sairo

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8/25/2024, 2:06:41 AM

海を見下ろしていた。
その虚ろな瞳には、何の感情も浮かばず。表情もなく、ただ海を見下ろし打ち寄せては砕ける白い波の音を聞いている。

一歩足が進む。不安定な足場であるにも関わらず、その足が竦む事も恐怖で顔が歪む様子もない。視線は海へと注がれたまま、足だけが前へと進んだ。

落ちてしまう。暫くすれば進む足が宙をかき、逆らう事も出来ないままに体は海へと沈む。沈んだ体は波に打たれて肉を削ぎ、瞬く間に骨をさらすのだろう。そして削がれた肉は海へと還り、新たな命の糧となるのか。


ひょう、と音がした。うねり響く風の音がどこからか聞こえている。
近くの海蝕洞が鳴いているのか。岩壁を打つ波とは異なる、反響した波の音が微かに鼓膜を揺らした。

動きが止まる。海まであと数歩。
虚ろな瞳が瞬き、僅かに光が灯る。己の置かれている状況を認識しようと視線が彷徨い、眼下に広がる海の碧と波の白を認め。
その表情が恐怖に彩られる。

打ち寄せる波に混じり、無数の腕が手を伸ばしていた。おいでおいでと手招いて、岩壁の上から墜ちる命を待っている。
呼んでいる。遍く命を海へと還すために。あるいは生を羨む亡者が道連れを求めて呼び続けているのか。

ひょう、と再び風が鳴く。
波の音を含むうねりが鼓膜を揺らし、脳を揺さぶる。僅かに灯る光はそのままに、体の自由だけを奪い去っていく。
気づけば音は風や波の音ではなく、呪詛を吐く亡者の声へ成り代わっていた。

恨み辛みを吐く声に導かれ、足が海へと進み。逆らえぬ恐怖に、迫り来る絶望にただ涙を流し続けた。
また一歩。海が近くなり。


「あぁ、そのまま海へと墜ちるのね。可哀想に」

耳元に直接囁きかけられた女の声に、劈く絶叫が辺りを震わせた。




泣きまろび去って行くその背を見送りながら、磯の香りのする女は途方に暮れる。
声をかけただけだった。海蝕洞に溜まった澱みに誘われ海へと向かう人の子に、墜ちてしまうと声をかけた。
それだけであったのに、他の何よりも怯え逃げていくなんて。

はぁ、と息を漏らし、踵を返した。
人の子もいなくなってしまった事であるし、これ以上ここにいても仕方がない。

ひょう、と鳴く海蝕洞の声が聞こえ、振り返る。
邪魔をするなと言いたげな、ざらりと粘つき澱んだ風が頬や首を撫ぜていく。五月蠅い雑音に顔を顰め、文句の一つでも言ってやろうかと口を開く。
だが女の唇から言葉が溢れ出すより早く、鳴く声は断末魔の絶叫へと変わる。

逃げ惑い、許しを請う声。恨み憎む声。悲鳴。


無音。

はて、と首を傾げて海へと近づく。
見下ろせば先ほどまで無数に手招いていた腕は一つも見えず。ただ繰り返す波の音だけが聞こえていた。

少し考え、あぁ、と声が漏れる。
そういえば今は、常世のモノが来ていたはずだった。

ここらにある、いくつかの海蝕洞に溜まったものでも回収に来たのだろう。
暫く前から洞内に入り込む波に乗り、海から来たものや海へといくものが混じり合って、大層な澱みを形成していたようであった。そこに混じり出れなくなった魂魄でもあったのだろう。ただでさえ人の子を惑わすほどの澱みだ。先ほどの人の子は本当に運が良かった。

もう一度、海を見下ろす。
亡者の腕はない。呪詛を吐く声もない。
そもそもあれは本当に亡者のものであったのか、それとも人の子の恐れ畏怖する想いが生み出したものか、女には判断が出来ないが。

