男にとって、家族とは唯一であり絶対でもあった。
美しい妻と、優秀な二人の息子。そして心優しい末娘。
裕福ではなくとも皆笑顔を絶やさず、不満も不安も何一つなかった。
妻の作る料理を食べ、息子達の話を聞き、怖がりな末娘と共に眠る。
男にとっては、そのささやかな幸せこそが何よりも尊いものだった。
――始まりであり、すべての根源の糸を歪めたのは、赤い炎だった。
渦を巻き、天をも焦がし、形あるものを等しく灰燼に帰する。強大な炎が男が住まう村の悉くを焼いていた。
男が勤めを終えて戻った時にはすでに手遅れで。炎はすべてを燃やし尽くしていた。
妻は家のあった場所で、建物と共に炭と化し。息子達は家のすぐ側で折り重なって息絶えていた。
そして、末娘は。
――歪んだ糸に絡まったのは、末娘の微かな命の灯火だった。
息子達の亡骸の下で、守られるように生きていた末娘。体の大半を炎に焼かれ、浅い呼吸を繰り返し。
生きている事が奇跡だと思うほど、娘は死のすぐ近くにいた。
だがそれでも。死の淵にあろうと娘は。
男の呼びかけに薄く目を開き、静かに微笑みを浮かべて。
「ぉ、と、さん…お、かえ、り、なさ、」
痛みに泣く事も、苦しむ事もせず。
ただ一言。おかえりなさい、といつものように帰ってきた男を出迎えて、力なく目を閉じた。
――絡まる糸を解けぬように結びつけたのは、男に呪の心得があった事だった。
最愛の娘の消えゆく命を絶やさぬために、男は手段を選ばなかった。
薬を煎じ、呪を施し、外法にすら手を染める事を厭わなかった。
どんな姿であろうと、どのような形であろうと構わなかった。末娘が生きてさえいてくれればと願い続けた。
「おやすみ、玲《れい》」
優しく髪を撫で、一人を怖がる事がないように小さな体を抱きしめ眠りにつく。
答える声はない。それでも構わなかった。ただ側にいて、こうして生きてさえいてくれれば、それだけで。
目覚めぬ末娘の隣で、その生を感じながら眠る。それだけが男に残された最後の、そして唯一の幸せだった。
だがどんなに願おうと、呪を施そうと、終わるはずの命を留めておく事など出来はしない。
いくら足掻いたとして、終わりは確実に近づいていた。
――固く結んだ幾重にも絡まる糸を黒に染めたのは、ただ一つの誤りだった。
男の持てるすべてを費やしても、末娘の命の灯火は次第に弱くなり。
追い詰められた男は、選択肢を誤った。だが同時にその方法だけが、唯一娘を留め続けるものだった。
「すまない。それでも愛しているよ」
男は一筋涙を流し、彼の末娘に最後の呪を施す。
それは末娘の存在を否定する、禁呪。
存在を否定された事で、訪れるはずの死を否定し。
呪を施された事でそれは末娘ではなくなると知りながら、男は最後の望みに縋った。
眼が開く。感覚を確かめるようにゆっくりと体を起こし。
虚ろな瞳が男を見つめ、静かに笑みを浮かべた。
「気分はどうだ。不具合はあるか」
「もんだいありません。おこころづかい、ありがとうございます」
男に答えたのは、末娘ではなく。
娘の死は否定され。男の末娘はどこにもいなくなっていた。
そうして季節が一つ巡り。
男と存在しない娘の、奇妙でありながらも穏やかだった生活は、ある日を境に形が変わっていく。
――黒に染まった糸を切り離して呪いに変えたのは、作為のある言葉だった。
男の元に訪れた者は、表面上は取り繕いながらこう告げた。
「村を焼き、あなたの家族を奪ったものを知っている。国のために力を貸してくれるのならば、教えよう」
男にはすでに守るべき者も、愛すべき者もなく。喪った家族の復讐のために、男がその者を受け入れるのは当然の事であった。
