sairo

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6/2/2024, 2:48:25 PM

雨の音。
さらさらと。しとしとと。鼓膜を揺する。

「あぁ、こんな所にいたのね」

聞き馴染んだ声。
視線を向ければ、見知った彼女の姿。
雨の中、傘も差さず。それでも決して濡れる事のない。
人に似た、けれど人ではない彼女の姿。

「まったく、あの馬鹿は無理ばかりさせるんだから」

腕を引かれ、抱き止められる。そのまま顎を掬われ、唇をなぞり。僅かに空いた口腔に何かを差し入れられて。

「ーーーっ!」

その何かのあまりの苦さに、虚ろいでいた意識が現に戻った。
思わず吐き出そうと口を開きかけるが、それより早く彼女の手が口を塞ぐ。
涙で滲む視界の中、必死で藻掻くが手は離れず。仕方なしに何かを嚥下すれば、満足したように手が離れ優しく頭を撫でられた。

「いい子。少しは楽になったかしら」
「何、あれ…」
「気付け薬。よく効いたでしょう?」

気付け薬。
何故、と問おうとしてふと気付く。
傘も差さず、ずぶ濡れで外にいる事。いつからここにいるのか覚えていない事。昨日の事。その前の事。
ここ最近の記憶が、酷く曖昧だった。

「これに懲りたら、全てに応えようとしない事ね。次は戻って来られなくなるわよ」
「まって、何が…え?」
「覚えてないならいいの…あいつも少し余裕がなかったからね」
「あいつ…彼、が、何…?」

何処か寂しげにも見える笑みを浮かべ呟いた言葉に、ますます分からなくなる。
この記憶の欠落は彼が関係しているのか。今ここに彼がいないのはそれが理由なのか。
問いかけようと口を開き、結局は何も問う事が出来ず。
代わりに手を伸ばして、彼女の頭をそっと撫でた。

「…っ」
「えっと…いい子、いい子…?」
「何よ。まったく…あんたは、本当に」

呆れたような、それでいて泣きそうな声音。
頭を撫でていた手を取られ、そのまま引かれて抱き締められた。

「そういう所、何とかしなさいよ。今回はわたし達が悪いんだから、無闇に甘やかそうとしないの」
「でも理由はある」
「そうよ。だって今更諦めるなんて嫌だもの!代償は払ったつもりだったわ。あの馬鹿も分かっていたのに事を大きくして!しかもあんたに無茶させてるんだから!」

よくは分からないが、記憶にはない所で何か彼に応えてしまったらしい。
取り敢えず彼女を落ち着かせる為、腕を背にまわし優しく撫でる。逆に抱き締める腕の力が強くなってしまったが、背を撫でる手を止めるつもりはなかった。

「うん。ごめんね?」
「取り敢えずで謝るのやめなさい。悪いのはあの馬鹿だから…まあ、馬鹿をしたせいで今こき使われているのはいい気味だと思うけどね」
「彼、こき使われてるの?」

機嫌が幾分か直ったらしい彼女は、にやりと笑い空を指差す。
空は相変わらずの雨。腐らせるのではなく、潤すような優しく静かな雨。

「恵みの雨。今年は豊作になるわよ」

見上げた空の向こう。遥か遠くに黒い龍の姿が霞見えた気がした。



20240602 『梅雨』

6/1/2024, 2:23:55 PM

木々の騒めく音に混じり、声が聞こえた気がした。

何かを乞うような、祈るような、嘆くような、叫ぶような。矛盾した感情が重なり合い、何故か胸が苦しくなる。
会いに行かなければ。
思わず立ち上がりかけた体は、けれども背後から伸びる手に制されそれ以上は動けず。そのまま両耳を塞がれれば、胸の苦しさも次第に感じられなくなっていく。