ほぅ、と息を吐く。
何だかすごく疲れてしまった。気まぐれで人の子に声をかけては怯えられ、澱む声には恨まれて。
あげくに耳障りな断末魔を聞かされるなんて。

思い出して、すべてが面倒になってしまった。
帰るために元来た道を歩くのも億劫だ。幸いもう海には腕も声もいない。

海へと足を進める。迷う事なく、臆する事もなく。
進んだ足が、宙をかき。


女はそのまま、抗う様子もなく海へと落ちた。



20240824 『海へ』

8/23/2024, 9:51:34 PM

「ごめんね。こうなるとはさすがに思ってなかった」

突然の少女の謝罪の言葉に、少女の友は困惑に目を瞬かせた。

「え、と。どういう意味?」
「いろいろ。巻き込んだ事。守れなかった事。逃げられた事」

指折り数えて挙げられていくいくつかに、さらに困惑した表情が浮かぶ。そのほとんどが、身に覚えのないものだ。僅かに覚えのある事でも、逆に心当たりが多すぎてどれを指しているのかは分からない。
そんな友人の表情を見て、少女はごめんねと繰り返した。

「ここに来て最初に『ころも様』を一緒にしたいって言った事覚えてる?ほら、従兄弟の自転車の話のやつ」

少女の言葉に頷いて肯定を示す。僅かに眉根を寄せ嫌そうにするのは、自転車の状態やその後に訪れた事故現場である坂へと赴いたからなのか。その内心は少女には察する事は出来ない。

「やらないって言われるとは思っていたし、あたしもやるつもりはなかった。ただ少しだけでも揺さぶりをかけられたらなって思ってたんだよ」
「揺さぶり?」
「そ。クラスで『ころも様』をやった子たちに巻き込まれた後からずっと付き纏ってる変なやつに」

彼女の背後を指させば、驚きに息を呑む音が聞こえた。気づかれてはいないと思っていたのだろう。普通に接しているだけでは、分からないものだ。だが親友として常に側にいる少女には、その違和感を最初から感じていた。

「あたしはそういうのはまったく分からないからさ。従兄弟の事故をダシにしてのお泊まり会で、それがどういうものか分かればって思って。んで、もしもヤなものだったら、ここに置いていっちゃおって考えてた」
「え、何それ。初耳」
「だって言ったら警戒されちゃうだろうし、ここにも来なかったでしょ?」

確かに、と納得する友人に少女は笑いかけ。しかしその表情は次の瞬間には苦々しいものへと変化する。

「でも失敗した。逃げられるなんて…様子見なんてするんじゃなかった。ごめん」
「大、丈夫、だよ?逃げたとかじゃないから。うん」

歯切れの悪い様子に、少女の表情は険しいものになる。どうやら嘘は言っていないようではあるが、すべてを語っているわけでもないようだ。

「それよりも、ここに置いていくってどういう事?ここは一体何?」

話を逸らされた、とは思うが、彼女の疑問はもっともである。何一つ話さずに、騙すような形で連れて来たのだから知りたいと思うのは当然の事だろう。
正しくは分からないから話せないけれど、と前置きして、少女は語る。

「ここはね。説明出来ないなにかが至る所にいるんだよ。人を隠す屋敷。体が裏返る店。存在を奪われる神社。化かされ惑う坂道。魂が入れ替わる奥座敷…挙げれば切りがない」

非日常が常であり、逆に日常的なものを探す方が難しいくらいだ。

「場所が悪いのか。本家…あたしのママの実家なんだけどね。そこが大昔に何かやらかしたのか。とにかく変なものがどこにでもいるような場所。だから今更変なのが増えた所で変わらないかなって思ってたんだ」
「そんな犬猫じゃないんだから…出来るわけがないよ」

呆れを滲ませて嘆息する友人に、少女は小さく笑みを浮かべた。
この場所を知っても怯える様子がない事に、密かに安堵する。嫌われてしまうかもとは一応覚悟をしていたが、どうやら一番の最悪は避けられたらしい。

「計画ではこの裏の日に置いていくつもりだったんだけどね」
「裏の日?」
「今同じ日を繰り返しているでしょ?同じ日が続いて段々といろんなものが裏返っていくから、裏の日。本家の敷地内であれば、影響は少ないけど」

窓を見る。カーテンで見えない外は、おそらく悲惨な光景が広がっているのだろう。
捻じれた道路。縦に裂け幹が剥き出しの木。外に開いた家。醜悪な見目の肉の塊。地を這い呻く亡者。
裏返るのは形あるものだけではない。人の精神にも影響を与え、今まで隠してきた内を暴きたてる。

視線を友人へと戻す。目を伏せ何かに耐えるように唇を噛む彼女は、普段とは違いとても弱々しい。屋敷にいれど、幾分かは裏返りの影響を受けてしまう。きっとこれが本当の彼女なのだと思うと胸が痛んだ。