国を守るため、柱と依代を用意した。そのために孤独に終わる命を掬い上げ、慈しんで大事に育て上げて。呪を施して、最期を看取った。
掬い上げた子らは男を慕い、それでも男は慈しみこそすれ愛す事は出来なかった。
国に仇なす者を屠るため、呪い巫女を作り上げた。少女達は従順に男に従い、呪いを歌った。
彼女達の事もやはり愛す事は出来なかった。
国のためと呪を施しながら、それでも男は愚かではなかった。
村を焼き、家族を奪ったものが誰の指示に従っていたのか。始めから知り得た上であえて受け入れていた。
最後に何もかもを終わらせるために。
復讐のために、国に従う哀れな男を演じ続けていた。
しかし終わらせるための呪を施した少女は、男の心を揺さぶった。共にいた時間が他の子らよりも長かったためか、それとも少女が末娘に似ていたためか。
愛しい末娘の面影を少女に重ね、それがいつしか少女自身を見るようになり。
終わりが近くなって、男は初めて自身の呪で喪う事を恐怖した。
今残っているのは少女と、存在のない娘。
いつからか男の側におり、施された呪によるものか死ぬ事のない不思議な娘。それならばと柱や形代、呪い巫女の呪を試し、最後の呪の繋ぎに使おうと思っていた娘の元へ早足で向かう。
少女を生かすためには、娘をここから離す必要があった。
娘は多くを語らない。ただ少女には懐き、素を見せる事もあるらしいが、男に対しては従順である事がほとんどであった。
こうして新たに呪を施され、ここから離れろと告げられても、娘は何も言わずに頷いた。
呪を施し終わり、娘はやはり何も言わずに立ち上がる。そのまま外へと向かう娘に、男は反射的にその手を掴んで引き留めた。
きょとん、と幼さの残る顔で娘は男を見つめ。掴まれたままの手を軽く引くと、男は何かを耐えるように唇を噛みしめ、掴んだその細い手首に自身の数珠を巻き付けた。
その理由は男にも分からない。ただこのまま一人で去って行く娘が帰れるようにと願い、その手をそっと離した。
数珠に触れ、男を見て。
娘は静かに微笑んだ。
「行ってきます。――」
柔らかな懐かしい響きを含む声音。
その最後の言葉は聞き取れず。聞き返そうにも、すでに娘は去った後だった。
――呪いとなった絡まる糸は二度と解ける事はないまま。
男の始まりを覚えている者はなく。娘の元の存在を知る者もいない。
唯一、気怠げな緋色の妖だけが。
こうしてすべてを記憶し、物語として語るのみだ。
20240830 『言葉はいらない、ただ・・・』
「ようやく静かになったのに、あれよりも酷いじゃじゃ馬がきたわねぇ。それも呪いの娘なんかを連れてきて」
そう言って緋色の妖は気怠げに煙管をふかし笑う。
突然の訪問者に対し驚きもせず、相手の素性も問わないその様子は、まるで最初からその訪問を知っていたようで。訪れた二人はそれぞれ妖の態度に、あるいはその存在自体に顔を顰めた。
「うわっ、本当にいた。おばあちゃんが言ってた妖」
「失礼な子だこと。訪ねて来たのはあなた達の方だというのに」
失礼だと言いながらも、妖の表情はとても楽しげだ。かつて幾度も妖の元に訪れ物語を強請ったあの子に似た懐かしい気配に、目を細める。
「無駄足ご苦労様。お迎えが来るまで好きにしていればいいわ」
「迎え?…まさか」
表情を険しくする呪いを纏う娘の胸元を指さす。慌てて取り出された呪符は黒く変色し四隅が焦げ、もはや意味をなしていないようであった。
「これって、もうバレてる?」
「だろうね…面倒くさい」
焦りを隠そうともしない子と異なり、娘は随分と落ち着いている。だが溜息を吐きながらも、その瞳には隠しきれない怯えの色が浮かんでいるのを認めて妖は笑みを濃くすると、煙管を仕舞い二人に手を差し出した。
