寂れた社の屋根の上に寝そべり、空を見る。
このまま晴れ渡るのか、それとも雨が降るのか。
青に混じる雲の白は随分と中途半端だ。
猫には雨を読む事など出来はしない。それは子らの領分であった。離れて久しい二人を想い、目を細める。
一人になっても猫は気の向くまま。好きな所へ行き、好きなものを食べ、好きな事をしていた。
遠く海の見える街で昼寝をし、山奥で化生を追いかけ回した事もあった。
だがいつしか子らと共に訪れた場所を辿るようになり、記憶をなぞるように動いて。
結局は、この地に戻ってきた。
猫とは、自由を愛するモノだ。
それは変わらない。子を持とうと、その本質は変わりようがない。
だが同時に、
猫とは、どうしようもなく寂しがりなモノでもあった。
のそり、と起き上がり、音もなく地に降り立つ。誰もいない社の裏へと歩き出し、その先にある一本の藤の木にすり寄った。
「藤。雨が降るかもしれないよ。恵みの雨となればいいな」
藤は答えない。
村が『死んで』藤が枯れてから、たくさんの季節が過ぎた。常世の藤は再び花を咲かせているのだというが、現世の藤はまだ花が咲く事はない。
「藤。どうやら猫には、オヤは向いてなかったようだ」
藤に体を擦り付け、その場で丸くなる。雨が降るかは分からない。たとえ降ったとしても、その時は社へと走ればいいだろう。
だから今は。少しだけでいいから。
誰かの側にいたかった。
懐かしい、匂いがした。
ざり、とわざと土を踏み締め、二つの気配が近づく。
「猫」
共にいた時には聞く事のなかった、冷たい響きを含んだ声が猫を呼んだ。
それは怒りか、はたまた憎しみか。
猫には感情の機微など分かりはしない。だが分からないなりに考え、不安になった。
猫は蜘蛛の二人のオヤにはなれていなかったのではないか、と。
「猫はちゃんとオヤができていたか?銅藍《どうらん》も瑪瑙《めのう》もイチニンマエになったか?」
猫の問いに蜘蛛は答えない。猫もそれ以上何も言わず、丸くなったまま蜘蛛を見る事はない。
沈黙。誰も動かず。何も言わず。
言うべき言葉を探し、結局は何も思い浮かばずに。
先に口を開いたのは蜘蛛の方だった。
「猫は親だったよ。だからこそ今も妖として在る事が出来る」
「だがそれだけだ。親として在り方を教えはしたが、情を与えてはくれなかった。正しく親は出来ていなかったな」
情とは何だろうか。猫は考える。蜘蛛の求める情を猫は与える事が出来ないのか。
考えて、悩んで。それでも何一つ思いつかず。
それならと考えるのを止めた。
猫は難しい事は分からない。
分からないならば仕方がないと開き直り、猫は頭を上げてようやく蜘蛛を見た。
随分と険しい顔をしているが、それでも二人の姿を認めて嬉しさで目を細める。
なぁ、と知らず甘える声が溢れた。
「猫はたくさん考えたが、銅藍の言う情は分からない。分からないから、猫には与える事が出来ないよ」
「猫」
「猫はやはりオヤには向かないな。子はイチニンマエになったら離れていくのに、子離れをしなくてはならないのに、それがたまらなく寂しいよ。離れたくないんだ。どうしたらいいのだろうな」
体を起こして蜘蛛を見据え、背筋を伸ばして座る。猫から近づく事はない。いつだって手を差し伸べ呼ぶのは、蜘蛛なのだから。
息を呑み、何かに耐えるように唇を噛みしめて。
険しい顔の二人の蜘蛛は、困ったように笑い、疲れたように深く息を吐いた。
「ったく、何だ。何なんだまったく!ここに来てそれとか、ありえねぇだろうが!」
「仕方ないよ。だって猫だもの。今までもそうだったじゃあないか」
それぞれ異なる反応をしているが、先ほどまでの険しい空気はなくなっている。
猫には理由は分からないが以前の二人がいた頃の空気を感じ取り、懐かしさからゆるりと尾が揺れた。
