sairo

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蝉しぐれ鳴く青空の下、森を駆け抜ける小さな影。
麦わら帽子の幼子が、息を弾ませて周囲を見渡して。
不意にその瞳が一点を見つめ、瞬いた。次の瞬間には笑みを浮かべ、瞳を輝かせながら駆け出して。


幼子特有の無鉄砲さと好奇心で、この屋敷へと足を踏み入れた。



眠るかつての幼子を、屋敷の主は無表情で見下ろした。

好奇心が強く何事にも一生懸命なのは、初めて出会ったあの頃から変わらない。むしろ成長し出来る事が増えたために、悪化している気さえする。

夢中になれるものがあるのはいい事ではあるのだろう。限りのある生だ。悔いのないように行動すればいい。
そう思っていた。今までは。

「馬鹿な子」

呟いて、頬に触れる。かつての面影を強く残す穏やかな寝顔は、あの懐かしい夏を思い起こさせる。

初めて話をした子。本来の迷い家の在り方を歪めてまで、触れたいと感じた子。
無邪気で愚かな、術師の血を引く人間の幼子。

「可哀想に」

眠る子を起こさぬよう静かに離れ、先ほど拾い上げた折鶴を取り出す。離れていた間にどれだけ努力し続けて来たのかが一目で分かる、上等の式。
本来ならば、屋敷の外へも飛べるほどの。

「本当に、可哀想」

折鶴に唇を触れさせ。触れた部位からじわじわと純白を黒に染める様を見て、笑みが浮かぶ。そうしてすべてが黒に染まった折鶴を墜せば、それは音もなく地に沈んでいく。
幼子が訪れてから今まで。迷い家に置き忘れたものは、一部を除いて全てが迷い家の一部となっている。迷い家の礎になり、幼子を屋敷に繋ぎ止める。

「会わなければよかったのにね」

『マヨヒガ』を創り上げたのは、人間の生き方が変わったからだ。今の人間が必要とするものを、迷い家では賄いきれず、森に訪れる事もなく。それ故に在り方を変え、棲家を移した。
本心では再会を願っていた。好奇心の塊のような幼子が、成長しどんな生を謳歌しているのかを想像しては、会いたい気持ちが募り。

けれども想像は容易く裏切られた。
幽鬼のような歩き方。消えない目の下の隈。覇気のない声音。
何故この子は限りある生を削ってまで、他の人間のために動いているのか。

許せなかった。悪意なく使い潰す人間が、幼子自身が。
再開の後に縁を結び、何度も招き言葉を交わし。何一つ変わらぬ幼子の質に気づき、憎悪すら抱いた。

そして決めたのだ。

「そろそろだと思うんだけどな。そう簡単には成らないか」

何の変化も見られぬ子に苦笑して、手の平を宙に向ける。
かさり、と微かな音を立て手の平に乗ったのは、あの日の幼子が置き忘れた麦わら帽子。その中には、少し歪な折鶴が一羽。

それはあの夏の日。初めて上手く飛ばす事が出来たのだと、興奮し頬を紅潮させた幼子に渡された初めての贈り物だった。

折鶴を優しく撫で、子の側に再び近寄り。枕元へと麦わら帽子を置く。
眠りに落ちる前。溢れた言葉に対して、迷い家としての答えがこれだ。

この子だけの特別。この子だけの迷い家。

それはあの夏の日から今も変わる事はない。
だから合一にする。

どんな理由があれど、これ以上人間としての儚い生を他の何かに消費させる事は許さない。何度も忠告はした。それを聞き入れなかったのだから、それは自業自得というものである。


可哀想に、と繰り返し。
屋敷の主は折鶴を抱いて、口元を弧に歪め嗤った。



20240812 『麦わら帽子』

8/12/2024, 9:07:03 PM