「せっかく来たのだから、少しくらいは付き合ってあげるわ。聞きたい事があるのでしょう?」
警戒する二人を言葉巧みに誘い引き寄せ。緋色の妖は望みを言えと、その鈍色の瞳を弧に歪めた。
言い淀む娘を見て、子は決意を宿した強い眼をして娘よりも前に出る。そして怯えも迷いもなく、高らかに告げた。
「この子に憑いてる変なやつを何とかして」
「ちょっと、何言ってるのさ」
「あと、この子がずっと探してるものを探してあげてよ。何でも知ってるんでしょう?」
遠慮の欠片もない、我が儘にさえ聞こえるその言葉。懐かしいあの子とは正反対の、けれどその実よく似ている本質に、堪らず緋色は声を上げて笑った。
不機嫌に眉間に皺を寄せ、さらに言い募ろうとする子の頭を乱雑に撫ぜて制す。仕方ないわね、と嘯いて、鈍色を煌めかせながら、語る事の出来るただ一つを二人に差し出した。
「あの坊やはどうにも出来ないわよ。その娘にとって必要だもの。探している答えは坊やの眼が視ているのだから、おとなしく待ちなさいな。でもまぁ、坊やはもう覚悟は決めてしまっているようだし、あなたもその答えの対価を差し出す覚悟を決めなさいね」
「対価はもう差し出したと思っていたけど」
「足りないわよ。あなた、何か坊やに言われて行動した事はある?」
首を振り、否定する娘にでしょうね、と頷く。
「最初は釣り合いを探っていただけのようだけど。今は少し意地になっているようね。精々頑張りなさい」
刹那、娘の体が強く背後に引かれ。
振り返る娘の視線が不機嫌な神の姿を捉え、反射的に逃れようとその身が藻掻く。その小さな抵抗すら気に障るのか、舌打ちをすると娘の顎を掴み無理矢理に眼を合わせた。
「零《れい》」
びくりと体が震え、抵抗が止まる。
その余裕のない強引な様に、妖は呆れたように溜息を吐いた。
「可哀想に。落ち着いて、相手の話を聞くのではなかったのかしらねぇ」
「覗き見とは。相変わらず趣味が悪いな、煙々羅よ」
「見られたくないというのなら、煙を立てないことね」
今にも飛びかかりそうな様子の子の口を塞ぎ動きを制しながら、妖は可哀想に、と繰り返す。
焦っている自覚はあるのだろう。忌々しげに顔を歪め妖を睨めつけながらも何も言わぬその様は、余裕がないながらも自制は効いているようだ。
「別に止めやしないけれど、まずは娘の話を聞きなさい。泣かせて後で後悔するのは坊やの方よ」
「分かっておるわ。我とて娘を泣かせるつもりなどない。いちいち気に障る妖よな」
舌打ちし、その視線が子へと移る。険しさを増す瞳から隠すように子を抱き上げると、妖は一言囁いた。
「花が今の坊やを見たら、何を思うのかしらね」
鈍色が揺らめく金を見据え。険しい表情に戸惑いや微かな怯えの色が滲む。
それは親に叱られる前の子供の表情に似て。
逃げるように娘を連れて消えた神に憐れみすら覚えながら、未だ落ち着かぬ子を制していた手を離した。
「何で止めたの!」
「あの娘には必要だったからよ。坊やの眼も、その存在自体も」
「意味が分かんない!あんな変なのが零に必要なわけないじゃない」
納得がいかないと掴みかかる子を宥め、妖は考える。
この子は何も知らない。娘の呪いの事も、神の眼の事も何一つ。
「そうね。あなたにひとつ、お話をあげましょうか。ただ一つの願いのために呪いを抱えて生きてきた、強がりな泣き虫の女の子のお話を」
「っ、それは」
息を呑む。
迷うように視線が揺れ。それは、でも、と誰にでもない呟きが溢れ落ちた。
「知らないままでいたいのならば、静観することね。何も知らないまま手を出そうとするのは、相手の邪魔をするのと同じことよ」
知らないながらも娘の助けになろうとする、その想いは尊いものだ。だが知らぬままでは何も出来はしない。
