「どうした?何を見ている」
只管に一点を見つめる幼子の、その視線の先。僅かに歪む光に、あぁと納得する。
「あ、おにさま。あれ」
「無名だな。名がない故に形を持たぬ、成りかけだ」
「?あかい花。見えるのにかたち、ないの?」
首を傾げ、無名と己を交互に見る幼子。揺れる金の瞳を隠す様に抱き上げる。
「おにさま。見てはいけない?」
聡い子だ。多くを語らずとも理解し、行動する。肩口に顔を埋める幼子の背を撫で、さてどうするべきかと思案する。
本来は人には見えぬモノ。しかしこの幼子はその存在に気づき、形を認識した。人の身でありながら妖の先すら見通す見鬼の眼は、時にその心身に危害を及ぼしかねない。
「見え過ぎるのも考えものだな」
眼を閉じる術などいくらでもある。だが安易に閉じてしまっては、幼子が狭間で彷徨う事になるだろう。
加減が難しいと苦笑しながら、幼子の顔を上げ。その両の瞼に唇を落とし、呪を紡いだ。
「おにさま?」
「ただの目眩しさ。子供騙しではあるが、何もないよりは幾分楽だろう」
「ありがとうございます?」
意味を分かりかね、それでも礼を言う幼子を下ろし頭を撫でる。
目を瞬かせ笑うその姿に笑みを返し成りかけを指差せば、先程と異なり何も見えぬ事に首を傾げた。
「いない?…見えなくなった?」
「見なくても良いのであれば、見えぬ方が良いからな」
辺りを見回す幼子にそう告げれば、金の薄れた琥珀と視線が交わり。腕を広げて願われ再び抱き上げれば、柔らかなこの唇が頬に触れる。
「ありがとう、おにさま。大好き」
「……そうか」
屈託ないその笑顔に、頬に触れた温もりに、気恥ずかしさから視線を逸らす。
「主は時折末恐ろしくなるな」
「おにさま?」
首を傾げる幼子に、何もないと首を振り。
急く鼓動を半ば誤魔化すように踵を返し、塒へと歩き出した。
20240720 『視線の先には』
「ごめん。もう一回言ってもらえる?」
「だから旦那ができたの。あの時の宮司様」
「その前。誰とその神社に行ったって?」
指を差される。もちろん記憶にはまったくない。
そもそも週末には学校にすら来ていない。
「行ってない。週末はいつもの発作で学校休んでたし。当然連休はいつもの病院で過ごしましたが?」
「え?じゃあ、誰と行ったのさ。あーちゃんの後の誰か?」
「後ろの誰かってなんだ、誰かって。つか、ほんとに誰と行ったよ」
また指を差される。だから行ってないと言っているのに。
彼女の言う後ろの誰かの心当たりはある。カフェで出されるお冷が人数よりも多いとか、一人でいても誰かといたと思われるとか、心当たりしかない。
それはもう仕方ない。どうにもならない事であるし、もう慣れてしまった。
だがそれは私がいる場所に限った事であって。
私の存在しない場所に、私がいるというホラーまっしぐらな状況は困るのだ。とても。とても。
バレてしまったら寺送りにされてしまう。それだけは阻止しなければ。
「あー、やっぱあれかなぁ。神様があねがどうたら言ってた気がするし」
「そこ大事なやつじゃん!詳しく!」
「覚えてない。宮司様に会えてそれどころじゃなかったし。色々混乱してたし」
肝心な所の記憶をすっ飛ばしている友人に、思わず舌打ちする。まったくもって使えない。
「悪かったって。でも一緒に帰って来てないし、今神社にいるんじゃない?」
「それってさ、あたしを置いてきたって事になんだけど?ニセモノじゃなきゃさすがに絶交してたわ」
「だっていつのまにかいなくなってるんだもん」