どれくらいの時間が過ぎたのか。
不意に手が離れ、遮断されていた音が帰ってくる。
あの声はもう聞こえなかった。

「大丈夫。アレはもう、現世に抜けたから」
「さっきのは、何?」

振り返り、耳を塞いだ彼に問う。
問われた彼は暫し逡巡し、迷いながらも口を開いた。

「変質してしまったモノ」

それが正しい表現なのか分からないけれど、と彼は笑う。

「今のアレの姿は人間が言い伝え、断じたモノ。夜鳴く声を恐れて、その声は病をもたらすと伝えて姿形すら決められた。無垢なアレはすべてを受け入れ、応じて…結果、元が何であったのかをアレ自身すら忘れ、壊れた」
「人が、変えた?」
「そう。今のアレは人間を病ませる声で鳴く、継ぎ接ぎの壊れた化生」

病をもたらす声。人が作り上げたそれら。
かつていた村の言い伝えを思い出す。目の前の雨の龍も変わってしまっているのだろうか。

「無垢で弱いモノほど、すべてに応え壊れていく。だから翠雨、俺達以外には応えてはいけないよ?」

優しく頭を撫でられる。引き寄せられ、幼い子供にするように背をとんとんと叩かれれば、意に反して瞼はゆっくりと閉じてしまう。

「アレの事はもう忘れて、眠るといい」
「でも…」

段々に落ちていく意識を必死で手繰り寄せる。
一つだけ、気になっていた事があった。

「あの、声。知ってる…気、が…」
「おやすみ、翠雨」

静かで優しい声音。
抗いきれず、眠りに落ちた。


「そうだね。アレの声は花の子から奪ったものだから、聞き覚えがあって当然か…それにしても、人間にすべて奪われたアレが奪ったのが声とは。何とも皮肉なものだな」

呟くその言葉を、答えを知る事がないままに。



20240601 『無垢』

5/31/2024, 3:33:24 PM

「私ね。大きくなったら……になりたいの」

大きくなったら。
それが少女の口癖だった。
冒険家、花嫁、医師、研究者、小説家。
日によってなりたいものは様々だったが、楽しげに夢を語る少女はいつも輝いているように見えた。

「大きくなっても、いっしょにいましょうね」

幼心で交わした約束を思い出す。
あれはいつの頃だったか。いつもの廃れた神社で話半分に聞いていた時に、油揚げ《好物》と共に言われた言葉。退屈凌ぎにはなるかと、深く考えずにその望みに応えた。
ただそれだけ。これから先も同じような日々が過ぎていくのだと信じていたから。
けれど、


その日を最後に少女は神社へ訪れる事はなく。
最期に見た少女は昏い水の底に、一人きりで沈んでいた。
足を滑らせたのか、沈められたのかは分からない。
引き上げた少女の体は酷く冷たく、水にふやけて表情すら分からない。
何故、と誰にでもなく問う。
なりたいものがあったのではなかったのか。
また明日と笑っていたのではないか。
ずっと一緒にいたいと望み、それに応えたのを忘れたのか。

許さない、と思った。寂しい、と溢した。
小指を喰む。人間が約束を交わす場所を。
どんな形であれ、約束は果たしてもらうつもりだった。最初に望んだのは少女の方だ。それに応えて裂けた尾の責任を取って貰わなければ。
今は常世で眠っているであろう少女が、再び現世に産まれ落ちた時に逢いに行こう。側でその生を見守り、なりたいと望んだものになっていくその様を見届けよう。
その生が終わりを迎え、次の生が来たとしても同様に。何度でも。

その時を想い、裂けた尾が揺れた。
愉しげに、ゆらゆらと。




「というわけでなのです」
「……で?」

相変わらず小さな手桶で水を撒く藤は、話を終えると律儀に手を止めこちらを向いた。
隠そうともしない不機嫌な様子に笑みが浮かぶ。

「いつも変態だの、気持ち悪いだのと言われていましたので。理由をお話しすれば、ワタクシの純粋なこの気持ちを分かって頂けるかと」
「純粋…これが?」
「はい。なりたいものになる前に儚くなってしまったあの子の新たな旅立ちを見守りたいという、純粋で真っ白な気持ちではないですか」
「………」

