『ずっと隣で』
こどもの頃からやっている柔道でライバルと思っている人がいる。県大会レベルでは敵なし状態だったので天狗になっていた私は地方大会で初対戦したときに負けを喫し、その人は優勝した。その人は同い年で、天才とかサラブレッドとか呼ばれている人だった。どうして表彰台に私はいないのか。そして、表彰台に乗ってメダルを受け取るその人にはどうして笑顔が無かったのか。そのふたつを強烈に覚えている。
負けてからはそれまでサボりがちだった基礎練習や筋トレをちゃんとやるようになった。負ける要素を少なくすれば勝てるようになる。勝てるようになれば、勝手にライバル認定したあの人にも勝てるかもしれない。次の年の地方大会にも出場し、再会できたのは決勝戦。無駄のない動き、判断の早さ。どれをとっても段違いだった。
表彰台に登る前、少し話をした。今日の試合はこれまでで一番楽しかったとその人は言った。
「実は去年も対戦してたんだけど、覚えてる?」
「ごめん、全然」
うふふ、と笑いあってから表彰台に登る。少しだけ笑顔になったその人を見て、なぜかとてもうれしかった。
あのときの試合を胸に、今日もまた練習に励んでいる。いつか勝てるかもしれないという思いもある。けれど、また楽しい試合をしたい。私が強くなればあの人を笑顔にできるとわかったから。
『もっと知りたい』 (ストリートファイター6)
金をだまし取る方法は簡単だった。大人相手を遊びに誘い、乗ってきたところを哥哥が写真に収めて口止め料に金をせびる。そうやってなんとか生き延びてきた。
そんな生活が終わりを告げたのはいつもと同じことを兇手相手とは知らずに仕掛けたとき。哥哥が写真を撮って出てきたのにその人は狼狽えず、私達に選べと言って札束と短刀とを示した。どちらも今まで見たことのないものだった。私が惹かれてしまったのは短刀の方。美しく無駄のない形状の短刀に刻まれた紋様のようにも見える文字はなにを表しているのか、そればかりが気になった。選べと言われたが、見つめるだけで精一杯。手に触れることは畏れ多いことのように感じていた。
「そこに書かれた文字を教えてください」
文字を読むことが出来なかった私は跪きながらそう告げて、身の内から湧き上がる知りたいという気持ちを込めて縋った。私のすべてを棄ててでも知りたいと思ってしまった。
哥哥と最後に交わした言葉をもはや覚えていない。先生の教えてくれる知識と技術と体験、そして先生が今の私のすべてだった。
『平穏な日常』
朝。犬の散歩にゆく。真冬に比べて日が昇るのが早くなったので、日の光を浴びながら歩いているとだんだんと目が覚めてくる。昨日降った雪は屋根の上や農地の土をまぶすように薄く積もっていた。小春日和に咲いていた小花のあたりを犬がしきりに匂いを嗅いで、鼻先に乗った雪はわずかに留まったあとに水となって消えていく。
「鼻冷たいね」
答える代わりにくしゃみをした犬は散歩の続きをずんずんと歩き出す。
昨日も今日も同じように思えてしまうけれど、犬を見ているとどうやらそうでもないらしいと思えてくる。昨日には無かった木の枝を咥えてみたり、昨日には無かった匂いを探り当てようとしたり。
風の中の匂いに神経を集中させているかのように佇んでいた犬はやがてまた歩き始めた。なにか新しいものを見つけにいく足取りは今日も軽やかだった。
『愛と平和』
戦争を終わらせることができれば平和な世の中を築ける。理想のために敵方の将を破り、我が国は勝利した。
国を治める立場になり、敗戦国にも目をかけていたのだが報復は突然に行われて妻は亡きものにされた。
「当然の報いだろう」
悪びれもせず言い放った者を目の前にして冷静さを保てるはずはなかった。
『他者を思いやる心があれば争いのない平和な世の中になる』
妻のよく言っていた言葉が脳裏を過ぎる。しかし床の血溜まりは広がり続けた。
「彼の国を滅ぼせば真の平和が訪れる」
その広がりはいずれ国土をも埋め尽くす。私は平和な世の中を作る方法をひとつしか知らなかった。
『過ぎ去った日々』
施設の一画で老人が虚空に語り聞かせている。自らが若かりし頃の思い出を。老人は聞く者のいない思い出を繰り返し語る中で妄想を滲ませていき、やがて自らを一国の主だと思うようになった。誇りは高く、しかし寛大な国王なのだと目に生気を漲らせて施設の介護職員に語って聞かせた。
寛大な王以上に寛大な職員は突然に現れた王に対して自分を召使いだと思わせるように接した。他の職員もそれに倣った結果、召使いの数は2倍にも3倍にも増えて王はいつでも機嫌よく過ごせるようになった。
もともと老人だった王はいっときは溌剌としていたが数年の後には床に伏せがちとなった。
「わしはもう長くはない」
「そんな弱気な発言をなさっては、民が悲しみます」
「しかし自分のことは自分がよくわかっておる」
「王様……」
「長い間、よく付き合ってくれた。わしの国は、……わしの話は、もうじき終わりよ」
召使いが涙を溢れさせる間に王は眠りに落ち、崩御となった。国葬はしめやかに慎ましく執り行われた。
身寄りのない老人かと思われたが遺骨を引き取りたいという若者が施設を訪れた。
「あの、おじいちゃんはここではどんな感じでしたか?」
対応した職員の召使いであったときの記憶が昨日のことのように蘇る。
「最初ここに来たときはぼんやりとした人だったんだけどね……」
楽しげに、懐かしげに、召使いは過ぎ去った日々を語り始めた。