『君と歩いた道』
「は!?」
久しぶりに家を訪ねてきた友人が、部屋に上がるなり眉をひそめた。
「ヨシト、お前まだそいつ処分してなかったのか」
ボロアパートの隅でうなだれたようにして丸まっているあいつを、シオンがあごで指す。
「あ、あぁ。まぁ……な」
色あせた表面の塗装は、ところどころ剥がれている。メーカーの修理対応がとっくに終了してしまったこの型は、もうずっと動かないままだ。
——NEW HORIZON(ニューホライズン)
世界中のほとんどの家庭が一家に1台以上のヒューマノイドロボット(人型ロボット)を所持しているこの時代、アメリカのAZ社が開発したNEW HORIZONは、世界生産の半数を超える圧倒的なシェアを誇っている。
そして、ここでうなだれているヒューマノイドこそ、その最も初期の型である〝NEW HORIZON Ⅰ(ワン)〟なのだ。
「いい加減どうにかしろよな。もう3年だろ? 動かなくなって。時代はもうHORIZON Ⅴ(ファイブ)だってのに」
確かにシオンの言う通りだった。修理もできず、この狭い部屋で場所ばかりとっている故障したヒューマノイドなんか、本当ならさっさと手放せばいいだけだ。
「ちなみに、俺はファイブ予約済みだから」
「お前……さては稼いでるな」
鋭くにらみつけた視線を交わしながら、シオンはむかつく笑みを浮かべた。
「まあな。少なくとも、院に進んだお前よりは金持ちだ」
「だとしたら、手土産を持ってくるくらいの気は利かせてくれ」
「すまんな。あいにく、新型ヒューマノイドのせいで金欠なんだ」
食費を削るほど金がないやつが目の前にいることに、多分こいつは気づいていない。大学を卒業して大手企業に就職したシオンは、今や立派な社会人だ。院に進んで、研究ばかりしている万年金欠の俺とは大違いだった。
「あ、そうだ。今使ってるHORIZON Ⅳ(フォー)、あれ下取りに出そうと思っていたが、手土産の詫びにお前に譲ってもいいぞ。もちろんタダではないが、格安でいい」
視界の端にいるあいつは、あの日止まってから今日まで、一度も動いていない。何をどう頑張っても、うんともすんとも言わない。普通に考えれば、この申し出はありがたく受けるべきだ。でも——
「タダでも、もらってやるかよ」
2人から目を背けるように、俺は窓の外の曇天を眺めた。
アメリカ発のヒューマノイドに、俺は〝ジェイムズ〟と名付けた。これはあとから知ったことだが、ジェイムズは日本の工場で作られた正真正銘の日本生まれだ。
ジェイムズが初めてうちに来た日、俺は呆気にとられた。
ちょうどNEW HORIZON Ⅲ(スリー)が発売された年、当時大学2年生だった俺はネットで格安の中古HORIZONを見つけ、購入した。
俺はその時、最新型であるNEW HORIZON Ⅲの中古を買ったつもりだった。だが、届いたのは初期型HORIZONの中古、ジェイムズだった。何事も安いものには理由がある。
ジェイムズははっきり言ってぽんこつだ。中古だからか、そもそも型が古いからか分からないが、会話は時々噛み合わなくなるし、できることも最新型に比べたら天と地ほどの差がある。見た目も年季が入っていて、お世辞にも連れ歩きたいほどきれいとは言えなかった。
最新型ヒューマノイドがいれば生活の質が圧倒的に変わると聞いて期待していたが、その期待も実現するどころか、こっちがジェイムズの面倒をみることになった。とんだ誤算だ。
思い返せば一度だけ、一緒に外に出かけたことがある。まだあいつがうちに来たばかりで、元気だった頃の話だ。
「ここはどこですか」
「それは俺がお前に聞きたいんだぞ、ジェイムズ」
「そうでしたか、すみません」
車を持たない貧乏学生の生活の足である全自動スクーターが故障し、それを引き取りに行く途中だった。
「まったく。どうしても着いてくるって言うから連れてきたのに、全然役に立たないじゃないか」
