「斯様な夜更に何をしておる」
夜の静寂に響く、凛とした声音。
残る酒を呷りそのまま仰向けに寝転べば、静かに見下ろす澄んだ黒曜の瞳と見合った。
「何って…月見酒」
「朔の夜にか。可笑しな事を言う」
そういえば今宵は新月であった、と。
男越しに見える、普段よりも昏い空を眺めて思う。
布擦れの音。視界から男が消え隣に座る気配がして、大人しく身を起こす。
「なぁ、人が生きる上で官位とはそんなに大事か?生まれが人の優劣に関わるのか?そも、優劣とは何だ?」
問うても、男は何も答えず。されど凪いだ黒曜は真っ直ぐにこちらを見つめ。
「俺の眼はこんな片田舎よりも、都の政にこそ必要なんだと言う。こんな使い勝手の悪い眼を求めるなんぞ、優れたる都の貴族様のお考えは分からんな」
自嘲し、吐き捨てた。
新たに酒を注ごうにも、手持ちの酒は既になく。
仕方なしに月のない空を見上げる事で、男から視線を逸らした。
「黄《こう》」
「何だ?忠頌《ただつぐ》」
呼ばれども視線は戻す事なく。
「官位。生まれ。其れ等は人が生き易くなる上で必要だ。だがそれだけの事。それ以上でも、それ以下でもなし。人の優れたるは正しく生き、往生を遂げる事。生き急ぎ、死を美徳とする者は皆等しく劣りたると心得よ」
静かに告げられる言葉。視線を男に戻し、思わず居住まいを正す。
黒曜に強い光を灯し、男は穏やかに微笑んだ。
「我は劣りたる者となるがな。我が民をこれ以上疲弊させる訳にはいかぬ故、我は都に仇をなす。黄は満理《みつり》と共に優れたる者となるがよい」
一人覚悟を決めた男は、穏やかでありながら凛として。この地を巻き込まぬよう動く男の優しさに、民を守る長としての決意に息を呑む。
いつか視た光景。
この先の結末を知っている。男の願いが叶わぬ事も、すべて。
だからこそ己の返答は、初めから決まっていた。
「断る。俺はお前に仕えた時から、最期も共にすると決めている。それからお前にとっては残念な事ではあるが、この地の者は兵を挙げるぞ。他でもない忠頌、お前の恩に報いるために」
「そうか。視えたか」
目を伏せ、ゆるりと首を振る男をただ見つめ。
肯定も否定もせず。それでも何か言わねばと口を開き。
不意に背後に感じた気配に、何も言えず押し黙った。
「黄様。あれ程、遅くまで飲まないで下さいと申しましたのに」
「満理。これは、だな。その」
振り返れば、笑みを湛えながらも怒りを露わにする少年の姿。だが己の隣にいる男に気付き、瞳を瞬かせた。
「おや、忠頌様もご一緒でございましたか」
「すまぬな、満理。我が黄を引き留めておった故」
側に歩み寄る少年の頭を撫ぜ、男は謝る。
「忠頌様。私、先日元服を迎え立派な男子となりました故。子供扱いはおやめ下さいませ」
言葉では拒むものの、大人しくその手を受け入れる少年に、知らず笑みが溢れ。先程までの重苦しい空気が去った事に安堵して、立ち上がる。
辺りに転がる酒瓶に手を伸ばせば、それより早く少年の手が手際良く酒瓶を抱えていく。
「私めが片付けます。黄様はお休みになられて下さい」
「飲んだものくらい自分で片付けるから気にするな。満理こそ早く寝ろ」
「皆で片付ければ良い。さすれば早く終わろう」
少年に盃を持たせ、男と共に酒瓶を持つ。不満気な少年を宥めながらも厨に向かい、三人で歩き出し。
穏やかな刹那のひと時を、笑い合いながらも。
終わりを視る眼を、心底抉りたいと胸中で叫んだ。
微睡む意識が覚醒する。
どうやら少しばかり眠ってしまっていたらしい。
先程まで見ていた夢を思い出す。
懐かしい夢。未だ人であった頃の記憶の断片。
人の身では思うように扱う事の叶わなかった眼も、神として祀られた今では意のままだ。
それでも視えぬものは数多あり。視えたとして、出来る事など限られている。
「忠頌。満理」
己と同じく祀られた男は、されど祀られた地にはおらず。
あの日置いていった少年も、見つける事が出来ぬまま。
「我は…俺は何時になれば」
何を思えど詮無き事。
いつかの男の言葉を思う。
往生を遂ぐ事の許されぬこの身は、劣りたるまま。
なればせめて。
己が元に詣でる人の子は優れたる者となるように。
忌まわしきこの眼で、人の子の行く末を視続ける。
20240714 『優越感、劣等感』
「だから再三再四、言っていたであろうが。この馬鹿狐め」
あの子との縁が切れた。
否、正確には縁は切れてはおらず。己自身に縁が繋がるという、詮方ない状況が焦燥を掻き立てる。
「あの子は、今、」
