初めて逢った日を覚えている。
母親の腰にしがみつき、不安気にこちらを見つめていた小さな女の子。
臆病で泣き虫な年下の幼馴染。
手を差し出せば、戸惑うように手のひらと母親を交互に見、恐る恐る手を取った。
きっとその時から、手を取る瞬間の微笑みを見た時から、自分の世界は始まったのだろう。
「本当に、いいの?」
「何が?」
「本当に、後悔しない?」
何度目かの確認の言葉に、彼女は小さくため息をついた。
「ごめん」
咄嗟に謝るが、それすらも彼女を不快にさせたのではと不安になる。
ぐるぐると渦巻く感情。
それにどうすれば良いか分からず俯くと、両頬に彼女の手が添えられ目を合わせられた。
「…いっそ、なかったことにする?」
「っ、駄目だ!」
「じゃあ、ちゃんと覚悟を決めて」
どこまでも真っ直ぐな彼女の瞳。
彼女の言葉に怯えるよりも強いそれに、身体が硬直する。
どうにか視線だけでも逸らそうと足掻くも、それすら彼女は許さない。
「前にも言ったけれど、貴方の世界は広がった。今更、私の手を引く必要はないの」
自分の世界がまだ、自分と彼女とほんの僅かな周囲の人だけだった頃。
泣く彼女の手を引くのが、自分にとって大切な事だった。
あの時感じていた庇護欲と。
それに内包された、ほんの僅かな優越感と支配欲を満たすために。
「それでも、こうして手を引く理由はなに?」
どこか冷たささえ感じる声音。
鋭く射抜く琥珀色の瞳。
理由なんて、一つしかない。
「シオンが欲しい」
最初から、ずっと。
欲しいと願ったから、傍にいた。
求めて欲しくて、手を引き続けた。
もはや、理由にすらならない単純な衝動。
「…っ」
「逃げないで」
視線が逸れ自由になった手で、彼女の手を引き抱きしめる。
「他には何もいらない。シオンだけが欲しい」
顎を掬い、今度は逆にこちらから視線を合わせると、迷うように琥珀色が揺れた。
「出逢ってから、ずっとそれは変わらない。だから欲しくて、耐えられなくて、酷い事もたくさんした…そんな男に、覚悟なんて問わないで。覚悟が必要なのは俺じゃない」
「…私だって、必要ない」
瞳は迷いを灯しながらも、言葉に迷いは一切なく。
無理やりに視線を外すと、腕を振り解いて距離を取られた。
「あの時全部言わされたのに、何で今更」
「ごめん」
「くどい!」
不満気にこちらを睨み付け、背を向ける。
それだけで、全て否定された気がして。
思わず手を伸ばせば、振り向きざまに手を取られ指に噛みつかれた。
左の『約束』がはまるはずの場所に。
「…っ!」
「これ以上、謝罪は許さないから。それでもと言うなら、全部なかったことにできるように噛みちぎってあげる」
噛んだ指に口付けながら笑う彼女に、泣き虫だった頃の面影はない。
あの日よりも、彼女は強くなった。
一人で立ち上がり、歩いて行けるほどに。
それでも、枷をはめて世界に留まる優しさはあの頃のまま。
「なかった事にしないで。俺と、ちゃんと結婚して」
「なら、何回も何回も確認取らないで」
呆れる彼女を、もう一度抱き寄せる。
その華奢な温もりと優しさに、泣きたくなりながら。
彼女の左手を取り、薬指に口付けた。
20240506 『君と出逢って』
からからと回る風車。
騒めく木々。せせらぐ川の音。
結局、戻ってきてしまった。
懐かしき屋敷を前に、一つ息を吐く。
決してこの地を嫌い、離れたわけではない。
けれども、ここでは見えぬ景色を知りたいと願ってしまい、飛び出した。
街の喧騒。無機質な雑音。
様々な地を渡り、ここにはないモノを数多に見た。
鐘の音。響く旋律。
ここに似た地にも訪れた。
けれどもやはり、ここを忘れた事はなかった。
耳を澄ますと聞こえる音を。
何より、己を呼ぶ声を常に求めていた。
結局は、この地でなくば在れぬのであろう。
「あ、おささまだ」
「ほんとだ!おかえりなさい、おささま」
「お帰りなさいませ、長」
己の姿を認め、家人が皆声をかける。
「今戻った。皆、変わりはないか」
「えぇ、何も。皆が寂しがっているくらいですわ」
「泣かなかったわ、わたし!いい子にしてたもの!」
「ぼ、ぼくだって、いい子にしてたよ?」
「そうか。寂しい思いをさせて済まなんだ」
変わらぬ皆の声に安堵しながらも、未だ己を長と呼ぶ皆に胸中で困惑する。
この地を離れる際に、長の座は退いたはずであった。
「夜半はおるか」
「ここに」
新しく長となったはずの者の名を呼べば、間を置かずに現れる男。
「ようやくお戻りになられたのですね」