ジェイムズのインターネット接続が上手くいかず、頼りのナビ機能が使えなくて俺たちは完全に道に迷っていた。
「すみません。お役に立てるように頑張ります」
そう意気込んだ直後、ジェイムズの体内から電子音が聞こえた。
「あと5分でバッテリーが切れます」
「は!? ちゃんと朝まで充電してただろ!?」
「はい。ですが、あと5分で完全停止します」
「完全……停止……」
さっきから全く車の通らない道。あたりに民家など見当たらない。現在地も分からない。連絡手段もジェイムズしかない。こんなところでこいつが停止したら——終わった。
途方に暮れてトボトボ歩く俺と、体をきしませながらも能天気に歩くヒューマノイド。初夏の日差しが頭に照りつける。もうそろそろ、こいつはここで体育座りのような停止体勢になり、そのまま動かなくなるだろう。
安さに目がくらんで、よく確認もせずにヒューマノイドなんか買うんじゃなかった。予定通りこれがHORIZON Ⅲだったなら、こんなことにはならなかっただろう。
「はぁ……」
深いため息をこぼすと、先を歩いていたジェイムズが振り返った。
「ヨシトさん、どうしましたか? 疲れましたか? 助けが必要なら言ってください。緊急時機能〝大声で叫ぶ〟を使うことができます」
真顔でそう言うジェイムズに、慌てて首を振る。
「いやいや、やめてくれ。第一、その機能を使ったところで、誰も聞いてなきゃ意味ないだろ」
人の存在を確認するように、ジェイムズが辺りを見回す。
「そのよう……ですね」
「せめて、ここがどこか分かればな……」
俺は天を仰いだ。それと同時に、ジェイムズがとうとう停止直前の最終アラームを鳴らし始めた。
「ヨシトさん」
「いいから喋るな。もうバッテリーが切れるぞ」
「はい」
絶え間なくアラーム音が鳴り続ける。
「ヨシトさん」
「だからお前喋るなって——」
「現在地が分かりました」
「えっ……」
「現在地が分かりました。目的地までの案内を記憶してください」
「あっ、ちょっと待って」
ジェイムズが早口で言う道順を、俺は必死に覚えた。目的地まで、そう遠くなさそうだった。
「で、最後に右だな? よし。ん、ジェイムズ……」
隣を見ると視線が合うことはなく、ただ足元には力尽きたジェイムズが膝を抱えていた。
道は覚えた。問題は、この動かない金属の塊をどうするか。
結局俺は、修理工場までジェイムズを引っ張って行き、帰りはスクーターにジェイムズを乗せ、それを押して帰ることになった。
そんなジェイムズがある日突然動かなくなってから、早いものでもう3年が経った。
あんなにぽんこつで役になんかちっとも立たないのに……いや、ぽんこつだからこそなのか。俺はどうしてもジェイムズの代わりを見つけようとは思えなかった。
「なぁ、ジェイムズ。もうちょっとだけ、待っててくれ」
シオンが帰った家。返事をする声はない。
「俺、お前を直すために今頑張ってんだからな。お前のために機械工学の研究課程に進んだんだ。感謝しろよな」
メーカーに頼れないなら、ジェイムズの修理は俺がやるしかない。どうせならバッテリーの持ちも、電波の受信具合も良くして、前より頼れるヒューマノイドにしよう。
そしたらまた、こいつと一緒にどこかに出かけよう。
あの日一緒に歩いた道。相変わらず人通りはなく、遮るもののない太陽光がアスファルトに反射する。
「今どの辺?」
「目的地まで、およそ27分の地点です」
「バッテリーは問題ないか?」
「はい。バッテリー残量79%、問題ありません」
「もうぽんこつじゃないな——ジェイムズ」
「はい。わたしはもう、ぽんこつではありません」
自慢気な顔のジェイムズ。生まれ変わったジェイムズに関心したのも束の間、なぜかまたアラーム音が鳴り始めた。
「おいジェイムズ、今度は何なんだ」
「太陽光により体内温度が上昇。5分後には危険値を超える予定です」
