店なのかは分からない。
古いからくり時計。牡丹の紋様の描かれた振り袖。黒いリボンの麦わら帽子。
店員に促され、腕を引かれて奥へと進む。物言わぬ店内の商品が店員と少女を見ている気がした。


「さて。ここは世界に一つだけの、あなただけの特別と出会える、特別な場所でございます」

変わらぬ笑みを浮かべる店員は、少女を椅子に座らせて奥の棚から一つの箱を取り出す。
蓋を開けて少女の目の前に中身を置くと、店員は笑みを深めて囁いた。

「これはあなたの特別。あなた以外の誰のものでもない、唯一の特別ですよ」

長い黒髪を一つに結った、あどけない微笑みを浮かべた人形。箱から出され足を投げ出して座る人形は、その虚ろなガラスの眼で少女をただ見つめていた。

「いかがでしょう。お代はあなたの灯火を少々。たったそれだけでこれがあなたの特別になるのです」

にたにたと笑みを貼り付け、店員は尋ねる。
けれど少女は表情一つ変えず、何も言わずに人形へと手を伸ばし。

「いらない。これは私の特別なんかじゃないわ」

否定の言葉と共に指先で人形の額を押し、座る人形を倒した。

ぴしり、と音がなる。
何かがひび割れたような、小さな音が店内に響く。
動きを止めた店員の顔が歪み、亀裂が走る。

「私のあの子はこんな木偶じゃない。偽物なんかいらない」

ぴしりぴしり、と音が響く。
少女が否定を口にする度に音は大きく、店内のあちらこちらから聞こえ始め。

気づけば店内にあるものすべてがひび割れ、店員は音もなく崩れ落ちていった。


「あの子以外は何もいらないのよ」

崩壊する店内には目もくれず、少女は出口へ向かい歩き出す。
ひび割れ崩れていく商品達の、恨む言葉は彼女には届かない。突き刺さる嫉妬の視線を、彼女は意にも介さない。
縋る多くの腕を振り払い、少女は一度も足を止める事なく店を出た。



「すごいな。何も持たずに出てこれたのか」

店から去って行く少女のその背を見送り、思わず苦笑する。
化生に誘われ店に入っていった時はどうするべきかと悩んだが、程なくして身一つで出てきたのだから、それは感嘆に値するものだ。

「あれにとって、必要なものがはっきりしていたというだけの事。執着は時として人間を妖と成らせるのですから、入れ込まぬように」
「さすがにこれ以上、しかも人を増やしはしないさ」

腕にしなだれかかる彼女の頭を撫でながら、大丈夫だと宥め。若干ではあるが機嫌の直ったらしい彼女は、鼻を鳴らしそっぽを向いた。

「それならばいいのです。お前はおとなしくわっちの望む通りに動きなさい」

分かっている、と肯定する。
あえて言われなくとも、こうして望むままに彼女の供をしているのだから今更な事だ。
小さく笑みを浮かべ、ふと改めて少女が出てきた店を見る。

色あせた、テナント募集の張り紙が、ここが長い間無人であった事を伝えていた。

「世界に一つだけの、自分だけの特別ねぇ」
「意味が分かりません。世界には唯一が溢れているというのに、何故人間はこうも愚かなのでしょう」

金と青の瞳が嘲るように歪む。
己自身が唯一であるにも関わらず、新たに己だけの特別を求める事が心底理解出来ないのだろう。

「まぁ、世界に一つとか、特別とかの言葉が魅力的に聞こえるんじゃないか?優越感というやつだ」
「くだらない。人間という矮小なものが優劣を競った所で、何になるというのですか。まったく嘆かわしい」

神である彼女には、人の繊細ともいえる感情の機微を理解できない。くだらないと一蹴したそれが、人を鼓舞し、嫉妬を生み、時には人を簡単に変えてしまう事を、知り得ない。
たとえ理解した所で結局は愚かだと嘲るのだろうなと、意味のない事を考えながら腕を軽く引いた。

