猫は困っていた。
先ず、普段のように俊敏に動く事が出来なくなった。
動けないというのはとても困る。狩も出来ないし、有事の際に子らを守る事も出来やしない。
次いで、食の好みが変わった。
以前は獣を見ても人間を見ても、腹がなっていたというのに。今は何も感じず、子らと同じ穀物を食すようになった。
とは言え猫は妖であるからして、食べずとも在ることは出来るのだが。
最後に、永く子らと離れていると落ち着かなくなった。
オヤとしての意識があるからか。子らの傍に常にあり、望みに応えたくなってしまう。
自由を愛する猫は、行動が制限される事をとても嫌う。
好きな事をして、好きな物を食べ、好きな所へ行く。これが猫が猫として在るべき姿だ。
それなのに、である。
猫は、本当に困っていた。
「すごいですね。ぐるぐるまきです」
「蜘蛛だからかな?すっごい色だねぇ」
きゃらきゃらと笑う鋏と夢は、どうやら猫には見えないものが見えているらしい。
蜘蛛の糸。そう二人は呼んだ。
猫にはやはり見えなかった。
「きってもきっても、おわらない。ぐるぐるぐるぐる、いとをまく」
ぱちん、と鋏が虚空を切る。
「ほら、青色だよ。これは寂しいの感情だね」
切られた何かを夢が掴むと、可視化されたそれは確かに糸、だった。
青、赤、黒、赤、赤、赤。
「随分と赤が多い」
「この赤色は執着だよ。ほら、どろどろしてるでしょ?」
「いったい、どれだけあまやかせば、こんなどろどろができるんですか?」
糸、を切る手は止めず、不思議そうに首を傾げる鋏に、猫もつられて首を傾げた。
特に何かをしたという記憶は、ない。
「猫は普通にオヤをしてた。狩を教えて、添い寝もしたぞ。うなされていたからな」
「大事にしてるねぇ。人であっても妖であっても土蜘蛛はしつこいのに。なんで面倒見てるの?」
「ついてきたから。子はオヤの後をついてくるものだろう?」
猫は仔を産んだ事はないが、それくらいは知っている。
妖に成ったばかりの蜘蛛が、猫の後をついてきたのだ。つまりは猫がオヤという事なのだろう。
「それは、とりのはなしです」
「刷り込み、だねぇ。動物に起こる現象だけど、妖にはまずないものだねぇ」
猫は難しい事は分からない。
「はい。これでさいごですよ」
「うわっ。すっごい、真っ赤っか」
ぱちん、と虚空が切られ。
可視化されたそれは、暗く染まった赤。
朱殷《しゅあん》の太い糸。
「完全に飼い慣らそうとしてたね」
「ねこなんて、かってもめんどうなのに。ものずきですね」
伸びをする。
身体が軽い。いつもの猫になった。
「礼を言う。猫はやはり自由でないと」
「くもはどうするのですか?いっしょにいれば、おなじになりますよ?」
「え?子らとはもう一緒にはいないぞ?」
首を傾げる。
何を不思議そうにしているのだろうか。当たり前の事であるのに。
「子らを育てて、半年過ぎた。もう独り立ちの時期だからな」
半年経てば、子らは立派な大人だ。独り立ちを促すのはオヤとして当然である。
「そこは、ねこなのですね」
「無理だと思うな。最後の糸は、もう呪いだよ?」
もう一度、伸びをする。
さて、これから何処へ行こうか。遠出をするのもいいかもしれない。それならいっそ海に行こう。
「ねこ。かわれるでしょうね」
「だろうね。猫は単純だから飼い慣らすの、結構簡単だろうね」
鋏と夢が何か話している気もするが。猫に声をかけないのならば、特に問題ないだろう。
それよりも今は、海に行きたい。
ゆるりと尾を振って、走り出す。
今日は一日いい日になりそうだ。
20240701 『赤い糸』
「おや?ずいぶんと懐かしい。よくあの子らが許したものだね」
奥宮へと続く石段に腰掛け、空を見上げている珍しい子に声をかける。
本当に珍しい。雨に隠されたはずの子が、一人きりで現世に戻っているとは。
「誰?」
「酷いな。藤《私》を忘れてしまうなんて」
確かに最後に会ってから、数多年月が過ぎているが。しかしかつては愛でてくれていたのだから、覚えていないはずはない、と。半ば期待するようにそう告げれば、雨の愛し子は藤《私》を暫く見、納得したように頷き守り藤か、と呟いた。
「雨の愛し子」
「その呼び方は好きじゃない」
