星降る空に手を伸ばす。
届かないと知っている。それでも手を伸ばさずにはいられない。
あの懐かしい日々の面影が、今は只々愛おしい。
約束は果たされないだろう。時間は有限だ。きっと間に合わない。
待てずに逝くこの身を許してほしい。これでも人としては長く生きたのだから。
だからどうか。
願わくば、記憶の片隅にでも留めておいてくれる事を。
終わりが近い。心穏やかにいられる事が、唯一救いだった。
「シロ?」
呼ばれ、目が醒める。
「…寝てた?」
「少しだけ」
覗き込む彼の指に目尻を拭われ、泣いていた事に気づいた。
恥ずかしくなって、身体を起こす。背を支えてくれる彼の手から感じる温もりに、何故だかとても泣きたくなった。
「大丈夫?」
「たぶん…何だろ?私じゃないけど、私のような?近い?感じの夢、だった。気がする」
首を傾げ、薄れていくその内容を思い出そうとする。
もう既に殆どが霞んで思い出す事が出来ないけれど、誰かを待っていた事は覚えていた。約束を待ち続けて。一人きりで星空を見上げて。
けれど待ちきれなかった。そんな、夢。
「クロノ。手、繋ぎたい」
「いいけど。ほら」
差し出される左手。右手を重ねて、そっと繋ぐ。
温かな、手の温もり。感じる、彼の優しさ。
「こうやって、手を繋ぎたかった。そんな気がする」
「夢の話?」
「うん。夢の話。それか、」
誰かの、思い出。
小さく呟くと、彼は優しく笑ってくれた。
手は、まだ繋いだまま。
「それなら、夢の誰かが満足するまで繋いでる?」
「いいの?」
「いいよ」
いつもの事だし、と続いた言葉に、少しだけむくれる。
それでも手は離さず。
気恥ずかしさから、誤魔化すように空を見上げれば、広がる星空に思わずため息が溢れた。
「…綺麗」
「ん。そうだね」
どこまでも続く、星の海の向こう側。
約束をした誰かは、今もこの星空を見ているのだろうか。何を思っているのだろうか。
ほんの少し。少しだけでいいから。
待つ事が出来ずに、置いていく事を悔やんだいつかの誰かを。二人手を繋いで過ごした日の事を。
想って欲しいと、そう願った。
20240706 『星空』
「宮司。兄者が来るから、我はいない事にしといて」
いつもの無茶振り。聞こえない振りをして、境内の掃除に専念する。
面倒くさい。頭の中の藤が嫌そうに溜息を吐いた気がした。
「おい、駄狐…そうか。我、急に神様らしい事をしたくなったなぁ。手始めに、駄狐とあの娘の縁を焼き切って、二度と会えなくして、」
「やります!やらせて頂きますっ!」
「最初からそう言え。馬鹿狐」
全くもって横暴で傲慢な神である。元々は化生として封印され、祭り上げられた神なのだから仕方ないのではあるだろうが。確か、朝敵として国一つ滅ぼしかけたとか。
そんな詮無い事を考えながら、手にした箒を片付ける。
「そんなに会いたくないのであれば、会いたくないとはっきり伝えればよろしいでしょうに」
「は?我、兄者に会いたくないなんぞ、言ってないが?」
何を言う。毎回、何かと理由をつけて会う事を拒否しているのは貴様だろうに。
胡乱げな視線を向ければ、腕を組み舌打ちをされた。
「今の我の姿を見たら、兄者が気に病むだろうが!悲しげに「ごめんなぁ、守ってやれなくて。駄目な兄ちゃんだな」とか言われてみろ。それだけで国一つ滅ぼせるわ!」
別に言われた所で、そんな物騒な考えは出てこないが。それにどちらかと言えば、毎回弟に会えず去っていく、その寂しげな背中を見ている方が哀れみを誘うが、それは気にはならないのか。
「そも兄者は弟妹《きょうだい》に、心を砕き過ぎる。長子である事を寄す処にしているにしても、もっとこう、我儘になるべきだ!我らの意思を尊重して己の気持ちを押し込むなぞ、言語道断!もっと己の意思を押し通せ!長子であり長男なのだぞ!あれか、生まれを気にしているからか」
やってしまった。一度こうなってしまったらしばらくは止まらない。放置しても良いが時折こちらに話題を振られる為、この場を立ち去る事も出来はしない。
仕方なしに静かに社へと移動すると、上り口に腰を下ろす。