無知とは時に罪になる事すらあるのだから。
妖の言葉の真意をくみ取ったのだろう。迷いはあるものの、妖を見るその眼は逸らす事なく真っ直ぐで。
「聞かせて。零の事、ちゃんと知りたい。その上であたしに何が出来るのか、考えたいから」
覚悟を決めた強さを含んだ言葉に頷きを返し、緋色の妖は子を膝に乗せた。
懐かしいあの子にしたように、一つの物語を語り出す。
それは遠い昔。一つの誤りを切っ掛けに始まり。
永い旅を続けている一人の少女の、終わりのまだない物語だった。
20240829 『突然の君の訪問。』
絹糸のような細雨が降り続いている。
室内の手入れをしながら雨が止むのを待つが、今日はこのまま降り続けるようだ。
短く息を吐いて立ち上がり、傘を持って外に出た。
参道。手水場。社務所。社。
一通り確認して回る。大分手入れを行ってきたが、長らく人の絶えていた地だ。雨に濡れて腐食した部位から、簡単に崩れ落ちてしまいかねない。
一つ一つ確認していきながら、最後に社の裏へと向かう。その先に佇む藤の木に近づくと、そっとその幹に触れた。
一度は枯れかけたと思わしき、藤。乾いた枝に青々とした葉を茂らせてきてはいるが、それはまだ枝の半数にも満たない。数年は花を咲かす事が出来ないであろう藤に、それでもどうしようもなく心惹かれるのは何故なのか。
枯れかけた藤。死んだ村。
このまま森に淘汰されていくはずの人の絶えた地に、こうして居を構えてから半年過ぎた。時代に取り残された、今の世では不便でしかない暮らしは存外己にあっていたようで、苦ではない事は幸いだった。
何故この地なのか。理由は分からない。だがこの社に辿り着き、その裏の先の藤を見た刹那。帰ってきたのだと、そう確かに感じていた。
この藤に、己は愛されてきた事を知っている。譲れないものがあった。それ以上に強く望み願ったものがあり、そのすべてを藤は見届けてくれていた。戻って来れないと覚悟をし、けれども戻って来た際にはその生を祝福され、誰よりも愛された。
記憶にはない、本能がそれを知っている。だからこそ藤の元で生きたいと強く望み、こうして帰って来たのだと理解している。そしてそれはおそらく己だけではないのだろう。
ここに来てからの今までを思い返し、苦笑する。己が藤の元へ帰って来てから半年。呼応するかの如く、一人また一人と人が集まり、かつて村のあった地にまた住み始めた。お互い知らぬ者同士。されど旧知の仲の如く気が合い、互いに協力しながら生活してきた。
彼女もまた、この藤に惹かれ帰ってきた者の一人だった。
「あぁ、ここにいたの。お客人よ」
「客?珍しいな」
丁度思っていた彼女の声と、客の言葉に振り返る。この藤の元へ来たのだろうか。
見れば、傘を差した彼女の後ろに少女が二人。傘も差さず互いに手を繋ぎ、だがその視線は藤ではなく、その奥の禁足地である山へと向けられていた。
「宮司様。不躾ながらお願い申し上げます。禁足地へ足を踏み入れる無礼をお許しください」
凪いだ眼をした、不思議な気配のする少女は淡々と告げる。その背後で慌てるもう一人の少女とは手を繋いだままであるが、気にかける様子もない。
その慇懃無礼な様子に気圧され理由は問えず、楽しげに様子を伺う彼女にどうするべきかと視線を向けた。
「別にいいじゃない。禁足地だなんて大昔の事だもの」
「そうだな。それに俺は宮司ではない。許可なぞ必要ないだろう」
「ありがとうございます」
礼をしてそのまま山へと向かおうとする少女達を引き留め、己の差していた傘を手渡しながらだが、と忠告をする。
手入れをしていたのは、この藤のある場所までだ。山から先へはこの半年、一切足を踏み入れてはいない。
