『忘れられない、いつまでも。』
舗装もされていない道を送迎車にゆられること小一時間。人里離れた山奥に趣のある旅館がぽつりと建っており、玄関で女将と数人の仲居たちから揃って出迎えられた。
“あなたの思い出の人にもう一度出会える宿”
ある日にインターネットでこんな謳い文句を見かけた。よく調べもせずに宿泊予約を入れてしまったのは、ずっと前に亡くした人のことを今も引きずっている自覚があったから。周りにはどういった宿かをあまり知らせず、そろそろ旅行にでも行こうと思うと話すと、少しは前向きになったのだなと安心されてしまった。
自分以外に宿泊客がいないのかと思うほどには静かな個室に運ばれてくる料理は旬の山菜や川魚など素朴ながらも手の込んだものばかりで、この宿の立地や冷静になってからあの謳い文句を怪しんでいた自分を恥じるほどだった。おまけに温泉まであり、動機はともかく来て正解だったと思いながら布団の中でうつらうつらとまどろんでいった。
「今日は楽しかった?」
宿の個室に現れたのはずっと前に亡くした人。
「……ああ。久しぶりに旅行らしい旅行をして、少しは養生できた気がする」
生きている頃と同じ声、同じ姿をして、微笑みかけてくれる。
「明日はどうするの?」
「明日には帰らないといけない。帰らないと、心配されてしまうから」
「ずっとこっちにいてもいいんだよ」
誘い文句は魅力的なものだったが、あの人ならそんなことは言わないと解っていた。
「いいや、帰るよ」
するとその人は最後に悲しそうな顔をして言った。
「私のことは忘れてしまうんだね」
目が覚めると宿の個室には朝が訪れており、あの人の影も形もなくなっていた。
「……いつまでも忘れられないから、こんな所に来てしまったんだよ」
夢の残滓に浸っていたかったが、ふすまがするすると開いて仲居が朝食を運び込んできた。何か知っているのかそれともたまたまなのか、仲居は去り際にこんなことを聞いてきた。
「良い夢は見られましたか?」
「ああ、はい。おかげさまで、いろいろと吹っ切れそうな気がしてきました」
人里離れた山奥からまた元の日常へ帰りつき、それから何ヶ月かが経ってからふとあの宿のこと思い出す。不思議な宿と不思議な夜のことを懐かしんで調べてみたが、どうしてだかもう二度と見つけ出すことができなかった。
『一年後』
「僕が無事に帰ってきたら、一緒になってくれないか」
半年前に戦役へと旅立った彼との約束は不定期に届く手紙や葉書で今も守られていると感じていた。何度も取りだしては読み返した葉書は四隅の角を少しずつ丸くさせていく。
けれど、遠い島国で自国軍が勝利したという報せを新聞で見てからパタリと連絡が途絶えた。空から降伏勧告の紙が舞うのを見て、新聞に書いてあることが本当なのか、敵国の報せが本当なのかわからなくなった。何度も取りだしては読み返した葉書の文字は幾度も触れていたためか少しずつ薄れてしまっていたから、覚えてしまった内容を胸に唱えては彼の無事を願っていた。
約束をした日からやがて一年が経つ頃。文字に表せばたったの一行。月に替えれば12ヶ月、日にして365日。彼の一生は紙切れ一枚となって知らされた。
「お父さんは、本当はいつごろ亡くなってしまったのかしらね」
何も知らずに腕の中で眠る我が子に涙がひとつふたつと落ちてしまう。悲しいけれど、悲しんでいる暇はなかった。
『初恋の日』
初恋を覚えているかと聞かれて覚えていると答えたことはない。本当は覚えているが、甘酸っぱいと形容するほど優しい思い出になってはおらず、いまだ体のどこかで燻り続けているように思えている。多感な時期に悪気なく傷つけられたはずなのにその人のことを想う気持ちは消えてはくれずいつまでも忘れられない。
こじらせた青年からこじらせた大人になったある日にコーヒーショップでノートパソコンを開いていると初恋の人が来店した。いつまでも忘れられないこちらと違って、あちらには記憶の隅にも自分の姿はないのだろう。そう思っていたのだが。
「あんた、同中だったよね」
注文待ちのランプ下からズカズカと歩いてカウンターへとやってきた彼女。ふたりに周りの視線が降り注がれている。
「相変わらず冴えない感じね」
それだけ言うと注文の品を受け取り颯爽と店を出ていってしまった。視線に耐えられず何を見るでもなかったノートパソコンを仕舞って店を出ると彼女の姿はすでにない。
長らく思い出すことのなかった初恋の思い出とよく似た状況に彼女からの言葉が新たに突き刺さっている。今も昔も冴えない自分は、このままでよいのだろうか。未だ輝いて見えたその人のことをまた改めて想い始めた。
『明日世界が終わるなら』
仕事終わりの帰り道。同期とそんな話になった。映画なんかでよくある描写には助かるかもわからないのに遠くへ逃げようとする人たちが列をなして渋滞を作り出したりしている。
「そんなことするぐらいなら、美味いもん食って死にたいよな」
きょうの晩ごはんの買い出しに寄ったスーパーで食材を吟味し、おつとめ品として値引きシールが貼られたワゴンにも目を光らせながら巡回する。ひき肉が入っていたカゴの中に新たにナスが投入された。
「僕らの世界が明日終わるとしたら、最後の晩餐は麻婆茄子になるわけだ」
「他に食べたいものあったか?」
「そうだな……」
たまたま卵コーナーを通りがかって、高級な卵が目に付く。
「卵かけご飯かな」
いつも買う12個入りのものより倍以上も高い卵をじっと見ていると、それが手に取られてカゴの中に大事そうに入れられた。
「明日の朝も世界が無事だったら、お祝いに一緒に食おうぜ」
ほほえみながらレジ列へと向かう同期に後光が差しているかのようで思わず拝んでしまう。
きょうも一日が無事に終わろうとしている。明日も無事に一日が始まることを願いながら、未知の高級な卵かけご飯に想いを馳せた。
『君と出逢って』
君と出会う前の僕は食事に興味がなかった。菓子パンでもおにぎりでもカップラーメンでも腹が満たされればなんでもよかった。職場の同期として出会った君とそういう食生活をしているという話をしたとき、君の顔がどんどん険しいものに変わっていったのはなかなか面白かった。その日の仕事終わりにうちに来いと半ば強制的に連れられ、男の部屋の割には整った台所や手際の良い調理風景を見て異世界を見ているかのように思えたものだ。出来上がったのは肉野菜炒めと味噌汁。
「……なにこれおいしい」
素朴な素材だけの料理のはずが、これまで食べて来たどの飯よりも美味かった。そうだろうそうだろうと満足そうに頷く君は言った。
「おまえに食事への興味を教えてやる」
仕事終わりに君の家へ寄ってから帰るのが当たり前になり、泊まることもしばしば。職場の周りにはデキていると思う人もいたらしいけれど、否定できないぐらいには入り浸っていた。入り浸りのさなかに食事への興味は深まり、包丁を握ったこともない人生から人に何かを作って提供できるまでになっていった。
「この肉野菜炒め美味いな!」
「君と僕との思い出の味だよ」
そういえばそんなこともあったな、なんて言いながらビールを飲む君に釣られて冷蔵庫に缶ビールを取りに行く。
「今日泊まっていい?」
「おまえビール飲んだら絶対泊まるマンだな」
今日もごはんがおいしくてビールもおいしい。君と出逢って本当によかったと思う。