気づけば知らない場所の床で、横たわっていた。
痛む体を無理矢理起こす。狭い室内は調度品など何一つなく、やはり見覚えはない。
「目覚めたか、娘」
背後からかけられた声に振り返る。
「神様」
怒っているような、哀しんでいるような不思議な顔をした神が、音もなく近づき眼を覗き込まれる。
金に揺らめく瞳に映る自分は表情が抜け落ちて、まるで人形の様だ。
「望みを言え。お前が真に望むものは何だ?」
「彩《さい》が救われればそれでいい」
「救われるとは何を意味する?」
重ねて問われ、困惑する。
何を考えているのかが分からない。救いはそれ以上でもそれ以下でもないはずだ。
妖と成った彼女と、その一部でありながら人として生きている彼女。妖と人の間で繋がったままの糸を切り、それでいて人の方の彼女がそのまま人として生きられる事。それは救いではないのだろうか。
「娘が救いたいと望むものは人の方か?あの狂骨は救わぬのか?」
「狂骨は喰らうよ。一緒にいる」
「それは救いになるのか?」
その言葉に、考える。
一緒にいる事。それが救いになるのか否か。妖の彼女にとっての救いとは何であるのか。
考えて、悩んで。出てきた答えは否だった。
「ならない。きっとそれは救いではなく私の自己満足だ。けれどそれ以外の選択肢を、私は持っていない」
「なれば静観せよ。あれは人が作り上げたモノだ。作りし人が救うのが道理であろう…娘、改めて問う。娘の望みしものは何だ?」
改めて望みを問われ、同じ答えを返そうとして。揺らぐ金に口を閉ざす。
きっとそれは求めている答えではない。私自身の望みは他にあるのかもしれない。
他人事のように思いながら、答えを探し記憶を辿る。
過去の私は何を望んでいたのだろう。何を思い、感じて生きてきたのだったか。
金の中にいる今の私はまだ人形のままだ。
「分からない。思い出せない。今は彩が人として生きてくれればそれでいいと望んでいるだけ。それでは足りない?」
「あれが人として生きるとして、娘はそれからどうする?」
「どうしようか…でも彩にさようならはいいたい、かな」
その理由はうまく思い出せないけれど。
昔の記憶は擦り切れ過ぎて、思い出せない事の方が多い。
家族。仲間。寺。呪。
数珠のない今、留めておけなくなった記憶が溢れ落ちて、呪を施された意味すらも思い出せなくなってきた。もう少しすれば文字通りの存在のないものになるのかもしれない。
「我ではなく、椿なれば何を願う?」
「椿に?椿は願うものではないよ」
「願ったであろう。共に祈った子の、最期の時に願ったものがあるはずだ」
記憶を辿る。擦り切れた記憶の断片を掻き分けて、共に祈ったあの子との記憶を探す。
椿に意味を持たせた子。母と逸れ、幼い弟を連れて辿りついた強い子。母と弟を亡くし、泣き方を忘れてしまった悲しい子。
思い出を巡る。共に椿に祈り、あの子だけが成長し大人になって。妻になり母となっても、私を友と呼んで側にいた。最期の時も一緒にいて、狭間まで共をして。そして、すべてが終わった後。椿の所に行って。
あの子が眠れるように祈って。それから。
「願った。二度と心を傾けるような、そんな大切な人と出会いませんように、って」
「それは何故だ?」
金の中にいる私が、ようやく表情を崩す。泣くのを堪えるように顔を歪め、唇を噛みしめて。
胸の奥が痛くて、熱い。人形から迷子の子供になったみたいだ。
「何故そんな哀しい願いを口にした?」
「だって、嫌だったから。置いていかれるのは…一人になるのは嫌だった」
「そうか。よく言えたな」
ふわり、と優しく微笑んで、頭を撫でられた。
幼い子供にするように、いい子と繰り返し褒められる。
もう片方の手が目尻をなぞって涙を拭われ、そこで初めて泣いている事に気づいた。
「俺が共にいてやろう。お前の望む通りにあれを人として生かす術を与えてやる。だがそれだけだ。動くのは他に任せ、ただ見届けろ」
「でも、」
「他に動くものがいる。問題ない…すべて見届けたら、俺の眷属になれ」
眷属。神の。彼の。
