『終点』
夏休みのある日、親の寝ている隙に財布からくすねたお金を持って兄妹ふたりで家を出た。夏休みに売り出されている全線乗り降り自由というきっぷを買って駅に来た列車に乗り込むと、いい思い出のひとつもない生まれ育った街が遠ざかっていく。列車の終点に辿り着いては遠くに行ける列車を探しまた終点まで乗り続ける。未成年ふたりの姿は昼間は怪しまれなかったけれど、夜になればなるほど視線を感じることが増えていった。
「君たち、どこへ行きたいの?」
最終列車のアナウンスが聞こえるホームに降り立つと声を掛けられた。振り向いた先が駅員さんなら走って逃げようかと思っていたけれど、そこにいたのは人ではなく、ぬいぐるみのようにふわふわとした生き物だった。後ろに隠れた妹がそのかわいらしい生き物を熱心に見つめている。自分もかわいらしさにほだされて、それまで誰とも話してこなかった旅路を口にしていた。
「……わからないです。とにかく家から逃げ出したくて、来る列車を乗り継いでここまで来ました」
「そうなんだ。ここまでがんばってきたんだね」
不意にかけられた優しい言葉にまぶたが熱くなって鼻がつんとする。我慢しようと思ったけれどふわふわした温かいものに体を抱きしめられて無理だと思った。妹は体いっぱい使ってふわふわとしたものに抱きついて笑っていた。
「次の列車に一緒に乗るかい?その列車が終点まで行ってしまうと、この世界ともお別れになってしまうけれど」
今日までいい思い出のひとつもなかった兄妹ふたりは迷うこともなく頷いていた。すると見たことのない色の列車がホームに音もなく滑り込んできて3人の前に停まる。一度だけ後ろを振り返ってその列車に乗り込むと、列車は来たときと同じように音もなく動き出し、そして終点に向かって真っ直ぐに進み始めた。
『上手くいかなくたっていい』
淹れたての紅茶を執事長が口に運ぶのをじっと見つめて評価を待つ。
「うん、美味しくないね」
「ど、どこがダメだったでしょうか……」
「うーん」
紅茶をもうひとくち口に運んだ執事長はカップをソーサーに置くと、全部かな、と執事見習いの僕にニコリと微笑んだ。
練習用の茶器を洗いながら溜息を吐く僕に食器を拭く執事長は笑いかけてくれる。
「まぁ、君は新人だからね。最初は上手くいかなくたっていいんだよ」
「はい……」
でもね、と執事長は続ける。
「上手くいかないままで放っておくのは良くない。人間、向上心が大事だよ」
拭きあがった練習用の茶器を手にした執事長はおもむろにお湯を沸かし、紅茶を淹れる準備をし始めた。僕のやっていた手順と違うところがいくつもあり、僕の知らない細かな技術が散りばめられている。そうして淹れられた紅茶は先ほど自分が淹れたものとは色も香りもずいぶんと違っていた。促されて口にすると味までも違う。
「すごく……美味しいです……」
「それは良かった」
満足気に微笑んだ執事長は誇らしげだ。
「執事長の向上心はどこから来たのですか?」
すると執事長は幾分遠い目をして言葉を探し、奥様のためだと言った。
執事長は現当主である奥様がまだ少女の頃にこの屋敷に雇われたのだという。そういえば奥様が執事長に対しては気安く接しているのを見たことがある。
「かつてのお嬢様に喜んでもらいたい一心が、今の私を形作っているんだ」
それを聞いて思い浮かんだのは今のお嬢様のこと。執事の中では一番の年下であるためにお嬢様との遊び相手になることは度々あり、ときにはお茶会に相伴することもあった。紅茶を美味しく淹れることができれば、お嬢様のお茶会の時間はきっともっと楽しくなることだろう。
「君にも、向上心の出どころがありそうだね」
「……はい」
見透かされているような言葉に照れながらも頷いた。
『蝶よ花よ』
私の大叔母は身の回りのことを自分で何ひとつできないひとだ。それなのに人の好き嫌いが激しいためにお手伝いさんを雇ってもすぐに追い出してしまう。そのために私は祖母から頼み込まれ、少ないながらも給金をもらって身の回りの世話をしていた。
大叔母の若かりし頃はとびきりの美人だったらしい。昔の写真と今を見比べても美貌は変わらず。しかしそれはとるべき齢を重ねないまま老いてしまったとも言える。
「私の若い頃は殿方からひっきりなしに声をかけられていたのよ」
社交界の華と呼ばれ蝶よ花よと持て囃された栄華も今は昔。今日も耳にたこができるほどには聞かされてきた自慢話を聞き流しながら一日の家事をなんとか終える。一人には身に余るぐらいに重い仕事ではあるけれど、辞めようとは一度も思わなかった。大叔母の少女のような可愛らしさは時折うざったく、しかし庇護欲を掻き立てられる。大叔母に恋をしてきた殿方の気持ちがわかると同時に、生涯を共にしたいとは思われなかったのだろうかと余計なことを思ってしまった。
『最初から決まってた』
何もない土地で一から村を作り上げてきた。困った人には手を差し伸べ、奪い取ろうとするものには制裁を加え、そうするうちに人々が集い大きな集落となった町には商人が立ち寄るようになった。物資や技術の流通は集落を進化させて魅力的な街となり、さらなる人々を呼び寄せた。
街をゆく人たちは自分を見かけると市長、と呼びかけ声をかけてくれる。そして次に話題にすることはみな同じ。
「また吸血鬼が出たそうですよ」
首元に牙で刺したような穴が開けられ、そして全身の血を失った人や獣の亡骸はここが小さな村だった頃から定期的に見つかっている。一度騒ぎになればしばらくの間は収まり、そして忘れられかけた頃にまた同様の事件が起こる。ここのところは被害に遭う人の数が多く、みな怖がっているようだった。
かつて村長であった頃、村長が吸血鬼なのではないかと疑いの目が向けられたときにはその目を覆い、この手にかけた。かつて町長であった頃も似たようなことがあり、似たような対処をした覚えがある。市長である今は生活する人々の多さに少し気が緩んでいるのかもしれない。
「自制をしなければいけないな」
昔に比べて少し出た腹をさすり、誰に言うでもなく呟く。誰にも聞かれることのない呟きは風に流れて消えていった。
『太陽』
神覧試合の勝者は神への捧げ物として体を割かれ心臓を取られる。幾千もの奴隷の手によって組み上げられた神殿に神官が恭しく“それ”が入った小壺を供えた。神殿の真上に輝く太陽。それがこの国で崇められる絶対の神であった。
神覧試合のことは今でもよく思い出す。
「お前は生きろ」
組み合ったときに最初に言われた言葉に俺はまんまと動揺し、足を掬われて敗者となった。俺がつい最近に妻を娶ったことを相手は知っていたのだろう。地に伏しながらも心の奥底に湧いたのは悔しさではなく安堵であり、勝者には感謝とそして言い表せない罪悪感を抱いた。
太陽へと新たに焚べられた薪は燃え尽きれば捨てられ、次の薪が望まれる。あれから数年が経っていた。妻は泣き崩れていたが、何も知らない幼いこどもは試合へと向かう俺に小さな手を振った。