「親友だからねっ!」
そう言って、あの子はいつも勝気に笑う。
楽しい時も、嬉しい時も。
寂しい時も、悲しい時も。
裏表のない性格は、常に周りを惹きつけ。同じように周りから妬まれる。
どんな時でも笑みを絶やす事はなく。その強い眼差しは揺らぐ事はない。
例え謂れのない悪意に晒されたとして、傷つき苦しみながらも前に進む事を止めようとはしなかった。
それは側から見れば、使い古された物語のようにありきたりで滑稽ですらあり。
それでもそれを終わらせるには惜しい程に、気に入ってはおり。
つまりは、少しばかりは手を出しても良いかと思える位には、あの子に情があるという事だ。
深夜。誰もいない教室で。
「ねぇ、本当にやるの?」
「あたりまえじゃない。今更何言ってんのよ」
「何、怖気付いたの?かっこわるぅ」
ひそひそと囁き合う少女達。
机の上には、人型に切り取られた紙が置かれており、その紙の中心には誰かの名が書かれている。
「先輩達に気に入られてるからって、調子に乗りすぎだっつぅの。少しは痛い目を見れば良いんだ」
「大丈夫なのこれ?ヤバくない?」
憎々しげに吐き捨てる声。怯えを含んだ声。
もう一人は何も言わず。ただ早く終わらせるために、準備を進めていく。
暗い教室。光源は机に立てられた五本の蝋燭のみ。
中心に紙の人形を据え、四肢と頭部に蝋燭を立て。
四隅には赤く染めた、獣と虫を模った人形を置き。
「これで終わりだっけ?」
「そ。あとはお呪いを唱えるだけ」
準備を終え、少女達は机を囲うように手を繋ぐ。目を閉じ、覚えた呪いを口にして。
一つ、獣の頸を並べ。
二つ、四肢をもがれた羽虫を晒し。
不意に締め切ったはずの教室内に、生温い風が吹き込んだ。けれど少女達は気づかず、さらに言葉を紡ぐ。
三つ、欠けた星を地に堕とし。
四つ、呪い巫女の血を撒いて。
五つ、
吹き荒れる風。蝋燭の火が消えて。
「えっ?何、なんで風が」
「やだっ、もぅおうちに帰る!」
「待って!途中で止めないで!中途半端にするとっ!」
「ソウだネェ。自分ラに返ってシまうネェ」
ざらつき、ひび割れた声。少女達のものではなく。
悲鳴をあげて彼女達は逃げようと踠くが、いつのまにか四肢と首に絡みつく何かに阻まれ身動きが取れない。
「アァ、まったク。あまリ喋ラセないデ欲しイものダ。呪イを唄うのモ存外疲レルんだヨゥ」
少女の背後。いつの間にか現れた、人の形をした影がゆらりと揺れ腕を伸ばす。
蝋燭を避け、中心の人形を手にし。
声もなく、影が嗤った気がした。
「喰っテもイイガ、少ぉしオイタが過ぎルから、コノまま返ソうネェ。チゃあント反省するンだヨゥ?」
最早声も出せず、泣く少女達にそれだけを告げ。
一歩影が下がると同時、消えていた蝋燭が再び火を灯した。
「!?アンタ、あいつの」
光源を得て、影の姿を認識した少女が目を見開く。憎しみに顔を歪めて声をあげようとするが、しかし口から漏れ出たのは声にもならない呻き声だけだった。
「ぅぐ…が、ぁ……っ」
「いっ、た…いぃ…!」
「ぁ……ぁあ…」
苦痛に、あるいは恐怖に顔を歪め、その場に崩れ落ち。焦点の合わぬ目が虚空を見つめ、涙を流し続ける。
その様を無感情に眺めつつ、影は手にした人形を飲み込んだ。
「ンっ……まったく。嫉妬だかなんだか知らないが、馬鹿馬鹿しい。こんな歯抜けだらけの呪いなんぞ、旨みの一つもないっていうのに」
呆れるその声は、先程とは異なり少女のそれ。
壊れた少女達をそのままに、踵を返し教室から出て。
一つ伸びをして、その姿は夜の闇に紛れて消えた。
「なんか変な夢を見た気がするんだよねー」
朝。教室に入るなり、挨拶もそこそこに屋上へと半ば引きずられ連れられた。
サボりになってしまうだろうが、話を聞く限りでは今日の一限は自習になるらしいから問題はないだろう。
