未来では、自分はどうしているんだろうか。一年後は?五年後は?十年後は?
不確定な未来のことを考えると、自分はこれから先やっていけるのか不安になる。
未来を予知することができたら、みんながなんの心配もせずに楽しく幸せに暮らせるのではないかと思っていた。
現実では、未来を予知するなんてことはできない。それは希望がないことのようだが、未来を予知するよりも、みんながもっと楽しく幸せになる方法があることを知った。
まず、この方法を知るにあたって、時間が未来から今、過去へと流れていることについて触れなければならない。
西欧文化に影響を受ける江戸時代までは、時間は未来から今、そして過去へと流れるという考えが常識だったようだ。
そのため、江戸時代に使われていた和時計は、今の時計のように針が左(過去)から右(未来)へ動くものではなく、針が固定され、文字盤が右(未来)から左(過去)へ動くものであったようだ。
江戸時代までに考えられていた時間の流れを、この現代に復活させることで、未来を予知するよりも、みんながもっと楽しく幸せになることができる。
その方法をざっくりいうと、人生の目標設定をすることだ。なりたい自分の姿、実現したい未来を設定する。
それに向けて、今できることを考え、今、どんな小さなことでもいいから行動に起こす。そして、毎日その目標に少し近づくための小さな一歩を踏み出すことを、自分自身と約束する。
そうすると、未来の自分を軸に、今日が、今この瞬間があることに気づく。
これを繰り返していくと、未来の自分が今の自分を決めていることを、毎日のさまざまな体験によってだんだんと自覚していく。
そして、この一連の流れによって、時間は、過去から今、そして未来へという流れではなく、未来から今、そして過去へと流れていることに気がつく。
未来から今、そして過去へという流れがあったら、過去、今の出来事は、未来の自分次第といえる。その未来は、人生の目標設定で設定した未来と同じものになる。
どうして、未来と、人生の目標設定で設定した未来はイコール関係になるのか?わたしの人生の目標設定から具体的にみてみる。
Aさんは、「どうせ○年経っても自分なんか幸せになれない」と、〇年後に目標を設定したとする。
〇年が経ったとき(今、過去に着いたとき)、Aさんにとって幸せではない状況にある。つまり、Aさんの「どうせ○年経っても自分なんか幸せになれない」という目標が叶っている。
この逆の状況についてもみてみる。
Aさんは、「わたしは〇〇になりたい。〇〇の学校へ行って学ぶために、お金を貯める。そして〇〇の学校へ行って資格を取得し、〇〇として働く。〇〇の仕事を通して、最初元気がなかった人も少しずつ元気を取り戻していくのをサポートする。そして、〇〇をすることで、△△の現状を少しでも改善できるように、貢献することができる。」と年数を省いて設定したとする。
月日が経ったとき(今、過去に着いたとき)、Aさんにとって本当に幸せな状況にある。つまり、Aさんの「わたしは〇〇になりたい。〇〇の学校へ行って学ぶために、お金を貯める。そして〇〇の学校へ行って資格を取得し、〇〇として働く。〇〇の仕事を通して、最初元気がなかった人も少しずつ元気を取り戻していくのをサポートする。そして、〇〇をすることで、△△の現状を少しでも改善できるように、貢献することができる。」という目標が叶っている。
この二つを並べたとき、わたしがどちらを望んでいるかは、かかなくても一目瞭然だろう。
わたし自身、未来から今、そして過去へと流れていることについて、一度はなるほど!と理解したつもりになっても、これまでの固定概念をぶち壊すことはできないため、常に定着はしておらず、毎回一から以上の過程を振り返る必要がある。
まだ、この時間の流れ(時間が未来から今、そして過去へ流れていること)を自分自身に定着するには、時間がかかると思われる。
毎日実践していくなかで少しずつ自分自身に定着していって、人生の目標を、この時間の流れに乗って達成し、自分の本当の幸せを迎えにいきたい。
そして、人生の目標が、未来の記憶に重なったときを祝福したい。
__________________________________________未来の記憶___________________________________________。
“ココロ”はしばしば、天気に例えられる。“ココロ”を天気で二つに分けて表現したとしたら晴れと雨になるだろう。
