『街』
一人暮らしを始めた頃は住んでいる街にお邪魔させていただいているような気分だった。よそよそしい態度だから街も同じような態度で臨んでやるという気概を返されていたように思う。隣や上下階の物音が気になっては眠りを妨げられる日々も度々あった。
長期休みのときなどに里帰りに立ち寄った実家ではあの街にはない安心感をひしひしと感じて眠りにつけた。さまざまな食材やタッパーに入った惣菜とともに暗い部屋に帰りついて一人で食事をしていると実家で家族と食卓を囲んでいたことが思い出されて寂しくなったりもした。
季節は流れて何度目かの里帰りの帰り道。電車に揺られて微睡んでいたが、最寄り駅のアナウンスにふと覚醒して見た窓からの景色に帰ってきた、と思えた。見慣れた駅の改札、通い慣れた部屋までの道のりを実家から持たされた重たい荷物を手に下げて歩く。
「ただいま」
返す人のいない部屋に一人呼びかけて電気をつけて荷物を降ろし、ごろりと大の字になると実家とはまた違う安心感を感じられる。掃き出し窓の外を眺めていると住み慣れた街がおかえりと返してきたように思えた。
『やりたいこと』
やりたいことリストを手帳に書き留めている。積んでるゲームをクリアする。献血の予約をする。未開封の封筒や段ボールを開ける。などなど。
手帳を見返していると横線で消されていないやりたいことが目に留まる。
“好きな人に好きって言う”
「……いやいや」
このやりたいけれどやれてないことにはもう何度も見なかったふりを続けている。見なかったふりの間にその人は誰かと付き合ったり、それがダメになったりもした。フリーな今が言いどきだとわかってはいるけれど、なにせ自信がなさすぎる。面と向かって告白するイメージがまったく湧いてこない。
いつか横線を引っ張れる日は来るのだろうか。ため息をひとつ吐いてから手帳を閉じた。
『朝日の温もり』
「さむっ」
海沿いの公園の隅に張ったテントで目を覚ます。寝袋が夏仕様なので朝晩冷えるこの時期は寒くて目が覚めてしまうのだ。着替えて畳んで外へと出ると空の端が明るくジャングルジムの輪郭も闇から抜け出てはっきり見えた。テントを畳み終わる頃には日が昇るだろうかと肌寒さに震えながら思う。
愛車の50ccのバイクに異常がないかを点検してから畳んだテントを積み終えると東から閃光が差してきた。光は熱をもたらし温められた空気は風を生む。バイクに乗って感じる風も好きだけど、緩やかに頬を撫でる潮風も好きだった。大きく伸びをして光を浴びていると眠気に霞んでいた頭が澄んでいく。
「よし、朝飯だ」
バイクのシートをひと撫でしてエンジンをかける。まだ少し感じる肌寒さもそのうち気にならなくなるだろう。
『岐路』
生まれた時から一緒の双子の兄。何をするにもどこに行くにも一緒だったので、同じ学校に進学するのも同じ部活に入るのも自然なことだった。
練習前のストレッチを二人一組でしているときにふと気付く。こうやって背中を押すのも押してもらうのも今年の秋が過ぎれば終わってしまう。年が明けて春になれば、卒業した後それぞれの進路によっては二人一組だったものは少しずつ分かたれていくのかもしれない。
「やだな」
「えっ、何が」
「なんでもない。……交代して」
「あっ、はい」
ストレッチが終わってからも兄はこちらを気にしていた。
部活が終わって一緒に帰る道すがら、兄が口を開く。
「今日言ってたやだな、って今の話?これからの話?」
考え方の癖を知られているせいで自分が何に悩んでいるかを概ね感づかれているようだった。
「……これからの話」
「じゃあ、今考えなくてもよくない?」
「そうなんだけど」
俯いて歩みが止まる。自分は兄から離れることにとても抵抗があるのだと自覚した。
「でもさ、今はそうなってないんでしょ」
「うん」
「これからに向かう途中に変わっていくかもしれないじゃん」
「そう、かな」
「そうだよ」
悩みの中身を知らない兄がぽんと肩を叩いて笑う。いずれ訪れる岐路が遠ざかるわけでもないのに、それで前を向けてしまえる。
「帰ろう。腹減ってしょうがない」
兄が先を歩きはじめるので、止まっていた足が歩きだしてふたりが並ぶ。悩みは解決してはいないけれど、そんなに深刻に悩むことではないのかもしれないと思い直せるようになっていた。
「なんかよそんちからカレーの匂いめっちゃする」
「いいな。うちも今晩カレーだったりしないかな」
心なしか足早になった兄に負けじと早く歩いた。
『世界の終わりに君と』
君と一緒に終わりを迎えたかったけど、君はもう嫌だと言って僕の前から去ろうとした。どちらかの願いは叶い、どちらかの願いは叶わない。引き留める力のなかった僕は置き去りにされてテレビをじっと見つめていた。ニュースを伝える人がいないから都会の定点カメラが逃げ惑う人たちを映し出している。犯罪が起こっても泣き叫ぶ人が映し出されても誰も止めない。世界が終わることを誰も止められない。
窓の外にはよく晴れた空。僕の心が虚ろなせいで昨日までの美しさは無くすべて灰色に見えていた。僕の何が悪かったのだろう。世界のどこがいけなかったのだろう。何も悪いと思えていないことが悪いのだと君なら言いそうだった。
僕は君のことが好きで、君も僕のことが好きなのだと思っていた。ズレたカメラは空を映して、映されていない世界が悲鳴と共に終わっていく。世界の終わりに君と一緒にいたかった。僕の願いは最後まで叶わなかった。