「そうか。では娘。こんな所でどうした?迷子か、それとも家出か?」
藤《私》を覚えている事に気分を良くし、問いかける。どちらであっても、少しばかりは力になるつもりだった。
「分かんない。少し考えたくて、気づいたらここにいたんだけど…どうしたらいいか、分からなくなった」
呟いて、膝を抱えて蹲る。
思っていたよりも深刻なその様に、どうするべきかと暫し悩む。
面倒な事は嫌いではあるが、致し方ない。
見上げた空に、遠く成長する白い雲を認め。迎えが来るまでと、雨の愛し子の隣に腰を下ろした。
「何かあった?話したくないなら、無理にとは言わないよ」
「上手く言えないんだけど」
「それでも構わないさ」
苦笑する雨の愛し子に笑みを返し、その頭を撫でれば、顔を上げ僅かに目を見張り泣くような笑みを浮かべる。
意外な反応に思わず手が止まるが、途端に寂しげな顔をされ、それならばと気にする事なく頭を撫で続けた。
「今まで知らなかった、知ろうとさえしなかった事がたくさんあって。どうするのが良かったのか分からなくなって…私のせいで死んでしまった人がいて。私がいたから悲しむ人がいて。それが選択肢を間違えたからだって思っていたのに、本当は生まれた時からどうしようもなかったんだって…色々考えて、何で私なんだろうとか。私が生まれなければって、思って」
知ってしまったのか。
最初から決まっていた結果とその過程で失われたもの。元は人であったこの娘には、それらは重すぎるのだろう。
抱えた膝に顔を埋め、声を殺して泣く姿に憐憫の情が湧く。
「雨の龍が憎い?」
問いかける言葉に返答はない。
だが微かに振られた頭を見て、それ以上は何も言えなくなる。
見上げた空に広がる雷雲は、まだ遠い。
それでも然程時間をかけず、この地に激しい雨と雷を呼ぶのだろう。
雷を纏うとは、よほど怒りが強いのか。その怒りは娘が逃げ出した故の事なのか。逃げ出したその意味を考えてはいないのか。
少しだけ、怒りが湧いた。
「もうすぐ迎えが来るようだね。でもその前に、雨の龍に仕置きをしようと思う」
「…え?」
驚いたように顔を上げた娘の涙を拭い、そのまま抱き上げる。
刹那、雨が降り出し。
雷を伴い激しく降る雨の向こう。人の形を取る雌雄の龍を見て。
「さて、仕置きの時間だよ。童ども」
龍が口を開く前に、大蛇の尾が二匹を打ち据えた。
20240630 『入道雲』
※ホラー
出口が見つからない。
『願いを叶える双頭の神』が、廃村にいる。
昔、その神の怒りに触れて、村の人すべてが連れていかれたのだという。
神が安置されている村の奥の屋敷の門は、普段は閉じており開く事がない。しかし、ある条件下で開き神に会う事が出来る。
よくある都市伝説だと思っていた。誰も本当に信じてなどいなかった。
だから学生生活最後の夏休みの思い出作りにと、友人の兄も巻き込んでこうして肝試しに来たのに。
最初はよかった。草の生い茂る道は歩き難くはあったものの、雰囲気は最高で。お互いわざと怖がり、写真を撮っては笑い合っていた。
奥の屋敷の他と違い形を残した門扉を見た時、何処か嫌な予感がした。けれどそれよりも、非日常の高揚感が勝り。
門に、手を、伸ばし。
開かない、と思った。開くわけがない、と皆思っていた。
けれども、
扉は、開いた。
容易く。呆気なく。簡単に、開いた。開いてしまった。
どうしようか、と呟いた。
行ってみよう、と誰かが囁いた。
怖い、と皆口にしながらも笑っていた。
ただ一人を除いて。
『この先は止めておいた方がいい。帰れなくなるよ』
水を差された気分だった。
他の皆も同じようで、口々に非難を浴びせた。そのせいかそれ以上は何も言われる事なく。
一人を置いて、皆で門を、潜り抜けた。
衣擦れ。足音。
ひび割れた呻き声。誰かを呼ぶかのように。
心音。呼吸。
気づかれぬように。身を縮めて、必死で息を殺していた。
声が近づく。襖一つ隔てた向こう側を、ゆっくりと、ゆっくりと。
「…ドコ……ネエ、サマ…ネエサマ…ドコ、ニ…」
漏れ出る声を、呼吸ごと押し殺す。
気づかれてはいけない。襖を開けられてしまえば、もう逃げる事は出来ない。
衣擦れ。足音。呼び声。
遠ざかる。少しずつ、少しずつ。声が小さくなる。