いいこと・うれしいことがあったとき、天気は晴れだ。青い空が一面に広がっていて、優しく身体が温めてくれます。
悪いこと・悲しいことがあったとき、天気は雨だ。灰色の雲が空全体に広がっていて、太陽が隠れているのと、雨が足元や服の袖の方にあたり、すこし寒くなってくる。
晴れの日がずっと続いてほしいと思う。
しかし、実際の天気で晴れの日が続くと、貯水地に水が溜まっていかず、水が不足し、人を含めた生物の多くが、脱水状態になって生きられなくなってしまう。
水は天からの恵みであるが、どんよりした空や冷たく降ってくる雨が気分をずーんと沈めてしまい、雨のありがたさを感じられないときが多くある。
また、雨は新たな友達との出会いに協力してくれる。雨の日(梅雨の頃)は、カエルがぴょんぴょん飛び跳ねているところに遭遇する。雨は、乾燥が苦手なカエルにとって、とても心地のよく、安心して動き回ることができる環境をつくりだしてくれる。雨だからこそ出会える友達だ。
雨の日のカエルと同じで、“こころ”が雨だからこそ出会える友達がいる。雨の日には変わりないが、傘がなくて困っていたときに、友達がやってきて傘に入れてくれたことで、少し気持ちが明るくなる。そして、雨の日しか感じることができないじんわりと温かい優しさによって、目の前の雨が輝き、幸せな気持ちが広がっていく。
人生は、晴れと雨の繰り返しだ。天気に自分の”ココロ”を振り回されるのではなく、雨の恵みと新たな友達との出会いに感謝する。そして、天気が晴れのとき、雨のとき、それぞれのよさを噛み締めながら日々を過ごしていきたい。
__________ココロ_______________________________。
何億光年も遠く離れたところで瞬いていた光が、晴天の青空の日も、雲が空一面を覆う曇りの日も、嵐の日も、どのようなときであっても、目では見えなくても、確かにそこにある。
このことを思い出させてくれる曲がある。それは、宮沢賢治が作詞・作曲をした『星めぐりの歌』である。
この曲の詩は、終始星座の特徴を詠んでいる。
わたしは、星をみることが楽しみの一つだが、星座はオリオン座と北斗七星くらいしか知らない。
そんなわたしがこの曲を聴いたときはいつも、星座のかたちははっきりとはわからないのに、歌に登場する星座が視界いっぱいに広がっている感覚にとらわれる。そして、空を、宇宙を旅しているような、そんな気持ちになる。
前奏のやさしい旋律から始まり、その旋律に溶け込むように歌が始まる。終始ゆっくりとした雰囲気があり、心が徐々に落ち着いてくる。
そして、自然と涙が溢れてくる。歌詞には心情を表す言葉があるわけではないのに、今の状況に関係なくこの曲が自分を肯定してくれているような、わたしをやさしく包み込んでくれるような、温かい気持ちになる。
子どものころ、無邪気だったころの自分は、自分の気持ちに素直だった。毎日、今日はどんなことをして遊ぼうか考えることに夢中だった。
この曲を聴けばいつだって、子どものころの自分を思い出せる。
そして、不思議なことに、この曲から子どもの頃の自分を思い出したとき、今と比較して今の状況を悲観することはしない。
子どものころの自分を思い出して、その自分も今の自分も、同じ自分なんだと再認識する。溢れてくる涙は、悲しい涙ではなく、愛に満ちた涙だ。
この曲を聴きながら、今日も何億光年も遠く離れたところで輝いていた星たちをみながら、『星めぐりの歌』を心のなかで口ずさんでみる。星は見えなくても確かにそこにある。
これからも、どうかこの温かい気持ちを忘れずに生きていけますように。
星に願う。
_____星に願って________________________________。
君の背中は、なんでこんなにみていて安心するんだろう。
君は、わたしにとって一番心を開ける存在だと思う。
君は身体が弱くて病気がちだったけれど、元気なときはよく一緒に公園のブランコに乗って遊んだり、走ったりして遊んだね。
今は大人になって、公園で遊ぶことはなくなったけれど、たまに一緒にゲームして遊んだり、好きなアイドルについて語り合って盛り上がったりするね。
今はお互い、成人を迎え、遊びの内容が変わって、一緒に過ごす時間はすごく短くなったけれど、なんでも遠慮なく話せることは、小さい頃からちっとも変わっていないと思う。
わたしは、今だと考えられないが、小学校低学年くらいまではら、しっかり者だとよくいわれた。
君は、幼少の頃は身体が強い方ではなかったし、身体はわたしよりもずっと小さかったから、子どもながらに、姉として君を守る義務感があった^_^ような気がする。この義務感が、わたしをしっかり者にしていたのかもしれない。