それに気づいて、蜘蛛は柔らかく笑むと猫に向けて手を差し出す。
「猫。おいで」
甘く優しい声。尾を立てて近寄れば、頭を撫で抱き上げられた。それだけで機嫌良く喉が鳴るのを止める事が出来ない。
「猫はもう親にならなくてもいいよ。代わりに僕達に飼われてくれないかい?」
「猫を?飼うのか?」
きょとり、と目を瞬かせ。蜘蛛の言葉を繰り返す。
「そうか。飼われれば一緒にいてもいいのか。その手があったのを忘れていた」
「嫌じゃないんだ。もっと早く言えばよかったね」
まったくだ、と隣で疲れた顔をしている蜘蛛に、猫も同じようにまったくだ、と頷いた。
もっと早く、出来れば別れる前に伝えてくれたのならば、こんな寂しい思いはしなかったというのに。
猫の内心の不満を悟り複雑な顔をする蜘蛛は、けれども何も言わず。猫の察しの悪さは、共にいた頃から変わらないのだ。
「それなら猫の首輪と名前を用意しないといけないぞ。真鍮の鈴と、紐は二人が編んでくれ」
「めんどくせぇな。何でもいいじゃねぇか」
「真鍮でなければ駄目なの?」
蜘蛛の問いに猫は少し考え、頷いた。
「真鍮がいいな。銀も悪くないが、やはり真鍮だ。猫はそうあるべきだ」
その理由は猫ですら分からない。なんとなくというのが、猫の答えである。
「分かった。猫に合う鈴を探しに行こうか」
「しゃあねぇな。ほら、とっとと行くぞ」
蜘蛛に抱かれたまま、猫は満足げに喉を鳴らす。こうして蜘蛛に抱かれ、頭を撫でられながら移動するのも悪くはない。
ふと空を見上げ。変わらず中途半端な空模様に、猫は蜘蛛に問いかけた。
「瑪瑙。雨は降るのか」
「ん?まだ降らないよ。雨は明日だね」
つい、と空を見、雨を読む蜘蛛に、なるほどと猫は感心する。
「さすがだな。猫にはさっぱりだ」
「これくらいはね。出来て当然だから」
苦笑する蜘蛛に、それでもすごいと猫は思う。猫が猫である限り出来ない事だ。猫に出来るのは、二人が知らないものを教える事だけ。だが今はもう何も教えられるものはない。
だからこそ、今度は蜘蛛に飼われる事がとても魅力的だと猫は笑う。
少し不自由になってしまうが、一人きりで寂しい気持ちになる事もなく、こうしてずっと甘やかしてくれるのだから。
「猫。上機嫌だね。しっぽが揺れてる」
「二人がどんな首輪と名をくれるのか、今から楽しみだからな」
くふくふと猫は笑う。尾がゆらゆらと揺れ動く。
喉を鳴らして、もっと撫でろと蜘蛛の手に頭を押しつけた。
20240820 『空模様』
※ホラー
薄暗い屋敷の中を、奥へ奥へと歩いていく。
誰もいない。一人きり。
ここには入ってはだめよ、と母から忠告されていた事を思い出す。
理由は言われなかった。たくさんの大人や子供が集まるこの時期でも風を通す様子がない事から、客間として使用されるわけでもないだろう。
理由など関係はない。どんな理由であれ、好奇心に駆られた少年の足を止める事はないのだから。
足取り軽く、奥へと進み。気づけば突き当たり。
とん、と足が止まる。
左右の障子戸を見る。戸を開けるか、引き返すか。
今戻ったとして、広間ではまだ大人達が赤い顔をしながら大声で話し合っているのだろう。他の子は外へと遊びに出てしまっている。
今まで遊んでくれていた年上の従兄弟は、事故にあったらしく帰っては来なかった。
しばらく考えて、右の障子戸に手を伸ばす。
その視線がつい、と上を向き。
少年よりも高く、大人と同じ目線の場所に、指で開けられたような穴に気づいた。
目を凝らす。穴の向こう側に何かを垣間見て、背伸びをした。
暗い穴の先。それが障子と同じ、白になり。
それが白濁した人の眼だと知る。
見下ろされている。戸の向こう側の誰かに。声もなく、ただ静かに。どろりとした濁った眼が、逸らす事なく少年を見ていた。