笑いながらごめんと謝られる。悪いと思っていない事は明白であるし、おそらくニセモノだと分かっていたのだとは思うが。
何一つ解決にはなっていないものの、すでに近くにいないのであればしょうがない。これ以上話が広まらなければバレる事もないだろう。
「今度さ、一緒に宮司様のとこ行かない?後ろの誰かとか発作の事とか視てもらおうよ」
「今度ね」
曖昧に言葉を濁して笑う。見てもらった所で、というやつだ。
私だけ数が合わないのも。私だけ発作が起きるのも。私だけ今回のようなよく分からないものに巻き込まれかけるのも。
すべてが解決する訳ではなく。すべてを明らかにしたい訳でもない。
「今度、機会があったらね」
今度、を繰り返して机に伏す。
次の授業まで時間はある。少し眠っていても問題ないだろうと。
彼女を放って目を閉じた。
20240719 『私だけ』
果てない闇の中。
橘の木が一本と、童が一人。
いつから在るのか。何故在るのか。
何一つ分からず、ただ暗闇に独り。
「お前はだれだ?」
不意に聞こえるは、己以外の童の声。
不思議そうに疑問を繰り返す。
「なれこそ、誰ぞ」
問い返せば言葉は止み。
「これは藤だ」
当然だと言わんばかりに返された。
「お前はだれだ?この橘か?でも少しちがうな」
「われが誰かは知らぬ。気づけばここに在ったゆえ」
次々と投げかけられる疑問に目を瞬かせ。何も知らぬと伝えれば手を取られ、形を確かめるように触れられる。
手。腕。首。顔。無遠慮な小さき手の温もりに、触れるこそばゆさに笑みが溢れた。
「そうか。お前はここの主だね。世界がまたはじまったのか」
「また、とは?」
「知らない。でも分かる…ここは常世。はじまるばしょ」
言葉の意味を分かりかねて問えば、答えにならぬ答えが返る。それを何処かで受け入れ、されど理解が出来ぬ乖離に目を伏せた。
欠けている。認識され、形は定まった。
ならば足りぬらものは。
「名をくれ、藤。かわりに名を与えよう」
「分かった」
沈黙。藤に相応しい名を思考する。
不意に手を引かれ。同じように手を引いた。
暗闇に見えぬ藤を見据え、名を告げる。
「紅藤《べにふじ》」
「黎明《れいめい》」
互いに互いの名を呼び。
刹那闇が形を変え、互いの姿を浮かび上がらせた。
名を与えられた事ですべて理解する。
常世の在る意味。己の役割。世界の目覚め。
理解したからには始めなければ。
「紅藤、手伝ってくれ。足りぬものが多すぎる」
「藤とは愛でられるものなんだけれど…仕方ないか。他でもない黎明の頼みだ」
ふわりと咲《わら》い、懐から藤の花をいくつか取り出す。
空へ放れば花は皆形を変えていき、藤と同じ姿を模した人形等が音もなく地に降りた。
「とはいえ人手ぐらいしか出せるものはないけれど」
「上出来だ」
藤の頭を撫で、辺りを見渡す。
橘の木。少し遠くに藤の幼木。
藤の人形。童が二人。
一つ頷いて、虚な闇に指で描く。求めるものを指で辿り、屋敷を形作る。
刹那に作り上げられた屋敷を見て惚ける藤の頭をもう一度撫で、手を差し出した。
「さて、始めようか。おいで、紅藤」
「分かった。でも落ち着いたら藤《私》の手入れを頼むよ、黎明?」
互いに笑い合い。歩き出す。
世界が始まった。
「長。寝ているの?」
「否。昔を思い出していた」
首を傾げる幼子に笑いかけ、そっと頭を撫ぜた。
目を細めて身を委ねる、幼くなったその姿はあの日々を思い起こさせる。
「紅藤」
「どうした?長」
「もう名を呼んでくれぬのか?」
いつからか、藤は名を呼ばなくなった。
