「お願い!一緒に来て」
やや強引なその頼みを断り切れず彼女と共に訪れたのは、田畑が広がるのどかな田舎の地だった。
どうやら彼女の親戚が困っているらしい。電車内で話すとは言っていたものの、疲れからかすぐに眠ってしまい、詳細は聞けず。実際に訪れれば何か分かるかと、あまり深刻に考えずにいたのがそもそもの間違いであった。
「何これ」
「え、自転車。知らない?」
困惑気味にそれの名前を告げられるが、聞きたいのはそうではない。
「明らかに事故ってる自転車を、どうしろと?」
歪んだ車輪。ひしゃげたハンドル。
何かに強くぶつかった痕跡を強く残すこの自転車を、彼女はどうして見せてきたのか。まったく真意が分からない。
だが彼女を見れば、どこか泣きそうな表情で。決してふざけているわけではない事に、ますます訳が分からなくなってくる。
「一から順に説明して」
「うん。分かった。あのね。おじさんから聞いた話なんだけど…」
彼女の話を聞き終わり、思わず重苦しい溜息が零れ落ちた。
十日ほど前の事。
自転車に乗って駅に向かおうとしていた従兄弟が、駅の手前にある坂で事故に合ったという。
幸い命に別状はなかったものの、全治三か月の大怪我を負い、現在も入院を余儀なくされているのだとか。
そこまではただの事故で終わったのだろうが、意識が戻った従兄弟は「女の幽霊を見た」と繰り返し話しているのだという。
だから、ね。と彼女は言葉を濁し締めくくったものの、やはり何一つ分からない。
「で?」
「一緒に『ころも様』をしてくれないかなって」
思わずまた溜息を吐いてしまう。
ころも様。
最近密かに流行っている占い。狐狗狸さんのようなものであり、遊び半分に行うには危険すぎる代物である。
ころも様を行ったクラスメイトが、倒れた事を忘れた訳ではないだろうに。無謀なのか、それほどまでに追い詰められているのか。
「やらない。でも事故現場には一緒に行ってあげる」
仕方がない、と苦笑して、手を差し出した。
結果として、その場で形として得られたものはなく。
何しろ何日も前の話だ。何かを見間違えたとしても、それが残っている可能性はとても低い。
「それにしても、随分きつい坂だねぇ」
急勾配であるだけでなく、坂の終わりは緩やかに蛇行している。これでは常から事故が起こりそうなものではあるが、と親戚らしき人に呼ばれて坂を上って行く彼女の背を見送り、視線を移す。
坂の終わり。その脇に立つ石標。
そこに記された坂の名前。
おそらくは昔、荷を運ぶ家畜がこの坂を上る際の様子から名付けられたのだろう。
ーーー獸唸坂《しゅてんざか》。
「獣、か。牛とか馬とかだったらまだマシだったのに」
「狐の気配がするな。大方化かされでもしたのであろうよ」
呆れを含んだ背後の声に、やはりかと嘆息する。
獸唸坂。獣が唸りをあげる坂。
力がありあまる狐や狸が何をするかは、お察しというやつだ。彼女の従兄弟は運が悪かった。
駅を出た時から感じていたが、ここはどことなく場が悪い。
「神様。ここ、あんまり好きになれそうにない」
「娘。間違ってもあの愚かな呪いはするではないぞ」
「する訳ない。絶対にしない」
声の忠告に、想像するだけでも嫌だと首を振る。
彼女には悪いが、早々に帰らせてもらおうかと彼女を追って坂を上り。
数歩歩いて、足が止まる。
「神様」
「ただの脅かしよ。我がおる故、あれらは手が出せぬであろう」
坂の両脇。木々の合間から、低い獣の声がした。横目で様子を伺うも、声の姿は捉えられず。
「娘。気にせず進め」
背後の声に促され、足を進める。
「やっぱり、ここ嫌いだ。すごくざわざわする」
呟いて、足を速め。彼女を追って坂を上る。
視界の隅で、あの赤く染まった自転車がちらつき舌打ちする。
幽霊を見たという彼女の従兄弟。普段の彼女らしくない、不安げな様子。獣の唸り声が満ちた坂。
酷く気分が悪かった。
20240815 『自転車に乗って』
「姉ちゃん」
ぽつりと溢れた小さな呟き。途方に暮れた、まるで道に迷った幼子のような響きを含んだその一言に、仕方なしに腕を伸ばす。