かたん、と戸が小さく音を立てる。
開けられる。開けられてしまう。
白い眼から視線を逸らし、引き返そうと廊下を見遣れば。
その先で黒い何かが蠢いているのを見た。
かたん、と再び戸が音を立てる。
開いている。先程まではなかった僅かな隙間が開いていた。
声にならない呻きが少年の口から溢れ落ちる。後ずさりながらも、視線は戸の隙間に向けられたまま。
その足が背後の戸にあたり、止まる。
かり、かり、と何かを引っ掻く音がして。
隙間から、細く白い、指が。
「ぅわああぁぁ!」
叫んで、反射のように背後の戸を開け中に入る。
急ぎ戸を閉め、距離を取った。
戸が開けられる様子はない。
荒い呼吸を繰り返し、戸を気にしながらも部屋の様子を伺った。
四畳半の狭い和室。その中央にある三面鏡以外の調度品はない。押入れらしき襖は固く閉ざされて、中に何が入っているかは分からない。
戸が開く様子はない。
幾分か落ち着きを取り戻した少年の内に、また好奇心が湧き上がる。三面鏡に近づき、恐る恐る鏡を開く。
薄暗がりでも分かる、それぞれの鏡に映った姿に驚き、驚いた自身の姿を見て笑った。
鏡から視線を逸らす。鏡台の上には何も置かれてはいない。二段ある引き出しの上の方を開けるも、やはり何もなく。少しばかり落胆しながら、下の引き出しに手をかける。
片手では開けられぬ重みに、両手で力を込めて引き。ゆっくりと開けられていくその隙間から覗く中身に、少年の目が丸くなる。
隙間なく収まっていたのは、文字の書かれた符。字の読めぬ少年では、それが何かは分からない。数枚手に取れど、薄暗がりの中では違いに気づく事も出来ず。小さな溜息と共に符を元に戻し、引き出しを閉めた。
鏡面の探索を終え、少年は途方に暮れる。好奇心はすでに鳴りを潜め、あるのは不安だけだ。
ここから出れるのだろうか、戻れるのだろうか。
戸を開ければいるかもしれない何かに怯え、唇を噛む。
閉じるのを忘れていた鏡が、そんな少年の泣きそうな顔を映していた。
頭を振って鏡に手を伸ばす。鏡を閉じようとする手は、しかし閉じる前にその動きを止めた。
鏡に映った背後、押入れの襖が少し開いているのが見えた。
表情が強張る。
入った時には閉まっていたはずだ。開いているはずはない。
見間違えだと、鏡から目を逸らす。暗いから見間違えたのだ、気になるならば直接確認すればいい、と。
鏡を閉じようと手だけを動かして。
その手が、何かに掴まれる。
慌てて手を見れば、鏡から出た細い腕が少年の手を掴み。次々と現れる腕が少年の手を、腕を掴んで鏡の中へと連れ込もうとする。
「やだっ、いや、いやだぁ!」
泣きながら抵抗する少年の姿を、正面の鏡は映す。だが左右の鏡は少年の姿を映しながらも、その表情は明らかに異なっていた。
笑っている。嬉しそうに、楽しそうに。
右の鏡は口元に笑みを浮かべ、左の鏡は声を上げて笑っている。
早くおいで、と手招かれる。
ありがとう、と誰かが喜んでいる。
変わりは誰が、とたくさんの声がした。
鏡の中に引き込まれる間際。
映った襖の隙間から、あの白い眼が少年を見つめているのが見えた。
「もうどこ行っていたの。勝手にいなくなっちゃだめじゃない」
「ごめんなさい」
母に叱られ素直に謝る少年を、離れた場所で二人は見ていた。
同じ光景を見ながらも、浮かべている表情は対照的だ。一人は安堵に笑みを浮かべ、もう一人は無表情ながらもその瞳は冷たく鋭い。
「見つかって良かった」
心からそう思っているのだろう。にこにこと満面の笑みを浮かべる少女を横目に、僅かに表情を険しくする。
周りには見えていないのだろう。叱られ俯く少年の唇が弧を描いて歪んでいる事を。
「どうしたの?何かあった?」