「……超えたらどうなる」
「完全停止です」
『夢を描け』
「ほら手が止まってるぞ、ヒロ」
階段の下から、タロ先生の声が飛んできた。
コンクリートで造られた校舎、階段横の壁は僕の前だけ灰色のままだ。
隣で描いているユカも、その向こうで描いているキミタカも、もう描きたいものは決まっていて、順調に絵の具を広げている。
「うーん……」
腕を組み、眉をひそめながら考える。
僕の夢って、何だろう——
来年の春、僕らの小学校は廃校になる。
最後の卒業生となる6年生は、僕を入れて3人。頭が良くて頼れるキミタカ、ちょっとおせっかいなとこもあるけど優しいユカ、そして何てことのない平凡な僕。僕たちは入学した時からずっと、3人で一緒に過ごしてきた。
これから、キミタカは私立の中学校を受験することになっていて、ユカと僕は中学校では校区が違う。卒業すれば、3人とも別々の学校に通うことになる。
下級生のみんなは、来年度から他の学校に転校することに決まっているらしい。
最後の思い出に何かできないか、と担任のタロ先生が言った時、校舎に絵を描きたいと言ったのは僕自身だった。
それにキミタカもユカも賛成してくれて、他の学年の子もみんな一緒に、別れを告げるこの校舎に絵を描くことになった。
そして、そのテーマが〝夢〟だった。
「まぁ、いきなり『夢を描け』なんて言われても困るよね」
ふぅ、と額の汗を体操服の袖で拭ったユカが、こっちを見てそう言った。
「あたしもホントは困るんだ。だって、あたしの夢なんて、こんなちっちゃな場所には収まりきらないもん」
そうやって得意気に言うユカを、僕は心の中で羨ましく思う。
「あたし女優さんになるって決めてるんだけど、最近ちょっとパイロットもかっこいいなって思い始めてさ。あ、でも世界的なデザイナーになるっていうのもアリなんだよなぁ」
「さすがユカの夢はどれも大きいんだな。態度と同じくらい」
キミタカがユカにちょっかいをかける。
「はぁ!? ちょっと、今なんて言ったの!」
「別にー」
キミタカは笑いながらも、手は黙々と動かし続けている。
そういうキミタカの夢は、昔からずっと同じだ。
「キミタカはいいよなぁ、医者になるって決まってて」
どんどん夢を描き進めるキミタカを見ていると、ついそう口に出してしまった。
「別に決まってなんかない。親が医者だからって、努力しなきゃ医者にはなれない。でも俺はどれだけ大変でも、父さんのような医者になりたいし、医者として誰かの役に立ちたいから」
「うん、だよね……ごめん」
キミタカの前では、自分がとてもちっぽけで情けなく思えてしまう。
「そんな謝るなよ。ヒロにだって、なりたいものとかやりたいことがきっとあるはずなんだから」
「そう……かな」
そうつぶやいた小さな声が消えてしまったあと、僕は再び目の前の壁に向き合った。
「——自由に描けばいいさ」
その声に驚いて振り返ると、すぐ後ろにタロ先生が立っていた。
「夢なんてのは、別に大きくなくていいし、立派でなくてもいい。誰にだって心の中にあるもんで、それに従って突き進めばいつかは辿りつけるもんなんだ」
「じゃあ……先生の夢は?」
「ん、俺のか?」
一瞬天井を見上げたタロ先生が、視線を戻してニカッと口角を上げた。
「俺の夢はお前らが無事に卒業すること。あと、俺の生徒たちみんなが夢を叶えること。その手伝いをするのが先生っていう仕事だからな」
そうやって笑うタロ先生は、時々怖いこともあるけど、やっぱりすごくかっこいい先生だ。
「じゃあ、タロ先生の夢を叶えるために僕も夢を叶えなくちゃいけないってことか」
「そうなるな! 頼んだぞ、ヒロ!」
大きな口で笑うと、先生は僕のもとを離れて、また階段を降りていった。
僕はまっさらなコンクリートに手を触れてみた。ひんやりとした温度が手のひらに広がる。
