地下に降りると、かび臭さと湿気が一気に充満した。折りたたみ式の弓が岩や梯子に引っかかるので脱ぎ捨てるように手放す。
冷たくて暗い洞穴。敷いた布も薄く、人間が住まうような場所じゃない。まるで獣の巣だ。
「おい、ここに居るのか」
声は闇に吸い込まれ、跳ね返ることはない。広く抜ける洞窟であるのには違いないのに。
だいぶ経ってから彼の耳に布擦れの音が届いた。彼は生来目がいい。動くものを見つけるのは得意だった。
「おい!」
意外にも近くに居た。彼女を抱き上げるとどろりとした液体が手につく。
いったい何日間…!?
抱き上げた冷たい体がとつぜんこわばった。青年は彼女が生きていることに安堵する。
「に、兄さん…?」
娘の声は小さく掠れている。ランプの明かりをつけて周りを見ると、周囲はひどい状態だった。奥で動かないものもいる。人とは思えなかったが脳が勝手に理解していく。
「お前が生きててよかった」
「ん…」
娘の服は破れ、ほぼ裸に近い状態だった。下半身からの血がおびただしく、体のあちこちの痣は腫れ上がり、場所によっては青く変色している。それは尋常じゃない乱暴の後だと気付いた。青年の背中には冷たい汗が落ちていく。
娘の声がした。
「みんな、無事に、逃げた?」
「ああ!みんな元気だ」
「よかった…」
咄嗟についた嘘。もう動かない仲間たち。
荷物を置いて、ランプだけ携帯し軽い体を抱き上げた。来た道を戻る。妹は生きていた。ただ、どうしょうもない後悔が追いかけてくる。もう取り返しがつかない…。
君はたぶん忘れちゃうんだろうな。
バスに間に合わなくて、今日は幼稚園まで子供をお迎えに。
肌寒くなってきた午後の光の中、幼稚園から帰る道。自転車の後ろに乗せた次男坊は今日もずっしりと重たかった。
突然始まった電車ごっこは本格的で、薬局、お店、車屋さんを次々通過していく。
「お降りのかたは、おあしもとにごちゅういください」
難しい言葉もすらすらと出てくる。
後少しでお家だね。少しの坂道も息が切れる。
「しゅうてん、しゅうてん〜」
大きくなったね。
「ご乗車ありがとうございました」
君を後ろに乗せるのが今日こそ最後なのかもしれないと思いながら。
階段を駆け上がって一気に浴びる熱。
マンション屋上はいつもどおり金網で囲われご丁寧に施錠されていたけれど、扉はあけることができた。
開けた薄い青空には、白い筋のような雲が張り付いていた。現在腹が立つほどくそ暑いけど、空だけは秋の気配がする。
金網ごしに、あぜ道をゆく自転車を見つけた。
「すずかー!」
赤いバッグを背負った女の子が振り返る。
「明日な」
口を大きく開けて、俺は彼女の名前を呼ぶ。声のボリュームを今更抑えた。
ご近所の庭仕事をしている爺様方もなんだなんだとキョロキョロしているのが分かったからだ。
すずかが脱色した髪をばさりとふるって笑った。飾りヘアゴムのついた手首を顔のそばで可愛く振っている。
「またね」
と、彼女が言ってる気がした。
「ばかね」とも見えて少しだけ胸がどきんとした。
明日からは毎日学校で会えるんだ。
酒場で男たちに絡まれる少女に声をかけてから、なんだか最近身の回りがおかしいんだ。
彼女がいつもそばにいる。やたら声を掛けてくるし、気付くと肩が触れそうな程の距離にまで近付かれている。落ち着かない。
彼女は幼さの残る顔をにこりとさせ、
「ねぇねぇ!今日はあったかいよねー!」
と、特に中身のない会話を投げてくる。
「そ、そうかな。もう少し君は服を着たほうがいいよ…見てて寒い」
「そぉ?」
1年の半分以上は雪に閉ざされるこの地は、まだ春の兆しすらない。
今日は無防備に男の部屋にまで付いてきて、流石に限界だった。
「あのさぁ!」
「なぁに?」
僕が勢いを付けて怒鳴ったのにのんびりと返してくる。毎回この調子だ。明るいというか能天気というか…。
「ほんと、やめたほうがいい、よく知らない男に…馴れ馴れしくしないでくれ」
「よく知らなくはないよ?仲良しじゃないの私たち」
彼女は小首を傾げて笑う。それが普段どうしたら自分が一番可愛く見えるか計算されたものであるのを僕は知らない。
まぁ可愛かった。上気した頬に緩く編んだ淡い髪。まだ子供っぽいけど…白いうなじや鎖骨が見える胸元。太ももまでちらちら見える。急に頭を落とす。
「私のこと、嫌い?」
「なんでそうなるの!?」
「じゃあ好き?」
喉の奥で空気がごくりと降りていく。
もう、意味がわからない…。僕は、親友が通りかかったら助けを求めてしまいそうな程うろたえていた。
小さな音がして、それが鈴の音だと分かったのはやっと寝付けた深夜だった。
さっきからずっとうるさい。
「私を望んでいたくせに」
白いカーテン越しに見た夜空は珍しく月が浮き、ぞっとするような青さだった。
「望んで…おれが?」
「そう」
夢うつつに声の主を探すと、部屋の角に居た。
声からして少年のようであったけど、重たげに布を幾重にも身体に巻いて華奢な体躯が見て取れた。ざんばらの髪に身長に見合わない長い棒のようなものを携えている。
「なんで今更」
「夢で呼んでいただろう。助けろと」
自分がけだるく起き上がると、娘は鈴を一度だけ鳴らしただけですぐに眼の前に居た。
もう終わりだ。自分など。
だが娘の黒々とした瞳には危険な光が浮かんでいる。笑っているのだ。
「連れて行ってやろう。今すぐにだ」
死神は小さな掌を見せた。