「別に、何も」
心配する少女に気にするなと笑って見せ。部屋に戻ると一言告げて、歩き出す。
着いてこようとする少女に大丈夫だと手を振って、昨夜泊まった部屋へ向かった。
「中身が違う。でも」
しばらくすれば、入れ替わった中身は馴染んでしまうのだろう。
馴染んでいない今ですら、違和感に気づく者は誰もいなかった。母親ですら気づけなかった。
気づかないのであれば、それは入れ替わっておらず最初からそれであったのと同じ事。
過ぎる思いに、頭を振って否定する。
認めてはいけない。屋敷の奥から聞こえる泣き声は、絶えず聞こえているのだから。
「神様」
「ならぬ。取り戻したとて元に戻す術はない。諦めよ」
唇を噛み俯く。
左手首に触れるも、そこにあるものは何もなく。
「己が領分をわきまえよ。すべて背負うなぞ傲慢と知れ」
縋るものがなく迷う手を、縄に繋がれた強い手が窘めるように掴み引いた。
20240819 『鏡』
「娘。それは何だ?」
左手につけた数珠を認めて神は問う。
今までつける事などなかったから、気になったのだろう。
「数珠。どこにでもある、ただの数珠」
事実ではあるが、その答えはお気に召さなかったらしい。不機嫌そうに眉間に皺を寄せ、数珠に触れた。
「随分と大事にしておるようだが。何故今この地で身につける?」
「気休めだよ。落ち着かないし、煩くて仕方ないから」
苦笑して隣の布団で眠る少女を見る。こんな状況でよく眠れるものだと、少しだけ呆れてしまう。
疲れる一日だった。それに何かと思い通りにならない一日でもあった。
この街の事。隣で眠る彼女の事。幽霊の話。
ーーー坂の唸り声。
あの煩い坂を上り彼女に帰る旨を告げたところ、強く引き止められて何故か泊まる事になってしまった。
深く息を吐き、時計を見る。時刻はすでに一時を過ぎていた。
「煩いなぁ」
深夜。日付が変わった頃から聞こえる音は、ずっと止む事なく続いている。
とんとん、とんとん、と。
こんこん、こんこん、と。
扉や窓を叩き続けている。
開けてくださいまし。後生ですのでここを開け、中に招き入れてくださいまし。
開けて。入れて。開けて。中に入ラセテ。
「本当に煩い。こんなに煩いのに、なんで皆起きないんだろう」
「夜は寝るものだ。起きているからこそ引き寄せるのであろうよ」
普段よりも幾分か冷たい響きを含んだその言葉に、肩を竦めて数珠を撫でる。さらに機嫌が悪くなる神におや、と首を傾げ。触れていた数珠を見、神を見て、あぁと納得した。
「ただの数珠だってば」
「娘の呪と同じ気配がするな。人としての生を歪めた下臈《げろう》のものを持ち続けるとは、酔狂な事よ」
「これしか縋るものがなかったからね」
言ってから、しまったと口を閉ざす。
「どういう意味だ?答えよ、娘」
「……別に。そのままの意味だよ」
視線を逸らし、呟いた。
それしかなかったから。それ以上でもなく、それ以下でもない。単純な理由。
けれどその答えに納得がいかないのか、険しい表情を浮かべ詳細を促された。
「時々分からなくなるから。自分が何であるのか、形を正しく認識出来なくなる。そんな時には昔に縋りたくなるんだ…人だった頃の記憶に」
笑って言えたつもりではあったが、神の表情は険しいままだ。憐れまれるよりはいいが、気まずい事には変わらない。
さてどうするか、と視線を扉へと向ける。
音はまだ止まない。声は途切れず、中に入れろと繰り返している。
「零《れい》」
名を呼ばれた。
体が重い。息が苦しくなる。
まるで神を繋ぎ留めている縄に括られ、絞められているようだ。
音もなく近づいた神が、数珠を掴み。
ぱちん、と乾いた音を立て、数珠が飛び散った。
「か、みさま?」
「捨てぬ理由がそれだけであるならば、必要なかろう。我がおるのだ。その存在が揺らぐ事なぞあるまいに」
