sairo

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「こちらをどうぞ」

ことり、と小さく音を立て、小箱を置いた。

「貴女がお求めになった物です」

その言葉に女性は皺の刻まれた細い腕を伸ばし、小箱を引き寄せ緩慢な動作で蓋を開ける。
中から取り出されたのは、ひび割れ時を刻む事を止めた金の懐中時計。
慈しむ様に震える手で時計を抱きしめ、一筋涙を流した。

「ありがとう、ございます。これで…これで、もう。思い残す事はありません」

一礼し去っていくその背を見送り。
その姿が、気配がなくなった事を確認し、溜息と共に倒れ込んだ。
井草の匂いを堪能しつつ、目を閉じる。このまま少しだけ眠ってしまってもいいかもしれない。


「何やってんの?」

呆れた様な声が聞こえるが、疲れた身では何もする気が起きず。聞こえていない、と寝たふりをする。

「休みが欲しい、って言ってたよね?仕事したくないって、三食昼寝付きを強請ったよね?だから俺さん、現世に置いてきた迷い家《俺》を少し弄ってあげたよね?特別に別荘仕様にしてあげたよね?」

正論。反論を一切許さない程の言葉の羅列。
仕方なしに目を開ければ、こちらを覗き込む屋敷の主の満面の笑みが視界を覆う。
怒っている。我儘を言った手前何も言う事は出来ないが、それでも何か言わなければと焦りが生じ。

不意にその浮かんでいた笑みが消えた。

「何してんの?本当に」

これは非常によろしくない、気がする。

「ここまでお膳立てしてやってんのに何で仕事してんの?休むって意味分かってる?あれなの?本当は仕事するための場所が欲しかったの?だったら最初から言えよ嘘つき」

あまりの恐ろしさに、素早く身を起こし正座する。こんなもので態度が軟化する事はないが、せめてもの態度として。

「いや、仕事、したく、ない、です」
「だったらさっきのは何?」

無表情で問い詰められて答えに詰まる。だが答えなければ誤解は解けないし、この説教はいつまで経っても終わらない。答えに詰まった事でさらに刺々しくなった空気に冷や汗を流しながら、何とかか口を開いた。

「だって…だってさ。あの婆さん、しつこいんだぜ?ここまで憑いてきて、昼も夜もずっとあの時計を探してくれって五月蝿くて五月蝿くて」
「早く言えよ。対策ぐらいするってば」

知っている。
仕事疲れで思わず出た愚痴を、こうして本当にしているのだから。
空調の整った座敷。三食豪勢な和食が出、夜には床が敷かれ。しかも源泉掛け流しの温泉付きときた。常連だからという理由だけで、ここまでの贅沢。それなのに、老婆の霊に憑かれて怖いので何とかして欲しいなんて言える訳がなかった。
それと目の前の屋敷の主が極端な事だというのが少しだけ怖いというのもあるが。

「よし、分かった。隔離しよう。存在ごと隠してしまえば、失せ物探しを依頼する馬鹿もいなくなるはず」
「………ちなみに、どれくらい隠すつもりで?」
「一生」

何故そうなった。
昔からこの屋敷の主は両極端な所がある。それが子供の形をしているために思考もそちらに引きずられているからなのか、人間でないからなのかは分からないが。

「大丈夫。三食昼寝付きだし、欲しいものがあったら言ってくれれば用意できるし」
「いや働かせて?適度には労働させてくれないと困るんだが?」
「え?何で?」

心底不思議だというように首を傾げられる。
何故こうも軽率に人を隠そうとする選択肢が出てくるのか。長い付き合いではあるが、未だに理解ができない。

「そっちだって『マヨヒガ』を閉じて、ここで一緒にいてくれって言われても困るだろ?そういう事だよ」
「…それは……うん。じゃあ最初の約束通り十日だけ隔離しておくね」

にこにこと機嫌良く姿を消した屋敷の主を見送り、畳に寝転がる。

疲れた。本当に疲れた。
ただでさえあの女性の失せ物を探すのに、数日寝ずに式で海の底を探し続けていたのだから。しばらくは何もしたくはない。
ごろごろと寝返りを打つ指先が、煎餅が盛られた皿に触れる。三食以外におやつ付きだ。本当に贅沢である。
体を起こす気にもならず、行儀が悪いと思いながらも寝転がったまま煎餅を齧った。

変わらない味。昔から好きだった醤油味の煎餅。

好きな場所で好きなものを食べる。
これ以上の幸せはないな、と口元が緩んだ。



20240722 『今一番欲しいもの』

7/23/2024, 5:36:12 AM