目を閉じると、ざわめきが聞こえてくる気がした。子どもの笑い声や生徒を叱る先生の声、チャイムの音、「おはよう」「さよなら」の挨拶……まだここを、たくさんの生徒たちが行き交っていた時代の声だ。
今は大きくなったその生徒たちも、たくさんの生徒を見守ってきたこの校舎も、きっと僕らと同じくらい寂しくて切ない気持ちでいっぱいだろう。
「入学したばっかりの頃、覚えてる?」
しばらく集中して作業をしていたユカが突然口を開いた。
「あたし、あの頃ほんとはすっごく緊張しててさ。2人は幼稚園から一緒だったのに、あたしだけはじめましてだったから」
確かに最初はそうだった。でもユカはこの性格だから、あっという間に僕たちと打ち解けたはずだ。
「休み時間に、ヒロがあたしの机にノートを持ってきたことがあったでしょ?」
「ノート?」
「あ、もしかしてヒロの自由帳? そういえば、昔はよく描いてたな」
キミタカが懐かしそうに言う。
「そう。そこに、ヒロが絵を描いてくれたの」
「え、そうだっけ?」
思い出そうとしてみても、全く思い出せない。
「そうだよ! あたしの絵を描いてくれたの!」
「やるな、ヒロ」
「そんなんじゃないから!」
すかさず否定する。
「別に何でもいいけどさ。でも、あれがなかったらあたし、今みたいに2人と仲良くなれてなかったかもしれないって思う」
「そんなことないでしょ」
「そんなことあるの。これでも感謝してるんだから、あたし」
こっちを見るわけでもなく、ユカはつんとした口調でそう言った。
「あの絵を見て笑顔になったあたしに、ヒロは言ってくれたんだ。『ユカちゃん、初めて笑ったね。僕、この絵を描いてよかった』って」
その瞬間、僕はやっと思い出した。初めて見たユカの笑顔。ユカは僕の下手くそな絵を見て、すごく喜んでくれた。
「ほら、描きなよ」
ユカが自分の筆を僕の目の前に差し出した。
「何でもいいから、とりあえず描いてみなよ」
ユカと目が合って、僕はユカの筆を静かに手に取った。
筆先にはユカが選んだピンクの絵の具。僕はひと思いにその筆で大きく壁に1本の線を描いた。灰色の壁に、ピンク色の山なりの線が1筋生まれる。
僕の、夢……
この場所には数え切れないほどの思い出がある。みんなとここで過ごした時間は、これからもきっと忘れることはない。
僕は、そんな学校を寂しい場所で終わらせたくなくて、ここに絵を描きたいと思った。みんなが笑顔になれるような絵を、僕らがいた証を、ここに残したかったんだ。
「見つけた……かもしれない」
2人の方を見ると、2人もこっちを見ていた。僕が頷くと、2人がそれに答える。
「——よし」
この場所いっぱいに僕の大切なものを描こう。
教室の窓から見える景色、通学路に咲く花、いつの間にか口ずさんでしまう校歌、一緒に笑ったり泣いたり喧嘩もした友達、忘れ物には厳しいけどいつも褒めてくれる先生、そして毎日通った僕らの学び舎––––
この壁の前を通るみんなが、最後まで笑顔でいられるような。いや、この先もずっと思い出す度に笑顔になるような絵。
そんな絵が、僕に描けるだろうか。ううん、とにかくやってみよう。
この先のことはまだ分からないけど、今の僕の夢はきっと、これなんだ。
『木漏れ日』
「スミマセン」
ある日の午後、道を歩いていると一人の男性に声をかけられた。
金髪にブルーの瞳。Tシャツにハーフパンツというラフな格好で背中には大きなバックパックを背負っている。明らかに外国人だ。
「あ、えっと……」
これまでの人生でまともに外国人と話した経験などない。こんな場面、途端に私はパニックになってしまう。
頭の中で必死に学生時代の記憶を呼び戻す。そして絞り出した答えが——
「わ、ワット?」
彼はうろたえる私とは正反対に、余裕のある爽やかな笑みを浮かべた。
「ミチを教えてもらえマスか」
「ミチ?」
ミチとは……? と思ったのも束の間、すぐに彼が手に紙の地図を持っていることに気づいた。