泣いてぼんやりとする思考では、その言葉の意味が正しく理解出来ない。
「名を新しく与える事で、過去はなくなる。お前を構築してきたすべてがなくなる代わりに、お前の望む事、願う事すべてに応えよう。俺と共に生きろ。いいな」
頷いてはいけない。心の冷静な思考が警鐘を鳴らす。
頷いてしまえ。心の奥底の自分自身が叫びを上げた。
相反する二つに迷う私を、目の前の金はただ強く見据えている。
「どうして?」
「お前が他の誰よりも人であるからだ。誰かのために祈る事の出来るお前が、人として生きられぬ事を俺は認められない」
「祈る?」
首を傾げる。そんな事、きっと誰しもが出来るはずなのに。
何故それだけで、こんなにも優しくされているのか分からない。
「おいで」
促されて立ち上がる。涙で曇る視界に迷わぬよう、手を引かれ歩き出す。
部屋の奥。小さな扉を潜り抜けて、その先のさらに小さな部屋に入った。
「これ、って」
「俺だ。神体というやつだな」
奥にあるのは古い木箱。幾重にも縄で巻かれ、中の何かが外に出ないようにと封じている。
御神体だといった。神自身だとも。
涙を拭い、箱へと近づく。そっと触れた箱は、木だというのに酷く冷たい感じがした。
「昔、俺が生きていた頃、都の圧政に苦しむ国が多かった。俺の仕えていた男は郡司でな。民が苦しむ事を許せず、民のためにと兵を起こしたんだ。だがやはり地方の軍と都の軍とでは兵力差があり、結局は仕えた男も俺も討死にした。だがな死んだ俺の眼を惜しんだ都のやつらが首を持ち帰り、眼を扱うために術師に細工させたのさ。まあ扱いきれず、最終的にはここで奉るという名の封印をほどこされているわけだがな」
箱を撫でる。
酷い話だと思った。けれどそれを酷いと言葉にするのは、きっと彼にとってとても失礼な気がして口を噤む。
箱の中の人だった彼は、何を思って今もここに閉じ込められているのか。憎んでいるのか。それとも悲しんでいるのか。
どんな思いであれ、死後も無理矢理ここに留められているのは、苦しいはずだ。眠る事が出来ないのはつらい事を知っているから。
だから、せめて。少しでも安らげるように。
歌を口遊む。夜の歌を。帰れず迷う手を引く子守歌を。
箱の中の彼が刹那でも眠れるように。一人悲しい思いをしないように。
祈り、ただ歌う。
「やはりお前は優しい子だな。だからこそお前は人であるべきだ」
いつの間にか背後に来ていた彼が、優しく頭を撫でる。
「その心を殺してしまうな。お前の繊細な感情の、柔い思いの灯火が潰えてしまうのが俺は何より恐ろしい」
「恐いの?神様」
「そうだな。恐いさ。いつだって失う事は恐ろしいものだ。だから俺のために眷属として共にいてくれ」
振り返り、彼を見る。
その表情からは何を考えているのかを察する事が出来ない。
けれど頭を撫でる手は優しいから。微笑む金が綺麗だとそう思ったから。
理由なんて、それだけでいいはずだ。
「いいよ。一緒にいる。彼女にさよならを言えたら、眷属になってあげる」
「そうか」
「お別れはちゃんと言わせて。前は言葉を間違ってしまったから」
望みを口にし、思い出す。
そうだ。言葉を間違えたのだった。最後だと分かっていたのに、あの時は間違って「行ってきます」と言ったのだった。
帰れはしないのにその言葉はおかしいと、しばらくして気づいて落ち込んだのを思い出す。
今度は本当に最後になるのだろうから、間違えないようにしなければ。
「分かっている。お前の望みはすべて応えてやろう。約束だ」
手を差し出され、迷いなく手を重ね。
手を引かれるままに歩き出す。
どこに行くのか、あえて尋ねはしない。どこであれ、彼女は人として生きられる結果にきっと変わりはない。
胸の奥の熱はまだ引かない。
けれど今は、その熱が何よりも尊いものに思えていた。
20240903 『心の灯火』
旅館を出て、一つ伸びをする。
おいしい食事に、温泉。今回もかなり満足出来た。
さて次はどこへ行こうかと、スマホを取り出しロックを外す。
地図を開こうとして手元が狂い、メッセージアプリを開いてしまう。
