「めんどくさい」
手桶に汲んだ水を撒きながらぼやく。
水に濡れた地が元の色を取り戻していくのを見遣り、そして周囲を見て溜息が漏れた。
辺りを染める黒。どろどろと濁り澱んだ気は村全体を覆い、この行為の終わりを見えなくさせている。
「おや?アナタ様の方が『木』でしたか」
不意に聞こえた声。聞き覚えのある胡散臭いそれに、思わず眉根が寄る。
面倒なのが来てしまった。
関わり合いにはなりたくないが、とはいえ聞こえぬふりも出来るはずもなく。仕方なしに手を止め振り向いた。
「げっ…」
「久方ぶりにお会いしましたもので『花』と間違えてしまいました」
「悪趣味」
胡散臭い笑みを浮かべる宮司が手にしたソレを見て、重苦しい溜息を吐く。
「知人の最期をそのままにはしておけなかったもので。一部だけでも弔おうと思いまして、こうして持ち運んでいたのですが…アナタ様がご無事で何よりです」
心配めいた言葉を吐きながらも、その表情はまだ笑みを浮かべたまま。
面倒ごとに鬱々とした気分になりながらも、手渡されたソレを地面に落とし水を撒く。あちこちにこびりついた黒が溶け、その形すらも溶けていく様を見ながら、早く帰ってほしいと切に願った。
「一部でも問題はありませんか?やはり今からでも残りを持ってきましょうか」
「問題ない」
溶けていくソレは段々に元の、藤の一房に戻り。もう一度水を撒けば、生長する草木の如く広がり姿を変え、己と同じ顔をした童の姿となった。
こちらに一例し去っていく姿を見送って、未だここに留まる宮司に早く帰れとばかりに睨め付ける。
「で?用件は」
「暇だったものですから」
「帰れ!」
思わず叫ぶ。
「今本当に忙しいから!変態似非宮司の相手をしている暇ないの!」
「酷い言われようです。第一、何故アナタ様がこのような手間をかけているのです?雨で流して貰えばよろしいのでは」
それが出来るのならば、疾うにそうしている。
雨の龍はもう此方側には干渉出来ない。村のこの惨状を作り上げた過程の一要因として罰を受けたからだ。
罰ならば仕方がない事ではあるが、そのせいで昼夜問わず文字通り身を削りながら常世の瘴気を流していくのは、正直腑に落ちない所はある。
「あぁ、そういえばあの罪人は龍の血族でしたか。それも罪人以外は既に刈り取られてしまっていたとか」
「分かったならさっさと帰って。終わらないから」
「それならば、いっそ諦めてしまったら如何です?」
軽率に吐き出された言葉に、本日何回目かの溜息を吐く。
早く帰ってもらいたい。宮司と話すと頭が痛くなってくる。
「それは、私にこの地獄に晒されて生きていけ、と?」
「狭間にも一本ぐらいは生えているでしょう?彼方は鬼の方の献身もあり、穏やかではありませんか。此方を地獄とするならば、それこそ天国と呼べるくらいには」
「馬鹿か、お前」
何を勘違いしているのか。此処で根を張る藤の木《私達》は何処にも行けはしないというのに。
それにこのまま常世の瘴気が残り続ければ、この地を訪れる人の子に障りがあるかもしれない。それだけは避けなければならなかった。
手桶を投げつけたくなる衝動を息を吐いて抑えながら、そういえばと先日の事を思い出す。
「…そういえば先日、お前のお気に入りが此処へ来てたね。あの時は藤《私》が側に在ったから障りがないようにしたけど、次はどうなるか」
「あの子ならしっかり言いつけておきましたから、もう此処に来ることはないでしょう」
「どうかな?あの子だいぶ藤の花《私達》を気に入っているようだったし。気になってまた来てしまうかも?」
もし次来たとしても、障りがないようにするだけではあるが。
すっかり静かになってしまった宮司を見遣り、もういいかと踵を返す。これ以上時間を無意味に消化するつもりはなかった。
「待ってください」
腕を掴まれ、たたらを踏む。
振り返れば満面の笑みを浮かべた宮司の様子が目に入り、振り返った事を後悔した。
何か、嫌な予感がする。
「やはり水を撒くよりも雨を降らす方が効率がいいと思います。雨を降らせましょう」
「…どうやって?」
「誠に不本意ではありますが、可愛いあの子のためならば致し方ありません。ワタクシと夫婦になってくださいな」
「断るっ!」
絶対に嫌である。
雨が降る手段と言われようとも。それだけは。絶対に。
たかが数百年しか生きていない童と夫婦になるなど、想像するだけで寒気がする。切にやめてもらいたい。