無言。
数歩距離を取られ、水撒きを再開される。

「無視しないでくださいな」
「五月蝿い。永遠と終わらない旅をこんな変態にさせられる子が可哀想。解放してあげれば」

酷い言われようである。
こちらとしては望みに応えているだけだというのに。
けれど何だかんだと言いながらも相手をする藤の優しさに気分を損ねる事はない。

「酷いですねぇ。あと、やはりそれは効率が悪いですって」

こちらに背を向ける藤の手桶を奪えば、強く睨みつける紫紺の瞳。

「辰砂」

強く呼ばれる名。ぞくりと背が震えた。

「邪魔をするなら、帰れ」

強い光を宿した紫紺。静かで透き通る響きの声音。
たまらなくなり、抱きついた。

「なっ!まっ…!」
「やっぱり、夫婦になりましょう?大事にしますから。あの子の次ぐらいに」
「だからっ、断るって…!」
「だって効率がいいじゃあないですか。すぐ終わりますよ?大好きな人間達が危険に晒されなくなるんですよ?」
「うっ……いや、やっぱり駄目だ。絶対に嫌だ」


一瞬だけぐらついた藤に、くすりと笑う。
この人間と共に生き、愛した藤はきっと気付かないのだろう。
人間の側でその生を見守り続けている藤もまた、己と変わらない事に。
短い生の旅路を見守り、終わりを見届ける。違うのはその対象が一人か数多かという事のみ。
それに気付いた時、一体どんな表情《かお》をするのか。
その日を楽しみに待ちながら、嫌がる藤に頬擦りをする。

数千の刻を生きる、優しく哀れなこの藤の花は今日も気付かない。




20240531 『終わりなき旅』

5/30/2024, 2:29:48 PM

荒い息。赤い顔。時折溢れる微かな呻き声。苦しげな咳。

やってしまった。

唇を噛み締め、手拭いを変えようと手を伸ばす。先程変えたばかりのタオルは、額の熱ですでに温くなってしまっていた。

「ごめん」

後悔ばかりが押し寄せる。
風邪を引いたのだと、幼馴染の母親は言った。昨夜から熱が下がらないのだと。
自分のせいだ。昨日逢いに行ってしまったから。
せめてもの罪滅ぼしに看病を願い出たが、昨日の事を知らない彼女の母親には気にする事はないと笑って断られた。それでも最後にはどこか嬉しそうに笑われながら許可をもらい、こうして幼馴染の側にいる事を許されている。

「ごめん」

桶に張った水に手拭いを浸し、固く絞る。額にそっと乗せれば、その冷たさに幾分か表情が和らいだ気がした。

「ごめんね」
「…ゃだ」
「しおん?」

微かな声。
いつの間に目が覚めたのか、熱に浮かされた眼差しでこちらを見つめる幼馴染に胸が苦しくなる。

「むりしないで。まだ寝てないと」
「だめ…ひさ、め。ご、めん…めっ、よ」

苦しげな呼吸の合間に紡がれる言葉。

「ごめ、ん、やだぁ」
「ん、でも俺のせいだから」
「や、なの。ごめん、いや…ひさめ、いっ、しょ、いいのっ…ずっと、いっしょ」

ごめんは嫌。ずっと一緒がいい。
熱の為に纏まらない思考で、それでも必死で伝えようと手を伸ばされて。思わずその手を取れば、安心したように微笑まれた。

「分かった。もう言わないから。ずっと一緒にいるから」
「ほん、と?…ふふっ、ひさめ、すき」

嬉しそうに、幸せそうに囁いて、目を閉じる。

「うれし…いっしょ。ずっと。ひさめ。すき。だいすき」
「しおんっ、寝よ?もう、おやすみしよ?」
「ひさめ、は?…すき?」

顔が熱い。きっと今の自分の顔は幼馴染よりも赤いのではと思えるほど。
嬉しさと、それに勝る恥ずかしさに叫びたくなる衝動を堪えながら、呼吸を整え息を吐く。
微睡む幼馴染の耳元に唇を寄せ、囁いた。

「俺も、好き。しおんが大好き」

その言葉に返す声はない。
すうすうと規則正しい寝息が聞こえ、安堵に詰めていた息を漏らす。
まだ顔が熱い。誤魔化すように握ったままの手を額に当てる。
果たして、今日を覚えているのだろうか。
どうか忘れてほしい。でも覚えていてほしい。
相反する思いに苦笑して、そのまま目を閉じ横になる。
手は離さずに、握ったままで。
笑みを浮かべて穏やかに眠る幼馴染の隣で、同じように暫しの眠りについた。