「あ、道! ロード! えっとそれじゃ、ウェ……ウェアードゥーユー……」
「あの、ワタシ、日本語スコシ分かります。日本語で、ダイジョウブです」
そう言われて、あっ、と思った。
思い返してみれば、彼は最初からずっと日本語を話している。それなのに私は、外国人を前に何とか英語を話さなくては、と一人で必死になっていた。
その事実にたちまち恥ずかしくなって、顔に血が上っていく。
それでも彼はそんな私の感情になど気づいていないようで、うつむいた私が視線だけ上げると、相変わらずの丁寧な笑顔をこちらに向けた。
流暢に日本語を話す彼は、どうやらイギリスから旅行でこの辺に来たらしかった。
私が生まれ育ったこの町は大して特徴もなく、海外からの旅行客が観光で来るには退屈すぎるはずの小さな田舎町だ。
どうしてわざわざこんなところに来たのだろう。
そう疑問に思い尋ねると、行きたい場所があるのだと彼は笑った。
彼が行きたいと言った場所は地図を見ても分かりにくいような、田舎の中でもさらに奥まった場所にあった。
ここから歩くとしたら、軽く40分はかかるだろう。途中まではバスで行けるが、田舎のバスは1日に数本しか出ていない。今の時間なら、おそらく歩いた方が早い。そもそも目的地は森を抜けた先なので、どちらにしても最終的には歩いてしかたどり着けないのだ。
「あの、よかったらそこまでご案内しましょうか」
説明しているうちに、いつの間にかそう口に出ていた。
「ありがとうございマス! オー、あなたのお名前は?」
「あ、名前……私の名前はミオ、です」
「オー、ミオ! 私はルカです! ミオ、ありがとう!」
目的の場所までの道中、ルカは一時も休まずに話し続けた。
自分の名前の由来、家族構成に飼い犬の名前、そして日本に来た理由と今から行く場所に行きたい理由。
「ワタシは、日本語が好きです。愛しています。ワタシは昔、一人の日本人に出会いました。この本の中で」
森の中をしばらく進んだ時、そう言って彼がリュックから取り出したのは、擦り切れた1冊の本だった。
それは見るからに年季が入っていて、表紙には薄っすらとだがタイトルと著者名が見て取れる。
「ミオは彼を知っていますか?」
ルカの問いに私は頷く。
「この辺りの人で彼を知らない人はいないです。地元では有名な人だから」
ルカが持っていたのは、この辺りで生まれ育った俳人の句集だった。地元では有名とはいえ、日本全体ではほとんど知られていないはずだ。
「でも、どうしてこれを」
「偶然、古本屋でこの本に出会いました。最初は何が書かれているか、分からなかった。でも、なぜかとても読みたいと思った。だから勉強、しました。そして、日本語の素晴らしさを、知りました」
ルカは立ち止まって、上を見上げた。
森の中を風が吹いて、木々の隙間の光が揺れた。
「これが〝コモレビ〟」
ゆっくりと深呼吸したルカは、そっと目を閉じた。私もルカにならって目を閉じる。
「コモレビ、というコトバは英語にはありません」
「え、そうなんですか?」
とっさに隣に視線を向ける。目を閉じたまま、ルカは笑みを浮かべている。
「はい。訳すことはできても、その意味のコトバは、ないです。でも、日本人はこの光景に名前をつけました。コトバは必要とされた時、初めて生まれます」
「日本語って美しいでしょ?」とパッチリとした目を開いたルカがこちらを見た。
今まで〝木漏れ日〟という言葉について深く考えたことはなかった。でも今、こうやって私が木漏れ日を感じられるのは、この木々からこぼれるあたたかな光を、美しいと思った誰かがいたからなのだ。その美しさに名前をつけたいと思うほどに。
それを外国人のルカが教えてくれた。
ルカの長いまつ毛が木漏れ日に透ける。その奥の瞳は光を通すと吸い込まれそうになほどに淡く美しい。
「ミオ?」
ルカが不思議そうな顔でこちらを見ている。