舌打ちを一つして、すぐにアプリを閉じる。スマホも番号も変えた今、連絡をくれるものなど誰もいるはずがない。
そもそも待っているのは、ただ一人だけだ。
せっかくのいい気分だったのに、と少し沈んだ気持ちで当てもなく歩き出す。たまには何も見ずに、目的地も決めずに旅をするのも悪くはないだろうと、スマホをポケットの中にねじ込んだ。
現世から隔離された迷い家から抜け出して、早くも数日が過ぎた。
一寝した後のすっきりとした思考で空腹を満たしに外食し、そもままスマホを買い換え番号も新しくした。
次の日は自宅の整理をして、引き払う手続きを取った。もう戻る事はないのだから、残しておいても意味のないものだ。家具も荷物もほとんどを手放した。
その次の日に友人達への連絡を忘れていた事に気づくが、今更かと思い直す。ただでさえ連絡などほとんどしない身だ。いずれ落ち着いてからでも構わないだろう。
そして手荷物一つを持ち、屋敷の主に見つかるまでの終わりの見えない旅を始めて。
正直、少し飽きてしまっていた。
景色もいい。食事もおいしい。宿も落ち着いた雰囲気でよく眠れた。
温泉に入り心身の疲れを癒やすのも、とても悪くはないものだ。
だがやはり、一人というのがどうも落ち着かない。
迷い家の中でも一人になる事は多々あった。しかしあの屋敷はほぼ自分と同化してしまっていて、落ち着くのは当たり前だ。一人を不満に思う事はあっても、不安になる事などありはしない。
はあ、と肩を落とす。
最初の頃の、鬼事を始めた時のような高揚感はすでにない。あるのはただ早く見つけてほしいという、じれったさだけだ。
ポケット越しにスマホに触れ、早く来いと胸中で愚痴る。
もう一つの迷い家である『マヨヒガ』からのメッセージは、まだ来ない。
ふと、初めてマヨヒガからメッセージが来た時の事を思い返す。
知らない誰かからのメッセージの通知。ただ送り主の名前が『マヨイ』であったからこそ、警戒なく受け取ったメッセージを開いた。
久しぶり、から始まる懐かしい話の最後に書かれていた、おいで、の文字。
うれしかったはずであるのに、返した文字はそっけなく。行ってもいいけど、の一言だった。
どこまでも素直でないな、と自嘲する。
同時にそんな自分の態度だから、ついに愛想を尽かされてしまったのでは、と不安になった。
スマホを取り出し、ロックを解除して。
アプリを開こうとした指は、暫し迷って結局そのままスマホの電源を落とした。
まだ早い。相手にヒントを与えてはつまらない。
そう言い訳をして、今度はスマホをバッグの中に仕舞い込んだ。
「取りあえず、電車に乗ろう」
誰にでもなく呟いて、駅に向かって足を進める。バスに乗るのもいいが、しばらくはこの青空の下を歩いていたかった。
駅について電車に乗ったら、今度は気になる駅で降りればいい。
そこで気の向くままに歩いて行って、宿に泊まるのも、バスやまた電車に乗るのも良いだろう。
何せ時間も金もたくさんある。伊達に失せ物探しで稼いではいないのだ。
「早くしないと、現世に未練を残しちまうぞ」
そんな事はありえないなと思いながらも口にして、やはりないなと一人笑った。
あの夏の日以上の出会いは、この先どれだけ生きたとしても出会えるはずはない。そう断言できるほどに、迷い家との出会いは自分の中での特別なのだ。
迷い家から離れてからの一度も忘れた事はなく、だからこそ屋敷の主が自分と迷い家を同一にしようと動いていても、それもいいなとさえ思えたのだから。
だからといっておとなしく言う事を聞くのは、素直になれない自分にはどうしても出来ず。こうして迎えを待ちながら、当てもない旅を続けているのには自分ながらに呆れてしまう。
そういう性分だ。直そうにももうどうしようもない。
馬鹿だなあ、と何度も繰り返し続けた言葉を、口の中で転がして。
会いたい、と叫び出したい気持ちを飲み込んだ。
20240902 「開けないLINE」
「ねぇ、いいでしょ?ねぇ、連れて行ってよぉ。ねぇ。ねぇ」
付き纏う声に嘆息する。
気づけば黄昏時。