「人の手が入っていない山の中だ。とても歩ける状態ではないだろう。止めはしないが、気をつけろ」
己の言葉に、少女達は正反対の反応を見せた。後ろにいる少女は困ったような、焦ったような表情をして前にいる手を引く少女を見つめ。前にいた少女はやはり凪いだ眼をして、しかし小さく微笑みを浮かべ、大丈夫と答えた。
「狭間への道は分かります。まだ道は閉ざされていないので、心配しないでください」
囁くような声音は、どこか懐かしさを含み。
一礼して山へと向かうその背を、何を言わずに見送った。
「狭間、か。何だか懐かしい気がするわ」
目を細め、二人が去った方を見る彼女に、そうだなと言葉にはせずに同意した。
ここは懐かしい。そしてとても愛おしいものばかりだ。
村も。社も。藤も。
そして彼女も。
「なあ、鈴音《すずね》」
「なにかしら?」
ふわりと、己を見て微笑う彼女を引き寄せる。急な事に彼女が手放した傘が音もなく地に落ちるのを視線の端で捉えながら、目を閉じた。
「ずっとお前に触れたかったと言ったら、お前は笑うだろうか」
「別に笑ったりなどしないわ。私も望んでいたもの」
雨に濡れるのも構わず胸に擦り寄り、彼女がくすくすと笑う声がする。名の如く鈴の音のようなその声音は、初めて出会った時から何一つ変わらない。
「私もきっと待っていたのよ。白杜《あきと》」
「そうか」
「可笑しなものね。本当に」
笑う彼女の声に、帰って来たのだと実感し笑みが浮かぶ。
雨に濡れながらも、何よりも愛おしい彼女を腕に抱いて、しばらくその幸せを噛みしめていた。
20240828 『雨に佇む』
ひとつひとつ、荷物を箱に詰めていく。
どうして、と何度も繰り返した言葉を呟いて、溜息を吐いた。
箱に収められた私物。本家への集まりのための一時的な滞在であるため、箱一つで事足りる。
そういえば彼女は、旅行など滞在先に多くを持ち込まない性格であったなと思い出す。足りなければ滞在先で調達し、帰りの時には手荷物以外はすべて自宅へと配送する。いつだって身軽な彼女は最後も身一つでいなくなってしまった。
最後に残った文机の脇に置かれた本を手に取る。豪奢な飾りの付いた鍵付きの本は、どうやら日記帳であるらしかった。
時間を見れば、まだあれから一時間も経っていない。彼女もいない。ならば少しくらいのぞき見た所で、誰も怒りはしないだろう。
机の引き出しを開けて、鍵を探す。一番上の引き出しの奥。押し込むようにして入っていた小さな鍵を手に取り、鍵穴に差し込んだ。
――日。
とっても素敵な日記帳を買ったので、今日から日記をつけてみようと思う。
街外れにある、小さなお店。皆は行ってはダメだよと言っていたから内緒で行ってきた。
ドキドキしたけど、特におかしな所はない普通の?というか雑貨屋さん?とにかく私の好みの小物が多くて、勇気を出して行ってみてよかった。なんでダメなんだろう。
ただ店主さんがずっとニヤニヤ笑ってたのが気になった。よそものだから、そういう目で見られるのも分かってはいるけど、見世物みたいで嫌だなあ。
気になるものはたくさんあったけど、次に行くときはこの街に慣れてからにしようかな。
――日。
今日はやけについてない。
逆さまつげが目に入って痛いし、枝毛が何本も見つかるし。それに外に出ようと靴を履いたら中、敷きが裏返しになっていた。誰?いたずらしたの。
何だか体のあちこちも痛いし、今日はおとなしく部屋に籠もっていた。時間がもったいないから、何もしないでいるの好きじゃないんだけど。
明日には良くなりますように。
――日。
体が痛い。
食欲がわかない。食べてもすぐにはいてしまう。
なんで?どうしちゃったの?