煌めく金の瞳が、咎めるように睨みつける。
「過去に縋るな。現在《いま》を見ろ。それでも不安だと怯えるならば、俺が新しい名をくれてやる」
息を呑む。
名は駄目だ。施された呪が歪んでしまう。
何も出来ていない今はまだ、変えられるわけにはいかなかった。
「いらない。必要、ない」
手を握りしめ、俯き告げる。
神は何も言わない。ただ静かに側を離れていく気配がした。
「娘。暫し眠れ。休む事を覚えよ」
「こんなに煩いのにどう…あれ?」
気づけば扉や窓を叩く音はなく、声も聞こえない。
静まり返った部屋に困惑し神を見ると、いつの間にかその手には飛び散ったはずの数珠の珠が握られていた。
「捨てるだけのものだ。祓として使う事に問題はあるまい」
手にした珠を窓に向けて放る。綺麗な放物線を描く珠は、けれども溶けるように姿を消して。代わりに窓の外で何かが潰れる醜い音がした。
「神様」
「眠れと言うておる。それとも添寝が必要か?」
「いらない。おやすみ」
これ以上機嫌を損ねる前にと、慌てて布団に潜り込む。
眠れはしないと思いながら、大人しく目を閉じた。
左手首を摩る。そこにはもう数珠はない。
落ち着かない気持ちに、あれで良かったのだと言い聞かせた。
20240818 『いつまでも捨てられないもの』
空を見上げていた。
昼から夕へと時を移し、蒼から朱へと色を変えていく。そんな空をただ見ていた。
童の笑う声が聞こえた気がして、視線を巡らせる。
遠くに東屋が一つ。そこへ向かい子らが笑いながら、歌いながら駆けていく。東屋で待つ人影が、優しく子らを出迎えていた。
気づけば、黄昏時。
子らは帰るのだろう。出迎えた人影に手を振って、光となり空へと昇っていく。
光を追って空を見上げた。空の朱は色を暗くして、夜を招き始めている。その空を漂い、光は蛍のように淡く、星のように煌めき消えていった。
「迷い子よ」
呼ばれ視線を下せば、先ほど子らを出迎えた男の姿。
己に合わせて身を屈めた男と目が合うと、僅かにその目が見開かれる。
「満理《みつり》。黄《こう》」
男の唇から溢れた名。見ただけで分かるのかと苦笑を漏らした。
居住まいを正し、男の目を見据える。
「感謝を。貴方の存在が二人を生かしている」
民を慈しみ、民のためと命を賭して抗った二人の主。彼の存在が術師を人として生かし、弟を人として繋ぎ留めていた。それはおそらく今も、根底では変わりはしない。
目を逸らさず礼を述べれば、男の目に悲哀が浮かぶ。
「国を滅ぼした痴者には過ぎたる言葉よ。今の我には誹りこそ相応しい」
「その言葉こそ二人を誹るもの。主を今なお誇りと思う二人に対する侮辱でしかない」
男の言葉に眉根が寄る。言葉を返せばそうか、と呟き哀しげに微笑み目を伏せた。
己の成した事に悔いはなくとも、二人に対してはそうではないのだろう。
二人が男を誇りに思うように、男もまた二人を誇らしく思うが故に選択を悔いているように見え、小さく息を吐く。
「二人は貴方に似ている」
特に弟は、神として人のために主であった男の在り方を模倣している。そしてもう一人の術師もまた。
かつての日々を否定し続ける彼の炎を思う。詮無き事と知りながら口を開いた。
「だが貴方は、満理を置いて行くべきではなかった」
そこにどんな理由があろうとも。
真意を問うように、伏せられていた目が合う。それには黙したまま、答える事はせずただその目を見返した。
それでも男には十分であったのだろう。柔らかく笑んで、身を起こした。
「そうだな。満理には酷な事をした。許せとは言わぬ。だが悔いていると伝えてはくれぬか」
男の言葉に頷く。
己が伝えずとも、戻れば目を通して見られるのだろうが、それはあえて伝える事はせず。