「知らん。ここではない、遠くに生きてはいよう…今世は諦める事だ」
告げられる無慈悲な言葉。唇を噛み、俯いた。
自業自得。獣食った報い。
今更だ。告諭を受諾せず、溜め込み続けたのは。浅ましい獣の性に従ったのは、紛れもない己自身なのだから。
「大人しくしておれば、その身に溶け込んだ娘の気も幾分落ち着くであろう。娘の来世に期待する事だ」
分かっている。分かってはいるのだ。
それでも、
これまでずっと共にいたあの子と在れない日々は、目覚めを待つその時よりも耐え難い苦痛を伴っていた。
「紺。そろそろ離して下さいな」
「やだ」
十数年。納得出来ぬと、寂しいと嘆く胸の内を押し隠し。空虚な時を過ごしていたというのに。
ようやく諦念に至ったはずであるのに。
それが一瞬で覆された。
前触れもなく現れた、少女。縁が切れてしまっていたが故に、遠目からでは気づく事が出来なかった。
触れ合う事で縁が結ばれた。焦がれた、愛しい子。
嬉しい事だ。満たされてはいるのだが。
「納得出来ない。なんでだ」
どうしろというのだ、この状況。
文句を言いながらもしがみつく子は、こちらの胸中など歯牙にも掛けず。彼女が身動ぎする度、柔らかな髪が首を擽りこそばゆい。
手を伸ばしてもいいのだろうか。それとも大人しくしていればいいのか。
本当に、どうすれば良いのか。
「茶が冷めてしまいますよ。茶菓子もあります故、まずは一息つきませんか?」
「宮司様が食べさせて」
「……はい?」
思考が止まる。何を言っているのか、この娘は。
もぞもぞと向きを変え、それでも離れぬように寄り添った彼女が、無防備に口を開ける。
「…ご自分でお食べ下さいませ」
「ケチ」
「っ!?」
離れている間に、一体何があったのか。それともこれが今の世の人間には普通の事なのか。
少なくとも、以前は斯様に触れ合いを求める子ではなかったはずで。逆に距離を取ろうとするのが殆どであったというのに。
かつてを思い返し、今目の前にいる子との違いに眩暈がする。
逢えない寂しさに、幻覚でも見ているのではないだろうか。
「宮司様、こっからだと届かないからお茶取って。あと、酒饅頭も」
「離れればよろしいでしょうに」
「やだ。それにお茶の用意してる時もずっと私の事引っ付けてたんだから、今更じゃん」
幻覚にしても、これは酷すぎる。
「離れている間に頭でも打ちましたか?生娘が斯様にはしたない行動を取るなど」
「今の恋に恋する女子高生はこんなもんです。ま、宮司様がどうしても嫌って言うなら、大人しく帰るけど?」
「っ紺!」
するり、と離れようとする体を引き留め、きつく抱きしめる。
二度と離してなるものか。
「少々おいたが過ぎるようで。またいつかのように喰うてしまいましょうか?さすれば離れる事を厭う気持ちもありますまい」
尾を揺らし、巻きつける。薄く笑いながらも、胸中では必死で己の本能を抑え。
願うように、目を伏せた。
「宮司様、宮司様」
「なんですっ…!?」
呼ばれ顔を上げれば、唇に触れた熱。
にんまりと笑う、愛しい娘。
今、何が。
「宮司様、顔真っ赤。かわいー」
「なっ、何を」
思わず緩んだ腕の中から抜け出した娘は、心底楽しげに。赤く染まる顔を背けようとすれば、それより早くその小さな両の手で頬を包まれ視線を合わせられる。
「可愛い可愛い宮司様に一つ教えておいてあげるね?」
首を傾げ。自信に溢れたその瞳は、星よりも煌めいて。
「恋する女子高生は無敵なんだからね。怖いものなんか何もないんだっつーの!」
だからこれからもずっと一緒。
進路希望に、宮司様のお嫁さんって書いちゃうんだから。
一つどころか次々に告げられる。
その言葉の意味を殆ど理解せぬまま。けれどもその勢いと、再び奪われた唇の熱に思考を奪われて。
愛しい子の言葉にただ頷いていた。
20240713 『これまでずっと』
気がつけば、奇妙な空間に横たわっていた。
意識を失う前の出来事を思い返す。
家に帰って、ベッドに寝転がり。そして確か、その後に。
ポケットを漁れば、黒いスマホが一台。
電源をいれると、通知が一件。
ただ一言。
たくさん楽しんでね。と。
メッセージ欄を開く。話の内容を辿る。
お互いの近況。学校の事。部活の事。友達の事。
まるで遠くにいる友達とのやり取りに似ているそれ。
そうだった。学校がつまらないと愚痴をこぼし、人間関係がめんどくさいと嘆いた。
思い出した。ずっと聞き役にまわっていた、心配そうに相槌を打っていた相手が、最後に送ってきたのは。
たいくつ?刺激がほしいの?