「いなくなる前にあれに何か言われた?」
「…繰り返す日の中で、戻るまではおとなしくしてろって」

ぽつりと呟かれる言葉に、なるほどと頷く。ということはあれは近い内に戻ってくるという事だ。繰り返し続けて閉じるこの地に、入り込めるほどの強さを持つという意味でもある。
想像していたよりもやっかいな相手に、内心で舌打ちした。

「一応聞くけど、あれの言う事を聞いておとなしくしている?それとも裏の日から抜け出して帰る?」
「出れるの?」
「そりゃあ毎年来ているからね。まあ何もしなくても本家の人たちが戻してくれるから、あまり使う事がないけど」

選択に迷う友人に、手を差し伸べる。

「詳しくは知らないし、無理矢理聞き出す事もしないけど。目的があるんでしょ?ここを出ても一日しか経ってないけどさ。あれの言う事を聞いて、やりたい事は出来るの?」

迷う眼が揺れる。涙の薄い膜が張られていくのを見て、この子の本当は強がる泣き虫なんだ、と学校では知る事が出来ないはずの本質を垣間見て、少しだけ後悔した。

「でも神様が」
「あれは関係ない。あたしは零《れい》に…あたしの親友に聞いているの!」

びくりと肩を震わせる、まるで幼い子供のような友人を少女は強い眼差しで射抜く。差し出していた手で彼女の左手を掴んで引いた。

「えっ。ちょっ、と」
「行くよ。ほらぐずぐずしない」

友人の手を掴んだまま、少女は部屋を出て歩き出す。掴んだ左手が控えめに引かれたが、気にしている余裕はなかった。
猪突猛進。勇往邁進。成長し、幾分か落ち着いてきたとはいえ、本質はそう変わりはしない。

繰り返しの日々を抜け出して、それから何をするのか。明日《さき》の事は何も考えず、ただ今日《いま》を抜け出すためにひたすら突き進んだ。



20240823 『裏返し』

8/22/2024, 2:55:49 PM

窓辺に座り、空を見上げる。
久しぶりの雲一つない快晴。空の向こう、遠くに飛ぶ鳥の影を見つけ、目を細めた。

あの鳥のように、空を飛べたのならば。
そんな意味のない夢物語を考える。
そうすればすべてから逃げられるだろうか。家族からも、過去からも、逃げて忘れられるのか。
馬鹿馬鹿しいと苦笑する。逃げた所でどこへ行くのか。そもそも逃げたいとも思っていないくせに。

どうしたの?
あまり外を見てはいけないわ。こちらにいらっしゃい。

部屋に施された術によって形を持った影達が手を引いた。
もう少しだけとも思うが、影達を不安がらせては彼を呼ばれてしまいかねない。手を引かれるままに窓から離れ、ベッドへと戻される。

過保護だな、とぼんやり思う。いくら外に惹かれても、私一人では外には出られないというのに。
いつもより長い病院生活の後、退院先は自宅ではなく住職の住むこの屋敷の見慣れた一室だった。両親は、特に父はよほど住職の事を信頼しているらしい。仕事で家を空ける事が多いのも、その理由の一つではあるのだろう。発作や普段とは違う何かが起きる度両親に連れられ預けられて、最近では家にいるよりも長くこの部屋にいる気もする。

無理をするものではないわ。休む事も大切よ。
大丈夫。眠っている間はずっと手を繋いでいてあげるからね。

「まだ眠くはないよ」

太陽は高く、夜は遠い。それに少し前に起きたばかりだと伝えれば、影達は納得したように頷いた。
それならばと、サイドテーブルを引き寄せてお茶の用意をし始めるその様子に、やはり過保護だなと笑った。



小腹が満たされれば、眠気は訪れるものらしい。
うとうととする意識の中。窓から見える空を、高く飛ぶ鳥を思い描く。
鳥のように空を飛べたら。空を飛んで私はどこへ行きたいのだろう。
誰も私を知らない遠くの場所か。見た事もない世界か。
それとも時間さえも飛び越えて、あの日の皆に会いに行きたいのか。