「夜の教室とか、蝋燭とか…あとは黒いバケモノ?とか」
首を傾げて夢の内容を思い出そうとする彼女に、内心で笑みを浮かべる。
必死になる彼女の表情を眺めるのは、存外愉しいもので。
「…何で笑ってんの?」
隠していたつもりではあったが、表情に出てしまったらしい。ごめんと謝れば、膨れた顔がそっぽを向いた。
「こっちは結構真剣に悩んでるのに。ずっと調子が悪かったのに、今日は絶好調だし。教室入ったら、何か机が変わってるし…おまけに今朝の話とか、さ」
翳りのある笑みを浮かべ、彼女は小さく息を吐く。
まぁ無理もない。
直接見たわけではないが、自分の机に変なものを乗せられて、しかもその周りに気が触れたクラスメイトの三人が倒れていたという話を聞かされれば、彼女であろうといくらかは堪えるのだろう。
「気にしなきゃいいさ。夢は夢。現実は現実。あの三人は馬鹿をやっただけ…気になるなら学校に戻ってきた時に聞けばいいよ」
乱雑に頭を撫で笑ってみせる。
「せっかくの自習なんだ。ありがたく昼寝の時間にさせてもらおうか」
「ちょっと!あたしの話はどうすんの!?」
乱れた髪を直しつつ、翳りながらも強さを失わない瞳が、咎めるようにこちらを射抜く。
それを遮るように手を振って、くるりと背を向け横になった。
「大丈夫大丈夫。いつものように何とかなるって」
文句を言う彼女の声を聞きながら、静かに喉を撫でる。
どこまでも真っ直ぐな眼をしたこの子は、何故か私を親友と呼び慕ってくれる。昨夜飲み込んだ彼女の人形からも、それが嘘偽りない事を示していた。
慕われて悪い気はしないし、何より愉しませてもらっているのだから、それなりの見返りはしようと。
彼女に対する情を見て見ぬふりをして。ただの暇つぶしだと嘯いて。
嘘を吐き続ける行為に、馬鹿馬鹿しいと自嘲した。
20240725 『友情』
「もしもさ、過去か未来に行けるとしたら何がしたい?」
「…あぁ、昨日のドラマにタイムマシンが何とかってやってたな」
「見てないの?語りたかったのに」
頬を膨らませ不機嫌さを露わにする彼女に溜息を一つ吐く。
「残念でした…で?過去か未来に行けたらだっけ?そっちはどうなの」
「私?そりゃあもちろん、未来に行って宮司様とどうなっているか見に行く」
当然と笑う彼女はこの前の連休で出かけた先でいい出会いがあったらしい。とても生き生きとしている。青春だな、と微笑ましく見守りながら、次の授業まで少し寝ようと机に伏した。
「ちょっと。答えたんだから、寝ないで答えてよ」
「えー?」
体を揺さぶられながらそう言われてしまえば、このまま寝る事なんて出来やしない。仕方なしに顔だけを彼女の方へと向けた。
「そうだねぇ……過去に行って会いたい人は、いるかな」
それだけを呟いて、今度こそ寝に入る。さらに詳しく聞き出そうとする彼女の声は、聞こえないふりをした。
「夕食の時間ですよ」
静かな声に目を覚ました。
体を伸ばして欠伸を一つする。頬についた畳の跡や乱れた髪をそのままに、与えられた部屋から出る。
相変わらず辛気臭い場所だ。そう思ってしまうのは、この寺で行われた事を知っているからか。それとも寺の裏にある池の底に沈んでいるものを知っているからか。
ちゃんと歩きなさい、と誰かが窘め。
法師様に失礼のないようにね、と誰かが囁く。
そんなこと分かってる、と声に出さずに呟いた。
「変わりはありませんか」
「はい。何も」
二人きりの夕食後、茶を入れながら住職に尋ねられる。
それに何もないと答えるが、ここに連れられた時点で何かがあった事は彼にも分かっているはずだ。
「少なくとも、私自身には何も。いつもの発作が起きたくらいです』
父がどこまでを知って住職に話しているか分からない。当たり障りのない事実だけを報告し、手渡された湯呑みに口をつけた。
