『理想郷』(Bloodborne)
街のあちこちに火の手が上がっている。燃やされているのは磔にされたまだまともなはずの人たち。耳を塞ぎたくなるような断末魔を上げ続ける人がほんとうに病の根源なのか、未然に病を防ぐためだとして火をくべる人たちこそが狂っているのか、誰にも判別はできていなかった。
家に閉じこもって病のことを考え続けていてはこちらの気も狂ってしまう。意を決してドアを開け、人々に見つからぬように路地を彷徨い歩いて辿り着いたのは街の外れの診療所だった。
「こんな夜によく来てくれました。外は恐ろしかったでしょう」
迎えてくれた女医のあたたかな言葉に涙まで出てくる。殺伐とした街のことを思うと、ここは何にも悩まされずに安心できる理想郷のような場所だと思った。
「ここには大勢の人が頼りにして来ています。もう心配はいりませんよ」
言って診療所の奥へと通された時に違和感を持った。大勢の人がいるはずだが人の声がまったく聞こえず、耳慣れない奇妙な音が断続的に続いているばかりだった。振り返って他の皆はどこにいるのかを女医に尋ねようとした。その前に、私の認知がぐにゃりと歪んだ。手に注射器を持った女医の姿を見た気がするが、首元に痛みを感じたことも、手指の感覚も、ここがどこかも、なにもかもわからなくなっていく。
「ほら。もう心配いりません」
聞き覚えのある声だと思ったが、私がいったい何なのかをもう思い出すことはできな
『懐かしく思うこと』
いつもの遊び場である落ち葉の降る森に辿り着くと見知らぬこどもがひとりぽつりと佇んでいた。ここに来るのは私ぐらいのものだから嬉しくなった私はその子に駆け寄った。
「あなた、角があるのね?どうやって付けたの?」
頭に角がある子は突然話しかけられて少し驚いた様子を見せたけれど、答えてくれた。
「……生まれつきだ」
「すごい!かっこいい!」
一目でその子を気に入った私は森のいろんなところを案内した。毎年きれいな色のキノコが生えるところ。キツネの巣穴やクマの住処。シカが落とした角を集めたところ。
「私にも角が付けられたらお揃いになるのに」
言うとその子はなぜかもじもじとして、私に身につけていた指輪をくれた。ぴかぴかの土台にキラキラした石が嵌まったきれいな指輪だった。
「俺はもう行かないといけない。でも、また来てやる。これはその約束のために渡す」
「また遊べるのね!ありがとう!」
眩しいものを見るような目で私を見たその子とは日暮れに別れてそれっきり。けれど指輪はあの時から変わらずきれいなままにしわしわの私の指に光っている。
いつかの約束を懐かしく思いながらしばらくぶりに森へと入ると、落ち葉の降る森にはひとりの人がぽつりと佇んでいた。
「すまないな。遅くなってしまった」
私よりも年若く見えるその人には頭に角が生えていた。長い時を経て約束が守られたことに胸があたたかくなる。
「また会えてうれしいわ」
あのときのように駆け寄る気持ちでゆっくりと歩み寄ると、彼は微笑んで手を差し出した。その手に指輪の嵌まった手を取ればこの世界とはそれきりになると、なぜかわかっていた。私は落ち葉の降る光景をひとときじっと見つめながら、決意が固まっていくのを感じ取っていた。
『もう一つの物語』
右と左どちらへ行くか。酒場で出会った戦士と魔法使いどちらを仲間にするか。高貴な姫君と共に旅してきた仲間どちらを花嫁に迎えるか。人生には選択が付き纏い続けている。
「わしの配下に降ればお前の命だけは助けてやろう」
世界を闇に陥れた魔王は圧倒的な力で討伐隊の仲間を屠り、ひとり残した私に向かってそんな事を言う。諫言だ、と断じて歯向かった事はこれまでに数知れない。その度に私もみなと同じ運命を辿らされ、慈悲深き女神とやらに息を吹き返させられるのを何度も経験してきた。旅の仲間たちは死しても死ねぬ役目を与えられることに嫌気が差して討伐隊を辞していった。最初から残っているのは私と妻だけ。
「またふたりだけになっちゃったね」
「……あのとき姫さまと結婚していればよかった」
笑いかけた妻はその一言で表情を凍らせ、そして去っていった。