朱く染まった空を見上げ、付き纏う声の主である犬を見下ろし。
帰り道の先、鳥居の下で踊る影を見て、思わず額に手を当てた。
誰もいない神社の掃除終わり。いつもならば家にいる時間帯。
時間を気にしながらも一通りの掃除を終えて、気づけばすでに辺りは薄暗くなっていた。
やってしまった、と焦り掃除用具を片付けて、帰ろうとした道の先には影がいて。どうしようかと悩んでいれば、このよく分からない犬が声をかけてきて今に至る。
「ボク、いい子だよ。ちゃんとお座りも、待ても出来るんだよ。だからねぇ。一緒に行こうよぉ」
「…飼い主は」
よく見れば、犬の首には白い首輪。飼われている、あるいはいたであろう犬は、首を傾げ鳥居の方へと向けた。
「あそこ」
前足を上げて鳥居の下で踊る影を指す。
遠目からははっきりと見えない影が、足を上げ、腕を伸ばして踊り続けている。ステップは無茶苦茶で激しく、手はゆらゆらと揺れて、手を振っているようにも見えた。
すぐ近くにいるのならばそちらへ行けばいいのに。そう思い横目で見た犬の目は、何故だか冷めているように見えた。
「ずっと足を焼かれて、首を括られて動けなくなっちゃったの。もう駄目だから、大丈夫」
何一つ大丈夫ではない。
目を凝らして影を見る。やはりはっきりとは見えないが、言葉通り、足は焼けた地の熱さから逃れようとして、手は括られた縄を探して藻掻いているようにも見える。
「ずっといい子にしてたんだよ。遊ぶのも、撫でてもらうのも我慢して。ご飯がもらえなくなっても吠えたりなんてしなかった。飼い主が苦しくてつらいのを知ってたから、ちゃんと我慢したの。お外に出て、頭を撫でてもらえて、ご飯ももらえると思って。やっと、食べられるって。なのに。何で。あんな」
影の動きが激しくなる。
首が絞まっているのか、手を首元にやって何かをしきりに引っ張っている。
「どうしてこんな寂しい所に埋めていったの。誰もボクを踏んでくれないから、呪いになれないのに」
つまりはあれだ。
犬神をつくろうとして不完全な呪いが出来上がり、返りの風で術師が死んで呪われた、と。
影を見て、犬を見る。
空を見上げれば、さっきよりも薄暗く夜が近くなってきている。
帰ろう。そう思った。
帰る道の先に影はいるが、何とかなるだろう。
「帰るの。一緒に行っていいよね。ねぇ、連れて行ってくれるよね」
「飼い主のところに行きなさい」
着いてこようとする犬を制す。どんな形であれ飼い主がいるのだから、そちらに行くべきだ。
お座りの体制で首を傾げる犬は、少し考えて飼い主の元へと走り出す。
ぎゃあ、と醜い悲鳴が上がった。
「はい。飼い主持ってきたよ。一緒に連れて行って」
何故こうなる。
飼い主だったであろう影の腕を咥えて引きずりながら戻ってきた犬を見て、何も言えずに口元を引き攣らせる。切実に止めてほしい。直視したくないものを取ってこいした覚えはないというのに。
横目で見下ろす影は、間近で見ても黒かった。
「家には猫がいるから」
だから無理だと、首を振る。
それでも犬は諦めない。
「ボク、いい子にするよ。ちゃんと仲良くする」
無理だろう。どう考えても。
そうは思うが口には出せず。仕方がないとスマホを取り出し、ロック画面を見せた。
ぎゃん、と鳴いて、飛び上がる。
「え。なにこれ。怖い。猫、怖い」
「いいか。よく聞け。我が家の頂点は猫だ。猫が望めば夜中だろうがご飯の時間になるし、仕事をしてようが遊びの時間になる。その日の猫の好みのご飯がなければ、その時点で買いに走らなければならない。家のすべては猫によって決まるんだ。つまりは、猫が捨てろと言ったら捨てなければならない。分かるな?」
「うん。分かっ、た」
悲しげに目を伏せる犬には申し訳ないが、こればかりはどうしようもない。
今度こそ帰ろうとスマホを仕舞い、犬を見ると。
大きな目から一筋涙が零れていた。
泣いていた。犬が。視線を向けなければ分からないくらい静かに。
高級な猫缶を帰りに買おう。そう決めた。
連れ帰る事は決定だが、さてどうしようかと考える。
