『涙の理由』
秘密を墓場まで持っていくことは難しいことらしい。母が病床で息も絶え絶えに語ったことは、罪の告白だった。語るだけ語ったあとに母は臨終となってしまったので、突然に自分の出生の秘密を知った私は気持ちの遣り場のないことや、聞き返したいことを問う相手の不在に憤りさえ憶えた。墓に向かって何を言っても徒労に終わる。仕方なくほうぼうへ聞いて回ることにした。
私の母は母ではなく赤の他人であった。金を積んで人さらいを雇い、連れられてきた赤子を母はそれはそれは大事に育てあげ、母としての役を満喫して人生を終えた。それはさておき、私には本来の母とおぼしきひとと幼少の頃に会っていたのかもしれないという記憶がある。母の用事について行き、母の手が離せないというときにひとりでふらふら歩いていた時に見知らぬひとに声を掛けられた。母と比べるとみすぼらしい身なりのその人は私を見ると手招きをして名前や年を聞き、はきはきと答えた私のことを眩しそうに見つめていた。私の話すことすべてに頷き、笑い、嬉しそうに聞いてくれたからとても楽しい時間だったのだが、血相を変えた母が怒鳴り込んできたことでご破算となった。母がなんの説明もなく乱暴に手を引いて歩いたことも悲しかったし、振り返ったときに見たひとが泣いていたらしいことも悲しかった。
うれしそうに話を聞いてくれたひとの、悲しみの涙のことを思う。役所で見聞きしたことを頼りに生みの親の所在をつかんだ私の足は一旦は鈍ったが、やがては歩き出すこととなった。
『ココロオドル』
南洋にほど近い国で採掘されたという青みがかった透明な石は削られて磨かれて輝きを得ると人を惑わす宝石となった。石に魅入られたひとはあの石は私のためにある、となりふり構わず思わせられる。夜会で石を身に着けた人は親友と思っていた人に命を奪われ朝を迎えることは叶わなくなった。舞台で石を身に着けた人は乱入した観客によって命を奪われ、セリフを発することなく倒れ伏した。石を奪い取った盗賊団の頭領は戯れに石を身に着け、配下の盗賊によって団もろとも壊滅させられた。
人を流れ国を流れ、石は不気味なほどに輝いてショーケースの中に収まっている。歴史を知るものは近づくことをも恐れたが、何も知らない年若い少女は毎日熱心に通りがかっては石をガラス越しに見つめていた。何も持たない私だけど、あの石があればなにか変われる気がする。そんな思いを日に日に膨らませていた彼女はある時、いっとうお気に入りのフリルのワンピースを着てバールを手にショーケースの前に立っていた。振りかざしたバールを躊躇なく振り下ろすとショーケースは派手な音を立てて辺りに散らばり、彼女と石を隔てるものは跡形もなくなった。ガラスを踏み越えて歩み寄った彼女はうっとりした目で青みがかった石を手に取り、頬に寄せる。どうしてこんな簡単なことをもっと早くにしなかったのだろう!フリルのワンピースの胸元に付けられた大きな石の嵌まったブローチは、傍目から見れば不釣り合いではあったが、胸震え心躍らせた彼女は満足そうに頷いて石をひと撫でした。遠くから大勢の足音が聞こえてくるにもかかわらず、彼女は楽しげに笑ってみせると石とともにその場を走り去ったのだった。
『束の間の休息』
私の中に蠢く心臓は刺されても潰されても時を置けばまた元通りに動いてしまうので、夜眠り朝目覚めるように私は死んでは生きてを繰り返している。難儀な体に造られてしまったものだ。
きょうは人体実験の代用として致死量の見極めに参加した。外傷で死ぬのは痛いものだが一瞬で終わる。薬物で死ぬのは苦痛が長く続きがちとなるので嫌な予感はしていたが、点滴の滴下を何千何万と受けるさなかには予想通りに様々な反応に苦しめられた。
ようやく意識が遠のいたとき、何にも苦しまない時間がひととき訪れる。人ではない私が感じるこれは人が感じることはできるものなのだろうか。人になることのできない私はふとそんなことを思いながら、もう目覚めなくなることをほんのりと願いながら安寧に包まれていった。
『力を込めて』
両手に渾身の力を込めてぎりぎりと締め付け続けるとやがてぽきりと乾いた音がして相手の体が力無く崩れた。復讐のすべてが終わったと同時に生きる目的を失った私はその場で動けなくなり、呆然と手のひらを見つめる。私に残されたものはひとを殺める感触やそれらのひとが今際に投げかけた恨み言の数々。遺志の込められた言葉は確かな呪いとなり、時には耳鳴りに、時には悪夢となって現れては私を苛ませ続けていた。
私の復讐は私が消え去ることでしか終わることができないのか。ふと湧いた灯火のような答えに突き動かされて、途方に暮れていた私はようやくその場から立ち上がる。私を苛ませ続けていたもののすべてが無くなることに希望を憶え、末永く続くようにと願われた呪いすらも儚く消えることを思うと自然と笑いがこみ上げてきた。
自決用にと母から渡されていた形見の剣が永い時を越えていま正しく使われる。鞘を払った私は渾身の力を込めて柄を握りしめた。
『過ぎた日を想う』
豪奢なドレスや華美な装飾を纏い、臣下には優しく微笑み、国や世間のことなど何一つ知らずに過ごしてきた。狭く幸せな世界が終わりを告げたのは父と母が民衆に弑逆されたとき。騎士のひとりと数人の臣下とともに城を離れる時に見た光景は、掲げられた旗のすべてが燃やされ、窓のいたるところから火を噴く有り様だった。
それまでの暮らしが民衆からの過度な搾取で成り立っていたことを知った私はおのれの無知を恥じ、煤けたドレスとくすんだ装飾品、名前も身分もすべて捨てて、国からさらに遠くへと逃げ去った。共にいた家臣たちはひとり離れふたり離れ、まだ若者と言ってもよいぐらいの騎士だけがついてきてくれた。
「奥さん、今日も精が出るねぇ」
隣に住むおじさんが畑仕事に勤しむ私に声をかけて行商へ向かっていく。くわを握る手にはまめやシワがたくさん増えた。昔付けていた指輪はもう細すぎて入らないだろうなと詮無いことをいまさらに思う。あれから王国は滅び、民主政の国が興ったと風の噂に聞いた。滅ぶべくして滅びた国を幾度か夢に見たけれどもう戻ることは叶わない。
大きくなったおなかを撫でて、夫の帰りを待つ生活は幸せと言ってもいいはずだった。けれど胸の奥に時々物悲しい風が吹くのを止める術は未だに見つかっていない。