廃村。
ひび割れた道。割れた硝子。苔むした壁。朽ちた柱。
生きるものの気配はなく。
けれども黒く蠢くナニカは辺りに点在し。
「やめとけやめとけ。そんなん喰ったら、腹ぁ壊しちまうぞ」
揶揄うような響きを持つその言葉に、舌打ち振り返る。
「そんなん喰うより、一杯やらねぇか?」
酒瓶を片手に笑みを浮かべる男。軽薄な言動とは裏腹に、足音一つ立てず刹那に歩み寄られ。
腕を伸ばせば触れ合える距離。身長差により見上げなければならなくなった事に、再び舌打ちをした。
「相変わらず冷てぇな。姉ちゃん」
「お前が変わらずでかいからだ。首が痛い。縮め」
眉間に皺を寄せ吐き捨てた言葉に、男は声を上げ笑う。
「しゃあねぇなぁ。ほら、」
片腕を伸ばされる。
認識し避けるより速く片腕に抱き上げられ、近くなった琥珀の瞳がにんまりと歪んだ。
確かに見上げなくとも視線が合うが、酷く酒臭い。
「今度のガワは学生かぁ。これじゃあ一緒に月見酒とはいかねぇか。姉ちゃんの好みは分かんねぇな」
「好みじゃない。必要だったからだ」
「あぁ。これか」
得心が行ったと頷き、目の前の朽ちずに残る門扉に視線を向ける。
門扉の前。踏み荒らされた道草が、先程まで複数の人物がここを訪れていた事を示していた。
「もう閉じてるから、向こうには行けねぇぜ?こじ開けるか?」
「いい。向こうにはなかったからな」
「そうかい。なら、奴らもそのままか」
頷く。それは関与していない。
「戻れんのかねぇ」
「知らん。忠告はしたぞ。その上で向こう側へ行ったのなら、自己責任というやつだ」
開いた時に一度止めた。それを振り払い扉を潜り抜けていってしまったのだから、これ以上の責を負うつもりはない。
現世でも、狭間でも、常世でもない。記憶の歪、断片と呼ばれる向こうの空間から自力で戻れるかは運次第だ。零ではないのだから、運が良ければ何とかなるだろう。
そんな事よりも、次の歪を探す方が大事だ。早く見つけなければ。
「もう行く。さっさと下ろせ」
腕を叩き下すよう伝える。しかし、一向に下される気配はなく。にやにやと笑う男に、知らず眉間の皺が深くなる。
「あ?悪ぃな、姉ちゃん。兄貴達から、捕まえたら逃さず連れてこいって言われてんだ」
「は?」
「姉ちゃんの体。探すのにまず中身がねぇとな…心配すんな。俺ら兄妹ならすぐ、だ」
「…は?」
片腕で抱いたまま踵を返す男はとても上機嫌で。
無理やり離そうとしても一向に動かない腕に、深い溜息が漏れる。
諦めて身を委ねれば、弧を描いた琥珀と視線が交わり苛立ち混じりに肩を強く叩いた。
痛がる様子もなく呵呵と笑う男に舌打ちし、目を閉じる。
無言。お互い特に何も話す事はなく。
酒と焚き染めた伽羅の香りが鼻腔を擽り、微睡みを誘う。
不意に、男が囁いた。
「それにしても、姉ちゃんの体は何処に行ったんだろうな」
知っていれば、苦労はない。
気づけば体はなく。意識だけが現世を彷徨い。
土を練り、人の形を作り。当てもなく体を求めて、幾年が過ぎたのか。
分かるのはただ一つだ。
「ここではないどこかにはあるだろうな」
20240628 『ここではないどこか』
6/28/2024, 3:58:46 PM