眠いの?
夕餉まではまだ時間もあるし、眠ってしまいなさいな。

優しく頭を撫でられて、さらに意識が遠くなる。
少しだけ眠ってしまおうか、と。思う端から意識が途切れて落ちた。



懐かしい夕暮れ時の夢を見た。
あの子と二人きり。他の皆はすでに戻っているのだろう。
膝を抱えて泣きじゃくる彼女の背中をさすり、落ち着くまでただ待ち続ける。

泣き虫な子だった。臆病で独りを怖がるような。それでいて一度決めた事は何があっても貫き通す強さを持ち、自分自身よりも誰かを優先する心の優しい子。
そうだ。別れを悲しんで、皆が傷つく事に怯えて泣くこの子をいつも慰めていたのは、私だったはずなのに。

「ごめんなさい。ごめんなさいっ」

泣きながら誤り続ける彼女に何を言えばいいのだろう。触れている背中は冷たく、凍えてしまいそうだ。

「隠していてごめんなさい。弱くて悪い子でごめんなさい。置いていかないで。ちゃんといい子にするから。もっと強くなるから。だから置いていかないで」

また怪我をして、それを隠しでもしていたのか。この子はいつもそうだ。隠して、一人傷ついて。
皆の怒りは心配から来るものだという事に、この子はずっと気づけなかった。
怪我の程度を見ようかと、背中から手を離して腕に触れる。やはりとても冷えている、と触れた腕を引き。

ぐにゃり、とした感触に、思わず掴んだ手を離した。

「ごめんなさい」

いつの間にか泣き止んでいた彼女がゆらり、と立ち上がる。逆行のせいか、顔が見えない。

「欠片でも覚えていてくれて、ありがとう。でも忘れていて。誰も思い出さなくていい」

黒い影となって見えないはずの顔が、笑っているように見えた。

「行って。皆の所へ。夕暮れは、ここに全部置いていってね」

何を言っているのだろう。置いていかないでと泣いていたのは、この子の方なのに。

引き留めるために手を伸ばす。けれどもそれを避ける様に、後ろに下がる彼女には届かない。
待って、と言いかけ、続く言葉を無くして怖くなった。

この子の名が思い出せない。
顔が、姿が。聞いていたはずの声ですら、夕暮れに解けて消えていく。


また一人ぼっちにしてしまうのか。

精一杯の強がりで笑う彼女に、どうして、と呟いた。



気づけば夕暮れ時。

オレンジ色に染まる空に惹かれ、ベッドから出て窓に近寄った。
カラスの鳴く声が聞こえる。遠くの空に鳥の飛ぶ姿を見つけ、目を細める。

懐かしい夢を見た気がする。
同じような夕暮れの空の下で。カラスの声を聞きながら、帰らなければと思っていたような。

手を繋いで、一緒に。

それは形代の誰かだったのか。それとも影達なのか。
夢の内容は酷く曖昧だ。

おはよう。よく眠っていたね。
そろそろ夕餉の時間よ。準備をしましょうね。

声に頷いて、窓から離れる。
一度だけ振り返り、見えなくなった鳥の影を探す。

鳥のように空を飛べたのならば、会いに行けるのに。
そうぼんやりと思い、まだ夢うつつにいる事に苦笑した。



20240822 『鳥のように』

8/21/2024, 2:12:11 PM

目を開けると、懐かしい寺院の前に立っていた。

「やあ、こんばんは」

濡れ縁に座る、自分と同じ姿をしたなにかがこちらに向けて手を振った。
それはいつかの終点駅にいたあの不快ななにかだと気づき、眉根が寄る。

「神様」
「いないよ。ここはキミの夢の中だから」

夢。
眠れたのかと、他人事のように呟く。その言葉に目の前のなにかは、一瞬だけ傷ついた表情をしたように見えた。

「うん。夢を見てくれたから、ようやく会えた。少し話がしたかったんだ」

笑みを浮かべるなにかに、言葉を返す事はせずに辺りを見回す。
忘れられない景色だ。人だった頃に過ごした場所。
小さいながらも綺麗に整えられた寺院。白く整えられた石畳の参道。青々と茂る木々。
左手首を摩れば、今は無いはずの数珠が手に触れた。

ここが夢の世界だとしたら、何て滑稽なのだろうか。

「確認するけど、ここに神様は来ない?」
「来れないと思うな。よほど強く繋がっていない限りは」
「あなたは夢の中での事に影響を受ける?」
「受けた事はないよ。絶対とは言い切れないけれど」

