雨の音。
さらさらと。しとしとと。鼓膜を揺する。
「あぁ、こんな所にいたのね」
聞き馴染んだ声。
視線を向ければ、見知った彼女の姿。
雨の中、傘も差さず。それでも決して濡れる事のない。
人に似た、けれど人ではない彼女の姿。
「まったく、あの馬鹿は無理ばかりさせるんだから」
腕を引かれ、抱き止められる。そのまま顎を掬われ、唇をなぞり。僅かに空いた口腔に何かを差し入れられて。
「ーーーっ!」
その何かのあまりの苦さに、虚ろいでいた意識が現に戻った。
思わず吐き出そうと口を開きかけるが、それより早く彼女の手が口を塞ぐ。
涙で滲む視界の中、必死で藻掻くが手は離れず。仕方なしに何かを嚥下すれば、満足したように手が離れ優しく頭を撫でられた。
「いい子。少しは楽になったかしら」
「何、あれ…」
「気付け薬。よく効いたでしょう?」
気付け薬。
何故、と問おうとしてふと気付く。
傘も差さず、ずぶ濡れで外にいる事。いつからここにいるのか覚えていない事。昨日の事。その前の事。
ここ最近の記憶が、酷く曖昧だった。
「これに懲りたら、全てに応えようとしない事ね。次は戻って来られなくなるわよ」
「まって、何が…え?」
「覚えてないならいいの…あいつも少し余裕がなかったからね」
「あいつ…彼、が、何…?」
何処か寂しげにも見える笑みを浮かべ呟いた言葉に、ますます分からなくなる。
この記憶の欠落は彼が関係しているのか。今ここに彼がいないのはそれが理由なのか。
問いかけようと口を開き、結局は何も問う事が出来ず。
代わりに手を伸ばして、彼女の頭をそっと撫でた。
「…っ」
「えっと…いい子、いい子…?」
「何よ。まったく…あんたは、本当に」
呆れたような、それでいて泣きそうな声音。
頭を撫でていた手を取られ、そのまま引かれて抱き締められた。
「そういう所、何とかしなさいよ。今回はわたし達が悪いんだから、無闇に甘やかそうとしないの」
「でも理由はある」
「そうよ。だって今更諦めるなんて嫌だもの!代償は払ったつもりだったわ。あの馬鹿も分かっていたのに事を大きくして!しかもあんたに無茶させてるんだから!」
よくは分からないが、記憶にはない所で何か彼に応えてしまったらしい。
取り敢えず彼女を落ち着かせる為、腕を背にまわし優しく撫でる。逆に抱き締める腕の力が強くなってしまったが、背を撫でる手を止めるつもりはなかった。
「うん。ごめんね?」
「取り敢えずで謝るのやめなさい。悪いのはあの馬鹿だから…まあ、馬鹿をしたせいで今こき使われているのはいい気味だと思うけどね」
「彼、こき使われてるの?」
機嫌が幾分か直ったらしい彼女は、にやりと笑い空を指差す。
空は相変わらずの雨。腐らせるのではなく、潤すような優しく静かな雨。
「恵みの雨。今年は豊作になるわよ」
見上げた空の向こう。遥か遠くに黒い龍の姿が霞見えた気がした。
20240602 『梅雨』
6/2/2024, 2:48:25 PM