ちゃんとお話ししないと駄目でしょう、と背後から声がする。
法師様、この子の偽物が出た様ですよ、と影が告げる。
法師様、法師様、法師様、法師様。
私のものではない、私にしか聞こえない四つの声が慕う様に目の前の住職を呼ぶ。
「貴女のそれは特殊なものなのですよ。いつもの事だと甘く見ては行けません」
「申し訳ありません、住職様」
静かな、穏やかな声。心配そうに曇る表情。
誰からも好かれる、優しい住職。
友人である父は知らない。おそらく住職自身も覚えてはいない。
遠い昔、この場所で法師だった住職が行った事。国のためと大義を抱え、たくさんの孤児を人柱や生きた形代として使い潰した過去を。法師のためと呪を胎に施し、呪いを撒いた少女達がいた事を。
私と四人の声だけが覚えている。
私だけが住職を今も憎んでいる。
「どうかしましたか?顔色が優れないようです」
「いえ、大丈夫です…少し疲れているので、これで失礼させて頂きます」
これ以上住職の顔を見れず、部屋を出る。
思い出す必要のない記憶に、頭が痛くなりそうだ。
声は聞こえない。
心配しているのか、呆れているのか。
自分や他の子らにされた事を分かっていても尚、声は住職を慕い続ける。孤児だった自分達には他に選択肢はなく、そもそも彼に拾われなければ飢えて一人死ぬのを待つのみだったからだ。
愛されて、必要とされて死んでいける事が幸せだと誰かが言っていた事を覚えている。
それでも。
例え皆が納得していたとしても、どんな大義名分があろうとも、私だけは住職がした事を許せない。許してはいけない。
ふと、ここに来る前にした友人との会話の内容を思い出す。
もしもタイムマシンがあったなら、過去に行けるとしたら。
そんなの、やる事は決まっている。
法師様に出会う前の自分を連れて、どこか遠くに逃げるか。或いは。
いっそこの手で してしまうか、だ。
「……っ?」
ぐにゃりと歪む視界。いつもの発作だと気づいた時にはすでに、体は床に倒れ込んでいた。
目の前が青く、碧く、黒く塗りつぶされて。
息が出来ない。もがく事も出来ずに沈んでいく。
誰かの声。泣くような、嘆くような。
「彩《さい》っ!?」
どこか遠くで、法師様が。
昔の、何も知らないで笑っていた私の名を呼んだ気がした。
20240723 『もしもタイムマシンがあったら』
「私は幸せ者よ。こうして皆に愛されているのだもの」
人柱に選ばれた少女は、幸せだと微笑う。
「どっちみち死ぬんだからさ。それなら大切な人の役に立ちたいだろ?」
形代としてその身を苛む厄に苦しむ少年は、それでも役に立てるならばと笑う。
「法師様のためならば」
「法師様の邪魔をするやつなんて、いなくなってしまえばいい」
「大丈夫ですよ。法師様の敵はすべて呪いますから」
「ねぇ。次は誰を呪えばいいの?法師様」
呪いを唄う少女達は、皆口を揃えて法師様のためにと嗤う。
最後まで笑みを絶やさず。
最期まで死を厭わず。
「終わりは変わらない。一人孤独に飢えて死ぬか、皆に愛され看取られて死ぬかならどちらを選ぶかなんて決まっているだろう?蕾にもならず枯れるより、花咲いて散っていく方が素敵だと思わないかい?」
そう言って頭を撫でてくれたのは誰だったか。顔も思い出せないその人がくれたのは、優しさと慈しみだけだった。
「咲き終えて散った私をお願いするよ。他の散った子と同じように沈めて」
形代として生きたその人は、それだけを残し。しばらくして尊き方の厄を引き受け、散っていった。
散ったその人を棺に収め、沈めていく。
荼毘には伏せない。生きた形代はその身に溜めた厄が還らぬよう、封をされて水の底に留め置かれる。
法師様と二人。法師様と共に御務めを終えられた皆を見届けるのが、私に与えられた役目。
沈んでいく誰よりも優しかった人を見送り、ただ祈る。