「そろそろ行こうか。まだ行きたい所があるんだろう?」
「そうですね。行きましょうか」

しなだれかかっていた腕を掴み、先導して歩き出す。
久しぶりの遠出。行きたい所は決まっているのか、彼女の足は迷う事はない。
彼女に連れられながら、意識を切り替え歩き出す。

足早に遠ざかる二人の影がゆらりと揺れて。
いつしか猫を抱く一人の影に変わっていった。



20240910 『世界に一つだけ』

9/9/2024, 10:22:10 PM

「いいか。屋根の上とか、縁側とか。あとこういった草原が昼寝には最適だ」

真面目な顔をして、猫はごろりと寝転がる。

「ほら。壱《いち》もちゃんとやってみろ」

促されて、戸惑いながらも少女は猫と同じように寝転んだ。
草の香りが鼻腔をくすぐり、思わず深く息をする。

「これが、好き?」
「猫は好きだ。暖かくて、気持ちがいいからな」
「暖かくて、気持ちがいい」

猫の言葉を繰り返して、目を閉じる。
もう一度深く息をして。日の暖かさと草の柔らかな匂いに、ともすればすぐにでも眠ってしまえそうな心地よさに小さく微笑んだ。

「うん。私もたぶん好き」
「そうか。いいぞ。それは壱の好きだ。他にもたくさん探さないとな」

体を起こし少女を見つめ、猫は満足そうに頷く。

「あとは、おいしいとか、楽しいとかも好きだな。目が覚めてきている今の壱なら、分かるはずだ」
「目が覚めた?」

音を開け猫を見て不思議そうな顔をする少女に、気づいていないのか、と猫は笑う。

「壱の匂いが人間に近づいている。変な名のせいで否定されていた壱が表に出てきているんだ」

猫の言葉に少女は瞬きを一つして、腕を伸ばし両手を見つめる。手を握り、開いてから腕を下ろし、自身を包む草に触れて、確かに、と小さく呟いた。

「今まで壁越しに感じていたものと違って近く感じる」
「壁があったのか?」
「壁、というか仕切りのような。見て聞いているものを、映像として見ているような感じかな。こうして何かに触れていても、柔らかいとか暖かいとかの情報として伝わるから好きとかはきっと分からなかった」
「そうだな。変な名だった時の壱なら、猫が好きだから好きとか答えていただろうな」

ふん、と鼻をならし、酷い名をつけるなんて酷いやつもいたものだ、と猫は憤慨する。
それを違うよ、と笑って少女は否定して。記憶を辿るように空を見上げた。

「きっとね、それしか方法がなかったんだよ。ずっと謝る声が聞こえていたから」

呟いて、目を細める。記憶を懐かしむように、愛おしむようにあのね、と猫に囁いた。

「思い出せた事があるんだ。お母さんの作るご飯がおいしいとか。お兄ちゃん達が教えてくれる遊びの楽しさとか。お父さんが帰ってきて、ただいまって抱き上げてくれる事が一番うれしいとか」
「壱は家族が好きなんだな」

ぽつりと呟いた猫に、少女は体を起こして首を傾げる。
好き、と繰り返す少女はまだその意味を理解しきれていないのだろう。猫はそうだと頷いて、猫の大切な子らを思いながら口を開いた。

「猫は銅藍《どうらん》も瑪瑙《めのう》も好きだ。ずっと側にいたいし、大切にしたい。二人が楽しいと猫も楽しいし、二人が悲しいと猫も悲しくなる。そういったきらきらした気持ちが好き、というやつだ」
「そっか。私は皆が好きなんだ。何か、すごく暖かい」
「好きは暖かいものだからな」

段々に人の匂いの強くなっていく少女に、猫は上機嫌で喉を鳴らす。
少女を構成するほとんどが零れ落ち、空っぽだった中身が暖かいもの、優しいもので埋まっていく。それは水の中で光を反射して光る石のように、きらきらと煌めいて猫の目を楽しませた。
新しいものを知っていく少女のその表情は、初めて見た時とは大きく違い、穏やかでありながらも鮮やかで。子の成長はいいものだ、と蜘蛛の二人が聞けば呆れ苦笑する言葉を呟いて、少女へと腕を伸ばす。
いい子いい子と頭を撫でてやれば、けれど少女はどこか苦しげに眉根を寄せた。