茶や菓子の一つでもあれば、少しは気も紛れるというのに。今日に限って何も持ち合わせていない事に、己の運の無さを嘆いた。
「産まれたい、生きたいというのは生きとし生けるものすべての本能だろう!それ以前に父上母上からその生を望まれ、兄者は応えた。誉れと思いこそすれ、何を負い目に感じる事があろうか!…おい、ちゃんと聞いているか?駄狐」
「はいはい、ちゃんと聞いていますよ。他の何よりも、誰よりも、お兄様がお好きで仕方ないのですよね」
「何を言っている。しっかりと話を聞いていろ、駄狐。我は兄者だけでなく、他の弟妹も等しく皆愛しているぞ?」
当然だろう、と告げられた言葉を鼻で笑う。
愛などと口にするが、長兄とは反対にその愛に行動を伴わない。言葉にするだけの愛ほど、浅ましいものはないだろうに。
千里眼を持つこの神の場合は特に。動けば結果が大きく変わるものは数多あっただろう。
姉の行方然り。弟の苦悩然り。末妹の欠損然り。
「我が何もしない事が不満か、狐?視えたもの、視えているものに対して、黙したままでいる事を愚かと断ずるか」
「さぁ?ですが愛すると言葉にして救われるものなど、何一つないと思いますけれど」
「そうだな。だが、」
呟いて、目を閉じる。
随分と静かになったが、何を考えているのか。その表情からは何も察する事は出来ない。
「これ以上の最良を、我の眼は視る事は叶わなんだ」
目を開け、微笑う。
「銀花が応えたのが鵺の兄弟だったからこそ、眼を含んだ三つで済んだ。銀花の眼は我に近しい故、あのままでは呑まれてしまっていたからな。一つならば己を保つ事ができよう。姉者らは現状このままが良いのだが…寒緋はもう耐えられんからな。姉者と共に行かせるとしても、時間稼ぎにしかならんだろうし…姉者に暫し耐えてもらうしかあるまいな」
先程とは異なり、誰にでもなく静かに語るそれらの意味を正しく理解する事は難しい。
そも己に関係のない兄妹の話をされても、である。
どうしたものかと内心で悩んでいれば、不意に視線が交わった。すべてを見通す金の眼が、不機嫌に歪む。
「時に、狐」
「何でしょうか?」
「いい加減、亡骸を荼毘に伏す事を覚えろ。これ以上娘と近くなれば、誤魔化しが出来んぞ」
何を言っているのか。あの子と近くなる事の何がいけないのだろう。
「魂魄は流転するものだ。だが同じ繰り返しを嫌い、前の世から離れて新たに生まれようとする…この意味が分かるな?」
「…ですがあの子は、常にこの地で生まれます。ワタクシと縁が繋がっているからではありませんか?」
縁を結び、繋がっているからこそ、こうしてあの子はここにいるはずで。
そう告げれば、不機嫌に歪んだ金が呆れた色を乗せ瞬いた。
「阿呆か。縁なんぞ繋がりが見えるだけで、結びを引く事なんぞ出来んわ」
「…では何故?」
「誤魔化したと言っただろう?娘の痕跡を狐ごと隠し、魂魄を引き寄せてこの地に生まれ落としている。だが隠すのも限度がある故、荼毘に伏す事を覚えろと言った」
何故。
本当に何故こんな手間のかかりそうな事を、この横暴で傲慢な神がするのか。あれだけ駄狐だのなんだのと呼び、無茶振りを平然としてくるのに。
「何だ、不満か?ならば次からは手を出さないでおくか」
「手は出して下さい。これからもずっと。あと出来れば、あの子にもう少し好意を持ってもらえるようにしてほしいのですが」
思わず本音が出る。
仕方ない。最近は表面上は好意的でもどこか壁のようなものを感じて、少々寂しかったのだから。
馬鹿にされる事も覚悟の上であったが、先程までの不機嫌な金は鳴りを潜め、穏やかに笑みの形に細められる。
「お前の望みは常に娘に関する事ばかりだなぁ。だが我に出来るは、魂魄を引き寄せる程度の事。好意なんぞお前の態度次第だ。少しは素直になる事だな」
素直になれたら苦労はしない。けれどそれを言うほど野暮でもなく。
仕方なしに一つ頷く。
それを見て、目の前の我儘な神も同じように頷いた。
「さて、そろそろ兄者が来るな。我はいない事にしといてくれ」
「アナタ様こそ、素直になればよろしいでしょうに」