あぁ、本当にこの子狐は救いようのないほどの馬鹿である。
20240528 『天国と地獄』
「クロノは。何か、叶えてほしい願いとか、ある?」
「…は?」
思わず、彼女の額に手を当てる。
熱はない。
「っバカ!」
いつもと変わらないその様子に、少しだけ安堵する。
「シロが急に変な事を言うから。つい」
はたき落とされた手を伸ばし、機嫌を損ねてしまった彼女の頭を撫でるが、それすらも振り払われて背を向けられた。
繋いでいたはずの手さえも離れてしまう。
「もう、知らない!」
これは完全に臍を曲げてしまったようだ。
さて、どうするか。
悩みはするも、何も思い浮かばず。仕方なしに背中を合わせて座り込む。
「急にどうした?誰かになんか言われた?」
「別に…」
ぽつり、と小さく返される声。
やはり普段とは何かが違う。
何かに影響を受けたのか。それとも、ないとは思うがこちらを気にかけているのか。
「俺が好きでシロの我儘を聞いてるんだ。それを負担に感じた事なんてないよ」
「っ!ワガママ、って。言い方!」
「じゃあ、好奇心が人の形をしてる、とか?」
「ばかっ!」
間違った事は言っていない。
繋いでいる手がいつの間にか引かれ始め、あちこちに連れ回されるのはいつもの事だ。
それでもその答えは気に入らなかったのだろう。合わせていた背中の温もりが離れ、代わりに背中を叩かれる。痛みを感じない、その優しさに思わず笑みが漏れた。
「こら、笑うなっ!バカ、人が、せっかく、っ!」
「だから、気にしてないって」
「私が!気にする!」
思いがけない言葉に、思わず息を呑む。
後ろを振り返らず、手を引く少女が。目に付くもの全てに興味を惹かれ、きらきら輝くその瞳が。繋いだ手の先を見る事などないと思っていた。
「嬉しかったの!外を見れて。いろんな事、知れて。名前、呼んでくれて。だから!何か返すって、決めたのっ!」
紡がれる言葉に、上がりそうになる口角を必死で抑えながら。
振り返り、背を叩いている手を優しく掴む。そのままさっきまでしていたように繋ぎ直せば、幾分か調子を戻した赤朽葉色の瞳が驚いたように瞬いた。
「ツキシロ」
名前を呼ぶ。
「…なあに?」
戸惑いながらも返る言葉に、静かに微笑んで。
「明日も、その次も、こうして手を繋ぎたい。それが俺の願い」
月の名を冠する少女が、空や月に色を溶かしてしまわないように。
大地に繋ぎ止めていられるように願う。
「それだけ?」
「あとは、そうだな…一緒に朝日を見るのを諦めないでほしいな」
それは太陽に嫌われた少女には叶わない願い。
それでも最初から無理だと、諦めてほしくはなかった。
「俺、これからたくさん勉強して、シロが青空の下でも笑える方法を見つけるから。どんなに時間がかかっても諦めないからさ。だから、シロも諦めないで」
「なに、それ…ずるい」
視線を逸らされる。
けれど、手は繋いだまま。
「それが俺の願い。叶えてくれるんだろ?」
月の訪れを乞い願って、白む夜空のように。
白の少女《ツキシロ》に向けて、願った。
20240527 『月に願いを』
数日、雨が降り続いている。
激しさはない。静かな、けれど決して降り止む事のない雨に、大人達は皆険しい顔をして何かを話し続けていた。
傘を差し、参道を歩く。
誰もいない。傘を打つ雨音が鼓膜を揺する。
普段ならば心地良ささえ感じていたはずの雨音が、今日は何故か胸を騒つかせていた。
一礼して鳥居をくぐる。
社前に佇む彼の姿を認め、息を呑む。知らず彼へと向かう足が速くなった。
一人きり。彼女は、いない。
「あぁ、来たんだ」
穏やかで落ち着いた声音。けれどもその声の端々に鋭く冷たい気配を感じて、僅かに躊躇する。
そんな私の様子を見て、彼は小さく笑ったようだった。
「今日は一人だから、逢いには行かなかった。ごめんね」
何で。一体何が。
大人達の話は本当の事なのか。
言葉に出せない感情が、決して聞けない疑問が、ぐるぐると頭の中に浮かんでは消える。
「さて、どうしようか。迎え入れるには早すぎるけれど、折角来てくれたのだから」
「な、に…?」
「おいで」
差し伸べられた手。
誘われるようにして手を重ねると、そのまま手を引かれ抱き上げられた。
「っ?」
取り落としてしまった傘が、ふわりと地に落ち転がっていく。しかしそれを気にする余裕はなく、社の裏へと歩き出した彼にしがみついて、落ちないようにするので精一杯だった。
