『カレンダー』
壁掛けのカレンダーを1枚そっと捲ってみたところ、10月の文字と目が合った。6月には1年が半分終わっていたというのに、9月も半ばを過ぎかけている今になって今年が終わってしまうという危機感が突然芽生えた。
今年の初めに決めた抱負や目標は何だったか思い出そうとするけれど、9ヶ月前の記憶ほど不確かなものはない。1月から今日までの間に何か成し遂げたことはあっただろうかと探ろうとしても同じこと。
「今年何も、してない……?」
一度そう思い始めると手元にも記憶にも何も無いような気がして恐ろしくなってきたものの、思考が行ったり来たりする逡巡を経て、突然落ち着いた。
「……でも一日一日がんばってきたよな」
自分を甘やかす魔法の言葉でたやすく自分を許してしまった私は、冷蔵庫のプリンの存在を突然思い出してキッチンの引き出しからいそいそとスプーンを取り出した。
脳の端のほうで今年の抱負が“体重5キロ減らす”だったと囁いているけれど聞こえないふりをした。壁掛けのカレンダーが残り4枚しかないことも見えないことにした。
『喪失感』
闘病の末に姉は亡くなり、私は通夜と葬式の忙しさに紛れていた喪失感をまざまざと感じていた。姉ががんを告白した時から思うようになったことがある。いなくなればいいのに、と思っていたことが回り回っていたのなら、姉をこんな目に遭わせてしまったのは私のせいかもしれない、と。そして、いずれは私もがんになるに違いない、と。
喪服を脱いだ日の夜に、いつもお茶会をする店で先に来ていた姉が手を振っていた。
「やっぱここのケーキと紅茶最高だよね。久しぶりに食べるとおいしさ倍増するわ」
もりもりとケーキを平らげていく姉の前で私はまたしてもフォークが進まない。目の前のケーキがまた掠められていくけれど俯いたままでいた。するとぺし、と後頭部を軽くはたかれる。
「あんたは大丈夫よ」
「そんなの、わかんないじゃん」
「今わたしがそう言ったからそうなるの。だからさっさと行きなさい」
人にフォークを向けて説教する姉の姿が霧が晴れるように薄らいでいく。
「ケーキ、食べそびれた……」
目覚めた布団の中で今までずっと抱えてきた不安が少しもないことに驚き、姉の言葉と、はたかれた後頭部の感触を思い出す。そして、もう姉がいないという事実にまた気付いて少しだけ涙した。
『世界に一つだけ』
父と母との掛け合わせで姉が生まれて私も生まれた。世界にひとりだけの姉とは随分と長い間仲が悪かったけれど、大人になって家を離れてようやくいい距離感になり、近況報告も兼ねてのお茶会を定期的にするまでになった。
「わたし、がんだって」
青天の霹靂に打たれる私をよそにケーキと紅茶を味わう姉は平然としている。
「お、お父さんたちには?」
「まだ。でも、早めにちゃんと言わなきゃね」
私の分のケーキと紅茶にはいまだに手を出せない。その様子を見た姉からもらっちゃうよと言われてようやく口にしたけれど、いつもおいしいケーキと紅茶はいつものようにはおいしく感じられなかった。
「最近よくあんたとケンカばっかしてたこと思い出すよ。あんたなんかいなくなればいいのにっていつも思ってた。たぶんあんたも同じこと考えてたと思うけど」
小さい頃はお互いを嫌いあっていて、姉の言うとおりにことあるごとにケンカをしていた。そしてこれも姉の言う通りに、いなくなればいいのに、と何度思ったかわからない。
「それでさ、思っちゃった。あの頃思ってたことが回り回って私になっちゃったのかなって」
平然と笑って話しているように見える姉だったけれど、あんまりうまく笑えていないように見えてきた。手が止まって減らないケーキに姉がフォークを伸ばしてきて削っていく。
「治療か始まったら、ケーキも紅茶もしばらく無理かもね」
言って私のケーキを口に運んだ姉は、いつもおいしいケーキをおいしく感じてはいないのかもしれなかった。
『胸の鼓動』
夏休みが明けて二学期。小学生の時から同級生の男子があか抜けて格好良くなっていて、女子たちからなんだか視線を集めている。胸にもやもやしたものを感じなくもないけれど、ただの同級生だし付き合っているわけでもないので、なんらかのエラーが起こっているのだと思うようにしている。
そんな彼とは小学生の時から住んでる場所が変わってないので登下校はだいたい一緒になる。下駄箱をじっと見つめていたのを不思議に思いつつも外へと出たとき、彼が言った。
「そういやこの前、下駄箱に手紙入ってた」
「えっ。それどうしたの」
「アドレスとか名前とか書いてたけど、誰かわかんなかったから捨てた」
「えぇ…。見ず知らずでもひどいことするねぇ」
「見ず知らずだから捨てられるんだよ。知ってるやつだったら誠実に対応するよ」
その口ぶりからすると過去に何度かもらっているのだろうかと想像して、またもやもやとしたものを感じてしまった。ラブレターのことを大して面白くもなさそうに話した彼に尋ねてみる。
「誰だったら誠実に対応する?」
「それ聞く?」
「興味はあるね」
クラスにいるかわいい子や人気のある子を思い浮かべていると、返ってきたのはおまえ、という一言。
「えっ、わたし?」
「……そう」
誠実に対応するということは、どういうことだろう。
「アドレス、は知らないんだっけ。わたしの」
「うん」
「知りたい?」
「……教えて」
家路への歩みを一旦止めて、スマートフォンを互いに合わせる。
「ありがと」
「ど、どういたしまして」
それから歩みは再開されたけれど、何を話したのだったか、それとも何も話さなかったのか記憶があやしい。ただ、胸のもやもやとしたものの代わりに自分の鼓動がうるさいほどに鳴っていたのは妙に覚えている。
『踊るように』
うちの犬が若い頃は元気の塊だった。散歩の時にはリードをグイグイ引っ張り、よその犬には喧嘩腰になり、それはいけないとしつけを開始してからは多少落ち着き、ドッグランにも連れていけるようになった。
特に好きだったのは投げたフリスビーを取って帰って来る遊び。フリスビーを空中でキャッチする姿はとても躍動的で、脳裏には活きの良いカツオが一本釣りされるイメージが思い浮かんでいたけれど本人は知る由もなく、ぶんぶんとしっぽを振ってはもう一回投げて、とキラキラした目でねだっていた。一本釣りは毎回大漁だった。
年老いてからは足腰が立たなくなり、大好きなフリスビー遊びもできなくなった。夜鳴きや徘徊などの痴呆症状の介護を経て、ある朝にふつりと糸が切れるように亡くなった。懸命な最期だった。
荼毘に付した日の夜の夢に、犬は若かりし頃の姿でフリスビーを咥えて現れた。あたりは芝生の広がるドッグランで、周りには見知った犬たちもいる。随分と長い間投げていなかったフリスビーは緩い放物線を描いて遠くへと飛んでいき、その一点を目指して全速力で駆けていった犬は今までで一番高く、踊るように跳んでフリスビーを見事にキャッチした。
ぶんぶんとしっぽを振った犬はもう戻っては来ない。それがわかっていたので私は力の限りに手を振った。見知った犬たちとともに遠くへ行く犬に向かっていつまでも手を振り続けていた。