「満理がおればと幾度となく思うた。さすれば都を落とす事もできたのであろう…されどあれが最上だと、そう思うておるよ」
東屋へと戻る男を見送り、目を閉じる。
霞む意識の端に、慈しむように頭を撫でる誰かの手を感じていた。
「おや、起きられたのですか」
赤子を抱いて濡縁に座る術師は、視線を向けず手招いた。
歩み寄りながらも、どう話すべきかを悩む。視てきたものを見るために呼び寄せているのだから、結果は変わらない。だが何も知らぬままに見せるのは気が引けた。
側に寄れば、術師の手が胸元の呪符に伸び。
「満理。二人の事は、まだ憎いか?」
手が止まる。見るものすべてを魅了するほどの妖艶な笑みを浮かべ。
刹那、首に走る痛みと共に視界が暗転する。
「満月《みつき》」
目を開き見渡せば、首を失い崩れていく体が見え嘆息する。
相変わらず、余裕のない男だ。痛む首に顔を顰めながら視線を移せば、瞳にどろりとした昏い激情を灯した術師と目が合った。
「暫くは赤子のままでいてくださいまし。次は誤って殺してしまいかねませぬ故に」
つまりはもう話すなという事か。
眼を覆う手を大人しく受け入れる。微かな手の震えに視たものを察している事を悟り、その傷つくだけの行為を哀しく思った。
「なんて度し難き男でございましょうや。今更悔いたとして、それはすべて詮無き事」
嘲るような、哀しむような声音。見終えた後も手は外されず、表情は見えない。
手を伸ばし目を覆う手を掴むも、非力な赤子では外す事も出来ず。名を呼ぶ事すらも出来はしない。
泣いているのだろうか。
おたたさま、と声なく呼んだ。
「満月」
酷く凪いだ声と共に手を外される。
泣いてはいない。少女のような美しい顔を歪め、深縹の瞳に怒りと呆れを浮かべて見下ろされる。
「私を母と呼ぶなと申しましたでしょうに。赤子とはなんと物覚えの悪い生き物か」
どうやら通じてしまったらしい。
しかしその瞳に翳りは見えず。安堵に笑みを溢せば、術師は呆れたように頬を抓った。
手加減はされているが痛む事に変わりなく、その手を外そうと身を捩る。
「満月は真に愚か者でございますね。私が気づいていないと思うておりましたか?」
ぎくり、と身を強張らせ、術師を見上げた。その顔は大分穏やかだ。
謝罪の言葉を口にしかけ、結局は口にせず。強くなる頬の痛みに顔を顰めながらも、強く睨みつけた。
お前が悪い、と声なく告げれば、術師の笑みが深くなる。
「謝罪も出来ぬとは嘆かわしい。致し方ありませぬ。母の役目として、確と躾る事にいたしましょう」
愉しげな術師から視線を逸らし、すなまかった、と一言声なく口にする。それでも頬を抓る手は外れる事はない。
仕方がないかと、幾分か力が抜けた手に手を重ね、目を閉じる。
どうかお手柔らかにと胸中で呟いた。
20240817 『誇らしさ』
白い月が照らす黒い海を見つめていた。
打ち寄せる波の音が鼓膜を揺する。
静かだ。辺りに人影はなく、一人きり。
そろそろ帰らなければと振り返り、疑問に思う。
ここはどこだろうか。何故ここにいるのだろうか。
何一つ分からない事に気づき、そして周囲の異変に息を呑んだ。
気づけば周囲には無数の黒い影。皆一様に海を見つめ、言葉なく佇んでいる。
不意に歌が聞こえた。
聞き覚えのない歌。懐かしいわらべ歌。
不思議な歌に惹かれ、影が動き出す。ゆっくりと、海へと歩き出す。
その影に混じり、海へ歩く誰かの姿。
その誰かを知っている。別れたくないと、失いたくないと願い続けている親友の姿。
彼女の元へと走り出す。
止めなくては。このままでは海に連れて行かれてしまう。水の底へ沈んでしまう。
必死に名を呼び、手を伸ばして。
それでも彼女は振り返る事はなく。
届かない事が悲しくて、声を上げて泣いていた。