「あそこ。見える?」
社の裏のさらに奥。禁足地である山の入り口を指差し、彼は問う。
視線を向ければそこには細く古びた道が、山奥へと続いているのが木々の間から見る事が出来た。
「道?」
「あの参道を辿って、奥宮の鳥居をくぐれば境界を越えられる」
「…境界」
境界。神様の住む世界。
話の意図が分からず、ただ彼の言葉を繰り返す。
「あいつは今眠っている。人間に焼かれた傷を癒す為に」
「っ!」
「人間達から聞いていたね。だからこうして逢いに来た」
何の感情も乗らない声音が、逆に彼の怒りを表しているようで。
どうすればよいのか、何を言えばいいのか分からない。
大人達の話は本当だった。
宮司の息子が、雨神様に傷を負わせたと。
そのせいで、宮司の一族も巫女も姿を消した。
だから、
雨は降り続く。二度と止む事はない。
全てを腐らせ、村を沈めて行くのだと。
「逢いたい?」
彼は問う。
いつもと変わらない。彼女と同じように望みを問い、与える。
「逢いたいと望むのならば連れて行く」
いつもと同じ声音。
優しく背を撫でられ、迷うように彼と目を合わせた。
逢いたい。彼女の様子が知りたい。
けれども、人間である私が逢ってもいいのだろうか。彼女も逢いたいと思ってくれているのだろうか。
まだ、望まれているだろうか。
「あのこがあいたいと望んでくれるなら」
口から溢れたのは自分の想いではなく、彼女に判断を委ねた最低な言葉。
けれど、彼にとっては違う意図で受け取られてしまったらしい。
僅かに見張られた瞳が、次にはふわりと微笑みに形取られ。
そっと、地面に降ろされた。
「いい子」
「え?」
「待ってあげる。すべてが整うまで、あと少しくらいは」
頭を撫で、髪紐に触れる。
それは以前、彼女からもらったもの。
「ちゃんと身につけてくれているね。これなら大丈夫だ」
嬉しそうに微笑んで、頭を撫でていた手を離す。そして、懐から何かを取り差し出しされた。
「これは?」
「金平糖」
硝子の小瓶に入った、色とりどりの星のようなそれを渡され、首を傾げる。
彼の言葉と行動の意図は、やはり分からないまま。
「日に一つだけ食べて。そして雨が止むように望むといい」
「え?」
「今のうちから雨の扱いに慣れておいた方が、後々楽になるだろうから」
「扱いに慣れる?なに?」
尋ねても、彼は微笑むだけ。
「そろそろ戻った方がいい。送るよ」
再び抱き上げられて、慌てて小瓶を懐にしまう。
有無を言わせないその様子に、文句よりも諦めが勝る。
こんなやり取りにはもう慣れてしまった。
「しばらくは逢いに来られないから。家でいい子にしていて。特に、ここには来てはいけないよ」
「…なんで?」
「障り《さわり》があるから」
彼の笑みにふと、大人達の話を思い出す。
宮司の息子が、雨神様に傷を負わせたと。
そのせいで、宮司の一族も巫女も姿を消した。
目を閉じて、彼の肩口に凭れる。
聞いてはいけない線引きくらいは、心得ているつもりだった。
20240526 『降り止まない雨』
拝啓 あの頃の私
突然ですが、明日私は結婚します。
あなたがまだ知らない、普通の人と。
夢を見るのはやめました。逃げる事もしなくなりました。
今の私は、愛したその地から遠く離れた街で。
自分の足で立ち、現実を生きています。
鏡の中の自分に向けて微笑みかける。
まだ少し表情が硬い。一生の思い出に残るような、そんな素敵な式にしたいと思うほど、緊張で上手く笑顔が作れなくなってしまう。
こんな時はどうすれば良いか。目を閉じて、幼い頃の記憶を手繰り寄せる。
何かに躓いた時に思い浮かべるのは、いつだって美しい緋色の事だ。常に気怠げで時には辛辣に事実を突きつけ、けれども決して見離さず助言をくれた緋色の妖。退屈凌ぎだと笑い、語ってくれた物語達を今でも覚えている。
緋色の言葉が語られた物語が、そして何より緋色を通じた出逢いの数々が、何度も躓き挫けそうになる自分に手を差し伸べ、導いてくれた。
ふと、昔教えられたおまじないを思い出す。
逢えないものに想いを届ける、それ。子供騙しと笑いながらも、心を落ち着かせるのにはぴったりだと教えてくれた。
立ち上がり、窓へと向かう。そして窓辺に置かれたガーベラの花弁を一枚千切り、窓を開けた。
花弁に口付け、想いを託して。幼い自分に向けて。
あの頃の、夢見る子供だった私へ。