「彩《さい》。儂を許すな」
祈る私に、法師様は告げる。
「どんな大義を掲げようと、皆が許そうと、儂の行いは外法でしかないのだ」
「はい。法師様」
頷いて、法師様の望む答えを口にする。ただの気休めにしかならず、本心ではない言葉と知りながら、法師様は何も言わず。優しく頭を撫でる、その手の温もりに目を伏せた。
一人きり。皆花咲いて、散っていってしまった。
法師様ももういない。
水面を見つめ、見届けた皆の最期を想う。
この水の底に沈むのは、人柱の腕。形代と呪いの亡骸。そして法師様。
合わせて三十。私を入れて三十一。
あぁ、と納得する。
法師様のくれた『彩』の意味。最後に施された最大の外法。
「許すな」と言った、その言葉の真意。
ようやく法師様の望みが。
法師様を許さず、憎む事が出来る気がした。
法師様はいない。昨夜、御祈祷半ばで亡くなられてしまった。
だからきっと、この術は完成していない。
それでも、と。
例え不完全であろうと、今ならばあるいは。
数は揃い、この身に負の想いを抱き。条件の揃った今ならば。
一歩足を踏み入れる。
恐怖はない。一人ではない事を知っている。
だから大丈夫。
口元に笑みを浮かべ、目を閉じて。
ただ、沈んでいく。
20240724 『花咲いて』
「こちらをどうぞ」
ことり、と小さく音を立て、小箱を置いた。
「貴女がお求めになった物です」
その言葉に女性は皺の刻まれた細い腕を伸ばし、小箱を引き寄せ緩慢な動作で蓋を開ける。
中から取り出されたのは、ひび割れ時を刻む事を止めた金の懐中時計。
慈しむ様に震える手で時計を抱きしめ、一筋涙を流した。
「ありがとう、ございます。これで…これで、もう。思い残す事はありません」
一礼し去っていくその背を見送り。
その姿が、気配がなくなった事を確認し、溜息と共に倒れ込んだ。
井草の匂いを堪能しつつ、目を閉じる。このまま少しだけ眠ってしまってもいいかもしれない。
「何やってんの?」
呆れた様な声が聞こえるが、疲れた身では何もする気が起きず。聞こえていない、と寝たふりをする。
「休みが欲しい、って言ってたよね?仕事したくないって、三食昼寝付きを強請ったよね?だから俺さん、現世に置いてきた迷い家《俺》を少し弄ってあげたよね?特別に別荘仕様にしてあげたよね?」
正論。反論を一切許さない程の言葉の羅列。
仕方なしに目を開ければ、こちらを覗き込む屋敷の主の満面の笑みが視界を覆う。
怒っている。我儘を言った手前何も言う事は出来ないが、それでも何か言わなければと焦りが生じ。
不意にその浮かんでいた笑みが消えた。
「何してんの?本当に」
これは非常によろしくない、気がする。
「ここまでお膳立てしてやってんのに何で仕事してんの?休むって意味分かってる?あれなの?本当は仕事するための場所が欲しかったの?だったら最初から言えよ嘘つき」
あまりの恐ろしさに、素早く身を起こし正座する。こんなもので態度が軟化する事はないが、せめてもの態度として。
「いや、仕事、したく、ない、です」
「だったらさっきのは何?」
無表情で問い詰められて答えに詰まる。だが答えなければ誤解は解けないし、この説教はいつまで経っても終わらない。答えに詰まった事でさらに刺々しくなった空気に冷や汗を流しながら、何とかか口を開いた。
「だって…だってさ。あの婆さん、しつこいんだぜ?ここまで憑いてきて、昼も夜もずっとあの時計を探してくれって五月蝿くて五月蝿くて」
「早く言えよ。対策ぐらいするってば」
知っている。
仕事疲れで思わず出た愚痴を、こうして本当にしているのだから。
空調の整った座敷。三食豪勢な和食が出、夜には床が敷かれ。しかも源泉掛け流しの温泉付きときた。常連だからという理由だけで、ここまでの贅沢。それなのに、老婆の霊に憑かれて怖いので何とかして欲しいなんて言える訳がなかった。