「どう言う事だ」
「お帰りをお待ち申し上げておりました。我らが長」
「夜半。説明しろ」
噛み合わぬ会話に名を呼び強く問えば、笑みは崩さぬままに眼が細まった。
「私は留守居を任されただけに過ぎません。長は貴方様で御座います」
恭しく手を取り、屋敷内へ連れられる。
それに続いて他の皆も、各々の仕事に戻ったようであった。
変わらず、この男の思考は読み難い。
「さて、長旅でお疲れで御座いましょう。床を用意してあります故、お休み下さい」
「…まったく、末恐ろしい男よな」
呆れたように呟けば、深まる笑み。
本当に、この男は御し難い。
従順に見えて、その実我が強く。
されど、誰よりも信頼できる、血を分けた唯一の弟。
「戯れ言も程々になさって下さいませ。長の在るべき所は、ここ以外ないのですから」
幼子の癇癪を宥めるような、落ち着いた声音。
部屋に通され、そのまま床に寝かせられる事で、返す言葉を失くしてしまう。
「長は我々の姿を見、声を聞かねば深く眠る事も出来ないのでしょう?」
光を遮るように瞼に手を当てる男の声音は、変わらず優しい。
本当に、恐ろしい弟だ。
愚痴のような不満は、けれども今はこの手のひらと額に感じる熱に溶かして。
訪れる久方ぶりの微睡に、抵抗する気もなく身を任せた。
20240505 『耳を澄ますと』
弟が、“神隠し”から帰ってきた。
7日前、姿を消した弟。
その時と何も変わらず、7日経った事すら知らず。
周囲が奇跡だと騒めく中で。
弟だけは静かに、その琥珀色の瞳で古びた鳥居の先を見つめていた。
「ねえ、にい」
歌うような囁きが、夜の静寂に解けていく。
なに?と応えれば、虚な琥珀が僅かに揺れる。
「あのね、ないしょだけどね。にいはとくべつ」
人さし指を唇に当てて、内緒話でもするかのように顔を寄せた。
「にい、あのね。おにさまがいたよ」
囁く声には、隠しきれない喜びが滲んでいる。
感情の起伏が乏しい弟には珍しい、年相応の無邪気な笑み。
久しく見ていなかったその表情に驚くと、その反応に満足したらしい弟は、跳ねるように一歩だけ距離を取る。
そのままくるりと背を向けると、手を伸ばして空を仰いだ。
「ほおずきは、なかった。でも、ちゃあんとつれてきてくれたよ」
鬼灯、の言葉で、弟の言う『鬼様』が『導の鬼灯様』だと気づく。
導の鬼灯様。
村に伝わる、いくつかの言い伝えの一つ。
山で迷った人の元に現れ、道標となる鬼灯を与える美しい鬼。
その鬼灯が明るく灯る方へ歩いて行けば、必ず山から出られるのだという。
「きれいで、やさしくて。つのはね、ひんやりだったよ」
流れる星に手を伸ばし、それを乞うような弟の。
その声音もまた恋いているようで。
「おにさま、とってもきれいだった」
ほう、と息を吐くその後ろ姿に。
会いたい?と、無意識のうちに尋ねていた。
「うん。あいたい」
伸ばした腕を下ろし、こちらを振り返る。
琥珀が、揺れる。
「あいたいよ。あいたい。こんどは、にいもいっしょに」
伸ばされる手。
けれどもそれを、握り返す事は出来ず。
「ねえ、いいでしょう?」
願う言葉には応えずに。
弟の横を通り過ぎ、歩き出した。
帰るよ、と伝えれば、慌てたように駆け寄る足音。
「にいは、いじわるだ」
単調な声音で、表情も変えず不貞腐れる弟を横目に。
今日の事も二人だけの秘密だよ、と呟けば。
惚けたように瞬く琥珀が、微かに煌めいた。
「わかった。にいとだけのひみつ」
きっと、弟はまだ気づかない。
二人だけの意味。
失った感情の理由。
応えた言葉に変化する瞳。
月の光に伸びた影の数。
差し出されるその手を握り返せないこの哀しみを、
自分だけが知っている。
20240504 『二人だけの秘密』
「ごめん」
小さな謝罪の言葉には何も答えず、彼から距離を取る事で反抗する。
実際にはほとんど変わらない、僅かな隙間。
その僅かな抵抗すら、背後から腕を引かれ抱き留められて、零に戻る。
「……っ」
「いかないで。お願いだから」
懇願する声音は、どこか甘さを孕んで目眩がした。
「そばにいて。もう離れないで」
『もう二度と俺に関わるな!』
静かな懇願の言葉に重なる、かつての彼の拒絶の言葉。
今さらだと思った。
最初に手を振り払ったのは彼の方だった。
ようやく、一人でいる事にも慣れてきたのに。
忘れられるとすら思っていたはずなのに。
今さら、
関わるなと拒絶したその唇で、依存を乞うというのか。
「…やめて」
「ここにいてくれるなら」
「やめて。ここから出してっ」