あるくのも痛くて足をみたら、つめがうら返しになってた。
なにこれ。どうして。こんな。
――にち。
おかしい。同じ日をくりかえしている。
きのうかいた日にちが、きょうの日にちだ。
ここは、なんか、おかしい。
みぎめがみえなくなって鏡をみたら、目がうらがえしになっていた。
きもちわるい。なんで。
みんなわたしをみている。わたしをみて、わたしのはなしをしている。
やめて。わたしをみないで。
――にち。
いたい。きもちわるい。
みんながへん。わたしとわたしのにっきちょうだけがせいじょうだ。
あしたがこない。
みないで。
――。
いたい。くるしい。
みんな、
みるの、
いやだ。
くがねさま、がすくって、くれる。
――――行かないと。
あぁ、と声にならない呻きが漏れる。
これ以上見ていられなく、日記帳を閉じると箱へ投げ入れた。
自業自得だ。この街の禁忌を犯したのだから、こうなるのは仕方がない。
あれほど駄目だと言い聞かせたはずなのに、と今更な事を思ったところで彼女はもうどこにもいない。
この街は異常だ。
触れてはいけない多くの禁忌。本家の離れにいる化生の引き起こす空間の歪み。
化生――クガネ。
彼女に話した事はなかったが、日記に書かれていたのはまちがいなく離れの化け物だ。
古い記録では、本家の当主と契約し守り神としていたというが、今のあれにその面影は欠片もない。
ただ離れの奥の部屋に隠り、時折呪われた者を呼び寄せてその存在を消す危険な存在。
そんな化け物に呪われた彼女が呼ばれ、姿を消した。それは彼女が戻らず、誰の記憶からも無くなるという事を意味している。唯一残るのは、この本家で記された記録だけだろう。
きっと近い内に自分の記憶の中からも、彼女は何一つ残さず消えていくのだ。
ゆるく頭を振り、箱を持って立ち上がる。
そろそろ行かなければ、庭では今頃皆が火を焚いて待っているはず。
部屋を見回し、彼女の私物が残っていないか確認する。これからすべて燃やすのに残っていては二度手間だ。
何も残っていない室内を見て、部屋を出る。
彼女の私物を燃やした後もやる事はある。自宅の荷物の処分。引っ越しの手続き。それらは業者に任せるとしようか。
彼女がクガネに喰われたのだから、きっと明日は来る。それに今後十年近くはこの忌々しい狂った繰り返す日を迎えずにすむだろう。しばらくは本家にやっかいになろうか。仕事もすでに退職届を受理してもらい、有休消化中だ。あちらに戻らなければいけない理由はない。
明日からの事を考えて、口角が歪む。
ありがとう、と口から溢れたのは、彼女への別離の言葉ではなく、感謝の言葉だった。
20240827 『私の日記帳』
「おじさんっ!」
険しい表情をして早足で近づく少女に、叔父と呼ばれた赤ら顔の男は手酌を止めて振り向いた。
随分と余裕がなく忙しない。その様子に内心で疑問を持つが、彼女に手を繋がれている少女を認め、納得する。ここに来た時、少女に纏わり付いていた強い気配がない。切っ掛けは分からないが、どうやら一時的に離す事には成功したらしい。
「隠すやつか切るやつがほしいんだけど。どこにあるの?」
「は?あれは切れんだろうがよ、どうみても。隠すのも無駄だとは思うが…まあ、切るよりはマシか」
相変わらず向こう見ずな所が強い姪である。だがしかし今の閉じられたこの空間内では、普段抑えている本質が表に強く表れやすいため仕方がない事だと、男は苦笑した。
頭をかきながらゆらりと立ち上がると、棚の奥から古びた鍵を一つ取り出し、姪へと手渡す。
「離れんとこの奥。水鏡の間の押し入れに残ってるだろ。クガネ様には気をつけろよ」
「分かってる。ありがと」
来た時と同じように慌ただしく去って行く二人の背を見送り、男はやれやれと肩を竦めた。彼女の無謀とも言える行動力は疎遠になってしまった男の妹である、彼女の母を思わせる。
彼女の友だという、異端な空気を纏う少女に悪い影響がなければいいと、詮無き事を思いながら残りの酒を一気に煽った。
「よりにもよって離れか。やっかいだな」