それと目の前の屋敷の主が極端な事だというのが少しだけ怖いというのもあるが。
「よし、分かった。隔離しよう。存在ごと隠してしまえば、失せ物探しを依頼する馬鹿もいなくなるはず」
「………ちなみに、どれくらい隠すつもりで?」
「一生」
何故そうなった。
昔からこの屋敷の主は両極端な所がある。それが子供の形をしているために思考もそちらに引きずられているからなのか、人間でないからなのかは分からないが。
「大丈夫。三食昼寝付きだし、欲しいものがあったら言ってくれれば用意できるし」
「いや働かせて?適度には労働させてくれないと困るんだが?」
「え?何で?」
心底不思議だというように首を傾げられる。
何故こうも軽率に人を隠そうとする選択肢が出てくるのか。長い付き合いではあるが、未だに理解ができない。
「そっちだって『マヨヒガ』を閉じて、ここで一緒にいてくれって言われても困るだろ?そういう事だよ」
「…それは……うん。じゃあ最初の約束通り十日だけ隔離しておくね」
にこにこと機嫌良く姿を消した屋敷の主を見送り、畳に寝転がる。
疲れた。本当に疲れた。
ただでさえあの女性の失せ物を探すのに、数日寝ずに式で海の底を探し続けていたのだから。しばらくは何もしたくはない。
ごろごろと寝返りを打つ指先が、煎餅が盛られた皿に触れる。三食以外におやつ付きだ。本当に贅沢である。
体を起こす気にもならず、行儀が悪いと思いながらも寝転がったまま煎餅を齧った。
変わらない味。昔から好きだった醤油味の煎餅。
好きな場所で好きなものを食べる。
これ以上の幸せはないな、と口元が緩んだ。
20240722 『今一番欲しいもの』
※ホラー
何でも願いを叶える社があるらしい。
曰く、願いを叶えるにはいくつかの手順が必要だという。
一つ。鳥居の先にある祠の中から和紙を取り出し、代わりに自分の名前を書いた紙を入れる。
二つ。和紙を口に咥え、祠の横の細道を辿り奥へと向かう。
三つ。細道を歩いている時には決して声を出さず、立ち止まってもいけない。
四つ。社へと辿り着いたら、願いを書いた紙を賽銭箱に入れ忍び手を三回打つ。
五つ。来た時と同じように声を出さず、立ち止まらずに祠へと戻り、名前を書いた紙を回収する。
その話を聞いた時、肝試しにぴったりだとそう思った。
夜中に一部始終を動画に収めて配信すれば、一躍有名になるのでは、と。
ただそれだけを考えていた。
「……っ…」
口に咥えた和紙を落とさないよう、必死で声を押し殺した。
出来る限り音を立てぬ様にゆっくりと、けれども決して立ち止まらずに来た道を只管に戻る。
ただの肝試し。ただのお遊びのつもりだった。
行きはよかったのだ。
辺りの暗さに何かの気配を感じると嘯き、祠に入っていた和紙に大袈裟に驚き。実況のために和紙は咥えず手に持ち、小声で都度反応しながら社に向かった。社に着くまで何も起こらず、願いを書いた紙を賽銭箱に入れても何もなく。
少し拍子抜けしながら細道に足を踏み入れた。
そこまでは楽しい肝試し、だったはずなのだ。
風に靡く木々の音。歩く音。鳴き声。
空気が変わった。そんな気がした。
慌てて手にしていた和紙を口に咥え、出来る限り足音を立てずにゆっくりと歩く。
木々の音。歩く音。呼吸音。鳴き声。
泣く、声。
して
えしテ
かエシて
カエして
かえして
『返して/帰して』
人のような何か。
大人も、子供も、女も、男も。年齢も性別も異なる人の形をした何かが。
一人、また一人と、数を増やして。
増えていくそれらは、皆顔が無かった。
泣いていたのは果たして誰か。
顔の無い何かか。それとも自分か。
何が起きているのか。何故こんな事が起こっているのか。
漏れ出しそうになる声を必死で押し殺す。止まりそうになる足を必死で動かし祠に向かう。