「撫でられるのは嫌いか?」

思っていたのとは異なる表情。猫は目を瞬き尋ねれば、少女は首を振って否定しながらも、眉を寄せたまま己の胸元に手を当てた。

「分からない。暖かくて気持ちがいいのに、それと同じくらい胸が苦しくて痛くなる」

痛みを訴える少女を覗き込み。少女の言葉と微かに聞こえる鼓動に、そういうことかと猫はにんまり笑う。

「当たり前だ。壱は生きているのだから。生きるのは痛いんだ」

ゆらりと揺らめいて、人から猫の姿へと戻り。
背筋を伸ばして少女の目の前に座り、尾を揺らす。

「ほら、猫を抱いてみろ。猫は妖だが、猫だからな。暖かくて気持ちがいいぞ」
「え。でも」

戸惑う少女の膝に前足を乗せ、その手に擦り寄った。
早くしろ、と催促されて猫へと伸びる手は、恐る恐る猫の頭を一撫でしゆっくりと体を抱き上げる。

「暖かい」
「そうだろう。猫とはそういうものだ。短い生を全力で生きている。猫は長く生きすぎて妖に成ってしまったが、猫である限りそれは変わらない。壱も生きているから、ちゃんと暖かいぞ。痛くて暖かいのが命だからな」

抱き上げられて強く聞こえるようになった鼓動に、耳を澄ます。猫よりは遅く、それでも人の常よりは速い音は、生きていると叫びながらも、寂しい苦しいと泣き喚いているようにも聞こえた。

「私、まだ生きているんだ」
「生きているな。疲れたのか?」
「そうだね。少し疲れたかもしれない。でも最後まで見届けないと。それに神様と約束もしたし」

疲れた、と言いながらも、まだ動き続けようとする少女を見上げ、猫は体を伸ばしてその頬を舐める。
ざらりとした猫の舌の感覚に驚いたように体を震わせ。猫を見る少女の目に虚ろがない事を確認して、猫はもう一度頬を舐めた。

「な、に?なんか、ざりざりする」
「猫の舌はそういうものだ。それよりもそれはちゃんと壱の望みなんだな。それならば猫は壱の手助けとなろう。猫は壱のオヤだからな」

最後に少女の頬に擦り寄ってから、腕を抜け出し人の姿へと変わる。

「ほら、戻るぞ」
「親って…まあ、いいか」

差し出された手に、少女は諦めたように息を吐いてからその手を重ね、立ち上がる。
体中についた草を気にするよりも早く、駆け出す猫に手を引かれながら。

いつの間にか痛みの治まった胸に、繋いでいない手をそっと当てた。



20240909 『胸の鼓動』

9/8/2024, 10:07:50 PM

指先が空を撫で上げ、つま先は地を抉る。
地を蹴り、空を求め彷徨うその様は、まるで踊っているかのように見えた。
実際、踊っているのだろう。雲を、雨を呼び寄せるそれは、雨乞いの儀で執り行われる人間の舞によく似ている。
遙か遠くの空に雨雲を見て、そのまま地に横になる。
見上げる空はまだ暗く、朝は当分来そうにもない、


「どうした?」

欠けた月をぼんやりと見つめていれば不意に月が陰り、見慣れた顔に覗き込まれる。
終わったのかと無感情に思う。出迎えるべきだったのだろうが、何故か今は何もする気が起きなかった。

