『「ごめんね」』
幼い頃、ボロアパートの一室のドアを蹴破った警察官に僕と妹は救け出された。母がごめんねとだけ言い残してこの部屋を去って数日経ってからのことだった。
ろくに食べ物を与えられていなかった僕たちは平均的な身長体重に育つまで長い時間を要した。その間に孤児院や行き遅れていた学校の世話になり、いろんな人の手を借りてどうにか大人になれた。グレずにここまで来れたのは妹の存在が大きかったし、妹もまた同じように感じていると思っている。
母の消息は未だにわからない。未だに、あのとき言われたごめんねの意味もわかりかねている。
「何がごめんねだったんだろうね」
「何回も考えたことあるけど、全然わかんないね」
母がよく吸っていたタバコを妹が吸っていたので1本もらって火を付ける。嗅ぎ慣れた臭いからは切り離せない思い出の香りがしていた。
『半袖』
教室でうちわや下敷きやハンディファンを見かけることが増えてきた。クラスには強めな女子が多いのでスカートの中に風を送ろうとはためかせるのを意図せず見てしまうことも増えてくる。もうちょっと周りの目を考えてほしい。
週が明けると衣替えとなるのでもはや暑苦しいぐらいの学ランやブレザーともしばらくお別れとなる。クラスの気になる子はいつも制服をぴっちり着るタイプだったので夏服はどんなふうに着こなすのだろうと内心楽しみにしていた。
週が明けて朝からよく晴れた暑い日。学ランを着てないだけでこんなに快適なのかと感動しつつ教室に入ると長袖カッターシャツやサマーニットなど昨日まで見かけなかった服装ばかりだった。気になる子の装いは半袖カッターシャツにベスト。むきだしの腕がスカートをはためかせられるよりも見ては失礼なものに思えて直視できない。なのにそんなときに限ってあいさつされる。
「おはよう。今日は暑いね」
「お、おはよう。……半袖、似合ってるね」
「ありがと。ちょっと早いかなと思ったけど、けっこう快適だね」
うふふと笑うその笑顔もまぶしい。見たい、けど見たくないと葛藤を繰り返す内に響き渡るチャイムが始業を知らせるのだった。
『天国と地獄』
メダルの1枚がコロコロと転がってバニーガールの足元へと辿り着く。バニーは拾うことをせず黒服に目配せをするとカジノの客たちに愛想を振りまきながら歩いていった。黒服に耳打ちされて転がったメダルを拾いにいった新人のボーイが顔を上げたとき、上品な笑いと時折起こる歓声や拍手、そして、
「くそ!どうなってんだこの台はよぉ!」
場にそぐわない罵声を耳にした。眉をひそめ口元を隠す人たちの視線などまるで察していないその客はスロットの台をしきりに叩いていたが、見る間に屈強な黒服たちに取り囲まれた。酒の飲み方も服の着こなし方もこなれていない客は客とは見做されない。速やかに排除を終えた黒服たちが謝罪の一礼を済ませると辺りはまた元の雰囲気に戻っていく。
「怖いな……」
1枚のメダルを手の中に収めたボーイは誰にも聞こえないようにそっと呟いた。
『月に願いを』
新月から満月にかけては育まれていくような願いが叶いやすくなり、満月から新月にかけては衰えていくような願いが叶いやすくなる。
空に掛かる月をみるといつかの満月の頃に月明かりとともに現れた人を思いだす。夜を共にして歌を贈り合い、また来てくれる日を夜毎に待ち望んでいた。けれど風の噂にその人は別の屋敷へと足繁く通っていると知ってしまった。手元に残る愛の歌はすべてまやかしと相成った。
空に掛かる月は満月。宮中に流行るまじないをふと思い出す。何を衰えさせたいのかと自問したときに出てきた相手はかつてここに通っていたあの人と、今やその人の想い人であろう何処かの姫。
歌の書かれたふみを焚き上げて月に向かって想いを託す。同じように空を見上げる女たちの無念や昏い願いはあちらこちらから上がる煙に見て取れるようだった。
『降り止まない雨』
なんでも揃う街から車で1時間ほどのなんにもない村。あるのは山と畑だけ。そこに住んでいる田舎臭い俺は古臭い考えの親とケンカして家出を決行した。辺りは夜。夜通し歩けばいつかは街へたどり着けるだろう、とあらゆるものを詰めた通学カバンの重さを感じながら懐中電灯片手に歩き始めたものの、そこにぽつぽつと降り始めた雨。カバンの中に雨具の用意は無く、早く止んでくれと願いながら歩くも想いは天に届かない。いつも利用するバス停の軒下まで走ってたどり着く頃には土砂降りになっていた。
「お前はどうせこの村から出られないよ」
ケンカの最中に言われた言葉がふと脳裏に過ぎる。無謀な考えばかりの俺が今置かれている状況の的を得すぎている、と苛立ち半分、自嘲半分に思う。街へと行こうとしていた気力は一向に止まない雨に削がれて、けれどどの面を下げて家に帰ればいいのかと思い悩んだ。こんな真夜中に路線バスはもう来ない。親はきっと俺が出ていったことなど知らずに眠りについているだろう。バス停のベンチに座ったまま、どこにも行けなくなってしまった。
降り止まない雨を見ながら、濡れた衣服が体温を奪っていくのを感じながら、なにかきっかけがあればいいのにと漠然と思う。雨が止みさえすれば俺はきっとここから立ち上がれるのに。なぜか恨みめいたものを雨に抱いてじっとりと目の前を見つめていた。想いを知ってか知らずか、雨はますますと勢いを強めていった。