「何か言ったか。駄狐」
いいえ何も、と首を振る。
社に戻る神の背を見送り、立ち上がる。
本当に面倒くさい神だ。
一つ息を吐き、振り返る。
近づく彼の兄に笑みを浮かべ。
彼が何か言うよりも先に。
「申し訳ありません。アナタ様の弟君は、いない事にしてほしいと社にお篭りになられました。何でも、今の姿ではアナタ様のお心を痛めてしまうのでは、とお考えになられたようでして。御衣黄《ぎょいこう》様はそれ程お兄様を敬愛しているようですね。先程も、」
「馬鹿っ!それ以上言うな!この、駄狐が!」
慌てたように社から出た神と。
泣くように笑う兄と。
成り行きを見守る末妹と。
兄妹の語り合いを暫し見てから社務所へ向かう。
茶の一つくらいは出してやろう。話は長くなるだろうから。
初めてあの神を出し抜けた事に、尾が機嫌良く揺れる。
気掛かりは、一つ。
彼らの長い語り合いの中で、国が一つ滅ぶような話題が出ないよう願うばかりだ。
20240705 『神様だけが知っている』
※ホラー
夏が来れば、お父様が帰ってくる。
約束をした。良い子でいると。素敵なレディになるために、日々努力をすると。
お父様は優しく微笑まれて、次に逢う時を楽しみにしていると、そうお話されたのだから。
だから誰よりも美しくなければ。勉学に励み。交友を深め。礼節を学び。
お父様の自慢の娘であるために。
窓の外を見る。あの道の先で、お父様は大切なお仕事をされている。
夏になれば、あの道を通ってお父様が帰って来て下さる。
それが救いだった。それこそが私の生きる導だった。
けれど、いくら待てども夏が来ない。
柔らかな日差し。一人きりの教室。
同じ時間を繰り返す。
私がまだ弱いから。
机の下。影のようにこびりつく黒に手を伸ばす。
ぐちゃり、と泥を掴むような気持ちの悪い感触。眉を顰めながらも、掴んだものを口にする。
無味。何も感じない。
それでも僅かに、出来る事が増えた。そう感じた。
椅子から立ち上がる。立ち上がれた。歩く事はまだ出来ない。
隣の机の上。黒に手を伸ばし、口にする。
少しだけ、歩けるようになった。
机の上。教卓の下。教室の隅。掃除用具の中。
教室にあるすべての黒を口にする。出来る事が増えていく。
けれど、足りない。
教室から出るにはまだ足りない。
足りない。出られない。足りない。欲しい。
もっと確かなものが、ホシイ。
繰り返しの中。現れたのは、楽しげな様子で校舎を踏み荒らす男女。
肝試しに来たのだと言う。見慣れない機械を、明かりを持ち、歩き回る。笑い、怖がり、ふざけて、教室に入り込む。
礼儀を知らない者に、返す礼はない。
二人に近づき、手を伸ばす。
痙攣し崩れる男。恐怖で泣き叫び、それでも動けない女。
恐怖、悲鳴、絶望。それらすべてが心地良かった。
女の魂も食らった後、残った体を見下ろす。
少し悩んでから、以前に食べた黒を吐き出し、空になった体に押し込んだ。
指が動き、腕が上がり、目を開け、立ち上がる。
机を指差すと、ゆっくりと歩き出し椅子に腰掛けた。
よかった。これで授業が進む。
それから時折現れる『肝試し』に来た人達を喰らい、その体を使って『生徒』を増やした。
教室からも出られ、昇降口まで自由に動けるようになった。
それでも、夏は来ない。
変わらない日差し。変わらない教室。
同じ台詞を繰り返す、人。
ナツがクレバ。あのミチ、ノ、サキ、カ、ラ。
繰り返す。日常を。
『肝試し』に来るニンゲンが少なくなっても。待ち続ける。
「… ?」
サイゴに、聞こえたコトバ。
オモウサマ、おもうさま……御父様。
お父様。
思い出す。
夏を待つのは。道の先から来るのは。
けれど、いくら思っても。
スベテはもう、灰の中。
20240704 『この道の先に』
柔らかな朝の光に目を覚ます。
また今日が始まった。
同じ空。同じ場所。同じ人。
いつもと同じように動き、話す。
「おはよう」
にこりと笑みを浮かべる彼女は、今日も同じようにきらきらしている。
教室の隅。手元の本に視線を落としながら、意識は彼女達へと向けて。
同じやり取り。同じ笑顔。