「終わったの」
「そうだな。まだ遠いが」
「まだ続けるの?」

溢れ落ちた問いは想定外のもののようだった。当たり前か、と胸中で呟いて目を閉じる。
それが役目であり、そのため在る存在にいつまでと聞くのは詮無き事だ。

「どうした。何かあったか?」
「何も。ただひとりで行う事に意味があるのかなって。そう思っただけ」
「そうだな。皆いなくなってしまったからな。だがそれが役目だ」

優しく頭に、頬に触れる手は何一つ変わらず心地良い。

「丙《ひのえ》。こうして一緒にいられる事がとてもうれしい。でも一緒にいられる時間が長くなればなるほど、人間に必要とされなくなっている事を思い知って悲しいの」
「人はもう己一人の足で歩いていけるほどに、賢く強くなったのだ。その過程で不必要となったモノは消えるのが定めだろう」
「それならわたしが先に消えればよかった。辛《かのと》が残ればよかったのに」

消えた兄弟を思う。己とは違い役目に忠実だったのだから、己のように疑問など抱かず最後までいられたであろうに。

「庚《かのえ》」

穏やかで優しい声が呼ぶ。
それでも今は目を開けて顔を見るのは出来なかった。
その優しさはひとりの己には毒にしかならない。その痛みに泣いてしまう。

「このまま皆いなくなって。四節が巡らなくても、人間は生きていけるのかな」
「どうだろうな。だがすべて等しく終わりはあるだろう。それが人であっても、世界であってもだ」
「寂しいよ。全部がなくなってしまうのが。わたしたちを愛し、尊んでくれた人間の想いも何もかもが終わってしまう事が哀しいよ」
「庚」

再び呼ばれ、観念して目を開ける。
呆れているのではとも思ったが、声と同じく優しい顔が静かに己を見ているだけだった。

促されて立ち上がる。
見上げる空は雨雲が広がり、暫くすれば細い雨を降らせるのだろう。

「庚。季を移そう。丙から庚へ。夏から秋へ。此度も実り多き秋となる事を願っているよ」

頬を包まれて額に口づけられる。
内に灯る仄かな温もりが、役目が来た事を告げていた。

「丙。季は移った。緩やかな眠りをもたらす冬が来るまでは、しっかりとお役目を果たすよ」

頬を包んでいた手が頭に触れ、髪を撫ぜられる。
その心地よさに目を細めて、ありがとう、と小さく呟いた。

「季は無事に移ったが、帰り道は開かんな。まだしばらくは庚と共にいよう」
「彼岸の時には開くかな」
「どうだろうな。開いてくれればいいのだが」

帰れない事を憂う顔を見ないふりをしながら、強く手を握りしめる。
共にいられる時間をうれしいと思ってしまう己の弱さに呆れ、嫌悪する。
そんな己の手に気づき、両の手で丁寧に解かれ、大丈夫だとそっと手を撫でられた。
不安に思っているのだと、そう思われている事に苦笑して、大丈夫だよと答えを返す。

「行っておいで」

そっと背中を押され、駆けだした。
ぽつりと落ちた水滴が頬を濡らし、次々に振る雨が体を濡らす。
その冷たさに浸りながら、腕を伸ばして地を蹴った。

指先で雨を従えて、つま先で育まれた命を実らせる。
やがて訪れる冬を迎えるために、少しでも多くの恵みを。

季を巡らせる己の様はきっと、踊るように見えるのだろう。
いつかの人間の子らが奉納した神楽のように。

それが何故だかおかしく思えて、小さく笑みが浮かんだ。



20240908 『踊るように』

9/8/2024, 5:28:10 AM

高らかな猫の一声が、薄暗い社の中に響き渡った。

「猫が来たぞ!猫の子らの力を必要とするのは誰だ?」

ちりん、と真鍮の鈴が鳴る。
蜘蛛に片割れの腕から音もなく降り立ち、無遠慮とさえ思えるほどに堂々と開け放たれた社の中に踏み入れた。だがその足はぴたりと止まる。
猫の視線が社の奥に座る少女の姿を捕らえ、苛立たしげに低く唸り尾を打ち据えた。
後に続く蜘蛛達も、程度の差はあれど同じように眉をひそめた。

