『だから、一人でいたい。』
いずれここを離れる身だから誰とも仲良くなりたくなかった。実際には周りの人間が世話焼きばかりで絡まれては距離を詰められ、結果的に仲良くなってしまった。
ここを離れる日。来た時よりも増えた荷物と持たされた手土産やらで手が千切れそうになりながらローカル線のホームから見送りを受ける。体に気をつけてだの、ちゃんと飯を食えだの、いい人を見つけろだの、余計なお世話ばかり。けれど自分も仲良くなった人たちに思い思いの余計なことばかりを言ってみせると、言うようになったなとみんな笑い飛ばしてくれる。少ししんみりと静かになったあと、閉まるドアをお互いが涙ぐんで見つめていた。
泣くのを見られて慰められるのもイヤだったから一人でいたいと思っていた。ようやく一人になった列車の中、持たされた手土産に堪えていた涙がぼたぼたと落ちる。みんないい人たちだった。こんなに別れがつらくなるのならやっぱり誰とも仲良くなりたくなかった。もう見ることのないかもしれない車窓からの風景を見ながら、もう会うことのないかもしれない人たちのことを想っていた。
『澄んだ瞳』
「まぁ、こんにちは。はじめまして」
老人ホームで穏やかに暮らす母からの何度目かもわからないあいさつには傷つくよりも安心する。いつ見ても険のある顔をしていた母は今では何にも恐れず何にも怯えていないためかいつでも機嫌の良い老人のひとりとなっていた。母につけられた傷は体の至る所にあるけれど、職員さんたちから親切にされて自分のことも娘のこともわからなくなった母は少女のように素直で愛くるしい。
「わたしにも娘がいたのよ。小さくてかわいくてねぇ」
目の前にいる娘のことを映さない澄んだ瞳は遠い日の美しかった記憶を見ていた。母にとってそれは美しかったのかと小さくてかわいい子の話を聞きながら思ってしまう。私にとって美しかった記憶はあっただろうかと考えてしまう。
「わたしのお母さんも、そんなふうに思ってくれたことがあったのかしらね」
母の体には私の祖母にあたるひとから受けたらしい傷がいくつも残っている。それは私が老人ホームに来るようになってから知ったことだ。澄んだ瞳はいつもそこで翳りを見せて、けれど明るく笑ってみせる。
何度目かもわからない明るい笑みに、今こそが美しい記憶になるのかもしれないといつも少しだけ悲しくなった。
『嵐が来ようとも』
台風が近づきつつある我が家から外に出せと吠える犬が一匹。
お外危ないよ、と宥めても雨ひどいから明日ね、とすかしてもごはんの次に散歩が好きな柴犬3才は外に出たいと言って聞かない。正直、合羽を着込んでもずぶ濡れになることが決定的で、愛犬から犬ドリルを食らいながらの犬洗いコースも確定する散歩に繰り出す元気が我が家の雨戸閉めや植木鉢の収納で気力が削られた今は全然湧いてこない。誰か私の代わりに行ってくれる猛者はいないだろうか。
「俺が行く」
夏休み入りしている息子が玄関口に勇ましく立っていた。しかしその出で立ちはTシャツにハーフパンツ。
「そんな装備で大丈夫か」
「大丈夫だ、問題ない」
安全面も雨対策も全然大丈夫ではないけれどそう返した息子ははしゃぐ犬にリードを取り付けると玄関を開けて風雨の舞う中を颯爽と走り出していった。その背中を眩しく思い少し涙ぐみながら給湯器の風呂張りボタンをオンにする。
「無事に帰ってくるのじゃぞ……」
変わり果てた息子と充足感に満ちた愛犬が帰ってくるまでにやることはまだ残っている。萎えつつある気力を振り絞った私は大量のタオルを用意するためにまた立ち上がった。
『お祭り』
夜の広場に櫓が組まれ、吊り下がった提灯が盆踊りの輪を照らしている。太鼓と囃子は昔から変わらず、小さな頃に見様見真似で手足を動かしていたのが今では体に染み付いた踊りになっている。浴衣を纏った人の中には今はいない人たちもちらほらとおり、けれど皆気にせずにそれぞれの踊りを同じ調子で踊っている。
長い長いお囃子が終わりに近づく頃に最後まで踊っていたのは数えるほどにまばらな人数。祭りの終わりはいつも寂しい。とっぷりと暮れた夜の涼しさを感じながら次の夏に思いを馳せて帰り道を歩いていく。
『神様が舞い降りてきて、こう言った。』
いつものようにくわで畑を耕していたとき、耳元で囁かれた気がして後ろを振り返ってみたがそこには誰もいない。収穫時を迎えてたわわに実る野菜を採る手を止めた家内が不思議そうにこちらを見つめていたのでなんでもないと声を掛けた。近頃そういった空耳が多くて妙に思っているが医者にかかるには山を越えなければいけないのもあり、それ以外の不調を特に感じていないのでほったらかしになっている。
とんぼを追いかける子を微笑ましく眺めてから畑仕事に戻ろうとしたが、見慣れない鎧姿の男が視界に入り緊張が走った。抜き身の刀を持ち髷が解けてざんばら頭となった男が幽鬼のように佇んでいる。ただの流れ者ならば介抱してやるところだが、正気の光とは思えない目をした男は刀を振りかぶって雄叫びをあげた。
争え、と声が聞こえて驚きや戸惑いで動けずにいた誰よりも早く動けていた。手にしたくわを男の脳天に振り下ろした後からはあまり記憶が定かではなく、家内や村の連中が腕に追い縋っていることに気づいてやっと意識が戻った。ざんばら頭の男は絶命していた。
村の婆様は国のあちこちで起こっている戦から逃れてきたのがあの男であり、おれが空耳のように聞いていたあの声はそのいくさばで囁かれていた声ではないかと言った。耳に入れば我を忘れて見たものを倒せと言う神様の声を、おれはたまたま耳に拾ってしまったのかもしれない。
「いくさばの神様は惨いことをしなさる」
落ち武者の亡骸は村の皆で丁重に葬った。くわを握っていた手に残った感触はそれから先もずっと残り続けた。