#29 いつまでも降り止まない、雨
「なあ、雨って知ってるか?」
「あめ?食べると甘いのじゃなくて?」
「飴じゃない。空から水が降ってくるんだってよ」
「空から!?」
水といえば地面を流れる川だけ。
それが上から降ってくるなんて…
「そうだ。行商のおっさんに聞いた話だけどさ、海の何処かに、空から降り続ける雨っていうのがあるらしいんだよ」
「海に…」
川を辿っていくと、海という渡りきれないほど広い川につくらしい。私たちは海から遠く離れた場所に住んでいて、名前は知ってても見たことのある人はいない。その海の先に何かあるなんて、思いもつかなかった。
「いつか、いつかさ」
無意識で上に向けていた視線を彼に戻すと、照れくさそうに頬を掻きながら、何か言おうとしていた。
「俺らが大人になったら金を貯めて、雨を見に行こうぜ」
「うん、いいよ。約束ね」
小さい頃、純粋だった私たちのささやかな約束。
それが今は。
「朝食できてるわよ、いい加減起きて」
「…いい加減とは何だよ。俺はギリギリまで寝てる主義なの」
目はうっすらしか開いてないくせに口はよく開く。
「夜もギリギリまで起きてるくせに」
「俺には仕事のストレスを発散する時間が必要なんだよ」
「それなら私のストレス軽減にも協力してちょうだいよ」
「このことは最初に決めた通りだろ」
「あなたを起こすことまで約束してないわ」
ぽんぽん言い合いながらも部屋を移動し、私たちは食卓についた。
彼は食事中、口数が少なくなる。そのせいか、大盛りの朝食もあっという間に平らげてしまう。
私も彼に合わせて黙々と食べる。だから余計なことまで考えてしまう。
いつだったか行商人が見せてくれた商品の古い本には『雨降って地固まる』という言葉があった。
雨が降った後の地面は、水分の蒸発で固くなり、良い状態になるらしい。
物事がトラブルを経て良い方向に進むという意味があるって書いてあったけど。
そもそも、何故そんな言葉があるんだろう。少なくとも村で使ったことはない。雨が降らないから。
雨が降って止んだ後に地面が固まるなら、
いつまでも降る雨のように言い合いを続ける私たちでは、地面も固まらないのではないだろうか。
ちゃんと、約束を憶えてくれているのか。忘れたと言われるのが怖くて、いつからか聞けなくなってしまった。
◆
「くそっ、まただ」
またやっちまった。最近のあいつは、言い合いをしてるうちに暗い顔をするようになった。何とかしたいが、寝起きの頭では条件反射に言い返してしまう。
「あと少しなんだけどな…」
はじまりの雨。
この雨の降らない世界で、唯一雨が降る場所。しかし俺たちが知らなかっただけで、港町から観光用の船が出ているくらい有名だ。金はかかるが、それでも船を選べば庶民でも乗ることができるくらいの値段らしい。俺たちが行こうとすると、その港町までの旅費が結構かかるんだけどな。
それでも連れて行ってやりたい。
だけど、そのことをあいつに言えなくなっちまった。まさか、
「雨を見に行こう、がプロポーズになるなんてなー。ははっ」
あの約束の後に来た行商人に雨の話を強請ったのが、良かったのか悪かったのか。
この村では、雨を見に行くなんて金のかかることできないから廃れたんだろう。
村の中がそんなもんだから小っ恥ずかしくなって、俺もあいつと結婚するときは村のやり方に倣った。倣ってしまった。
自分が情けなくて、あいつが雨を見に行く意味を知ってるのかどうか、聞くに聞けない。もっと情けない。
こっそり仕事の合間に調べて、港町までの行き方は分かった。貯めてる金は次の給料日で目標額になる。そうしたら。
◆
その場所にはかつて栄えた国があった。しかし何者かの手によって雨が降り続くようになり、一帯は海という名の水溜まりになった。しかし、遠い昔のことである。既に国のことも雨を降らせる理由も知る者はいない。
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この唯一の雨が、自然を捻じ曲げたものなら、いつか反動が返ってきちゃうよね…と『いつまでも』が続かない、永遠の無さを改めて感じました。
私としては、この後二人にはちゃんと雨を見に行って欲しいと思います。そうするともう消化試合かなと考え、書くのはここまでにしました。なので、この後の展開はご自由に想像してもらえたら。
#28 あの頃の不安だった私へ
「ねえ」
「うん?」
「過去の不安がってる自分にかけるべき言葉ってあると思う?」
「ないね」
「即答か。でも私も同じだな」
「結局乗り越えられてるわけだしね」
「うんうん。あ、あれなら言ってやりたい」
「なに?」
「刮目せよ!」
「…確かに」
刮目とは、注意して見ること。
『刮』という字には目を擦る意味があって、
特に、思い込みや先入観を捨てて注意深く見るイメージがある言葉のようです。
過去の自分にアレやこれや言いたくなるなら、
それは後悔というべきものなので。
不安だった、と過去形にできるのは、
その事を完全に乗り越えているからこそ。
美味しいものでも食べて、
今の自分を褒めてあげましょう。
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不安なときを過ごす自分というのは、
「頭では分かってるけど不安」と言っては
自分の中に答えを探そうとする傾向があって。
日々辛い気持ちで過ごしていた頃は、それこそ光の無いトンネルを歩くようだった。
なんとなくゴールの形は予想できても肝心の出口は見えず、どれほど歩けば出られるか分からない。
実際に目を塞がれているわけでもないから、
結局周りに目を向ける余裕がなかったんだと思う。
だから、声をかけるなら、顔を上げて視野を広く持て、くらい。出来なかったから辛かったんだけど。
今、不安を感じていないなら。
わざわざトンネルを覗く必要はない。
好きに光の中を歩けばいい。
#27 逃れられない呪縛
呪縛とは、