このままでは周りの目が痛い。非日常が日常な街であっても、さすがに目立ってしまうだろう。
そこらのうねうね動く影とは違う。
取りあえず犬を呼び寄せる。
「ささら」
「え」
「ささら。犬の名前」
呼びかける。名前を認識させる。
「ささら。ボク、ささら」
何度か名を繰り返す。その度に犬の姿が変わる。
肉がつき。皮が張り。毛が生える。
「うん。ボクはささら」
ふさふさした尾を一つ振って、茶色い毛並みの小型犬は綺麗にお座りをした。
よし。と頷く。
思わず使役してしまったが、これで捨てろなどと言われ難くなるだろう。
不完全で未熟な犬神とはいえ、一度契約したモノだ。破棄は簡単には出来ないはず。
だが一応機嫌取りで念のため、またたびも追加で買う事にする。
「ささら。帰りに店で猫缶とまたたびを買わないといけない。急ぐぞ」
「分かった!ゴシュジン、これどうするの」
「明日、近くの社にでも捨てとく」
影は放置だ。街とはいえ、田舎の店は閉まるのが早い。
急がなければと、犬を抱えて走り出す。
空にはもう宵の明星が光り輝いていた。
20240901 『不完全な僕』
懐かしさすら感じる香り。色鮮やかな蒼と翠の色彩に目を細めた。
思わず口角が上がる。うまくいったという達成感と、出し抜けたという優越感。
やっと屋敷から抜け出す事が出来た。あの現世から隔離され閉じられていた空間から、屋敷の主を欺いて出たのだ。
声を上げて笑いそうになり慌てて口を押さえると、急いで森を駆け抜けた。
久しぶりに戻った我が家は、見た目は特に変わらず。鼻につく埃臭さに、慌てて窓を開け換気する。
冷蔵庫を開け、水しか入っていない事に落胆し、同時に安堵した。一ヶ月以上も家を空けていたのだ。食べれるものがあったとして、それはすべて廃棄処分になっていた事だろう。
空腹を覚えど、今は外に出る気にはならず。仕方ないかと、ベッドに腰掛けそのまま横になった。
埃っぽさには、この際気にしない事にする。
「あ、いけね」
ズボンの違和感に、ポケットに入れたままだった小瓶を取り出す。中の透明な液体が揺れて、微かに音を立てた。
蓋を開け左手首に吹きかける。ふわりと香る爽やかなりんごと、次第に変化する凜とした睡蓮の花の香りが鼻腔をくすぐり、先ほどまでの高揚感を思い起こさせる。
「今頃、慌ててるのかな」
想像して、隠しきれなかった笑い声が漏れる。
いつもはこちらを振り回してばかりの屋敷の主が狼狽えているのを考えるだけで、楽しくて仕方がなかった。
もしくは怒っているのかもしれない。勝手に屋敷を出たのだから、それも当然と言えば当然だ。しかし何も言わないで様々を勝手に事を進めようとしていたのだから、これくらいの意向返しは許されて然るべきである。
「にしても、こんな女の香り一つで誤魔化されるなんて」
手にした瓶を弄ぶ。髪を下ろし、着崩していた服をしっかりと着て。そして女性ものの香水を振りかけ、自分を女と見立てただけで、あれだけ強固に閉じていた屋敷は外へと続く玄関の扉を開いた。
たったそれだけで自分を認識されなくなるなんて、と少しばかり複雑な気持ちはあるが。出れるのならばと切り替えて、こうして久しぶりの自宅に戻ってきたのだ。
「馬鹿だなあ」
いつかの言葉を繰り返す。
あの時は化かし合いだと思った。お互いの本心を引きずり出すための駆け引きだと、そう思っていた。
だが今は。
屋敷の主の思惑は駆け引きの範疇を超えていて。その思惑を知った自分は、それに反抗し戻ってきた。
これはすでに化かし合いではなくなっている。
本当に馬鹿だなあ、と呟いて、少しだけ眠ってしまおうかと目を閉じた。
あの屋敷の違和感に気づいたのは、実は始めからだったりする。
妙に馴染む和室。広大な屋敷の中で一度も迷う事はなく。
幼い頃に足繁く通った屋敷に対する思いは、懐かしさよりも戻れたという安堵感に近かった。
違和感が確実になったのは、現世から隔離された頃だった。
何度も打った式が帰らない。境界を超えられずにいる事は分かっていたが、その後の式は行方が知れず戻ってくる事はなかった。