20240530 『「ごめんね」』

5/29/2024, 2:55:04 PM

緋色に出会ったのは、蝉時雨の降る暑い日の事だった。

「まぁた、変なのが入り込んできたわねぇ」

最初に感じたのは、とても綺麗な人だという事。
鮮やかな緋色の着物を着て、気怠げに煙管をふかす。まるで物語の中から現れたような、とても綺麗な人。
言葉も出ず惚ける私を見て、何が可笑しいのかくすくすと笑う。

「なぁに?変な顔をして。可笑しな坊や」

不意に笑みが消える。
強い光を湛えた鈍色の瞳が、見定めるかのようにこちらを射抜き、そして先程よりも愉しげに弧を描いた。

「だいぶ擦り切れた格好をしているから童男《おぐな》かと思えば。まさか童女《わらわめ》とはねぇ」

擦り切れた格好。
その言葉に自分の今の姿を見下ろしてみる。
よれてだぼついた半袖。擦り切れ穴の空いた短パン。日に焼けた手や足の擦り傷、切り傷。
目の前の綺麗な人を前にして、急に羞恥心が込み上げてくる。

「ぁ…えと、その…ごめんなさい」
「なによ急に。謝ったりなんかして。あなた、悪いコトでもしたのかしら?」
「その…あの、か、勝手に、入って、きた、から…あと、あの、兄さんの、お下がり…き、着て、た、から」

詰まりながら吐き出した謝罪に、どうしようもなく泣きたくなった。兄のお下がりを嫌がる気持ちはないはずなのに、どうしたらいいのか分からない。
見知らぬ場所に迷い込んだ不安と、羞恥心と、劣等感と。
溢れてくる感情に動けず俯く私を見て呆れたのか、綺麗な人は一つ溜息を吐いたようだった。

「まったくもぅ。一旦落ち着きなさいな。それ以上考えた所で、無意味に時間が過ぎるだけよ」
「ごめんなさい」
「それもやめなさい。意図の不明な謝罪ほど無価値なものはないわ…ほら、おいで」

囁く言葉に顔を上げれば、ゆるゆると招く手が視界に入る。
それに誘われるようにその人へと近づけば、抱き上げられ膝の上に乗せられた。

「えっ、あ…」
「本当に馬鹿な仔…まぁ、いいわ。ちょうど退屈していたのよ。勝手に入り込んだ代償に付き合ってもらうわ」

くすり、と微笑んで目を合わせられる。間近で見る鈍色がきらきらと煌めいて、息を呑んだ。

「あなたのようなじゃじゃ馬娘にぴったりな物語をあげましょう。あなたの時間を代償に」


これが、私と緋色の妖の奇妙な関係の始まりだった。



「なにを惚けているのかしらねぇ、このじゃじゃ馬娘は」

頬をつねられ、我に帰る。

「まったく、過去を想うのは夢の中くらいにしておきなさい。時間の無駄だから」

相変わらず緋色は今日も気怠げだ。それでいてこちらを見透かす言葉は何処までも鋭いのだから恐ろしい。
ふと、自分の姿を見下ろして見る。あの時と同じ、半袖と短パン。違うのは、擦り切れた兄のお下がりではない、淡い色合いのリボンがあしらわれた女の子の服である事。

「ねえ、今の私なら、初めて会った時に女の子だって分かってもらえるかな」
「また意味のない事を…まぁ、その格好ならばまず間違えないと思うわよ。格好もそうだけど、肉付きも良くなってきたしねぇ」

愉しげに笑い、頬をまたつねられる。
その手を振り解きながら、そういえばあの頃は随分と痩せていたものだとぼんやりと思った。

「そろそろ、いつものお話を聞かせてよ」
「あなたねぇ…」

呆れたように息を吐かれる。それに対してにこりと笑って見せれば、それ以上何も言われる事はなかった。

「しょうがない。さぁ、今日は何の話が聞きたいのかしら?」

いつもの言葉。
退屈凌ぎに紡がれる物語。

今日もまた遠い世界を夢見て、物語の続きを願った。



20240529 『半袖』

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