しかし、そのしっかり者の気質は徐々になくなっていった。いろいろなことがあって、自分のなかでその情報や気持ちを整理しきれなくなった。
そうなると、常に自分を苦しめる考えがつきまとっていき、自分のことがわからなくなって、人と穏やかな関わりを継続することが難しくなっていった。
このころだったか、君はわたしの身長を越して、身体も徐々にがっちりしてきてたね。
そして、君はわたしが悩んでいるときに、日常の会話と同じように話をきいてくれたよね。肯定も否定もせずに、「まあ、そんなこともあるよ。」みたいな感じで。
たまに、わたしと意見が合わなくて、君に厳しいことを言われたときは、君に話すんじゃなかったかなって思うこともある。
だけど、それは君が真正面からわたしと向き合ってくれたからなんだって思う。人生における師匠のようだなって思う。
わたしは、君の姉なのに、なんでわたしが話を聞いてもらう側になっているんだろう。君に話をきいてもらうことは、そのときのわたしの心の支えだったけれど、自分が弱くて情けない存在だということを認めざるを得なくなった。
君は、わたしの弟であり、何でも話せる友達であり、人生における師匠のようであり、いろんな顔をもっていると思う。どの顔も君なのに、いろんな顔のきみが違和感なくかわるがわる存在している。
いろんな顔の君があるけれど、それは人の顔色を見て態度を変えるとか、そんなんじゃあなくて、君の信念とかポリシーを曲げることなく、人と関わっているんだろうなと思う。つまり誠実なのだ。
今まで生きてこれたのはきみという存在があったからだと断言できる。
君の背中をみていると、とても安心する。身体の大きさではなくて、君の信念やポリシーがいつも君とともにあるからだと思う。それを君がちょっとしたことでは手放さなだろうなって思う。この堂々とした態度に安心するのかもしれない。
君へ
いつもありがとう。
_____________________________君の背中————。
様々な文化や風習が、この列島を出て海を渡ったところにある。
スウェーデンには、Fika(フィーカ)という文化がある。
Fikaとは、コーヒー(他の飲み物でも○)とお菓子(お菓子以外の食べ物でも○)を用意したら、どこでも誰とでも楽しむことができる、気軽な休憩時間のことをいう。この休憩時間は、ちょっとした日常生活の出来事を話したりなど、気楽な雰囲気が特徴である。
スウェーデンにおいて、作業や仕事を中断して、Fikaの時間をとるのは、この国の文化として、その地に暮らす人々の習慣になっている。
このように、Fikaの時間をとって、心も身体もリラックスすることで、仕事や作業の生産性上げることができる。
わたしは、スウェーデンではFikaが人々の習慣となっていることをを知った時に、驚くと同時になんて素敵な文化だと思った。
最近気づいたことだが、わたしは“切り替え”が苦手だ。
仕事では、お昼の休憩時間に午後からの仕事内容を確認しながら昼食をとったり、仕事が終わった後や休みの日にも仕事のことを考えたりしていた。身体は休んでいても、心は常に緊張状態で休むことができていなかったと思う。
わたしは、Fikaという習慣を一言で表すと、『心地よい“切り替え“のひととき』だと思う。習慣だからといって強制されているわけではなく、自ら休息を楽しみ、その時間を大切な家族、友人、仕事仲間と気楽に過ごすなかで、自然と”切り替え“ができるのではないかと思う。
仕事が全然進んでいないとき、焦って早く終わらせるために休息は後回しにするが、休息をとらないと集中できなくなって、作業効率が落ちてしまい、仕事がさらに進まなくなる。わたしが体験した、休息を適切にとらないことで起きた悪循環である。
日本では、Fikaの文化や習慣はないが、意識して休息をとることはできる。仕事が忙しいときでも、深呼吸をするなど、自分なりのリラックス法を実践したり、仕事が終わった後や休みの日は、仕事以外のことを楽しむ時間を積極的にとったりなどである。
『心地よい“切り替え“のひととき』を習慣にすると、人生そのものがより豊かになり、自分なりの幸せへの道を切り開けるだろう。
遠く離れたフィンランドで暮らす人々やこの文化をつくりあげていった人々に、敬意を込めて。
「Kiitos paljon」
_______________________________遠く…._________。