まじないをかけて動けなくすること。心理的な強制によって、人の自由を束縛すること。
(Weblio辞書より抜粋)
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それは愛か、呪いか。
「考えられることは全部ご自分で考えられていますね。正直処置として出来ることはないです。話を聞くことぐらいですね」
その言葉で、
今まで悩むばかりで解決しなかったのは仕方のないことだったという安心と、
これからもこのまま悩むしかない絶望を、
同時に得ることとなった。
例えば、私メッセージという言葉がある。
主語を「私は」にすることで、相手への批判や押し付けを減らし、自分の素直な感情を伝えることができる。
しかし、ここで言ってはいけないのは、
『あなたのため』という言葉である。
そう言いつつ、相手にやってもらって満足するのは自分であることに注意したい。相手から理解が得られず苦しい時は、その場から離れて仕切り直した方が、実のところお互い楽である。
勘違いした愛情を、
特に、親から子へ与え続けた場合。
それは子の自由な翼を縛る呪いになるだろう。
子はその手段の間違いを知った後も、
根幹には愛があるのだからと受け入れようとし、
飲み込みきれない苦しさに苛まれる。
その呪いは、子が独立すれば解けるようなものでもなく、誰にも、本人にすら認識できないこともある。それによる苦悩は、状況によっては時に10年以上に渡って続くのである。
少し熱が入ってしまったが、
子への愛情と自分の感情が別物であることを忘れずにいたい。
#26 昨日へのさよなら、明日との出会い
僕は眠りが浅い方だから、君がなかなか深く眠ることができなかったのを、実は知っている。
起こしたと思わせてしまうと気にするかと思って、寝たフリをしていたんだ。
そうして何度も何度も夜を越えて。
ふと、深夜に目が覚めたとき、
君がぐっすり眠っているのに気づいたときの、
僕の静かな喜びを、君は知らないだろう。
やっと僕の隣で眠ることに慣れてくれたんだって。
おはよう、新しい君。
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「珍しい苗字ですね、なんて読むんです?」
「ぬくい、と読みます。そういうあなたも、なかなか見かけない苗字ですね」
「そうですね、読み方は難しくないんですけど、こっちに来てから同じ苗字の人に会ったことがないです」
「レアな苗字同士ということで、よろしくお願いします」
街コンで、たまたまペアになったのが『ぬくい』さん。あなたとの出会いだった。
付き合ってしばらく後。お互い忙しかった仕事が落ち着いて、久しぶりに食事を一緒にできたとき。
「君と結婚しなかったら、もう結婚しないかも」
そのときの、あなたの言葉には本当に驚いて。この後どうしたか覚えてない。しかも後になって聞いたら、そんなこと言ったかな、なんて。あなたのことだから本当に忘れてるんでしょうけど。
でも、このまま付き合っていていいのか不安だったから、とても安心した。
それからは、あなたが隣にいることを当たり前に感じるようになったの。
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「ご結婚おめでとうございます」
「「ありがとうございます」」
夜の区役所。記念日の入籍にこだわった僕たちは仕事帰りに寄り、婚姻届を提出した。時間帯のせいで人が少なくて良かったと思う。人が多かったら君も落ち着かないだろうから。
「私、ずっと思ってたの」
微笑みながら君は言う。
「私の苗字、木納だったでしょ。あなたと結婚したら、読み方は違うけれど、明日になるんだわって」
「僕だって、出会ったときから思ってたよ。漢字は違うけれど、『昨日』と同じ読みだなって」
変な空気になったら気まずいと思って言えなかったけど、本当は『昨日』にさよならして『明日』になってくれたら素敵だなと考えていたよ。
#25 透明な水
◇ #18と同じ人な気がする
水は透明だが、無色ではない。
現に多量の水や氷山は青く見える。
それは水が僅かに青緑色をしているためである。
水の色は赤い光を吸収してできるもので、空の青色とは異なる原理による。
ただし、海水面の色には空の色が影響している。
水は冷却されて固体である氷になると、体積が増えて液体の水に浮くようになる。実は、物質としては珍しい性質である。
水は生物にとって重要なもので、水素分子と酸素分子でできた化合物である。
「ふぅ、疲れた」
「レポート終わった?」
「うーん、半分くらいかな」
「あと何書くつもりなの?」
「水が化合物って分かるまで、長い間元素のひとつとして考えられていたーとか」
「うん」
「温度とか重さとか色々な単位を決めるのに使われてたけど、今は違うものに置き換わってるんだーとか、書こうと思ってる」
「なるほど」
「水って使われては捨てられて、悲しい奴だよな」
「分かる気がしたけど、やっぱり分からん」
「ところでさ」
「はい」
「空気みたいな奴、って良い意味でも悪い意味でも言うけど、水みたいな奴とは言わないよね」
「空気と違って水は目に見えるからかな」
「あ、でも湯水のように使うとかは言うね」
「そうだね、使い捨てる前提だけど」
「やっぱり不憫…」
「レポート終わったら、ゆっくり風呂入りなよ」
「…そうする」
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水は巡る
雲となり雨となり
川となり海となり
姿は変えても
水の根幹たる絆は変わらぬまま
地球という檻の中で
たとえ離れがたき絆が分たれても
火の中で再び結びつくだろう
どんなに澄んだ水も
深い水底には光届かず
青と暗闇に染まりゆく
水は熱を奪われ
ゆっくり眠りにつく
手足を伸ばして繋がり合い
今まで溶け合っていた異なるものを
内に押しやり閉じ込めて
ぽこん、ぽこんと
気泡が昇っていくのを見ていた
ああ、ひとつになった