その事が少しだけ寂しい。
「長の名を呼ぶと怖い顔をする誰かがいるからね」
「なれば呼んでくれても良いだろう?あれは今、現世に居るのだから」
そういえば、と藤は目を瞬かせ。
あの日と同じ、ふわりと咲う。
「それもそうか…黎明」
「何だ?」
「礼を言うよ。枯れかけた藤《私》を咲かせてくれた事に」
外を見る。
端々は未だ枯れてはいるが、それでも尚美しく咲き誇る藤を認め、目を細めた。
「諦めてはいたのだけれど。存外藤《私》は愛されていたようだ。特に、黎明には」
「当然の事。汝が言うたのだろう?我に手入れをしろと」
「違いない」
くすくすと互いに笑い合い。
終わりは未だ来ず。
あの日から続く世界に。穏やかなひと時に身を委ねた。
20240718 『遠い日の記憶』
どこまでも続く青い空。流れていく白い雲。
使い古された表現のよく似合う空を見上げ。
「何見てるのよ?そんなに熱心に」
「…別に」
聞こえた声に、視線を空から彼女へと移す。
普段通りを装いながらも、隠しきれないその気遣わしげな視線に何もないと首を振って答えた。
「ただ、雨が上がったと思ったから」
昨日までの、長く続いた雨は終わりを告げ。
刺すような強い日差しと、茹だるような暑さが夏を連れて来た。
人でなくなってから、一体どれくらいの時間が過ぎたのだろう。
帰る場所は無く、私を知る人もすでに亡く。
私の存在が誰かを殺し、誰かを悲しませて。
誰も私を責めはしない。皆口を揃えて龍が悪いのだと言う。
巻き込まれてしまった哀れな娘。それが皆の認識だった。だからこそ誰も私の罪を咎めてはくれなかった。
それならば、せめて。
そろそろ覚悟を決めなければならないのだろう。
それはただの自己満足で、罪滅ぼしにもならないけれど。
中途半端なままでは、逃げ続けるままでは誰一人報われはしないから。
「どうしたの?今日は随分甘えてくるのね」
彼女の首に手を回し擦り寄る。頭を撫でるその手は、いつものように優しい。
「嫌だった?」
「嫌じゃないわよ。珍しいとは思ったけれど…ねぇ、」
何かを言おうとして、けれど唇を噛み締め彼女はそれ以上は何も言わず。
あの日。一人になりたくて抜け出した日。
仕置きをすると意気込んだ守り藤が、私の代わりにすべてを二人に伝えてくれたその日から、二人は名前を呼ぶ事を躊躇うようになった。名を呼んで縛り付ける事を怖がるようになった。
優しい神様。人を知らず、けれども人の望みに応え続ける哀しい雨の龍。
彼女の背中越しに空を見上げる。
どこまでも続く青空に、もう黒い龍の姿は見えない。続く雨は終わり、彼が戻ってくる。
「もうすぐ帰ってくるかな」
「そうね。すぐそこにいるわよ」
「そっか」
一度強く抱きしめてから離れ、背後を振り返る。
ゆっくりと歩み寄る彼を、笑みを浮かべて迎えた。
覚悟を決める。
初めから最後が決まっていたとしても、それでも選んだのは私。
応えて受け入れたのも、二人を大切に想うのも。
青の空よりも柔らかな雨の降る空を好ましいと思うのも、すべて私なのだから。
「どうした?随分と甘えたがりだったみたいだけど」
「何でもないよ。雨が上がったから」
数歩下がって、二人に手を差し出して。
「帰ろう?時雨、五月雨」
笑みを浮かべたまま、二人の名前を呼んだ。
息を呑み。泣きそうに顔を歪めて。
ゆっくりと手を取る二人に、その手を握り返す事で応える。
誰も何も言わず。繋いだ手は離さずに。
これが私に出来る最善。
これから先の永い時間を、二人と共に在るという選択。二人の望みに応える事。