ひとりきりで魔王の城へと赴く。道中に魔王の手下が何度も立ちはだかったが、羽虫のごとくに煩わしいだけだった。それほどまでに私は強いのに、どうして魔王を倒すことが出来なかったのか。胸に決意を秘めて先へ先へと進む。
旅の伴を連れずに現れた私に魔王は愉快そうに笑いかける。
「わしの配下に降りに来たのか?」
「そうだ」
その返答に一層笑みを深めた魔王が手招きをした。私は魔王の胸に抱かれる。
魔王を倒す物語は私の物語ではなかった。そうとしか考えられない状況に最初から提示されていた選択を受け入れる。これまで描いてきた魔王を倒した後の世界のことが一抹思い出されたが、闇に身体を融かす感覚の心地よさににすべて飲み込まれていった。
私の前にかつての私のような目の輝きを宿した者が立ちはだかる。あれが魔王を倒す物語を紡ぐ者ならば、羨望とも嫉妬とも言える感情を掻き立てられるのも納得がいく。私の成り得なかった存在は私を容易く倒し、魔王にも打ち勝つことができるのか。見届けるために全力を賭すと決めて柄を握った。
『暗がりの中で』
街道の灯籠を巡っていけば次の宿場に辿り着けると教わったのだが灯籠に化けた獣のせいで道に迷わされ、気がつけばあたりは暗闇に包まれていた。しかし日の暮れまではもう少し猶予があったはずだし、伸ばした手のひらすらもわからないほどの闇とは少し出来すぎている。これも獣の仕業だなと当たりをつけるがどうしたものか。うかうかしているといつの間にか胃の中に収まっているということにもなりかねない。
思案の末に大きな声で独り言をつぶやく。
「あぁ、腹が減ってきたし寒くなってきたな。ここらで火を起こして闇をやり過ごすとするか」
荷物から火打ち石を取り出すと辺りの闇ににわかに緊張が走った。燃やすものなどないだろうと高を括っているようだが、誰を相手にそんなことを思っているのか。
鳥の形の形代に息を吹き当て、石を打った火花を載せる。轟々と燃え盛る鳥と化した形代が羽ばたくと火は闇に次々に燃え移り、ついに獣が正体を現して散り散りに逃げていこうとした。その一匹をむんずと捕まえる。
「たぬき鍋にちょうどよいな」
ドスを効かせた声でにやりと笑うと小さな獣は震え上がって泡を吹き、気を失った。散り散りに逃げたはずの獣たちは焦げながらも戻ってきて嘆願するかのように震えながら揃って鳴き出した。
「人を食わぬと約束すれば、鍋にするのはよしてやろう」
何度か頷くように頭を振るのを是とみて解放すると、獣たちは今度こそ散り散りになって逃げていった。
あたりはすでにとっぷりと日が暮れていたが空には月も星もあり、遠くには灯籠のぼんやりとした明かりが街道沿いに続いている。
「……鍋は惜しかったかな」
腹の虫が鳴くのを聞きながら、気を取り直して歩き始めることにした。
『紅茶の香り』
奥さまがメイドを伴って焼き菓子をカゴいっぱいに持ってきたのを旦那さまもこどもたちも目を輝かせて歓迎した。
「わしの手腕を見せる時が来たようだな」
言って旦那さま立ち上がり、手際良く茶の準備を始める。その光景を見た全員が驚きの声をあげる様子に気を良くした旦那さまは私に向かってウインクをし、私は頷いてそれに応えた。奥さまが手ずから菓子を振る舞うのに対抗してひそかに執事の仕事の指南を乞うていた旦那さまの淹れる紅茶は、家族らからも絶賛を浴びるほどの腕前だった。紅茶と焼き菓子の香りに包まれた家族のお茶会はいつまでも続けばいいのにと思えるほどに幸せな時間だった。
幸せな時間は過去のものとなり、紅茶の香りを嗅いだのはいつのことだか思い出せない。私を拾い、執事として育ててくださった家族は政敵によって没落させられ、貶められた。ある人は処刑され、ある人は売られ、ある人は自ら命を絶った。私はそれぞれの墓の前に膝をついて尋ねる。
「私が復讐を請け負ってもよろしいでしょうか」
頼む、と聞こえた気がしたのを寄る辺に、私は拾われる前の手腕を解くと決めた。何十年の空白はあれど、久しぶりに手にした暗器は茶道具よりもはるかに手に馴染む。
「一切、お任せください」