質問の答えに、内心で良かったと安堵する。
少しくらいならば、気を抜いても問題ないようだ。

「後、もう一つ」

何、と首を傾げるなにかを見据え、口元だけで笑みを形作り。

「椿の在り方を歪めようとしたのは、あなた?」

最後の質問と共に、胎に溜め込んでいる呪を押さえる事を止めた。


「っ、なに、これ」

怯えたように後退る。だが本人の言うように、見る限りでは障りはないようだ。
自分と同じ顔が呪に恐怖する様はとても皮肉だと、耐えきれずに嗤う。

改めて辺りを見渡せば、そこに先ほどの面影は何一つなく。
方々が崩れ落ちた破れ寺。ひび割れ黒く染まった石畳。腐り枯れた木々。
暗がりから地面の下から響く、怨嗟の声。

一変した光景に、こちらの方がしっくりくると頷いた。

「アァ、スマナイネ。少シ気ガ緩ンデシマッタヨウダ」

くすくすと嗤い、少しだけ呪を押さえ込む。まだ愉しんでもよかったが、目の前のなにかは話がしたいと言った。聞いてあげるくらいはしてもいいだろう。
目線だけで話を促す。何故か痛ましい眼をするなにかが酷く不愉快だった。

「椿の事はごめんなさい。最初は知らなかったんだ。ただの化生だと思っていたから」

傍から見れば穢れた椿の化生に見えるのだろう。それは仕方がない事だ。椿の在り方を知らぬものには、その身の穢れが自らが生み出したものか、溜めたものかの判別など出来るわけがない。

水を与えなければ椿に殺される。
なにかの広めようとした噂は、件の行方不明となっていた生徒が戻ってきた事で噂でしかなくなった。しばらくすれば立ち消えるだろう。
謝罪をされたという事はこれ以上椿に関わりはしないという事だ。これ以上は掘り返して責める必要はないと、話を切り上げるため声をかける。

「そレで?話ハおしマイ?」

緩く首を振られる。分かってはいたが、と溜息を吐きだした。
相変わらずその眼は哀しみを浮かべ、気分が悪い。

「キミに食べてほしいモノがあるんだ。人間が成ってしまった妖を取り込んでほしい。その妖がいる事で生き難い子がいるんだ」
「狂骨の事?」

驚きに目が見開かれる。僅かに期待をその眼に浮かべるなにかに、けれど駄目だと首を振った。

「狂骨を喰らウ事は出来ル。でモ出来ナイ」
「何それ?意味が分からないよ」

困惑し歪む顔に、自分はこんな顔も出来るのか、と場違いな事を考える。
同じ顔でも中身が違うのだから、実際に自分には出来ないだろうけれども。

「狂骨を喰らエバ彼女も消エる。根が枯レれバ花モ枯れルノと同じヨウに。狂骨と彼女ハ元は一つなノだカラ、切り離ス事は出来ナい」

正確には狂骨の一部が彼女だ。だからたとえ彼女が死んだとして、おそらく狂骨には影響はなく。逆に狂骨が消えれば、一部である彼女も消えてしまう。

「あナタが彼女をどウしたイノか分かラないけレど、彼女を人トして残セる術がナイ限りハ狂骨を喰ラウ事はしなイよ」

それだけは譲れない、と真正面から睨めつける。

「そうだね。彼女が消えてしまっては、望みに応えられなくなってしまうから、それは避けたいな」

ゆるりと首を振り、なにかは苦笑する。
どうやら誰か、人の望みに応えるために動いていたようだ。いつか離れた場所で見た、彼女とその隣にいた少女の姿が思い浮かぶ。

「古くから関わってきた人間の子がいるんだけれどね。その子がさよならを言う前に、一つだけ望まれたんだ。あの子にはそんな気はなかったのだろうけれど、最後に一つくらいは応えてあげたかったんだ」