目が覚めると、知らない天井が視界に入る。
ここはどこなのか。そんな事を気にしている余裕はなかった。
行かなければ、あの海へ。早くしなければ沈んでしまう。
起き上がり、部屋を出る。出口を求めて歩き出す。
「紺?」
後ろから聞こえた声。その誰かを確かめる事なく、ただ出口を探し。
「紺。止まりなさい。何処へ行かれるのですか」
腕を掴まれ、引き止められる。
その手を振り解こうとしても離す事が出来ずに、焦りが生まれる。
止めないでほしい。早く行かなければならないのに。早く。
「やめて、邪魔しないで。行かないと。沈んじゃう前に止めないと」
「紺」
「沈むのはダメなの。苦しくて、怖くて。手を伸ばしても届かなくて、呼んでも来てくれない。一人ぼっちになってしまう」
水の底は、夜よりも暗くて冷たいのに。あんな場所に一人で行くのは怖いはずだから。
「紺!」
腕を引かれて抱き竦められる。大きな手で目を塞がれて、何も見えない。
「落ち着きなさい。いい子ですから、ワタクシの声だけを聞いてくださいな」
静かな声。温かな熱。
焦る気持ちが次第に落ち着いて、体から力が抜けていく。
「怖い夢でも見たのですね。それでしたら、夢も見ないほど眠れるように呪いをかけましょうか」
夢を見ていたのか。夜の海の夢を。
焦りがなくなったためか、さっきまで覚えていた事が段々と曖昧になっていく。
「行かなくて、いいの?」
「行かないでくださいませ。ワタクシの側を離れないと、話していたではありませんか」
そうだ。約束を、していた。
ずっと昔に、一緒にいると。
でも、
「宮司様。宮司、様」
怖いから。一人は寂しくて、苦しいから。
「紺?」
「………狐さん。助けて」
あの時からずっと繰り返した想いを、願った。
助けて、と一言だけ願い眠りに落ちた少女を抱きかかえ、困惑する。
狐、と呼ばれた。あの日出会った時の呼び名で、この子は呼んだ。
水の底に沈んでいたあの日の少女。助けを求めて手を伸ばしていたのだろうか。
「狐ちゃん」
呼ばれ、振り返る。不愉快な呼び名と、この子を模したその姿は酷く不快であるが、今は気にしている暇はない。
「早く喰ろうてくださいませ。それがアナタ様の役割でございましょう」
「分かってるよ」
常とは異なり険しい顔をした夢が、少女の頭に指を沈め、二つの珠を引き摺り出す。
「大元はただの悪夢。でもソレのせいで思い出しちゃったみたいだね」
手にした珠の一つを飲み込み、もう一つを差し出される。それを受け取り同じように飲み込めば、遠ざかる水面に手を伸ばす少女の姿が見えた。
抗えず水底に沈みながら、霞ゆく意識でただ一人を呼んでいる。声はなく、唇が名を形作る事さえなく。それでも名を呼び、助けを求めていた。
「ずっと忘れていた事だよ。今更思い出す必要なんてない」
「そうですね。今世では必要ないものです」
眠る少女を見つめ、客間へ戻るために踵を返す。暫く目覚める事はないが、少しでも体を休ませたい。
「狐ちゃん。ごめんね」
「何がでしょうか」
ぽつりと溢れた謝罪に、立ち止まる。
「藤ちゃんを怒らせて、一房枯らせちゃった」
「…分かりました。後で向かいます」
話をしてもらえるかは不明であるが。
揶揄い過ぎで避けられてしまっている事を思い出し、思わず顔を顰めた。
「ごめんね」
謝罪の言葉を繰り返し、気配が消える。
去って行った事を確認し、今度こそ客間へと歩き出す。
藤が激怒した理由は、果たして何であったのか。
理由如何で今後を考えなくてはならない。
「まったく、アナタ様もご友人も随分と手のかかる」
知らず、愚痴が溢れる。
藤の嫌う面倒事の中心にいる少女。
だがそれも仕方がないかと、どうしても甘くなる自身に苦笑した。
20240816 『夜の海』