それに比例して段々に馴染んでいく屋敷の感覚。目を閉じると自分が人なのか屋敷なのかが曖昧になっていく気がしていた。
そして枕元に置かれた小さな麦わら帽子。
あの夏の日に置き忘れた麦わら帽子は、すでに屋敷の一部となっていて。
その麦わら帽子がすべての答えだった。
屋敷に取り込むのか。あるいは新たな『迷い家』にするのか。
どちらにしても、それは人ではなくなるという事だ。
そこに自分の意思などない。
それを知った時、最初に感じたのは恐怖でも怒りでもなく、純粋な呆れだった。
一言くらい言えばいいのに、それが素直な感想である。
何も言われず、じわじわと追い込まれるのは気に入らない。何を思っての行動なのかが何一つ見えていないのは、徒に不安をかき立てるだけだ。
すべて話してくれたのなら。本心をさらしてくれたのならば。
まずそこで一悶着はあるだろうが、それでもここまで意地を張り続けるつもりなどはなかったのに。
寝返りを打って、考えを霧散させる。
これ以上は意味のない事だ。まずは寝て頭をすっきりさせる必要がある。
何せこれからやることはたくさんあるのだから。
部屋の整理。スマホの買い換え。親しくしてくれた数少ない友人達への連絡。あとは折角だから無駄に貯まった金銭を使い切ってしまおうか。
そしていつか屋敷の主が迎えに来てくれたのならば。
そのときは思い切り言いたい事を言い切って、最後に足りなかった一番重要な事を教えてやろう。
自分が一番嫌いな、自分の名前。
屋敷の主が知っているのは姓の方だ。昔から女みたいな名前が嫌いで、あの夏の日も名乗るのに姓を使っていた。
それを知った時、驚くだろうか。それとも悔しがるだろうか。
どちらにしても、女のような名前を笑われなければそれでいい。
凜とした睡蓮の香りに微かに混じり始めた白檀に、あの屋敷を重ねて苦笑する。
緩やかに沈んでいく意識の端で。
馬鹿だなあ、ともう一度繰り返した。
20240831 『香水』
男にとって、家族とは唯一であり絶対でもあった。
美しい妻と、優秀な二人の息子。そして心優しい末娘。
裕福ではなくとも皆笑顔を絶やさず、不満も不安も何一つなかった。
妻の作る料理を食べ、息子達の話を聞き、怖がりな末娘と共に眠る。
男にとっては、そのささやかな幸せこそが何よりも尊いものだった。
――始まりであり、すべての根源の糸を歪めたのは、赤い炎だった。
渦を巻き、天をも焦がし、形あるものを等しく灰燼に帰する。強大な炎が男が住まう村の悉くを焼いていた。
男が勤めを終えて戻った時にはすでに手遅れで。炎はすべてを燃やし尽くしていた。
妻は家のあった場所で、建物と共に炭と化し。息子達は家のすぐ側で折り重なって息絶えていた。
そして、末娘は。
――歪んだ糸に絡まったのは、末娘の微かな命の灯火だった。
息子達の亡骸の下で、守られるように生きていた末娘。体の大半を炎に焼かれ、浅い呼吸を繰り返し。
生きている事が奇跡だと思うほど、娘は死のすぐ近くにいた。
だがそれでも。死の淵にあろうと娘は。
男の呼びかけに薄く目を開き、静かに微笑みを浮かべて。
「ぉ、と、さん…お、かえ、り、なさ、」
痛みに泣く事も、苦しむ事もせず。
ただ一言。おかえりなさい、といつものように帰ってきた男を出迎えて、力なく目を閉じた。
――絡まる糸を解けぬように結びつけたのは、男に呪の心得があった事だった。
最愛の娘の消えゆく命を絶やさぬために、男は手段を選ばなかった。
薬を煎じ、呪を施し、外法にすら手を染める事を厭わなかった。
どんな姿であろうと、どのような形であろうと構わなかった。末娘が生きてさえいてくれればと願い続けた。
「おやすみ、玲《れい》」
優しく髪を撫で、一人を怖がる事がないように小さな体を抱きしめ眠りにつく。
答える声はない。それでも構わなかった。ただ側にいて、こうして生きてさえいてくれれば、それだけで。
目覚めぬ末娘の隣で、その生を感じながら眠る。それだけが男に残された最後の、そして唯一の幸せだった。
だがどんなに願おうと、呪を施そうと、終わるはずの命を留めておく事など出来はしない。