張り切りすぎて突っ走ってしまったみたい、となにかは恥ずかしそうに少しだけ俯いた。

「ありがとう。どうするべきか分かっただけでも、キミと話せて良かったよ」

微笑んで、なにかの姿がゆらりと揺らめき、幼さの抜けない少女の姿へと変わる。
帰るのかと、それならばそろそろ起きなければと目を閉じて。

「最後に一つ聞いてもいいかな?」
「ナニ」

少女の問いかけに、目を開けた。

「キミは何故、彼女を人として生かそうとするの?」

息を呑む。
答える必要はない。けれど、と躊躇し、結局はどうしてだろう、と嘯いた。


少女の姿がかき消えて、一人きり。
誰もいなくなってようやく、言えなかった理由を誰にでもなく呟いた。

「今度こそサヨウナラを言いたかったから」

たとえ彼女達の中にもう、自分という存在がなかったとしても。

「だから、」
「己を犠牲にする事すら厭わぬと?」

続く言葉は、けれども背後から伸びる手に塞がれて声にはならず。

何故、と疑問ばかりが浮かぶ。ここには来られないのではなかったのかと焦りが生じ。
目の前の光景を、今の自分の姿を見られている事が、ただ怖かった。

「よもやこれほどまでとは思わなんだ。末恐ろしい娘よ」

破れ寺を見据え、浮かべる笑みも紡がれる言葉も酷く凍てついて。

「先が視えぬわけだ。人の身に、この呪や穢れは重すぎる」

口を塞がれたまま、無理矢理に眼を合わせられる。揺らめく金の瞳の中に怯えた顔の自分を認め、目を閉じる事で逃げ出した。

「零《れい》。目が覚めれば同じ日を繰り返す。終わらぬ仮初めの永遠の中で、しばらくはおとなしくしていろ」

それはどういう意味だろうか。
おとなしくなどしていられない事は、分かっているだろうに。

「人として戻せぬのならば、在り方を変える。この俺を謀ったのだから覚悟を決める事だ」

吐き捨てられた言葉を最後に意識が浮上する。
逆らう事は出来ない。意識が浮上するのに合わせて、溜め込んだ呪が押さえられていくのを感じた。


「俺が戻るまで、せいぜいいい子にしている事だな」

最後まで冷たい響きを持つその声に、一筋涙が零れた。



20240821 『さよならを言う前に』

8/20/2024, 1:20:07 PM

寂れた社の屋根の上に寝そべり、空を見る。
このまま晴れ渡るのか、それとも雨が降るのか。
青に混じる雲の白は随分と中途半端だ。

猫には雨を読む事など出来はしない。それは子らの領分であった。離れて久しい二人を想い、目を細める。
一人になっても猫は気の向くまま。好きな所へ行き、好きなものを食べ、好きな事をしていた。
遠く海の見える街で昼寝をし、山奥で化生を追いかけ回した事もあった。
だがいつしか子らと共に訪れた場所を辿るようになり、記憶をなぞるように動いて。

結局は、この地に戻ってきた。

猫とは、自由を愛するモノだ。
それは変わらない。子を持とうと、その本質は変わりようがない。
だが同時に、

猫とは、どうしようもなく寂しがりなモノでもあった。


のそり、と起き上がり、音もなく地に降り立つ。誰もいない社の裏へと歩き出し、その先にある一本の藤の木にすり寄った。

「藤。雨が降るかもしれないよ。恵みの雨となればいいな」

藤は答えない。
村が『死んで』藤が枯れてから、たくさんの季節が過ぎた。常世の藤は再び花を咲かせているのだというが、現世の藤はまだ花が咲く事はない。

「藤。どうやら猫には、オヤは向いてなかったようだ」

藤に体を擦り付け、その場で丸くなる。雨が降るかは分からない。たとえ降ったとしても、その時は社へと走ればいいだろう。
だから今は。少しだけでいいから。

誰かの側にいたかった。



懐かしい、匂いがした。
ざり、とわざと土を踏み締め、二つの気配が近づく。

「猫」

共にいた時には聞く事のなかった、冷たい響きを含んだ声が猫を呼んだ。
それは怒りか、はたまた憎しみか。
猫には感情の機微など分かりはしない。だが分からないなりに考え、不安になった。
猫は蜘蛛の二人のオヤにはなれていなかったのではないか、と。

「猫はちゃんとオヤができていたか?銅藍《どうらん》も瑪瑙《めのう》もイチニンマエになったか?」

猫の問いに蜘蛛は答えない。猫もそれ以上何も言わず、丸くなったまま蜘蛛を見る事はない。

沈黙。誰も動かず。何も言わず。
言うべき言葉を探し、結局は何も思い浮かばずに。

先に口を開いたのは蜘蛛の方だった。

「猫は親だったよ。だからこそ今も妖として在る事が出来る」
「だがそれだけだ。親として在り方を教えはしたが、情を与えてはくれなかった。正しく親は出来ていなかったな」