「ごめん」
優しささえ感じる謝罪の言葉とは裏腹に、抱き留める腕の力は強く。
もはや拘束でしかないそれは、息苦しささえ覚えるほどで。
「それだけはだめ」
拘束していた右腕が離れ、けれどもその指はいたずらに首筋をなぞり、そのまま唇に触れる。
それ以上の拒否を咎めるような彼の指に、思わず息を呑んだ。
「それ以外なら何でもあげる。一緒にいてくれるなら、望むところに連れて行く」
変わらず囁く声音はどこまでも甘い。
その甘さは背中から感じる熱と混じり合い、何もかもを分からなくさせていく。
彼の優しさは毒だ。
上辺だけの甘い言葉を、その行為を、愛だと勘違いさせる。
そうして勘違いしたまま、弱って一人では生きられなくなったその時に。
彼はまた、あの日のように冷たく突き放すのだろうか。
「優しくする。大切にするから」
それならばいっそ、酷く咎めて罵ってくれればよかった。
そうしたら何の期待も持たずに、彼の檻の中で生きていけるのに。
「だから、俺を愛して?」
愛を乞われ、頸に口付けられる。
まるで恋人にするような、優しいだけのそれ。
「…っ!」
深く堕ちていく感情から逃げ出すように、絡みつく全てを振り払い。
今出来る、最大限の反抗を込めて。
その優しさを拒むように。
背後の彼に、噛み付くように口付けた。
20240503 『優しくしないで』
赤、紫、橙、白。
鮮やかに咲く花々を、空の墓標に手向けていく。
雛芥子、紫苑、金盞花、白百合。
己を慰めるだけの、そんな愚かな行為を繰り返す。
「花曇」
名を呼ばれた。
「花曇」
応えずにいれば、静かに近づいてくる足音が一つ。
「帰れ」
振り返る事も出来ずに吐き出した言葉は、滑稽な程に掠れていて。
「花曇」
それでも、名を呼ぶ声は止まらない。
そのまま声は背後まで近づき、いつかのように袖を引く。
「おにさま」
懐かしい呼び名。
もう一度袖を引かれれば、もうこちらが折れるしかなかった。
大人しく振り返れば、そのまま縋るように抱きしめられる。
「帰れと言ったはずだ」
「嫌です。貴女を置いて帰りたくない」
「我儘を言うな」
「置いていかないでください」
有無を言わさない強い言葉。
しかしその言葉と裏腹に、抱きしめているその腕は微かに震えている。
それでも、言葉に応える事は出来ず。
震える腕を解いて、一歩だけ距離を取った。
「ならぬ。人と妖は、共には生きられぬ。主も解っただろう?」
もう一歩。
今度は、背後の墓標を見せるように移動する。
「もう私に吾子を殺させないでくれ」
鮮やかに咲く花に彩られた、空の墓標。
己が産んだ子らは皆、胎より出た刹那に銀の焔に包まれ燃えた。
遺されたものは何もなく、それ故に墓標の下に埋まるものはない。
墓標すら、己が角を見立てた紛い物。
古き知人には「人間の真似事」と嗤われ。
けれども、代わりに手向けの花を譲られた。
そんな己が未練と知人の優しさで作り上げた光景に、人である目の前の彼は何を思うのか。
言葉なく墓標に見入る彼を思い、静かに目を伏せた。
「…いや」
微かに呟かれる言葉。
「嫌、です。喪いたくない。独りにはしたくない」
空いた距離を詰めるよう腕を引かれた。
伏せていた目を上げ彼を見れば、強い瞳に射竦められる。
「ここでしか生きられないのなら、ここで生きる。人として生きられないのなら、貴女と同じ鬼になる。だから、どうか」
かつて、彼と共に現世で生きると決め、角を手折った己のように。
後戻りの出来ない覚悟を携えて、請われる。
「どうか、お願いします。もう一度だけ、僕に花曇と赤ちゃんを守らせてください」
どこまでも真っ直ぐな願いは、幼子だったあの頃から何一つ変わらない。
変わったのは、年月と共に成長した身体と、低くなった柔らかい声。
そして、幾分か変化するようになった彼の表情。
泣きながら、燃える子に手を伸ばすその姿を思い出す。
子を喪い泣いたのは、己だけでなく。
これ以上喪う事を恐れたのは、お互い同じだった。
なれば、彼の願いに応える言葉は決まっている。
「ーーー誉」
それは、呼ぶ事のなかった彼の名。
「!おにさま、今」
驚き惚ける彼の、力を失った腕から抜け出す。
そのまま背を向けて歩き出せば、遅れて駆け寄る足音が聞こえた。
「もう一回!ねえ、花曇」
「さあ?何の事だか」
「いじわるしないでっ」
どこか泣きそうな彼の声音を聞きながら。
今は何もいない腹に触れ、この先のいつかが平穏である事をただ祈っていた。
20240502 『カラフル』