小さな赤子の腕。ペちりと腕を叩けば、己を抱く弟は泣きそうに顔を歪めた。
泣くなと叱責しようと思えど、赤子の身ではそれも叶わず。内心で困り果てていれば、柔らかな男の声音が弟の名を呼んだ。
「寒緋《かんひ》」
「兄ちゃん」
泣きそうな、それでいて安心したような表情をして、声の主である兄へと弟は視線を向ける。
助かったと内心で安堵し兄を見れば、優しく微笑んで両の手を伸ばし、弟と共に頭を撫でられた。こそばゆさに思わず声を上げて笑えば、兄も弟も顔を綻ばせる。
「良かった。兄ちゃんが来てくれて」
少しだけ落ち着いたのだろう。先ほどよりは和らいだ表情をする弟に、兄は何も言わず言葉の続きを待つ。
「不安なんだ。姉ちゃんを壊しちまうんじゃないかって。そう思うと何も出来なくなるんだ。姉ちゃんを育てるって言ったのは俺だってのに」
乾いた笑い声を響かせ、指先だけで頬に触れられる。触る事だけで壊れる事はないだろうに、怖ず怖ずとしたその様がもどかしい。
「赤子の抱き方なんぞ、とうに忘れちまった。壊す感覚ならいくらでも覚えてるっつうのに…なぁ、兄ちゃん」
何かを言いかけ、口籠る。
続く言葉が容易に推測でき、頬に触れている指を強く握り睨みつけた。言葉を話せぬ赤子の身でなければ、叱言の一つでも言っていたところだ。
「姉ちゃん」
「寒緋」
僅かに眼を見開く弟の指をさらにきつく握りしめていれば、今まで話を聞いていた兄が彼の名を呼んだ。幼子にするかのように視線を合わせ、穏やかに寒緋、と名を繰り返す。
「寒緋は明月《めいげつ》の体をを探していた時、明月を弱いと思ったか?」
首を振る。
「今まで寒緋が明月を、俺達を傷つけた事があったか?」
再び首を振り、否を示す。
当然だ。この臆病者が兄姉に傷をつけることなど出来るはずもない。
弟の答えに兄は破顔すると、くしゃりと髪を撫でる。
「じゃあ大丈夫だ。怖いなら兄ちゃんが隣で手伝ってやるから、ちゃんと出来るだろう?」
小さく、だがはっきりと頷く。
どうやら完全に落ち着いたらしい。ようやくかと呆れながら手を離した。
まったく手のかかる。これから先が不安ではあるが、任せると言ったのは己自身だ。致し方ない。
体を探し求めて鳥籠へ辿り着いてから、様々が変転した。
己の体を見つけ、記憶の欠落が埋まり。半身の存在を認識し、そして失った。
鳥籠より戻り、己の体について兄弟と話し合い。その時に育てると名乗りでたのが弟だった。
半身を連れ帰れなかった事を気に病んでいたのだろう。常とは異なる表情をして告げる弟に是を返し、仮初の泥人形の体を解き。
その結果が、赤子を抱いて途方に暮れ動けなくなるというのだから見るに堪えない。
己を抱いたままで話し続ける二人を見、これから先を憂う。それにしても腹が減った。
と、と、とっ、と廊下を歩く音が鼓膜を揺すり、視線を向ける。
開いたままの障子から顔を覗かせた妹を見て、思わず笑みが溢れた。
りん、と鈴が鳴る。
「銀?どうした?」
お姉ちゃんがお腹を空かせているから
鈴を鳴らし、手にした籠の中身を見せる。
哺乳瓶に掛布。さすがだ。
背後の姑獲鳥に視線を向ければ、頷いてこちらに近づき有無を言わさず抱き上げられた。取り上げられた弟が複雑な表情を浮かべるものの、何も言えずに押し黙る。
最初は姑獲鳥が教えてくれるからがんばって
りん、と鈴が鳴り、妹が静かに笑う。
「ん。分かった。ありがとな、銀花《ぎんか》」
妹の微笑みに笑みを返し、弟は真剣な面持ちで姑獲鳥と己を見る。
いい顔だ。兄達が来る前の不安定さが、今は影も残さず消えている。
己を育てる事で、永くを人の身で生きて摩耗した弟が少しでも癒えるのであればいいと思う。任せる事に多少の不安と羞恥心はあれど、そこは姉として耐えるしかない。
その対価として、成長した暁には半身を探すために思う存分動いて貰えばいい。
半身の行方は、千里を見通すもう一人の弟さえ視えないという。
己の体を探す時よりも困難である事は明らかだ。