微かな誰かのごめんなさい、の言葉は聞こえないふりをした。
20240717 『空を見上げて心に浮かんだこと』
すべてが燃えている。
屋敷も、大地も。余す事なく燃やし、炎は上がる。
懐かしさすら感じられる焼けた匂いに、僅かに唇を歪め。されどその刹那、背後の気配と頸筋に当てられた鉄の刃の冷たさに、それ以上の動きを止めた。
「私の箱庭に客人とは。珍しい事もあったものですね…何用だ、娘」
凍てつく響きを抱くその声に、黙する事で答えとし。その沈黙を是としない箱庭の主は手にした刃を一度下ろし、重ねて問う。
「動くな。答えよ。何故この箱庭に訪れた」
呪を乗せた言葉。抗えず言葉を紡ぐ。
「かくれるために」
くつり、と喉を鳴らした笑い声。次いで背に感じる衝撃に、一呼吸遅れて術が斬られたと理解した。
「他者の隠れ蓑として使われるのは本意ではありませぬ。あの男の血に近しい者には特に」
そのまま切り裂かれ、内の『私』を引き摺り出されて。箱庭の主の眼前に晒される。
黒く焦げた赤子。この異様な姿を見、果たして何を思うのか。
「随分と醜悪な見目をしているものですね。斯様な泥人形を使ってまで逃げ出し、生にしがみつくか」
冷たい深縹の瞳が嘲るように歪む。
見当違いのその言葉に、だが否定する術はなく。
「あの男の社に貴女の亡骸を捨置けば、どんな表情を見せて下さるのでしょうか。悲嘆に暮れるその様を眺めれば、この身に燻る憎悪の炎も幾分かは鎮まるのでしょうか」
否定したとして、先の結末が変わる事もなし。
なればいらぬ労苦を負う事もない、と黙したままこの終わりを待った。
「私も侮られたものですね。この箱庭を見つけ出す繊細さは確かなものですが、所詮はそれだけの事。過去に囚われた意思なき化生と断じるなど、実に愚かしき事か」
綻び。視た結末とは異なる言葉。
僅かに目を見開けば、気を良くした箱庭の主に抱きかかえられ、手で視界を覆われる。
「聞いた事があります。鳥籠で眠る双子の話を。あの男以外には認識されない、半身を守る鳥籠を創り上げた姉がいることを」
視界を覆う手を通し、眼を奪われる。視たものすべてを見られていく。
「鳥籠が開けられ、認識された。先に待つは新たな鳥籠で飼われるか、生を歪められるか…哀れなものですね。終わりを願うものに永久を求めるなど」
くすくすと愉しげな笑い声が響く。
すべてを見終え、覆う手が外されて。
「気が変わりました。貴女を生かす事にいたしましょう…丁度童遊びにも飽いていた所です。この箱庭を終わらせ、時を進めましょうか」
気づけば辺りを焼き尽くす炎はなく。果てない星空が続く草原に二人きり。
「まずは自己紹介を。満理《みつり》と申します。かつて死の淵より掬い上げられ、されど棄てられた。土蜘蛛の成れの果てにございます」
ゆるりと笑みを浮かべ。深縹が揺らめいて。
緩やかに落ちていく意識に、何処か落胆した思いを抱えて目を閉じる。
「暫し眠りなさい。その身が癒えるまで。苛む痛みが消えるまで」
結局は終わる事は許されないのか。
選ばれたのは、求められたのは片割れなのだから、静かに捨置いてくれれば良いものを。
「私の箱庭を終わらせるのですから、その対価に貴女もそれ相当を差し出さねばなりますまい。貴女のその終わりを願う思いを終わらせる事で、吊り合いといたしましょう…恨むなれば、私の元へ来た己の選択を恨む事です」
その言葉には何も反論できず。
致し方なしと、諦めて落ちる意識に身を委ねる。
永い現が始まった。
20240716 『終わりにしよう』