「なんだオマエは。ニンゲンのくせにほとんど空っぽじゃないか。オマエが猫の子らの力を必要としているのならば、猫は拒否するぞ。どうせその望みは他のヤツの代弁だろう」

少女を睨めつけ吐き捨てる。
猫の眼には少女の呪は見えていない。だが人としては随分と希薄な気配や纏わり付く微かな死の匂いは、人よりも化生に近い。
人のようで化生のような中途半端な匂いが、猫の本能を騒つかせ警戒させる。

「猫の子?」
「なんだ、違うのか。それならばいい。いいが…ニンゲン。オマエの名は何だ?あと、好きなものを答えてみろ」

猫の言葉に困惑する少女の人の匂いが、少しだけ強くなる。おや、と首を傾げ、警戒しつつも変化に沸いた興味に矢継ぎ早に問いを重ね。
しかしそれを制すように、蜘蛛の腕が猫を抱き上げた。

「駄目だよ、日向《ひなた》。この子の名前はおそらく呼んではいけないものだ。それだけではないのだろうけれど、この子の虚ろは名前が強く関係しているように見えるよ」
「だな。しかも最近、何度か強く呼ばれて虚ろが広がってる。大方ここの祭神が不用意に呼んだんだろ」

そうか、と納得して警戒を解き、するりと蜘蛛の腕を抜け出して少女の目の前に座る。
そして蜘蛛が止めるよりも早く、同じ問いを繰り返した。

「オマエの名を答えろ。それで好きなものも言ってみろ」

猫は単純だ。だが愚かではない。
それを知っている蜘蛛達は、猫の意図を察せずとも静観する。猫の行動はいつも唐突だが、最悪にはならないはずだ。
問われた少女は眼を瞬かせ、首を傾げながらも名を答える。

「零《れい》」

その瞬間、ぞわりとした感覚に猫の毛が逆立った。

「なんだそれは!オマエはここに確かにいるのに、ないとはどういうことだ!だからいろいろが零れていくんだ。駄目だ。猫は気に入らない。だから猫はオマエを壱《いち》と呼ぶ事にする!」

猫の行動はいつでも唐突であり、それ故に誰にも止める事は出来ない。
不快な名が許せず新たに名付けた猫に、蜘蛛達は呆れ、気まずさに顔を覆い。名付けられた少女は壱、と何度か繰り返し痛みを堪えるような表情をした。
猫の叫んだその名に強制力はないが、人ならざるモノに呼ばれる名は呪のように人に絡みつき影響を及ぼす。特に真逆な意味を含んだ名だ。元の名と反発して痛みを生じているのかもしれない。
だが悲しい事に猫は感情の機微に疎く、少女を気にかける事もなく問いかけた。

「壱。好きなものはなんだ。ちゃんと答えてみろ。大事な事だぞ」
「好きなもの」

眉根を寄せつつ、少女は視線を彷徨わせる。記憶を辿り、けれど思い浮かばぬのか、ゆるりと首を振った。

「思い出せない。好きとは、何?」
「分からないのか。零れ落ちすぎて残りがまったくないな。ならば仕方ない。壱は今から猫の子だ!猫がオヤとして、しっかりと教えてやろう!」

猫とは突拍子もないモノである。
慌てる蜘蛛達を歯牙にもかけず、瞬く間にその姿を人の形へと変化させ少女の手を引き立ち上がらせた。

「ちょっと待て。勝手に子を増やすな。ここに来た目的は呼ばれたからだろうが!」
「猫は難しい事は分からない。そっちは銅藍《どうらん》と瑪瑙《めのう》に任せる。大丈夫だ、銅藍も瑪瑙もすごいからな。猫と違って難しい話も分かるし、何でも出来るから何も心配いらない。それに嫌な事は嫌と言えるんだ。壱も二人みたいに、しっかり好きと嫌いを言えるようにならないとな」

蜘蛛に答えながらも、猫は娘の手を引く事を止めない。
猫は一度決めた事は曲げない。それを知る蜘蛛の二人は諦めたように溜息を吐き、相変わらずな猫に苦笑した。
「気をつけてね。その子は人間なのを忘れないで」
「問題ない。後は銅藍も瑪瑙に任せるから、気に入らなければ戻ってくるといいぞ。そうしたら皆で帰ろう」