「あ、ごめんなさい。あんまり綺麗でつい見惚れてしま……」
思わず本音を口走ってしまう。
「あ、いや、そうじゃなくて」
「いえ、綺麗です」
「え……」
ルカと視線が合う。
「美しいです」
淡いブルーの視線に真っ直ぐに見つめられ、胸の辺りがドキっとした。
「そう、この本が教えてくれました! 世界は美しいって!」
手に持った本をルカが嬉しそうに掲げる。
うかつにも一瞬舞い上がりかけた自分の頬を心の中で張り倒す。
「日本に来て、よかった。日本の美しさ、この目で見れました。コモレビ、本当に美しいです。そして……」
一瞬呼吸を置いたルカが、明後日の方を見る。
「——ミオも」
今度こそ、本当に舞い上がってしまってもいいのだろうか。
森に差し込む午後の光を浴びて、頬が熱を帯びる。
「さぁミオ、行きましょう! この先にも、美しい景色が待っています」
バックパックを背負い直したルカが、ずんずんと森の奥に進んでいく。
そんな背中を見て、私は笑みをこぼした。
「ルカ! そっちじゃない、こっちだよ!」
『透明』
中に人がいなくなったタイミングで、入り口に〝清掃中〟のパネルを立てた。
清掃の仕事は嫌いではない。むしろ、向いている方だと思う。人と極力関わらなくて済むし、淡々と仕事をこなせばこなすほど、そこが綺麗になって、はっきりと成果が分かる。基本的に、この仕事は自分の中だけで完結できるのだ。
ただ——トイレを清掃する時間だけは、少しわけが違う。
すばやく、かつ丁寧にトイレ内を清掃していると、入り口から声をかけられた。
「あの……今ここ使っても大丈夫ですか」
清掃中だからといって、使ってはいけないということはない。もちろん、急を要する場合だってあるだろう。
「はい、どうぞ。足元お気をつけください」
一旦、元の作業は中断して、まだ終わっていない他の作業に移る。
こうやって、トイレの清掃中はどうしても人と関わらなればいけない場面が出てくる。さっきの人のように、こちらに気づいて声をかけてくれるなら、まだいい。でも、清掃をしていることに気づくと、あからさまに嫌そうな視線が飛んでくることがある。中には、無言で舌打ちして中に入っていく人がいたり、完全にこちらを無視する場合もある。
自分でも意外だったが、私は舌打ちされるより、この〝無視〟というのが精神的に堪える。何も見えなかったように、いなかったように、なかったように——そうされるのが、1番しんどい。
だから普段の清掃では、最初から自分の存在を消してしまう。人との関わりがなければ、難しいことではない。
だが、トイレを清掃する間は違う。明らかにそこにいて、見逃すはずがない存在なのに、見えていない。
そんな時、私はまるで、自分が透明になってしまったように思えてしまう。
それでも、私にはこの仕事しかない。淡々と清掃し、淡々と清潔な空間をつくっていく。誰かが見ていても、誰にも見られていなくても、それが私の仕事だ。
床を綺麗に拭き上げ、備品の最終チェックをする。
そうやってすべての作業を終え、ようやく入り口のパネルに手をかけた時、ガチャっと音がして、閉まっていた個室のドアが開いた。
先ほど声をかけてきた女性が、中から出てくる。
私は邪魔にならないようにさっとパネルを抱え、小さく頭を下げてからトイレの外に出た。
壁の向こう側で水道の流れる音がして、それから止まった。
それを聞きながら、清掃のチェック用紙に記入して、ポケットに入れていた印鑑を押した。
これで今日の仕事は終わりだ——静かに息をついて顔を上げると、ちょうどトイレから出てきた女性と視線が合った。
そらされる、と反射的に思う。だが、なぜだろう。彼女はそのままこちらに笑顔を向けた。
「いつもありがとうございます」
明るく、まっすぐにこちらを見て、彼女はそう言った。そんなことを言われたのは初めてだった。