情とは何だろうか。猫は考える。蜘蛛の求める情を猫は与える事が出来ないのか。
考えて、悩んで。それでも何一つ思いつかず。
それならと考えるのを止めた。

猫は難しい事は分からない。
分からないならば仕方がないと開き直り、猫は頭を上げてようやく蜘蛛を見た。
随分と険しい顔をしているが、それでも二人の姿を認めて嬉しさで目を細める。
なぁ、と知らず甘える声が溢れた。

「猫はたくさん考えたが、銅藍の言う情は分からない。分からないから、猫には与える事が出来ないよ」
「猫」
「猫はやはりオヤには向かないな。子はイチニンマエになったら離れていくのに、子離れをしなくてはならないのに、それがたまらなく寂しいよ。離れたくないんだ。どうしたらいいのだろうな」

体を起こして蜘蛛を見据え、背筋を伸ばして座る。猫から近づく事はない。いつだって手を差し伸べ呼ぶのは、蜘蛛なのだから。

息を呑み、何かに耐えるように唇を噛みしめて。
険しい顔の二人の蜘蛛は、困ったように笑い、疲れたように深く息を吐いた。

「ったく、何だ。何なんだまったく!ここに来てそれとか、ありえねぇだろうが!」
「仕方ないよ。だって猫だもの。今までもそうだったじゃあないか」

それぞれ異なる反応をしているが、先ほどまでの険しい空気はなくなっている。
猫には理由は分からないが以前の二人がいた頃の空気を感じ取り、懐かしさからゆるりと尾が揺れた。
それに気づいて、蜘蛛は柔らかく笑むと猫に向けて手を差し出す。

「猫。おいで」

甘く優しい声。尾を立てて近寄れば、頭を撫で抱き上げられた。それだけで機嫌良く喉が鳴るのを止める事が出来ない。

「猫はもう親にならなくてもいいよ。代わりに僕達に飼われてくれないかい?」
「猫を?飼うのか?」

きょとり、と目を瞬かせ。蜘蛛の言葉を繰り返す。

「そうか。飼われれば一緒にいてもいいのか。その手があったのを忘れていた」
「嫌じゃないんだ。もっと早く言えばよかったね」

まったくだ、と隣で疲れた顔をしている蜘蛛に、猫も同じようにまったくだ、と頷いた。
もっと早く、出来れば別れる前に伝えてくれたのならば、こんな寂しい思いはしなかったというのに。
猫の内心の不満を悟り複雑な顔をする蜘蛛は、けれども何も言わず。猫の察しの悪さは、共にいた頃から変わらないのだ。

「それなら猫の首輪と名前を用意しないといけないぞ。真鍮の鈴と、紐は二人が編んでくれ」
「めんどくせぇな。何でもいいじゃねぇか」
「真鍮でなければ駄目なの?」

蜘蛛の問いに猫は少し考え、頷いた。

「真鍮がいいな。銀も悪くないが、やはり真鍮だ。猫はそうあるべきだ」

その理由は猫ですら分からない。なんとなくというのが、猫の答えである。

「分かった。猫に合う鈴を探しに行こうか」
「しゃあねぇな。ほら、とっとと行くぞ」

蜘蛛に抱かれたまま、猫は満足げに喉を鳴らす。こうして蜘蛛に抱かれ、頭を撫でられながら移動するのも悪くはない。

ふと空を見上げ。変わらず中途半端な空模様に、猫は蜘蛛に問いかけた。

「瑪瑙。雨は降るのか」
「ん?まだ降らないよ。雨は明日だね」

つい、と空を見、雨を読む蜘蛛に、なるほどと猫は感心する。

「さすがだな。猫にはさっぱりだ」
「これくらいはね。出来て当然だから」

苦笑する蜘蛛に、それでもすごいと猫は思う。猫が猫である限り出来ない事だ。猫に出来るのは、二人が知らないものを教える事だけ。だが今はもう何も教えられるものはない。

だからこそ、今度は蜘蛛に飼われる事がとても魅力的だと猫は笑う。
少し不自由になってしまうが、一人きりで寂しい気持ちになる事もなく、こうしてずっと甘やかしてくれるのだから。

「猫。上機嫌だね。しっぽが揺れてる」
「二人がどんな首輪と名をくれるのか、今から楽しみだからな」

くふくふと猫は笑う。尾がゆらゆらと揺れ動く。
喉を鳴らして、もっと撫でろと蜘蛛の手に頭を押しつけた。



20240820 『空模様』

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