社を出て行く猫と少女を見送って、蜘蛛は不快に顔を顰め、憐憫さに目を細めた。

「おい、説明しろ。何だあれは。気持ち悪い」

ゆらりと空気が揺らめき、社に奉られた神が姿を現す。
腕を組み蜘蛛を見下ろすその表情は険しく、不機嫌さを隠しもしない。

「貴様らには関係のない娘だ。呼び寄せた狐は外におる故、疾く出て行け」
「日向が連れて行った。関係はあるだろうが。それにあんな生に執着した餓鬼の呪が、俺らの猫に危害を加えないとも限らないしな」
「口を慎め、土蜘蛛。妖に成ってまで生に縋ったのは貴様らも同じであろう」

忌々しいと舌打ちをし。殺気立つ蜘蛛に、しかしもう一人の蜘蛛は冷静に銅藍、と片割れの名を呼んだ。

「たぶん前提が違う。あの子は望んで呪を施されたわけではないよ」
「抵抗した感じはなかった。拒絶はしていないだろう」
「気づけないんじゃないかな。本質はずっと眠っているように見える。時々目覚めていたのかもしれないけれど。今のあの子は呪の後の伽藍堂に元の子の記憶と周りに応え続けた結果が入り込んで出来たものだよ」

蜘蛛の言葉に片割れの殺気は収まるが、嫌な事を聞いたと目を逸らす。
神は何も言わず。しかし幾分か険しさが和らいだ表情で、見定めるように蜘蛛を見ていた。

「それが日向が呼んだ名前によって、眼が開いた。まだ覚醒はしていないけれど、痛みを覚えるくらいだ。少しは満たされていくだろうね」
「目覚めを告げる猫ってか。恐ろしいな俺らの猫は」
「日向だからね」

くすりと笑い、神を見る。

「僕達の猫と片割れが失礼しました」
「構わぬ。外で狐が待っておる。行くとよい」

険しさも不機嫌さも消えた神は、一つ頷いて社の外を指し示した。
一礼し、社の外へと向かう。その背を見送り、神は静かに眼を閉じた。


「始まったか」

始まりを告げた猫は自由気ままに、娘を人へと引き戻し。
猫の子らである蜘蛛は、狐に連れられた人の子の望みに応えるだろう。

変わらない。娘と出会い、視た未来《さき》と何一つ。
これが最良かは、始まってしまった今となっては知りようがない。


せめて娘に訪れる別れが、その痛みが少しでも和らげばと思うのみだ。



20240907 『時を告げる』

9/6/2024, 3:01:04 PM

海を見ていた。

立ち止まり動く事もなく、ただあの子の幻を探して海を見ていた。
涙はもう涸れ、叫ぶ声も嗄れた。何故を繰り返して、あの子の側まで来てしまった。

海の底はどんな所なのだろう。光のない暗闇で、走る事は出来るのだろうか。
あの子が追いかけてこれないのならば、先を急ぐ必要はない。あの子のいない地上は息苦しいだけで、もう歩く事すら苦痛だった。

追いかけて来れないのならば、こちらから迎えに行くのもいいのかもしれない。
ふと、そんな意味のない事を考える。けれどそれは何よりも甘く魅力的な誘惑だった。

一歩だけ、進んでみる。
この広い海で、たった一人のあの子を探すのはきっと骨が折れるだろう。だけど今まで振り返るでも、ましてあの子を待つ事などしてこなかったのだから、一度くらいはあの子を探しに行くのもいいのかもしれない。

一歩、また一歩と進んで、打ち寄せた波が足を誘う。生ぬるい海水が今はとても心地良い。
あの子が呼んでいるのかもしれない。私を見失ってどこにも行けずに泣いているのだと思うと、行かなければと気が逸る。