只人よりも成長の早い身。こうして世話を焼かれるのも僅かだと言い聞かせ。
腹を満たす己の顔を笑みを浮かべて覗き込み、頬を突く弟を邪魔をするなと睨みつけた。
20240814 『心の健康』
歌声が聞こえる。静かで優しく、それでいて物悲しい旋律。
その声に聞き覚えがあった。大切な名付け子の、声。
普段の愛し子の紡ぐ歌とは異なるそれに、不思議に思い地に降りた。
歌が止む。
夜空に煌々と輝く麦刈星のような金の瞳がことり、と瞬く。瞳に此《これ》を移して、愛し子は花が綻ぶように笑った。
「東風《こち》。どうしたの?」
「歌が聞こえたからな」
駆け寄る愛し子にそう告げれば、不思議そうに首を傾げ。
「私、歌ってた?」
「歌ッてた。知らない歌」
どうやら知らぬ内に口遊んでいたらしい旋律を真似れば、記憶を辿るかのようについ、と金が空を見上げ揺らめいた。
「覚えてないけれど、たぶん誰かの歌かな。過去に生きていた人達の、祈りの歌」
「銀花。あまり視るな」
抱き留めて、眼を塞ぐ。
愛し子の意思に因らず過去を見せる眼は、徒に心身を摩耗させる。視ぬようにと言葉を重ねるも、もはや意味をなしてはいない。
「大丈夫だよ。東風」
心配ないと微笑む愛し子は、滔々と流れる涙に気づく事はない。細い頸に絡みつく指の痕が見えはしない。
壊れていく。掬った手の中の砂が零れ落ちるように、静かにゆっくりと。
いずれ訪れるであろう別れに、密かに唇を噛み締めた。
人の血が混ざらなければ、視た過去に引き摺られ壊れていく事はないだろうに。だが人の血が混じるからこそ、愛し子は煌めく星の如く此を強く惹きつける。小さな手で只管に此を求めて、笑い泣いた初めて出会った時から変わらずに。
「どうしたの?」
「何でもない」
優しく髪を撫ぜれば擦り寄る温もりに、伝わる柔らかでありながらも確かな鼓動に、ただ愛しさを感じ眼を伏せた。
大切で愛しい名付け子。鬼と人を両親に持つ妖混じり。
妖として永久に在る事も出来ず、けれど人として刹那を生きる事も許されぬ、哀しい娘。
「東風。大好き」
好意を告げる澄んだ声。何よりも大切でありながらも、それに応える事が出来ない。
愛し子からの思慕は、妖には重すぎる。受け入れ認めてしまえば、この先の結末を見届け、訪れる別離を受け入れる事に耐えられない。
それを弱く愚かな事だと自嘲し。応える代わりに、愛し子を抱き上げ空を舞う。
「銀花、歌ッて。此のために」
「いいよ」
紡がれる旋律。どこまでも優しく、愛おしく。此のためだけの歌。
歌声に聴き入りながら、もしもを夢想する。
愛し子を壊す眼を抉れば。傷つかぬよう、好きな花で満たした鳥籠に入れて閉じてしまえば。
これ以上壊れる事もなく、傷つく事もなく。それこそ永久に、此を想い歌ってくれるだろうか。
馬鹿馬鹿しい、と一蹴する。
それで満たされるのは此だけだ。親である鬼の夫婦も、愛し子もそんな事望みはしないだろうに。
ふるり、と頭を振り。微かな困惑を瞳に浮かべた愛し子に、何もないと笑いかけ。
響く歌声を供に、暮れる空を駆け抜けた。
20240813 『君の奏でる音楽』
蝉しぐれ鳴く青空の下、森を駆け抜ける小さな影。
麦わら帽子の幼子が、息を弾ませて周囲を見渡して。
不意にその瞳が一点を見つめ、瞬いた。次の瞬間には笑みを浮かべ、瞳を輝かせながら駆け出して。
幼子特有の無鉄砲さと好奇心で、この屋敷へと足を踏み入れた。
眠るかつての幼子を、屋敷の主は無表情で見下ろした。
好奇心が強く何事にも一生懸命なのは、初めて出会ったあの頃から変わらない。むしろ成長し出来る事が増えたために、悪化している気さえする。
夢中になれるものがあるのはいい事ではあるのだろう。限りのある生だ。悔いのないように行動すればいい。
そう思っていた。今までは。
「馬鹿な子」
呟いて、頬に触れる。かつての面影を強く残す穏やかな寝顔は、あの懐かしい夏を思い起こさせる。
初めて話をした子。本来の迷い家の在り方を歪めてまで、触れたいと感じた子。
無邪気で愚かな、術師の血を引く人間の幼子。