ならさ、家くる?
張り切っておもてなし、させてもらうからさ。
「…誰だよ。こいつ」
知らない相手。
『マヨイ』なんて名前、聞いた事もない。
なのにそれをまったく気に留めていなかった。
立ち上がり、辺りを見回す。
ずいぶんと変な場所だ。最近の流行りを全部ぶち込んだような。ごちゃごちゃ感。詰め込み過ぎて目が痛くなる。
目の前には扉が一つ。
知らない相手は、楽しめと言った。ならばこの先がそうなのだろう。
退屈な毎日。くだらない人生。それを一変させる何かがこの先にある。
取っ手に手をかけ、ゆっくりと開く。
軽い扉。音もなく開いて。
微かに聞こえる音。段々と大きくなり。
そして、
「………え?」
開けた事を、心底後悔した。
バケモノ。
つぎはぎの肉の塊。無数に生えた白い手足と、埋め込まれたたくさんの目玉。手のひらの口が好き勝手に喋り出す。
一歩、後退りした瞬間。
目が、一斉にこちらを見た。
「ーーーっ!」
背を向け、走り出す。
あれが何か。ここは何処か。何一つ分からない。
退屈な日常に刺激を求めてはいたが、こんな恐怖は望んでいなかった。
逃げなければ。出口を探さなければ。
帰らなければ。
後悔しても、もう遅い。
今はただ、泣きながらも走るしかなかった。
「いいね。いいね。みんな楽しんでくれているね」
無数の扉から漏れ出る声を聞きながら、童子は笑う。
その手には、所謂怪奇小説と呼ばれる本を持ち。文字を辿りながら、歩いていく。
「最近の人間達は刺激に飢えているのが多いなあ。そっち関係には詳しくないけど、お招きしたからには全力で応えないとね」
頁を捲る。本の内容を参考に、怪異を創り上げ扉の向こうに配置する。
「…あれ?」
不意に、足が止まる。
振り返り、背後に立つ人の姿を認め。
本を投げ出し、満面の笑みで駆け寄った。
「いらっしゃい!また来てくれたんだ」
「いつものやつ、よろしく。あと、これは今日のお礼」
「やった!あいすけーきじゃん!ありがと。いつものは、あっちの白い扉ね」
差し出された紙袋の中身に小躍りしながら、あちらと奥の扉を指差す。
ふらふらと扉に向かい歩いていくその背を見送って、いそいそと机と椅子を創り上げた。椅子に座って紙袋の中身を出し、一口齧る。
「っ最高!やばい、美味しい。ちょっとサービスしておこう」
白の扉に向けて指を指す。以前知った足湯なるものを追加して。
早速足湯に浸かるその人を覗き見て、満足げに頷いた。
「いっそ温泉創ろうかな。疲労回復にいいって聞くし。常連さんにはこれからもご贔屓にしてもらいたいからね」
ケーキを食べながら、構想する。忙しくはあるが、それが今はとても楽しい。
マヨヒガ。山奥から電子の海に棲家を移した童子は。
今日も今日とて、迷い込んだ《誘い込んだ》人間をもてなす為、忙しなく動き回っている。
20240712 『1件のLINE』
目を開ければ、極彩色の世界。
上か下か。境など何もなく。
前か後ろか。選択に迷う事もない。
ただここに有る事が求められる、不可思議な箱庭。
極彩色の道なき道を気紛れに彷徨う。
眼に重なり視えるものはない。果てのない色彩と、落書きのような数多の扉。ひび割れた隙間の先に垣間見える虚無。
「あれ?お姫さんじゃん。おひさー」
声をかけられ、振り返る。
記憶にない誰か。足取り軽く、くるりと回り目の前に降り立った。
「ん?姫さん、なんか違う?」
首を傾げ、こちらを見上げ。
暫しの沈黙の後、心得顔で頷いた。
「あ、あれか。まだ鳥籠の卵の中身か。ならば初めまして。ごきげんよう」
大仰に礼を一つして。にんまりと笑みを形作る。
「ここはマヨヒガ。人間達に合わせて新しく作り上げた、電子の海を揺蕩う新しい迷い家」
嬉しくて仕方がないのだと。全身で表しながら、くるりくるりと辺りを飛び跳ねる。