聞こえなくなる。
「………っは、ぁ…」
息を吐く。出来る限り静かに。音を出さぬように。
力が抜ける。動かなければと急く気持ちとは裏腹に、今は指一本すらまともに動かない。
あの時、忠告を聞いていれば。或いはすぐに引き返していれば。
皆と逸れる事もなく、得体のしれないアレに追いかけられる事もなかったはずだった。
最初にアレと遭遇したのは門を潜り抜けた先、広大な庭を散策していた時だった。
違和感は感じていた。風化を感じさせない屋敷。綺麗に整えられた庭。
あまりにも門の外とは時の流れが違っていた。
けれどその時は、その異様な様子さえ肝試しというイベントの興奮材料にしかならなかった。
怖いと嘯きながらも無遠慮に庭へと踏み入れ、そして。
広い池の向こう。佇むように、アレはいた。
紅い振袖を着た黒髪の少女。けれどその背には、着物と同じく紅い翼が生えているように見えた。
遠目では、そう見えていた。
最初に動いたのは誰だったか。
声にならない呻きを上げて後退し、脇目も振らずに走り出した。それを合図として皆一斉に逃げ出した。
門には辿りつく事が出来たが、それは二度と開く事はなく。
背後から聞こえる声に、仕方なく屋敷の中に入り込んだ。
迷路のように入り組んだ、暗い屋敷の中。出口を求めて彷徨い。
追いかけてくるアレから身を隠す内に耐えきれず、友人達は皆おかしくなっていった。一人は泣きながら笑い続け、一人は意味の伴わない言葉の羅列を永遠と話し続け。
気づけば一人になってしまっていた。
動かなければ。
逸れてしまった他の皆と合流して、出口を探さなければ。
目を閉じ力を込めて両手を握り、開く。震える足で無理やり動かし、立ち上がる。
アレから身を隠す為に入ったいくつかの部屋で見つけた、書物の内容を思い出す。
村の事。祀られていた双頭の神の事。
落雷で焼けた御神体。流行病。
神の依代。齢七つの双子の女児。
屋敷の裏。石段を上がった先。社。儀式。
アレの背にあるのは翼などではない。背から生えるのは、天に両手を伸ばした、紅い振袖の。
目を開ける。
襖に手をかけ、音を立てぬようゆっくりと開ける。
声は聞こえない。紅く揺らめく振袖の裾は、アレの姿はない。
一歩足を踏み出す。音を立てぬよう慎重に歩き出す。
動かなければ。皆を探してここを出て。
一人待っているであろう、忠告してくれた に謝らなければ。
「……ぇ?」
ふと、気づく。
忠告してくれたのは、本当に友人だったのか。自分達は何人でここを訪れたのだったか。
彼、或いは彼女の名は。声は。姿は。
そもそもその誰かは、本当に人の姿をしていたのか。
気づいた。気づいてしまった。
記憶の中の誰かの姿が途端に色褪せ、形を失っていく。まるで土で作った人形が、ぼろぼろと崩れていくように。
耐えきれず叫声を上げる。僅かに残った精神で、声の去っていた方向とは逆の方へ走り出す。
逃げなければ。
今はただ走る。逃げ続ける。
出口はまだ見つからない。
20240629 『夏』
廃村。
ひび割れた道。割れた硝子。苔むした壁。朽ちた柱。
生きるものの気配はなく。
けれども黒く蠢くナニカは辺りに点在し。
「やめとけやめとけ。そんなん喰ったら、腹ぁ壊しちまうぞ」
揶揄うような響きを持つその言葉に、舌打ち振り返る。
「そんなん喰うより、一杯やらねぇか?」
酒瓶を片手に笑みを浮かべる男。軽薄な言動とは裏腹に、足音一つ立てず刹那に歩み寄られ。
腕を伸ばせば触れ合える距離。身長差により見上げなければならなくなった事に、再び舌打ちをした。
「相変わらず冷てぇな。姉ちゃん」
「お前が変わらずでかいからだ。首が痛い。縮め」
眉間に皺を寄せ吐き捨てた言葉に、男は声を上げ笑う。
「しゃあねぇなぁ。ほら、」
片腕を伸ばされる。
認識し避けるより速く片腕に抱き上げられ、近くなった琥珀の瞳がにんまりと歪んだ。
確かに見上げなくとも視線が合うが、酷く酒臭い。
「今度のガワは学生かぁ。これじゃあ一緒に月見酒とはいかねぇか。姉ちゃんの好みは分かんねぇな」
「好みじゃない。必要だったからだ」
「あぁ。これか」
得心が行ったと頷き、目の前の朽ちずに残る門扉に視線を向ける。