「可哀想に」
眠る子を起こさぬよう静かに離れ、先ほど拾い上げた折鶴を取り出す。離れていた間にどれだけ努力し続けて来たのかが一目で分かる、上等の式。
本来ならば、屋敷の外へも飛べるほどの。
「本当に、可哀想」
折鶴に唇を触れさせ。触れた部位からじわじわと純白を黒に染める様を見て、笑みが浮かぶ。そうしてすべてが黒に染まった折鶴を墜せば、それは音もなく地に沈んでいく。
幼子が訪れてから今まで。迷い家に置き忘れたものは、一部を除いて全てが迷い家の一部となっている。迷い家の礎になり、幼子を屋敷に繋ぎ止める。
「会わなければよかったのにね」
『マヨヒガ』を創り上げたのは、人間の生き方が変わったからだ。今の人間が必要とするものを、迷い家では賄いきれず、森に訪れる事もなく。それ故に在り方を変え、棲家を移した。
本心では再会を願っていた。好奇心の塊のような幼子が、成長しどんな生を謳歌しているのかを想像しては、会いたい気持ちが募り。
けれども想像は容易く裏切られた。
幽鬼のような歩き方。消えない目の下の隈。覇気のない声音。
何故この子は限りある生を削ってまで、他の人間のために動いているのか。
許せなかった。悪意なく使い潰す人間が、幼子自身が。
再開の後に縁を結び、何度も招き言葉を交わし。何一つ変わらぬ幼子の質に気づき、憎悪すら抱いた。
そして決めたのだ。
「そろそろだと思うんだけどな。そう簡単には成らないか」
何の変化も見られぬ子に苦笑して、手の平を宙に向ける。
かさり、と微かな音を立て手の平に乗ったのは、あの日の幼子が置き忘れた麦わら帽子。その中には、少し歪な折鶴が一羽。
それはあの夏の日。初めて上手く飛ばす事が出来たのだと、興奮し頬を紅潮させた幼子に渡された初めての贈り物だった。
折鶴を優しく撫で、子の側に再び近寄り。枕元へと麦わら帽子を置く。
眠りに落ちる前。溢れた言葉に対して、迷い家としての答えがこれだ。
この子だけの特別。この子だけの迷い家。
それはあの夏の日から今も変わる事はない。
だから合一にする。
どんな理由があれど、これ以上人間としての儚い生を他の何かに消費させる事は許さない。何度も忠告はした。それを聞き入れなかったのだから、それは自業自得というものである。
可哀想に、と繰り返し。
屋敷の主は折鶴を抱いて、口元を弧に歪め嗤った。
20240812 『麦わら帽子』
※ホラー
気づけば電車に乗っていた。
周囲の乗客は皆俯き、動かない。
車内は薄暗く、静かだ。外は夜の暗闇が広がり、遥か遠くに微かな灯りが点在しているのみで、何処を走っているのかは分からない。
この電車は何処へ向かうのだろうか。
随分と凪いだ意識の中、考える。
最近は公私共に忙しく、たとえ移動途中であろうとこうしてゆっくりとした時間を取ることが出来なかった。規則正しい電車の揺れが心地よく、眠気を誘う。
少し眠ってしまってもいいのかもしれない。
終点は分からない。だが着いてからどうするかを考えてもいいのではないかとそう思い、ゆっくりと目を閉じて。
電車の速度が緩やかになっていくのを感じた。
アナウンスは聞こえない。周囲の乗客はまだ、誰一人として動く様子もなく。
ただ漠然と、次が終点なのだという意識に、閉じていた瞼を開けた。
外は暗闇が広がり、しかし夜の群青とは異なる暗い緑に山奥を走っている事を察する。
さらに速度は緩やかになり、進む先に駅の姿を捉えた。近づくにつれはっきりと見えてくる駅は小さく寂れているようで、やはり見覚えはない。どうやら無人駅のようだが、果たして近くに泊まる所はあるのだろうかと、視線を窓の外から車内へと戻し。
自分を取り囲む乗客達に、声にならない悲鳴が漏れた。
変わらず乗客達は俯いたまま、表情を窺う事は出来ず。微動だにせずこれ以上近づく事もないため、どうにか脇を通り抜けられないかと苦慮し。
ぱちん、と何かが弾けるような音を立て、意識が鮮明になる。
「なっ、あ、なん、で」
何故。どうして。
いつ電車に乗ったのか。