「人間がさ。俺さんの所に来なくなってさ。退屈で退屈で…だから待つのはやめて、会いにいく事にしてね。んで次いでだから中身も大きく変えたんだけど、どう?」
上に。下に。自由に動き回り屋敷の感想を求められる。それを視界の隅で見遣りつつ、改めて迷い家を見渡した。
極彩色。扉。
かつて視た、山奥に佇む屋敷にはほど遠く。屋敷の主の面影はなく。
遠い未来《さき》に在るモノに、過去《いま》が告げられる道理なぞありはしない。
況してや迷い家曰く、この身は未だ籠の卵の内にいるのだから。
「姫さん。そろそろ卵にお戻りかな?それなら次は卵が割れてから。んじゃ、さいなら」
手を振り去る迷い家の主を見送り目を閉じる。
夢の終わりが近かった。
目が覚める。
見慣れた暗闇。卵の内側。
昏昏と眠り続ける、片割れ。
死と生が重なり存在する隔離された空間。
鳥籠の卵の中身。
言い得て妙だと笑う。
片割れを死なせぬように咄嗟に創り上げたここは正に卵の中。卵が割られる事がない限り死ぬ事も生きる事もない、擬似的な永遠。
鳥籠の鍵は兄弟でも開けられはするが、卵を割る事が出来るのは己と片割れの二人だけだ。
片割れの隣で横になり、目を閉じる。
さて愚弟はここを、どれだけ正しく視ているのだろうか。
視えたとして、結末は変わらないけれども。
意識を沈め、外を視る。
終焉は変わらない。
未だ生まれ落ちる事のない雛は、その時を。
目が覚めるのをただ待つだけだ。
20240711 『目が覚めると』
「なんでだ」
「何が?…って言うか、起きて第一声がそれってどうなの?」
知らず漏れた言葉に、目が覚めた。
前の席に座って起きるのを待っていてくれた友人は、その言葉に首を傾げて笑う。
放課後。気付けば外は夕暮れ時で。
「おはよう。随分とぐっすりだったね」
「マジか。起こしてくれたらよかったのに」
「起きなかったんだよ」
呆れる彼女にごめんと一言。
待っている間にすっかり寝入ってしまったらしい。
慌てて帰る準備をしようとすれば、まあまあと宥められ椅子に座らされた。
「で?何が『なんで』なの?」
顔を近づけ、寝起きの言葉の意図を追求される。
出来れば聞かなかった事にして欲しかった。
「…さあ?よく分かんない夢を見たような気もするし。見てない気もするし。むしろ何がなんでなのかこっちが聞きたいんだけど」
とりあえず誤魔化してみる。
本当の事など、今世と前世の違いを夢で見ていたなんて、言えるはずがないのだから。
「思い出してよ。あんだけ辛気臭い顔で言われたら気になるってば」
「無茶言うな。夢なんてすぐに忘れるわ」
今日はやけに食いついてくる。
だけど言えないものは言えないのだ。前世のなんて信じてはもらえないだろうし。そもそもこのもやもやした気持ちを言葉になんて出来るわけがない。言えて精々が「なんで」である。
不満に彼女は頬を膨らませ。
不意に閃いたかのように、満面の笑みを浮かべて身を乗り出した。
「じゃあさ。思い出せそうなイイトコロ、行ってみる?」
「………は?」
彼女の意図するものが分からず、首を傾げる。
その反応に彼女は笑みを更に深めて、内緒話のように囁いた。
「今度の連休にさ。何でも視える神様が祀られている神社に行こうよ。夢の内容だって見てもらえるかもよ」
電車とバスを乗り継いで、ようやく辿り着いたのは懐かしい景色。
神社、と聞いて嫌な予感はしていた。
けれども同時に、心の何処かで期待もしていた。
繰り返してきた前世の中で、必ずと言っていいほど生まれてきた場所。
案内などされなくとも、神社へ行く道は知っている。それに神社の宮司の事も。
思わず胸に手を当て、目を閉じる。
早鐘を打つ鼓動。友の声が遠くに感じる。
私は宮司に、狐に逢いたいのだろうか?