舌打ちし、さらに歩く速度を上げる友に手を引かれながら、少女は少しでも自分の置かれている状況を知ろうと声をかける。
「ちょっ、と、待って。何が、なんだか」
「詳しくは後でね。時間がないだろうし」
振り返りもせずに後でと告げる友に、さらに困惑しながらもそれ以上は何も言わず。彼女がこんなにも急くのは、おそらく少女に纏わり付いていたなにかが戻ってくると知ったからなのだろう。
母屋の奥へと辿り着き、重厚な造りの扉を開ける。ぎぃ、と軋んだ音を立て見えた先は、母屋と異なり薄暗く、普段から人の出入りがほとんどない事を示していた。
「大丈夫だとは思うけれど、一応忠告。ここから先で、もし誰かに会っても眼を合わせない、口をきかない。出来るならこの離れでは声を上げないで」
何があるか分からないから、と呟く友のその表情は硬い。それはこの先から聞こえてくる声に関係があるのか問おうとして、結局は何も言えずに口を噤んだ。
薄暗い廊下を、迷いなく奥へと歩いていく。
隠すもの。水鏡の間。クガネ様。
何一つ分からないまま、流されるようにしてここまで来た。常であれば納得するまで友を問い詰めていたであろう少女はしかし、瞳に困惑と不安を乗せ、なされるがままだ。
心の底。冷静な部分が何かがおかしいと警鐘を鳴らしている。幾重にも膜を張って覆い隠してきた柔い部分を暴き立てられているような感覚に、くらり、と目眩がしそうだった。
不意に、友の足が止まる。
だが目的地に辿り着いたようではないようだ。立ち止まる友の背越しに前を見遣る。廊下の先、袋小路に人の形をしたなにかが立ち尽くしていた。
前を見据えたまま、動揺したように友は一歩後退る。
「なんで…どうして、クガネ様が外に出てきているの?」
ぽつり、と小さく呟かれた言葉。離れてはいてもその声は聞こえたらしい。袋小路に佇むなにかはゆらり、とこちらを振り向き、酷く緩慢な動きで近づいてきた。
繋いでいる手に力が籠もる。戻る事も進む事も出来ずなにかが近づくのを見ていたが、様子がおかしい事に気づく。
地を擦る歩き方。彷徨う手。近づかれる事で見えた白濁した瞳。
見えていない。ならば、と繋いでいる手を引き友と廊下の端に寄った。
「……ろ…か、り…」
酷くざらついた声が、繰り返し誰かの名を呼んでいる。漆黒の長い髪を、擦り切れ汚れた元は白かったであろう着物の裾を引きずりながら、誰かを求めて彷徨っている。
探している。あれからずっと。永い間、一人きりで。
呼んでいる。行かなければ。
手を引かれた。
視線を向ければ、険しい顔をした友の姿。もう一つの手も取られ、向かい合わせの形を取る。
なにかがさらに近づくが、二人は無言でただお互いの目を見つめ。意識が引きずられる事がないように強く手を繋ぎ、なにかが通り過ぎるのを待った。
「ふじしろ。かがり」
近くで聞こえる声。立ち止まる気配。
沈黙。無音。静寂。
布ずれの音。通り過ぎていく気配。
息を殺して、ただ音が消えるのを待つ。手は離さず、向かい合わせのまま。
音が過ぎ、ゆっくりと片手だけを離す。もう片方は繋いだまま。
音を立てぬよう静かに歩きながら、袋小路へと向かう。
左右の障子戸には目もくれず、正面の木戸に鍵を差し込む。
かちり、と小さな音を立てて開いた戸を引き、急いで木戸の中へと入り込んだ。
「ごめん。声出しちゃった」
「ううん。逆にありがとう。危なく引きずられる所だった」
友の謝罪を礼で返す。お互い深く息を吐いて、緊張が少しだけ和らいだのを感じた。
「あれはクガネ様。元は本家の守り神みたいだったらしいけど、今はここで一番のやばいやつ。この裏の日も、クガネ様が引き起こしてるってさ…普段は右の部屋に籠もって出てこないんだけどね」
なんでだろう、と首を傾げ。さぁ、と答える少女の意識の片隅で、数日前の泣いている少年の声を思った。
「まあいいや。さっさと札を取ってこのまま出ようか」
小さく笑って押し入れへと向かう。六畳ほどの和室には何もなく、友が求めているものが本当にここにあるのか疑問に思いつつ、友の後を追った。
20240826 『向かい合わせ』