わをん

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8/15/2024, 3:55:02 AM

『自転車に乗って』

近所のコンビニのアイスケースにはシャーベットもありカップアイスもありコーンアイスもある。眺めているとどれもこれもがいつもの何倍にも魅力的に映るけれど、帰り道を思うとやや憂鬱になる。
コンビニを出ると雲一つ無い青空にジリジリと容赦なく照りつける太陽が輝いており、激しい気温差に冷凍室育ちのアイスたちが悲鳴を上げるのが聞こえる気がしてくる。今助けてやるからな、と心で呼びかけて意気揚々とサドルに跨ったそのとき、炎天下に晒されていた愛車が牙を剥いた。ハーフパンツからはみ出た素肌がアツアツのサドルに噛みつかれてリアルに悲鳴が出そうになり、あやうく立ちゴケまでしそうになる。ここで倒れるわけにはいかない。アイスのために。小学生のとき以来の立ち漕ぎを駆使して難局を乗り切った俺は、そのままの勢いで行くときよりも早く家へと一心にペダルを漕ぎはじめた。コンビニ内の冷房で一旦は引いた汗が溢れんばかりに噴き出してくる。普段使わない筋肉が突然酷使されて攣りはじめてくる。過酷な旅路は今始まったばかりだった。

8/14/2024, 6:30:15 AM

『心の健康』

ただいま、と誰からも返事が返ってこない一人暮らしの部屋の明かりを付けると、ダイニングの椅子に座る巨大なぬいぐるみからおかえりと声が聞こえてくる気がする。通勤カバンを置き、部屋着に着替えてメイクを落とし、それでようやくぬいぐるみに顔面からダイブすることができる。
「……落ち着く」
夕飯の支度をしなければ思いつつも、もう少し、もう少しだけと思ううちに半時間ほどは経過してしまう。けれどこれは心の健康を保つためには致し方ないことなのだ。
ぬいぐるみをお迎えする前は今よりもっと自堕落な生活を送っていたけれど、ある日のネットサーフィン中に巨大なぬいぐるみが目に止まった。気づけば指が勝手にポチっており、ぬいぐるみをお迎えするために散らかり放題だった部屋の掃除に次ぐ掃除をするに至った。自分のためにはがんばれなかったけど、誰かのためならがんばれた。私にとっての誰かは偶然のような必然のような形でここにやってきたぬいぐるみだったのだ。
次なるミッションは晩ごはんとぬいぐるみの写真をSNSにアップすること。名残惜しくも立ち上がった私にはぬいぐるみから送られた拍手が確かに聞こえていた。

8/13/2024, 3:25:04 AM

『君の奏でる音楽』

会社の有志が集まり、ライブハウスを借りて定期的に行われているかくし芸大会。やる方も観る方も固定しがちでもうただの発表会と化していたのだが、中途採用で入ってきた新人さんが新たに演者として加わることになった。長年現れなかったニューカマーの登場にやる側には気合いがみなぎり、みな練習にも熱が入っていた。
そして当日。かくし芸大会なので何をやるかはやる方も観る方もステージが始まるまでわからない。幕が開いて舞台に現れた新人さんは緊張した面持ちで、笛を吹きます、と宣言した。出てくるのはフルートのような横笛なのか、クラリネットのような縦笛なのか、それとも尺八のような和楽器なのか、変化球でオカリナや篠笛なのか。みなが固唾を飲んで見守る中、取り出されたのはちくわ。楽器ではない練り物を笑っていいものかどうか戸惑う空気が流れたが、それを切り裂いたのはえも言われぬ澄んだ音色だった。一曲、二曲と演奏されるたびにちくわで涙する人があとを絶たない。やがてラスト一曲となり、ちくわから醸し出される最後の一音が余韻を残して消えていく。
「ありがとうございました」
新人さんが深々とお辞儀をすると拍手と喝采が渦を巻いた。涙を流した人たちはステージに駆け寄って握手を求め、新人さんはそれに真摯に応えていた。
それから後の演目はちくわで温まった客席と、ちくわに負けてはいられないという熱意で大いに盛り上がった。後に伝説の一夜と呼ばれることになったのは言うまでもない。