門扉の前。踏み荒らされた道草が、先程まで複数の人物がここを訪れていた事を示していた。
「もう閉じてるから、向こうには行けねぇぜ?こじ開けるか?」
「いい。向こうにはなかったからな」
「そうかい。なら、奴らもそのままか」
頷く。それは関与していない。
「戻れんのかねぇ」
「知らん。忠告はしたぞ。その上で向こう側へ行ったのなら、自己責任というやつだ」
開いた時に一度止めた。それを振り払い扉を潜り抜けていってしまったのだから、これ以上の責を負うつもりはない。
現世でも、狭間でも、常世でもない。記憶の歪、断片と呼ばれる向こうの空間から自力で戻れるかは運次第だ。零ではないのだから、運が良ければ何とかなるだろう。
そんな事よりも、次の歪を探す方が大事だ。早く見つけなければ。
「もう行く。さっさと下ろせ」
腕を叩き下すよう伝える。しかし、一向に下される気配はなく。にやにやと笑う男に、知らず眉間の皺が深くなる。
「あ?悪ぃな、姉ちゃん。兄貴達から、捕まえたら逃さず連れてこいって言われてんだ」
「は?」
「姉ちゃんの体。探すのにまず中身がねぇとな…心配すんな。俺ら兄妹ならすぐ、だ」
「…は?」
片腕で抱いたまま踵を返す男はとても上機嫌で。
無理やり離そうとしても一向に動かない腕に、深い溜息が漏れる。
諦めて身を委ねれば、弧を描いた琥珀と視線が交わり苛立ち混じりに肩を強く叩いた。
痛がる様子もなく呵呵と笑う男に舌打ちし、目を閉じる。
無言。お互い特に何も話す事はなく。
酒と焚き染めた伽羅の香りが鼻腔を擽り、微睡みを誘う。
不意に、男が囁いた。
「それにしても、姉ちゃんの体は何処に行ったんだろうな」
知っていれば、苦労はない。
気づけば体はなく。意識だけが現世を彷徨い。
土を練り、人の形を作り。当てもなく体を求めて、幾年が過ぎたのか。
分かるのはただ一つだ。
「ここではないどこかにはあるだろうな」
20240628 『ここではないどこか』
「長」
囁く声に振り返る。
「 」
名を呼べど、名は言葉にはならず。
それが意味するものを知り、静かに目を伏せた。
「長。そんな顔をしないで?私が選んだのだから」
穏やかで、どこまでも澄んだ声音。
これから消えゆくモノとは思えぬ程に凪いでいながらも、その内に内包された隠しきれない幸せを感じ。
不思議に思い顔を上げれば、幸せそうに頬を染めて微笑う少女のような子と視線が合った。
あぁ。と納得する。
子は一人ではないのだと。恋う者と共に逝く事が出来るのだと。
「良い顔をする。汝は一人ではないようだな」
「そうね。今、とても満たされているの。これから消えてしまうというのに、とっても可笑しな事」
くすくすと鈴の音を転がすように、子は微笑う。
「名をあげたの。欲しいと望まれたから最後に応えた。ただ、それだけ。私と共に消えていく名をあの人に呼ばれた」
搔き抱いた布の中身が、小さく音を立てた。
「それだけで幸せ。名を呼ばれて最後にもう一度だけ触れ合えた、それだけで…本当に可笑しな事ね。妖が人に恋するなんて」
「可笑しな事はないさ。妖を恋う人がいるように、妖が人を恋うても良いだろう?」
元より妖は乞うモノなのだから。
人に応える事で己の存在を乞う。認識を乞い、人を恋う。何も可笑しな事はない。
笑みを浮かべ伝えれば、やはり子は鈴の音のような声音で泣くように笑った。
「そっか。そうね…ずっとそうだったね。私はずっとあの人だけだった」
腕に抱いた布を一度抱き、差し出される。
「長。最後にお願い出来る?集められるものは集めたのだけれど。全ては無理だった」
布の中身を見れば、粉々に砕けた黒曜の欠片。
子が恋う人の、魂の残骸。
砕けてしまったが故に足りぬ部分は確かにある。元の通りとはいかぬものの、一つの形として戻せぬ事はないだろう。
「汝の最後の頼みよ。時間は要するが人の子としてまた流してやろう」
「ありがとう、長」
慈しむように布ごしに黒曜を撫で、静かに下がる。
笑みを湛えたままの子の姿が、解けるように形を崩し。
まるで初めから何もなかったかのように。何一つ残るものはなく。
ただ一つ。手にした黒曜が、子が確かにここにいたのだと声なく告げていた。
20240627 『君と最後に会った日』