ここは何処なのか。
何故疑問を持たなかったのか。
自分は何処へ向かおうとしているのか。
目の前の乗客は誰だ。
次から次へと疑問が溢れ出し。声にならない呻きが漏れ。
電車が駅に止まり、小さく音を立てて扉が開いた。
「っやめろ!離せ!」
扉が開いた瞬間、微動だにしなかった乗客が一斉に手を伸ばし。腕を体を掴んで、扉へと向かう。
抵抗するも、それは数の前では意味をなさず。ずるずると引き摺られ、駅へと連れられ。
その最中、座席に座ったままでこちらを見つめる、制服姿の少女と目が合った。
「助けてくれ!お願いだ。頼むからっ!」
必死で助けを求めるも、少女が動く事はなく。表情はなく黙したまま、駅へと連れ出されるまでを見られていた。
ホームに降り改札を抜け、引き摺られながら駅を出て。
広がる光景に、一層抵抗を強くした。
「離せっ!嫌だ、嫌だぁぁぁ!」
墓地。墓標が並ぶその先。一つだけ空いた墓石。
なりふり構わず暴れようと、それでも手が離れる事はなく。少しずつ距離が近づいていく。
やめろ、離せと叫んでも、誰も聞かず。
何故、どうしてと嘆いても、誰も答えず。
距離が近づく。どんなに拒んでも止められない。
そして墓石の前まで引き摺られ。
無理やり体を詰められていく。
逃れようと暴れても意味をなさず、足から順に詰められ。
最後に残った頭を見て、詰めていた一人の女が笑った。
その女の顔に、見覚えがあった。
先週死んだ女。電車に飛び込んだとニュースで知った。
結婚すると言いながら金を貢がせ、捨てた女。
視線だけを動かし、周囲を見る。
あぁ、と声にならない吐息が漏れた。
ここにいるのは皆、自分が騙してきた奴らじゃあないか。
引き摺られていく男を見送り、隣で眠る少女の肩を揺する。
「んっ、なに…?」
「こんな所で寝たらまた悪い夢を見るよ。ほら、ちゃんと起きて」
「わかっ、た」
寝ぼけ眼で頷く少女の姿が、霞んで消えていく。それを見届けて、立ち上がる。
相変わらず、彼女は変なものに巻き込まれ易い。無事に戻れたようであるし、己も戻るべきかと逡巡し、結局は駅に降りる。
改札を抜け、駅を出る。
ちょうど骨壷に収められた先ほどの男が墓に入れられる所を見遣り、僅かに表情を険しくする。
立ち並ぶ墓石に腰掛ける己と同じ姿をした誰かが、こちらを見て笑いかけた。
「気にしないでイイよ。ちょっとだけ姿を借りているだけだから。それよりもアレを食べに来たんでしょう?」
あれ、と奥の墓石を指差され、不快さに眉根が寄る。
人の魂を喰らうなど、あってはならない事だ。
思わず言い返そうと口を開きかけ。
「喰らわぬよ。そこまで堕とす訳にはいかぬ」
背後から口を塞がれ、声を出す事を封じられた。
「邪魔しないでよ」
「それは常世の主に対する叛逆となるが良いのか、獏よ」
静かに諭す声に、目の前の誰かの顔が僅かに歪む。
「ちょうど主の子も来たようであるが、如何する?」
「?何の、話」
気づけば隣には幼い少女の姿。無感情な眼がこちらを見上げ、誰かを見つめ近づいていく。
「別に。何もナイよ」
視線を逸らし、その姿が掻き消える。
立ち止まり、少女は首を傾げる。しばらくして何かに納得したのか小さく頷くと、奥の墓石の方へと歩き出した。
「行くぞ、娘」
それと同時に塞がれた口はそのままに、駅へと引き摺られる。
ホームまで戻り、ようやく解放されて大きく息を吐いた。
「何、急に…というか、知り合い?」
「知らぬ」
随分と機嫌が悪い。
知っているのか、それとも視ていたのかは分からないが、聞いても答えてはくれないのだろう。
仕方がないと目を閉じ、意識を浮上させる。
「神様」
「何だ」
「さっきはありがとう」
目が覚める直前、小さく礼を言う。詳しくは分からないものの、庇われた事には変わらないはずだ。
「ありがとう」
もう一度呟いて、目が覚める。
こちらを覗き込む少女に、心配させぬよう笑いかけ。
ふと巻き込まれているのはこの子ではなく。
己の方ではないのかと、嫌な胸騒ぎを覚えた。
20240811 『終点』