8/12/2024, 3:52:06 AM

『麦わら帽子』

お盆の時期は父の実家に親戚一同が集まる。どの人が誰と兄弟なのか、誰のこどもなのか詳しく知らない中で仲良くしてもらっていた人がいた。父より年下でどうやら独り身でいわゆるちょい悪オヤジながら、こども相手にはひょうきんなところを見せる人だった。会えるのは決まって夏だったので麦わらでできたカンカン帽にアロハシャツ姿が見えると小さな頃には駆け寄っていたものだ。もう高校生なので行きたくない気持ちもあったけれど、あの人に会えるならと今年もやってきた。実家の祖父や祖母とそのきょうだい、叔父や叔母といとこたちに一通りあいさつをしていると声を掛けられる。
「よう、久しぶりだな」
今年もカンカン帽にアロハシャツ姿のおじさんが気さくに片手を上げた。もう高校生なので大人向けな対応をしてくれるかと思ったけれど頭を撫でくり回される。
「ちょっと!せっかくセットしてきたのに」
悪い悪いと言いながらも悪びれずに笑みを見せるおじさんは去年と比べると痩せているように思えた。
それから仏間で酒盛りが始まったのでそっと抜け出すと、抜け出た先でおじさんとばったり会った。ビールをよく飲んでいた記憶があるけれど片手にあるのは炭酸水。
「医者から酒止められてんだよ」
「体、どこか悪いの?」
「あぁ。体中全部悪いらしい」
ぐいと飲んでみせるけれどあんまりおいしそうでもない。
「好き勝手生きてきた罰が当たった、なんてオヤジからは言われちまったが、好き勝手生きて何が悪いって話だ」
炭酸水がビールみたいにどんどん減っていく。酔っ払いが管を巻いたようになってきたおじさんは、おもむろに被っていたカンカン帽を脱ぐと僕に手渡した。
「なぁ。この帽子もらってくれねぇか」
「えっ、でも」
「けっこういいやつなんだぜ、それ。大事にしてくれよ」
言葉を返す暇を与えずに立ち上がったおじさんは、そのままふらりとどこかへ行ってしまった。手元に残ったカンカン帽を見つめたり匂いを嗅いでみたりしたあとに被ってみるけれど、今着ている服ではあんまり似合わなかった。
次の年のお盆はおじさんを迎える形になった。僕はファッションの好みが少し変わって、今はカンカン帽が似合う服装を模索している。

8/11/2024, 12:05:58 AM

『終点』

夏休みのある日、親の寝ている隙に財布からくすねたお金を持って兄妹ふたりで家を出た。夏休みに売り出されている全線乗り降り自由というきっぷを買って駅に来た列車に乗り込むと、いい思い出のひとつもない生まれ育った街が遠ざかっていく。列車の終点に辿り着いては遠くに行ける列車を探しまた終点まで乗り続ける。未成年ふたりの姿は昼間は怪しまれなかったけれど、夜になればなるほど視線を感じることが増えていった。
「君たち、どこへ行きたいの?」
最終列車のアナウンスが聞こえるホームに降り立つと声を掛けられた。振り向いた先が駅員さんなら走って逃げようかと思っていたけれど、そこにいたのは人ではなく、ぬいぐるみのようにふわふわとした生き物だった。後ろに隠れた妹がそのかわいらしい生き物を熱心に見つめている。自分もかわいらしさにほだされて、それまで誰とも話してこなかった旅路を口にしていた。
「……わからないです。とにかく家から逃げ出したくて、来る列車を乗り継いでここまで来ました」
「そうなんだ。ここまでがんばってきたんだね」
不意にかけられた優しい言葉にまぶたが熱くなって鼻がつんとする。我慢しようと思ったけれどふわふわした温かいものに体を抱きしめられて無理だと思った。妹は体いっぱい使ってふわふわとしたものに抱きついて笑っていた。
「次の列車に一緒に乗るかい?その列車が終点まで行ってしまうと、この世界ともお別れになってしまうけれど」
今日までいい思い出のひとつもなかった兄妹ふたりは迷うこともなく頷いていた。すると見たことのない色の列車がホームに音もなく滑り込んできて3人の前に停まる。一度だけ後ろを振り返ってその列車に乗り込むと、列車は来たときと同じように音もなく動き出し、そして終点に向かって真っ直ぐに進み始めた。

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