「まだ生きているのに、沈んでしまうの?」

女の人の声が聞こえ、隣を見る。いつの間にか隣に立つ濡れた女の人は、不思議で仕方がないといった表情で私を見ていた。

「あの子が待っているの」

途中で諦める事なく努力をし続けてきていた事を知っている。だからせめて迷っている間だけは、待っていてもいいだろう。立ち止まるくらいはしてもいいはずだ。

「追いかけないと」

けれど、続いた言葉は思っているものと逆だった。
言葉にして、納得する。
私はいつだって、先に進みながらもあの子を追いかけていた。
あの子が私の背中を追いかけるために続ける努力を、追いつかれないように追いかけ続けていた。
そうだ。だからあの子のいない今、追いかける目標を失って立ち止まるしかなかったのか。
思い出して、納得して。枯れたと思っていた涙がまた溢れてくる。

「寂しいの?会いたいの?」
「寂しいわ。逢いたいに決まっている」
「そう。じゃあ、これを貸してあげる」

逢いたいと泣きじゃくる私に女の人が差し出したのは、白い貝殻。海の音が聞こえるそれを受け取ると、耳を寄せて目を閉じた。

波の音。海から、貝殻から聞こえる音が混ざり合い、響き合う。音が絡まり、その絡まりの隙間からたくさんの声がざわざわと囁いている。
笑う声。嘆く声。願う声。
知らない誰かの声達が脳を揺さぶり、世界が歪む。波のように押し寄せるたくさんの想いが、私を呑み込み壊していく。
ぐらり、と傾く体。けれど倒れ込むその瞬間に聞こえた一つの声に、目を開いて足に力を入れた。

「もっと速く。あの星に追いつけるほどに疾く」

あぁ、あの子はまだ追いかけているのか。海の底で一人きりで。
貝殻を耳から離し、口を近づける。
届かないだろうけれど、あの子が今も追いかけてくるのならば、伝えたい事があった。

「もしもし。聞こえてないかもしれないけれど、ひとつ言っておきたいから勝手に言うわ」

出来るだけ冷静を保つ。最後まであの子の憧れでいたいから。泣いて立ち止まっているなんて、知られたくはない。

「私はこれからも進み続けるわ。あなたがいなくても、一人きりになっても立ち止まったりはしない。それが私だから。だからこれでさようなら」

進み続けると言いながら、きっともう進めない事は分かっている。
それでも別れを告げなければ、あの子はずっと私のいない場所で、私の幻を追いかけ続けるのだろう。
そんな事、たとえ幻であっても許せなかった。

ぎゅっと唇を噛みしめ、もう一度貝殻を耳に当てる。ざあざあと海の音に混じって、あの子の柔らかな声が聞こえてくる。

――さようなら、と。


別れの言葉を最後に、貝殻からは海の音しか聞こえなくなり。
耐えきれずに、その場に崩れ落ちた。

「大丈夫?」
「大丈、夫じゃ、ないっ。大丈夫じゃ、ないわよ」

溢れ落ちる涙を止める事が出来ない。しゃくり上げながら、心配そうに身を屈めた女の人に縋った。
別れの言葉がこんなにも苦しいものだとは知らなかった。追いかけて逝く事を許さないその五文字が、今は悲しく恨めしい。

「なん、で。なんでよ。なんで、いない、の。おい、ていか、ない、で、よっ!」

あの子のいない私はこんなにも弱い。行く先に伸びたあの子の影法師が、きっと私だったのだ。
影だけでは、あの子がいなければ、進む事など出来るはずがない。

「逢いに沈んでしまいたい?」
「いか、ない。いけない、わ」
「そう。偉いのね」

女の人の手が何度も背中を撫でる。逢いたくても逢いに逝かない私の選択を、偉い事だと褒めてくれていた。
その優しさに、彼女の海の匂いにさえあの子を重ねて、縋る手に力がこもる。

打ち寄せる波が、体を濡らす。
いっそこのままさらっていってくれればいいのに、と。
彼女に縋り、支えられながら、未練がましく馬鹿な事を思っていた。



20240906 『貝殻』

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