いくら足掻いたとして、終わりは確実に近づいていた。
――固く結んだ幾重にも絡まる糸を黒に染めたのは、ただ一つの誤りだった。
男の持てるすべてを費やしても、末娘の命の灯火は次第に弱くなり。
追い詰められた男は、選択肢を誤った。だが同時にその方法だけが、唯一娘を留め続けるものだった。
「すまない。それでも愛しているよ」
男は一筋涙を流し、彼の末娘に最後の呪を施す。
それは末娘の存在を否定する、禁呪。
存在を否定された事で、訪れるはずの死を否定し。
呪を施された事でそれは末娘ではなくなると知りながら、男は最後の望みに縋った。
眼が開く。感覚を確かめるようにゆっくりと体を起こし。
虚ろな瞳が男を見つめ、静かに笑みを浮かべた。
「気分はどうだ。不具合はあるか」
「もんだいありません。おこころづかい、ありがとうございます」
男に答えたのは、末娘ではなく。
娘の死は否定され。男の末娘はどこにもいなくなっていた。
そうして季節が一つ巡り。
男と存在しない娘の、奇妙でありながらも穏やかだった生活は、ある日を境に形が変わっていく。
――黒に染まった糸を切り離して呪いに変えたのは、作為のある言葉だった。
男の元に訪れた者は、表面上は取り繕いながらこう告げた。
「村を焼き、あなたの家族を奪ったものを知っている。国のために力を貸してくれるのならば、教えよう」
男にはすでに守るべき者も、愛すべき者もなく。喪った家族の復讐のために、男がその者を受け入れるのは当然の事であった。
国を守るため、柱と依代を用意した。そのために孤独に終わる命を掬い上げ、慈しんで大事に育て上げて。呪を施して、最期を看取った。
掬い上げた子らは男を慕い、それでも男は慈しみこそすれ愛す事は出来なかった。
国に仇なす者を屠るため、呪い巫女を作り上げた。少女達は従順に男に従い、呪いを歌った。
彼女達の事もやはり愛す事は出来なかった。
国のためと呪を施しながら、それでも男は愚かではなかった。
村を焼き、家族を奪ったものが誰の指示に従っていたのか。始めから知り得た上であえて受け入れていた。
最後に何もかもを終わらせるために。
復讐のために、国に従う哀れな男を演じ続けていた。
しかし終わらせるための呪を施した少女は、男の心を揺さぶった。共にいた時間が他の子らよりも長かったためか、それとも少女が末娘に似ていたためか。
愛しい末娘の面影を少女に重ね、それがいつしか少女自身を見るようになり。
終わりが近くなって、男は初めて自身の呪で喪う事を恐怖した。
今残っているのは少女と、存在のない娘。
いつからか男の側におり、施された呪によるものか死ぬ事のない不思議な娘。それならばと柱や形代、呪い巫女の呪を試し、最後の呪の繋ぎに使おうと思っていた娘の元へ早足で向かう。
少女を生かすためには、娘をここから離す必要があった。
娘は多くを語らない。ただ少女には懐き、素を見せる事もあるらしいが、男に対しては従順である事がほとんどであった。
こうして新たに呪を施され、ここから離れろと告げられても、娘は何も言わずに頷いた。
呪を施し終わり、娘はやはり何も言わずに立ち上がる。そのまま外へと向かう娘に、男は反射的にその手を掴んで引き留めた。
きょとん、と幼さの残る顔で娘は男を見つめ。掴まれたままの手を軽く引くと、男は何かを耐えるように唇を噛みしめ、掴んだその細い手首に自身の数珠を巻き付けた。
その理由は男にも分からない。ただこのまま一人で去って行く娘が帰れるようにと願い、その手をそっと離した。
数珠に触れ、男を見て。
娘は静かに微笑んだ。
「行ってきます。――」
柔らかな懐かしい響きを含む声音。
その最後の言葉は聞き取れず。聞き返そうにも、すでに娘は去った後だった。
――呪いとなった絡まる糸は二度と解ける事はないまま。
男の始まりを覚えている者はなく。娘の元の存在を知る者もいない。
唯一、気怠げな緋色の妖だけが。
こうしてすべてを記憶し、物語として語るのみだ。
20240830 『言葉はいらない、ただ・・・』