肝試しに来た軽率さを悔やみ、手順を破った愚かさを嘆いた。
涙でぼやける視界の中、終わりを求めて只管に歩き続けた。
「ねぇ、かえして」
手を、引かれる。
顔の無い、女の姿をした何かが、口も無いのに囁いた。
「かえして。だめなら、かわりをちょうだい」
「かえして」
「かえして」
「ほしい」
「ちょうだい」
「ちょうだい」
もう片方の手を別の何かに引かれ。
たくさんの顔の無い何かに囲まれて。
腕を、肩を、胴を、頭を。
無数の手に引かれ。囁かれ。
「ゃめろ!いや。やだ、いやだぁぁぁ!!」
叫んでも助けは来ず。
後には、何も残らずに。
祠から紙を取り出す。
書かれた名は偽りだが、息を吹き掛ければ文字が揺らめき真名を浮かび上がらせる。
男の名。ありきたりな文字の並び。
戸惑う事なく紙を飲み込んだ。
ゆらりと姿を変え、名を祠に置いた男の形を取る。
服に触れ、顔に触れ、腕を伸ばし。しばらくその姿を堪能するが、次第に飽いて元へと戻る。
地につく程の長い白髪。虚ろいだ白の瞳。男とも女ともとれる顔。
にたり、と唇を歪め、細道へと足を向ける。
そこには誰の姿もなく。誰の声も聞こえない。
「哀れ、哀れ。実に愚かなれや」
嗤う声。
どこかでかえして、と声がして、耐えきれずくつくつ喉を鳴らす。
かえしても何も、祠に名を納めたのは自身であろうに。
様々を寄せ集めたつぎはぎの儀式などを信じた人間が悪い。
だがそうした人間がいるからこそ、こうして名を喰らう事が出来るのだから、有難き事ではある。
されど、まだ足りぬ。
百を集めど腹は満たされず。三百集めど更に飢えを覚え。
ふと、男のいた場所に四角い何かが落ちている事に気づく。
手に取れば、冷たい金属の重み。辺りを映しとる絡繰。
流れる文字を見遣り、手を伸ばす。
白の瞳と視線が交わる。
こんこん、と。
窓を叩く音がする。
20240721 『私の名前』
「どうした?何を見ている」
只管に一点を見つめる幼子の、その視線の先。僅かに歪む光に、あぁと納得する。
「あ、おにさま。あれ」
「無名だな。名がない故に形を持たぬ、成りかけだ」
「?あかい花。見えるのにかたち、ないの?」
首を傾げ、無名と己を交互に見る幼子。揺れる金の瞳を隠す様に抱き上げる。
「おにさま。見てはいけない?」
聡い子だ。多くを語らずとも理解し、行動する。肩口に顔を埋める幼子の背を撫で、さてどうするべきかと思案する。
本来は人には見えぬモノ。しかしこの幼子はその存在に気づき、形を認識した。人の身でありながら妖の先すら見通す見鬼の眼は、時にその心身に危害を及ぼしかねない。
「見え過ぎるのも考えものだな」
眼を閉じる術などいくらでもある。だが安易に閉じてしまっては、幼子が狭間で彷徨う事になるだろう。
加減が難しいと苦笑しながら、幼子の顔を上げ。その両の瞼に唇を落とし、呪を紡いだ。
「おにさま?」
「ただの目眩しさ。子供騙しではあるが、何もないよりは幾分楽だろう」
「ありがとうございます?」
意味を分かりかね、それでも礼を言う幼子を下ろし頭を撫でる。
目を瞬かせ笑うその姿に笑みを返し成りかけを指差せば、先程と異なり何も見えぬ事に首を傾げた。
「いない?…見えなくなった?」
「見なくても良いのであれば、見えぬ方が良いからな」
辺りを見回す幼子にそう告げれば、金の薄れた琥珀と視線が交わり。腕を広げて願われ再び抱き上げれば、柔らかなこの唇が頬に触れる。
「ありがとう、おにさま。大好き」
「……そうか」
屈託ないその笑顔に、頬に触れた温もりに、気恥ずかしさから視線を逸らす。
「主は時折末恐ろしくなるな」
「おにさま?」
首を傾げる幼子に、何もないと首を振り。
急く鼓動を半ば誤魔化すように踵を返し、塒へと歩き出した。
20240720 『視線の先には』