今まで、事あるごとに思ってきた。誰がこの清潔な空間を保っていると思ってるんだ。勝手にトイレは綺麗になるし、勝手にゴミは消えてしまうとでも思っているのか、と。
でも、ちゃんと気づいてくれている人がここにいた。トイレが綺麗な理由も、そして私の存在にも。
その瞬間、私は確かに透明じゃなくなった。
「——こちらこそ、ご利用ありがとうございます」
『秘密の場所』
そこに道はない。交差した木を目印にして小道を逸れ、そこからは草木をかき分けながら進む。
しばらく行くと、開けた場所に出る。
目の前は——海だ。
「もし、さ」
風に乗って、彼女の声がしたような気がした。鼻の奥で、懐かしい潮の匂いを感じる。
切り取られた海と空。僕らだけの空間。彼女は砂の上ではいつも裸足で、僕は、そんな彼女の脱ぎ捨てた靴が波にさらわれてしまわないかと、いつも気が気でなかった。
「もし、さ」
そう言い出したのは、彼女の方だった。
「10年経ったら、私たち、大人になるでしょう?」
「もし、じゃなくても、そうなるんだよ。10年も経てば」
「ううん。そうだけど、違う。私が言いたかった〝もし〟は、もっと違うこと」
「じゃあ、何が〝もし〟なの?」
彼女の言い方がじれったくて、急かすように尋ねた。
「もし、10年後、私たちが大人になって……」
「うん」
「新しい友達がたくさんできて」
「うん」
「きっと、恋なんかもいくつかして」
「……うん」
「でも、この場所のことが忘れられなかったら……」
「うん」とまた返してみたつもりが、それはたぶん、もう声にはなっていなかった。だから、僕はただ続く言葉を待った。
今日で、きっかり10年だ。彼女がまだ遠くに引っ越してしまう前、最後にここで会った日から、今日で10年。
あの頃のたくさんの記憶は薄れてしまって、そのほとんどを思い出せなくなっても、この場所のことを忘れることはなかった。
でも、そんなふうに生きてきたのは、きっと僕だけだったの
だろう。
誰もいない小さなビーチで、僕は靴を脱ぎ捨て、砂の上を駆けた。スボンの裾をまくし上げて、海に向かって走る。
春の海は、冷たい。当たり前のことが、身にしみて分かる。でも、気にするもんか。
考えてみれば、僕たちはとても曖昧だった。その曖昧さが心地よかった。だが今となっては、僕にはその曖昧さしか残っていない。
それでは、何の意味もないじゃないか——
砂浜に座って、僕は約束の日が終わるのを待った。
彼女は来なかった。それが答えだ。
目を閉じて、波の音を聴く。
今日で、この場所のことは忘れてしまおう。
波の音も、海の色も、風の匂いも、砂の感触も、彼女のことも、この気持ちも、すべて——忘れてしまおう。
「靴、濡れちゃうよ」
そう声がしてハッと振り向くと、そこに女性が立っていた。記憶の中の少女の姿ではない。大人になった、彼女だ。
「靴を脱ぎ捨てるなんて、子どもみたい」
「どうして……」
「どうして、って言われてもなぁ」
そうやって笑った顔は、あの頃のまま。
「大人が靴を脱ぎ捨てて海っていうのは……」
「じゃなくて」
彼女はいつだって僕をじらす。悪い癖だ。
「——忘れられなかったから、でしょ」
「この場所が……?」
「うん」
海の方を見て、彼女は頷いた。
もうすぐ、今日が終わろうとしている。
「もし、って言ったの覚えてる?」
「うん」
「もし10年後に私たちが大人になって、新しい友達がたくさんできて」
「うん」
「恋なんかもいくつかして」
「うん」
「でも、この場所のことが忘れられなかったら……」
彼女はあの日言った。
「10年後の今日、この場所でまた会おう」と。
「僕は忘れられなかった」
「うん、だね……私も」
もう後悔はしたくない。だから、彼女に会えたら言おうと決めていたことがある——
僕が彼女に贈った10年越しの言葉と、彼女が僕にくれたその返事は、僕らの秘密を知る海にそっと隠しておこうと思う。