どうか別れの時が来ても、その出逢いを悔やまないで下さい。
現《うつつ》に戻った後の日々を救ってくれたのは、彼らと過ごした時間でした。
臆病な私に寄り添ってたくさんの事を教え、そして最後には背中を押してくれました。
それでも別れを惜しむのならば。独りを恐れてしまうというならば。
その時はどうか、一つだけ望んで下さい。
苦しさも、悲しさも、寂しさもすべて。それがあれば、耐える事ができるから。
『どうか最期の時には褒めてほしい。頑張ったねと頭を撫でて、たくさん褒めてください』
その約束一つで、これからも私は生きていける。
20240525 『あの頃の私へ』
「あら、珍しい。隠居宮司がこんな辺境にまで来るなんて」
「しばらく社に訪れる者などおりませんからね。祭りもまだ先の事ですし」
相変わらず、失礼なモノだ。
豪華絢爛な打掛を羽織り、煙管をふかす姿は退屈さを隠そうとすらしない。
とはいえ、こちらも突然の訪問の負い目くらいはある。胸中で悪態をつきながらも表には出さずに、笑みを貼り付け歩み寄った。
「噂を耳に致しまして。村の者の間でさえ、その噂を話すものですから。これは詳しく聞かねば、と」
「噂、ねぇ。何かしら?」
白々しい。本当に食えないモノである。
「何でも、雨の龍が娘を“隠した”、と」
隠した事に正直、驚きはない。
かつては贄を対価に、望まれ応えてきたはずの存在だ。贄の絶えた現在《いま》、対価として退屈凌ぎに人間を隠す事は今までにも何度かあった。
尤も隠した人間は、すべて常世の瘴気に蝕まれ壊れてしまっていたが。
まあ、問題はそこではない。
「それと風の噂に聞きましたが、今回はどうやら毛色が違うようでございますね。時間をかけて常世の瘴気に慣れさせ、名を与えて“眷属”にしてしまったとか」
「物好きねぇ」
否定はされなかった。つまりはそういう事である。
「珍しい事もあったものです。あの龍が何かに執着を見せるなど」
「そうでもないわ。今回は物事が上手くいっただけのことよ」
「と、言いますと?」
問い掛ければ煙管を燻らせながら、はぁ、と息を吐かれる。
本当に失礼なモノだ。
「執着というよりは、ただ“欲しい”と龍が望んだだけで、それは今までにも何回かあったわ。望まれた人間は応えられなかったけれど。でも今回の人間は龍の望みに応えることができた。ただそれだけよ」
「それは、何とも特異な人間がいたものでございますね」
「元より望むよりも応える方が得意なのよねぇ、あの娘は。とはいえ龍に応えずとも、隠される結果は変わらなかったでしょうけれど」
どこか遠くを見て再び息を吐くその様子は、呆れや哀れみを含んでいるように見える。
確かに気分一つで人間を隠す龍には呆れもするし、隠された人間には同情もする。眷属になる為には相当の苦痛が伴うのだから。
「出会わなければ、人として命を終える事が出来たでしょうに。可哀想な事をするものです」
「それ、出会いも仕組まれていたわよ。何せ娘が産まれ落ちた頃より目をつけられていたからねぇ」
「それはそれは。本当にお可哀想な事です」
結果が変わらないとは、そういうことか。その人間は生まれた時より運がなかったと見える。どう足掻いたとしても、龍からは逃れられないのだから。
「可哀想だなんて、あなたにだけは言われたくないと思うわよ」
じとり、と睨め付けられる。酷いモノだ。
「何故です?ワタクシは人間を隠しても、況してや眷属などしたりはしておりませんよ」
「一つの魂に執着しておいて、よく言えるわねぇ。ここにも常世に行くついでで寄っただけでしょうに」
「おや?バレていましたか」
噂が気になったのも、嘘ではないのだけれども。
「人間としての生を損ねていない分、ワタクシの方がマシだと思うのですがねぇ」
「人間に神と祀られている妖に見初められているのは変わらないわよ。決して逃げられないもの」
三度目の溜息。
まあ、言われてみればそう変わらないのかもしれないが。
「さて、そろそろお暇させて頂きます。今日は退屈凌ぎに付き合って下さり、ありがとうございました」
礼を言えど、もはや興味も失せたのかこちらを見遣る事もない。
それを気にする必要もないかと、それ以上何も言わずに背を向けた。
退屈凌ぎにはなった。後は本来の目的地に行くだけだ。
今は実にもならない魂を想い、笑みが浮かぶ。
次に相見える時を夢想して、裂けた尾がゆらゆらと揺れた。
20240524 『逃れられない』