『私だけ』
たくさんいたきょうだいのうち、私だけがお父さんに連れられてお山へ向かった。出掛けに見たお母さんは私を見るとわっと泣き出したけれど、その理由をお父さんは教えてくれなかった。
お山には神様がいて里を守ってくれているのだと聞かされていた。神様には毎年お祭りを開いてお供えをしているけれど、何年かおきに特別なお供えをする。今年はその何年かおきの年で、特別なお供えはたぶん私なのだろう。前を行くお父さんからなにか堪えるような声と鼻をすする音が聞こえてくるのを私は何も言わずに聞きながらお山を登った。
お山のお社には誰もいない。ここでお別れだと言ってお父さんがお母さんのようにわっと泣き出して、抱きしめられすぎて体が痛くなって、そして一人きりのお社に夜がやってきた。一人きりと思っていたお社に声が響く。
「こっちへおいで」
お社の暗がりだと思っていた一角から明るい光が見えている。あそこへ行ってしまうともう二度と戻れない。そんな確信が起こったから、一度里のあるほうを振り返ってお父さんのことやお母さんのこと、きょうだいたちのことを想った。どうして私だけが、とも、私だけで済むのなら、とも思えて、先に進むしかないことを嫌だなとも思ったし、仕方ないとも思った。前を向き直したらその光が消えていたらいいのに。思いながらその通りにはなっていないことに観念させられて、私はひとり引き寄せられるように歩き始めた。
『遠い日の記憶』
義体技術が進んで人から寿命というものがなくなりつつあった頃はこの文明社会がいつまでも続くと誰もが思っていた。傲慢な考えを戒めるためか、それとも太陽のただの気まぐれか、大規模な磁気嵐が世界にそよいだだけでその文明はあっけなく滅びてしまった。
「あのときの磁気嵐は骨身に染みたね」
「またそんなホラ話ばっかり」
人に寿命が戻ってきてからもうかれこれ数百年。バイト仲間に昔話をしても面白いホラ話と思われるばかりで真に受けて信じる人には今のところ出会ったことがない。自分のように難を逃れた義体持ちたちは波風立てることなく混ざって暮らしている。
長く生きていると今の自分は果たしてまだ人なのだろうかと不安になる。義体になる前の記憶は電脳が不要と判断したためか思い出すことができない。義体となってからの記憶も最近はリソースが足りていないのかちょっとあやしい。
「なんか最近元気なくない?」
「……そうかな。いよいよ年かもねぇ」
そんな話をした次の日に非番のその子がバイト先にやってきて差し入れをくれた。
「栄養ドリンクじゃん。しかもお高いやつ」
「加齢に負けるなってね」
数百年とちょっと年の差のある若者の優しさにもう出ない涙が出そうになった。
「最近の若者はあったかいねぇ。おじさん泣きそうになったよ」
「いや全然泣いてないじゃん」
今度何か奢ると約束して若者が去ったときにはいつの間にか不安も去っていた。これが遠い日の記憶になるときもいつかは来るのだろう。けれど、なるべく忘れていたくないなと強く思った。
『空を見上げて心に浮かんだこと』
火葬場から伸びる煙突から煙らしきものが見当たらないのは技術の進歩によるものだそうだ。かつて触れたことのある髪も肌も血肉も骨もすべて真っ白な灰となり、一部は手の中の小瓶に、あとは自然へと還っていった。
小瓶を懐に携えた俺は一人きりで観光地をぼんやり歩いていた。目に入る雄大な自然の広がる景色や他の観光客がはしゃぐ様子に心が動かされない。ふとベンチを見つけてそこに座ってしまうと、根が生えたように動けなくなってしまった。
見上げた空はよく晴れ渡り、浮かぶ雲を見るともなく見ながら彼のことばかりを思い返していた。カミングアウトをしたときから親に見離され縁を切られたと言っていた。死にたくなったこともあるけれど君と出会ってからそうでもなくなったと言っていた。死ぬのは怖いけれど君と別れることのほうがもっと怖いのだと言っていた。俺は、彼に先立たれてこれから先どうしたらいいのかわからなくなっていた。
この国で彼の後でも追おうか。そんなことを一瞬考えた途端に突風が吹き付け、観光客が驚いて悲鳴をあげるのが聞こえてきた。彼が俺を叱ったに違いない。根拠はないけれどそう思ってベンチから立ち上がると、何事もなかったように穏やかな風がそっと吹くばかりだった。
『終わりにしよう』
余命幾許もないパートナーに旅行に行きたいとせがまれて付き添うこととなった。体調に不安があったけれど、このところは調子が良いからと無理を通す形で海外のとある国へとたどり着いた。その矢先。
「実は言ってないことがたくさんあるんだけど」
そう言って彼は話を切り出した。
入院していた病院は国を発つ前に無理矢理に退院を済ませてきたこと。ふたりで暮らしていた部屋の自分の持ち物や資産の身辺整理をしてきたこと。国に戻るつもりがもう無いこと。このところ調子が良いと言っていたのは全くの嘘であること。
「この国へは思い出づくりの旅行じゃなくて、死なせてもらうために来たんだ」
自分たちのいる国では安楽死は認められていないが、この国では認められている。そう思い当たった瞬間に何か言おうとしたけれど、脂汗を垂らす彼を見て何も言えなくなってしまった。
「黙っててごめん」
「……せめて、相談のひとつでもしてほしかったよ」
「ごめん。でも、もう手配も済んで僕が行くだけになってる」
「俺は、君のこと最期まで看取ると決めてたのに」
「ごめん。君の手を煩わせたくなかった」
最後の最後に不満と遣る瀬無さをぶつけて寂しくなるだけにしかならないのだろうか。そう思いながらこの現状を変えられないかと言葉を並べるけれど、彼は何を言っても謝るばかりだった。
言葉が途切れ、ふたりとも何も言わない時間が長いとも短いとも思える程に過ぎてから彼が口を開いた。
「ほんとうは、病気が見つかったときから終わりにしようって言おうと思ってた」
顔色の悪い彼の目に涙が光っていた。
「けど、思ってるうちに時が過ぎて飛行機に乗る日が来て、ここまで君を付き合わせてしまった」
ふらつき始めた彼にとっさに肩を貸す。重いとも思えない身体の重みが悲しかった。
「死ぬよりも君と別れることがとてもつらくて、言い出せなかった。わがままで頑固でごめんなさい」
勝手なことばかり言う彼のことを放ってはおけず腕の中に収める。涙の匂いに塗れ、ごめんなさいとばかり繰り返す彼のことが可哀想で愛おしかった。
『手を取り合って』
車に乗って営業先へと向かう途中に黄色い日除け付きの帽子に水色のスモックを着たこどもたちが2列になって歩いており、前を行く保育士さんのあとを着いていくところに遭遇した。信号のない横断歩道に差し掛かろうとするのでゆるゆるとブレーキを踏んで車を止めると、対向の車も同じように早めのブレーキで車を止めにかかっている。列の前後にいた保育士さんが双方に頭を下げるので会釈を返す。こどもたちは二人一組に並ぶ手をしっかりと繋ぎ、空いた手を天に真っ直ぐと上げてにこやかに、しかし堂々とした足取りで横断歩道を渡っていった。キャッキャとはしゃぐ声が車越しにも聞こえて思わず頬が緩む。対向の車の運転手も言わずもがなだった。