果てない闇の中。
橘の木が一本と、童が一人。
いつから在るのか。何故在るのか。
何一つ分からず、ただ暗闇に独り。
「お前はだれだ?」
不意に聞こえるは、己以外の童の声。
不思議そうに疑問を繰り返す。
「なれこそ、誰ぞ」
問い返せば言葉は止み。
「これは藤だ」
当然だと言わんばかりに返された。
「お前はだれだ?この橘か?でも少しちがうな」
「われが誰かは知らぬ。気づけばここに在ったゆえ」
次々と投げかけられる疑問に目を瞬かせ。何も知らぬと伝えれば手を取られ、形を確かめるように触れられる。
手。腕。首。顔。無遠慮な小さき手の温もりに、触れるこそばゆさに笑みが溢れた。
「そうか。お前はここの主だね。世界がまたはじまったのか」
「また、とは?」
「知らない。でも分かる…ここは常世。はじまるばしょ」
言葉の意味を分かりかねて問えば、答えにならぬ答えが返る。それを何処かで受け入れ、されど理解が出来ぬ乖離に目を伏せた。
欠けている。認識され、形は定まった。
ならば足りぬらものは。
「名をくれ、藤。かわりに名を与えよう」
「分かった」
沈黙。藤に相応しい名を思考する。
不意に手を引かれ。同じように手を引いた。
暗闇に見えぬ藤を見据え、名を告げる。
「紅藤《べにふじ》」
「黎明《れいめい》」
互いに互いの名を呼び。
刹那闇が形を変え、互いの姿を浮かび上がらせた。
名を与えられた事ですべて理解する。
常世の在る意味。己の役割。世界の目覚め。
理解したからには始めなければ。
「紅藤、手伝ってくれ。足りぬものが多すぎる」
「藤とは愛でられるものなんだけれど…仕方ないか。他でもない黎明の頼みだ」
ふわりと咲《わら》い、懐から藤の花をいくつか取り出す。
空へ放れば花は皆形を変えていき、藤と同じ姿を模した人形等が音もなく地に降りた。
「とはいえ人手ぐらいしか出せるものはないけれど」
「上出来だ」
藤の頭を撫で、辺りを見渡す。
橘の木。少し遠くに藤の幼木。
藤の人形。童が二人。
一つ頷いて、虚な闇に指で描く。求めるものを指で辿り、屋敷を形作る。
刹那に作り上げられた屋敷を見て惚ける藤の頭をもう一度撫で、手を差し出した。
「さて、始めようか。おいで、紅藤」
「分かった。でも落ち着いたら藤《私》の手入れを頼むよ、黎明?」
互いに笑い合い。歩き出す。
世界が始まった。
「長。寝ているの?」
「否。昔を思い出していた」
首を傾げる幼子に笑いかけ、そっと頭を撫ぜた。
目を細めて身を委ねる、幼くなったその姿はあの日々を思い起こさせる。
「紅藤」
「どうした?長」
「もう名を呼んでくれぬのか?」
いつからか、藤は名を呼ばなくなった。
その事が少しだけ寂しい。
「長の名を呼ぶと怖い顔をする誰かがいるからね」
「なれば呼んでくれても良いだろう?あれは今、現世に居るのだから」
そういえば、と藤は目を瞬かせ。
あの日と同じ、ふわりと咲う。
「それもそうか…黎明」
「何だ?」
「礼を言うよ。枯れかけた藤《私》を咲かせてくれた事に」
外を見る。
端々は未だ枯れてはいるが、それでも尚美しく咲き誇る藤を認め、目を細めた。
「諦めてはいたのだけれど。存外藤《私》は愛されていたようだ。特に、黎明には」
「当然の事。汝が言うたのだろう?我に手入れをしろと」
「違いない」
くすくすと互いに笑い合い。
終わりは未だ来ず。
あの日から続く世界に。穏やかなひと時に身を委ねた。
20240718 『遠い日の記憶』
7/18/2024, 11:17:46 PM