初めての事だった。
狐と出会う事のない生は。
最初はいつ出会うのかと怯えていた。七つを過ぎても出会う事がなく、ようやく解放されたと喜んだ。
この場所以外で生まれた事もあって、余計に毎日が輝いているようだった。
学校で学び、友と遊び、日々を謳歌して。
それなのに。
ふと気づけば、狐を探している自分がいた。狐のいない日々に違和感を感じ始めていた。
狐に怯えながらも、狐を求めてしまう。
理由は分からない。分かりたくないのかもしれない。自分の気持ちが分からない。
正に「なんで」であった。
「大丈夫?調子が悪いなら、行くのやめとこうか?」
目を開ければ、心配そうにこちらを見る友の顔。それに緩く首を振って石段に足をかける。
この石段を登れば、狐のいる神社だ。
一歩。また一歩。
逢いたいのか、逢いたくないのか。
気持ちの整理がつかないまま、それでも足を止める事なく。
あと数段。
後ろにいる友は、もう何も言わず。
息が上がる。足は止まらない。
最後の段を登り切り。
鳥居を潜り抜けて。
そして懐かしいその姿を認めた瞬間。
「おや?見慣れない方ですね。ようこそ…っ!?」
駆け出して、その勢いのままに抱きついた。
「は?え?な、何で?」
珍しく混乱しながらも振り解かれない事に、何故か安堵して。更にきつく、離れないように擦り寄った。
「紺。取り敢えず落ち着きましょうか?いえ、今世も紺なのかは分かりませんが。とにかく、落ち着きましょう?」
「……やだ」
落ち着いてはいる。何故か、とても。
「なんで?意味分かんない。納得いかないんだけど。ほんとになんで?」
「何がなんでなのかは分かりませんが、まずは少し離れましょう?それからワタクシの匂いを嗅がないで下さいな」
「やだ」
更に強くしがみつく。離すつもりはない。
悲しい事ではあるが、私の生は狐がいるのが当たり前らしい。
胡散臭くて、意地悪で。時々怖い狐ではあるが結局の所、私は最初の頃から狐に恋をしているのだ。
本当に不本意な事ではあるのだけれど。
「面白い事になっているなぁ、駄狐。良かったではないか。心優しき姉者に感謝し崇めるとよい」
「今立て込んでおりますので、アナタ様に構う暇はないのです。後にして頂けますか!…紺も。分かりましたから、このまま社務所に行きますよ?落ちないで下さいね」
引き離す事を諦めた狐に抱えられ、社務所へと連れられる。
狐の肩越しににんまり笑う神様と、その隣に立ち笑顔で手を振る友に見送られ。
「何ですか。何なんですか、もう。今世は諦めろと言われて、漸く…漸く納得出来たばかりだといいますのに」
文句を言いながらも、抱えるその腕は強く離れる事なく。狐の口元は柔らかく弧を描いて。
何故だか無性に腹が立ち、その頬に口付けた。
「っ!?な、何をなさっているのですっ?」
「宮司様、大好き」
「紺っ!?」
精々振り回されてくれればいい。
せっかく逢いに来たのだから。自覚してしまったのだから。今までの事を含めて責任を取ってもらいたい。
「大好き」
囁いて、赤くなるその表情の変化を見て笑う。
狐のいる日々が当たり前なんて、まったく不本意《ぜいたく》な事。
楽しまなければ、損である。
20240710 『私の当たり前』