今宵

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『透明』


 中に人がいなくなったタイミングで、入り口に〝清掃中〟のパネルを立てた。
 清掃の仕事は嫌いではない。むしろ、向いている方だと思う。人と極力関わらなくて済むし、淡々と仕事をこなせばこなすほど、そこが綺麗になって、はっきりと成果が分かる。基本的に、この仕事は自分の中だけで完結できるのだ。
 ただ——トイレを清掃する時間だけは、少しわけが違う。

 すばやく、かつ丁寧にトイレ内を清掃していると、入り口から声をかけられた。
「あの……今ここ使っても大丈夫ですか」
 清掃中だからといって、使ってはいけないということはない。もちろん、急を要する場合だってあるだろう。
「はい、どうぞ。足元お気をつけください」
 一旦、元の作業は中断して、まだ終わっていない他の作業に移る。
 こうやって、トイレの清掃中はどうしても人と関わらなればいけない場面が出てくる。さっきの人のように、こちらに気づいて声をかけてくれるなら、まだいい。でも、清掃をしていることに気づくと、あからさまに嫌そうな視線が飛んでくることがある。中には、無言で舌打ちして中に入っていく人がいたり、完全にこちらを無視する場合もある。
 自分でも意外だったが、私は舌打ちされるより、この〝無視〟というのが精神的に堪える。何も見えなかったように、いなかったように、なかったように——そうされるのが、1番しんどい。
 だから普段の清掃では、最初から自分の存在を消してしまう。人との関わりがなければ、難しいことではない。
 だが、トイレを清掃する間は違う。明らかにそこにいて、見逃すはずがない存在なのに、見えていない。
 そんな時、私はまるで、自分が透明になってしまったように思えてしまう。
 
 それでも、私にはこの仕事しかない。淡々と清掃し、淡々と清潔な空間をつくっていく。誰かが見ていても、誰にも見られていなくても、それが私の仕事だ。
 床を綺麗に拭き上げ、備品の最終チェックをする。
 そうやってすべての作業を終え、ようやく入り口のパネルに手をかけた時、ガチャっと音がして、閉まっていた個室のドアが開いた。
 先ほど声をかけてきた女性が、中から出てくる。
 私は邪魔にならないようにさっとパネルを抱え、小さく頭を下げてからトイレの外に出た。
 壁の向こう側で水道の流れる音がして、それから止まった。
 それを聞きながら、清掃のチェック用紙に記入して、ポケットに入れていた印鑑を押した。
 これで今日の仕事は終わりだ——静かに息をついて顔を上げると、ちょうどトイレから出てきた女性と視線が合った。
 そらされる、と反射的に思う。だが、なぜだろう。彼女はそのままこちらに笑顔を向けた。
「いつもありがとうございます」
 明るく、まっすぐにこちらを見て、彼女はそう言った。そんなことを言われたのは初めてだった。
 今まで、事あるごとに思ってきた。誰がこの清潔な空間を保っていると思ってるんだ。勝手にトイレは綺麗になるし、勝手にゴミは消えてしまうとでも思っているのか、と。
 でも、ちゃんと気づいてくれている人がここにいた。トイレが綺麗な理由も、そして私の存在にも。
 その瞬間、私は確かに透明じゃなくなった。

「——こちらこそ、ご利用ありがとうございます」

3/13/2025, 7:13:34 PM