『失恋』
恋の始まりはぼんやりとしたものだったけど、恋が終わったときをはっきりと覚えている。心にできた傷を庇わないとまた泣いてしまうから、恋を思い出させるものを身の回りからごっそりと無くしてしまい、ロングヘアが好きだからとがんばって伸ばしてきれいにしていた髪もバッサリと切ってもらった。
美容院から出ると辺りは夕暮れどき。帰り道にふたりでいったことのある喫茶店が目に入る。ここのフレンチトーストが絶品なのだと彼は嬉しそうにしていたけど、甘いものは実はそんなに好きではなかった。ふたりでいったことのあるゲームセンターでぬいぐるみを取ってもらったけど今はもうごみ収集を待つ袋の中。ふたりでいったことのあるコンビニでよく限定スイーツも買って一緒に食べた。それよりは限定ビールのほうが気になっていた。
コンビニに入って出て、その場で缶ビールを開ける。ほろ酔いに思い出をうやむやにしてもらいたかったのに、彼とのどうでもいいような思い出はひとつまたひとつと思い出されて涙が滲む。涙を押さえつけるように残りを一気に飲み干して空き缶はゴミ箱へ。気分は晴れないし、夜を睨みつけても涙は拭いきれなかった。
『正直』
自分の気持ちに正直でいられたらどんなに楽なことだろう。授業終わりに二階の教室からグラウンドを眺めていると練習着に着替えた同級生がこちらに気づいて手を振った。振り返して見せると笑顔を一層強くしたあと、視線を外して野球仲間が集まる輪へと駆けていく。そいつに視線を送り続けていると他のやつと仲良くする様子が視界に入ってしまって、窓辺からその場を離れてようやく帰り支度を始める。
運動に向いてないから、他人と仲良くするのが苦手だから、そんな理由で同じ部活にも他の部活にも入らなかった。今さらにどんな形ででも近くにいることを選べばよかったのに、と思うけれど思うだけ。校舎から出てわざわざグラウンドの近くを通って練習風景を眺めていると、ころころと赤い縫い目の白いボールが足元に辿り着き、遅れて野球部らしいデカい声がすいませんと言って駆けてきた。
「あれ、今帰り?さっき見てたよね?」
偶然にもそいつはさっきまで二階から見つめていた同級生。拾ったボールを放って返す。
「うん、見てた。練習がんばって」
「あんがと。気ぃつけて帰りな」
「うん、」
笑顔を見せた同級生がまた視線を外して駆けていく。もっと何か言いたかったのに何も言えなかった。自分の気持ちがわかっているのにこのまま何も言わないでいてもいいのだろうか。
「あの!」
野球部ぐらいデカい声が出て同級生も周りも少し驚いて立ち止まった。立ち止まった彼に駆け寄って、少しだけ正直になってみようと決心した。
『梅雨』
昨日も雨。今日も雨。明日も雨。週間天気予報を見ても雨の降らない日が見当たらないぐらい雨降りが続く。おかげで毎日前髪が定まらない。
「今日も髪型がいまいち決まらないよ~」
「わかる〜」
登校して話題になるのはこのところ髪型の話ばかり。けれど目の前でスタンドミラーを見つつ前髪をつまむ友人の全体的な仕上がりは梅雨じゃないときとあまり変わりがないように見える。自分も周りから見れば実は大差なかったりするのだろうかと手鏡を見るけれど、気になるところはやはり気になってしまい、そのせいで全体の評価が下がって見えてしまう。
窓の外は今日もどんよりとした曇り空。髪を触ってはため息を吐く私やみんなの心模様が表れまくっていた。
『無垢』
パパだよ、と夫が我が子に呼びかけるとパステルカラーのロンパースを纏った赤子はじっと声の主を見つめたあとに声を上げて笑った。
「うちの子がこんなにもかわいい……!」
「そうでしょうそうでしょう」
感動、と形容するしかない表情の夫はおそるおそる赤子の頬をつつき小さな手を大きな指に掴ませる。
「抱っこチャレンジはどうしますか」
「いやーまだ怖い!けど抱っこしたい……!」
「やりたいと思ったらやりどきです。レッツトライ!」
抱っこの経験値は抱くほど上がるという。産院の先生から習った方法を手取り足取り教えてみるが、どうにも危なっかしい。けれど自分もかつてはそうだったのだろうなぁと口出ししたくなる気持ちをぐっと抑えて見守ると、我が子は泣き出すでもなく大人しく夫の腕に抱かれてじっと顔を見つめていた。
「……私より抱っこ上手くない?」
「それはうれしい!けど緊張する!」
「緊張すると赤ちゃんにうつるよ〜。リラックス〜」
ゆらゆらと身体を揺らされる赤子は次第に眠たげな目をしてやがて穏やかに寝入ってしまった。夫婦で顔を見合わせて、そしてまた我が子を見つめる。
生まれたての無垢なる命は夫婦の宝。これからこの子は様々なことを見聞きしてやがてふたりの手を離れ、ひとりの人になっていくのだろう。
「世のお父さんお母さんがこどもの幸せを願う、って場面をテレビや映画で目にしてきたけど、これはほんとにそう思えるね」
「親になってわかることいっぱいあるねぇ」
いまだ眠る我が子からそろそろと離れてスマートフォンを持ち、自撮りモードにする。初めての家族写真はこの先ずっと胸に残り続けるように思えた。
『終わりなき旅』
戦場で目覚めて身を起こす。辺りに合戦の気配はすでになく、動いて見えるものは蝿と鴉と戦場漁りに勤しむ罰当たりどもだけだった。もはや物言わぬ見知ったものも見知らぬものも踏み越えて陣のあった場にたどり着くと、かつて仕えた主は首を持ち去られて体だけとなっていた。手を合わせて涙を流し思うだけ留まった後はここにいる意味を見失ってしまい、当てもなくふらふらとその場を離れて山を彷徨った。
どうして俺だけが生き残ってしまうのか。あの戦場で倒れたのは二度目だった。一度は敵方に討たれたとき。二度目は落ち武者狩りに遭ったとき。途中に見つけた沢で身を洗い検めてみると古傷はそのままに二度の致命傷は影も形も見当たらない。手元の刀を首元へやって水を赤く染めてもやがて傷口は塞がった。何の因果か、誰の気まぐれか、死ねないようになってしまった。
死なずとも腹は減る。金を稼ぐために武者から雇いの用心棒へ。賭場荒らしに腹を刺されるが生き残り、気味悪がられ、別の街へ。手に職を付けて町人に馴染み、好いたひともできたが盗賊の押し込みに遭って俺を除いてみな殺されてしまった。
長く座り込んでいたがそうするのにも飽きて立ち上がる。生きるのに疲れることもしばしば。けれど死ねないのなら生きるしかない。死んでからも仏への道が険しく続くと言うが、しぶとく生きている俺の前には如何なる道が続くというのだろうか。そんなことを思ってようやくその場から歩き始めた。