変わらない日常。
他愛のない話に花を咲かせ。きゃらきゃらとした笑い声があがる。
一つ、欠伸を噛み殺し。
白紙の頁を一枚めくった。
柔らかな朝の日差しに目が醒める。
今日をまた繰り返す。
同じ空。同じ場所。同じ人。
何一つ変わらず、同じ時間を繰り返し。
けれど、
「あ。叔父様」
教室にいつもの人はなく。きらきらとした彼女だったものは、黒い男の足元に転がり溶けていく。
「その呼び方は止めろと言ったはずだ」
首を傾げ。暫し考える。
呪の元。同じ力。
「…御父様?」
眉間の皺が濃くなった。どうやらこれも違うらしい。
まあいいか、と視線を外し。崩れていく教室を見遣る。
どんなに手間をかけたとて、終わるのは一瞬だ。
「行くぞ」
視線を戻せば、すでに彼は背を向け歩き出して。
一度ゆるりと頭を振って、その背を追いかけ駆け出した。
教室を出て、階段を降り、昇降口を抜けて。
ぐにゃり、と視線が歪み、世界が反転する。
蝉時雨。刺すような強い日差し。
太陽はどこまでも遠く。留まらず、繰り返す事なく時が流れていく。
追いついて、空いていた右手を握る。振り解かれない事に、小さく笑みが浮かぶ。
「次からは溜め込まず、すぐに持ち帰る事だな」
呟かれた言葉に、頷きを一つ。
肚に溜め込んだ魂魄が音を立てた、気がした。
手を繋ぎ、歩き出す。
彼の左手を横目で見る。澱んで腐った、彼女の成れの果て。迷い子を吸収して大きくなって、呑み込めなかった魂魄。
空を見上げる。澄んだ青と刺すような日差し。
彼女が辿り着きたかったもの。焦がれて恋がれて、創り上げようとしていたもの。
夏が、来ていた。
20240703 『日差し』
両の手で、窓を作って覗き込み。
「何をなさっているのです?」
「やっべぇ色になってんなぁ。まんま化生じゃねぇか」
『窓』越しにこちらを見、呵呵と笑う酔漢に、貼り付けた笑みが引くついた。
社務所内の一室。畳に転がる一升瓶と充満する酒気に苛立ちが募る。
「ご用件をお聞きしてもよろしいでしょうか?」
用がなければ疾く帰れ。用があったとしても帰ってもらいたいものだが。
胸中の悪態を出さぬよう必死で笑みを貼り付けるが、それすらも見通すかのように。琥珀の瞳がにたり、と弧を描く。
「神様《兄貴》に会いに来たんだが、出てきてくれなくてなぁ。しばらく待たせてもらってんぜ?」
言外に気にするなと言う事なのだろうが、それならば浴びる程に酒を飲まないでもらいたい。それといい加減にその『窓』を解け。失礼だろうが。
鬱々とした気持ちが伝わったか、それとも興が醒めたのか。酔漢は『窓』を解くと、傍らに置いた瓶を手に取り残っていた中身を一気に煽った。
まだ飲むのか。いい加減にしてもらいたい。
「丸くなったなぁ。前は最初の段階で飛び掛かって来たってのによぉ」
「何十年前の話をしているんです?到頭耄碌なさって下さいましたか。そのままおくたばりあそばせて下さいな」
「ひっでぇなぁ。兄貴もよくこんな口の悪い駄狐を宮司にしてるもんだ」
口が悪いのはお互い様である。
ふと気になって『窓』を作り、覗き込む。
やはり変わらない酔漢の姿。
「化生のものか魔性のものか正体をあらわせ」
呪を唱えても、変化はなく。
狩衣姿の一升瓶を抱えた大男が、そこにいた。
「何やってんだ?馬鹿か?呆けたか?」
「ほぼ人間なのに、百年以上変わらないのは何でです?それこそ化生の類いじゃあないですか」
納得がいかない。
ここの祭神ですら、生前それなりに歳を取っていたというのに。この酔漢は何なのだろう。
「あ?そりゃあ人間の血が濃いとは言え、お袋《妖》の血のせいじゃねぇの?それか一番上《兄貴》が何かしてるかか」
残った酒を煽り適当を言われる。だいぶ酒が回ったらしい。空の瓶を転がし、横になった。
「寝る」
やめろ。部屋に転がった酒瓶を全て片付けてから寝てくれ。酒臭くてたまらない。
いびきをかいて眠る酔漢に、耐えきれず溜息が漏れる。
いっそ寝首でも掻いてやろうか。
出来はしない事を思いつつ。仕方なしに酒瓶を片付け始めた。
20240702 『窓越しに見えるのは』