今宵

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『秘密の場所』


 そこに道はない。交差した木を目印にして小道を逸れ、そこからは草木をかき分けながら進む。
 しばらく行くと、開けた場所に出る。
 目の前は——海だ。
「もし、さ」
 風に乗って、彼女の声がしたような気がした。鼻の奥で、懐かしい潮の匂いを感じる。
 切り取られた海と空。僕らだけの空間。彼女は砂の上ではいつも裸足で、僕は、そんな彼女の脱ぎ捨てた靴が波にさらわれてしまわないかと、いつも気が気でなかった。

「もし、さ」
 そう言い出したのは、彼女の方だった。
「10年経ったら、私たち、大人になるでしょう?」
「もし、じゃなくても、そうなるんだよ。10年も経てば」
「ううん。そうだけど、違う。私が言いたかった〝もし〟は、もっと違うこと」
「じゃあ、何が〝もし〟なの?」
 彼女の言い方がじれったくて、急かすように尋ねた。
「もし、10年後、私たちが大人になって……」
「うん」
「新しい友達がたくさんできて」
「うん」
「きっと、恋なんかもいくつかして」
「……うん」
「でも、この場所のことが忘れられなかったら……」
「うん」とまた返してみたつもりが、それはたぶん、もう声にはなっていなかった。だから、僕はただ続く言葉を待った。

 今日で、きっかり10年だ。彼女がまだ遠くに引っ越してしまう前、最後にここで会った日から、今日で10年。
 あの頃のたくさんの記憶は薄れてしまって、そのほとんどを思い出せなくなっても、この場所のことを忘れることはなかった。
 でも、そんなふうに生きてきたのは、きっと僕だけだったの
だろう。
 誰もいない小さなビーチで、僕は靴を脱ぎ捨て、砂の上を駆けた。スボンの裾をまくし上げて、海に向かって走る。
 春の海は、冷たい。当たり前のことが、身にしみて分かる。でも、気にするもんか。
 考えてみれば、僕たちはとても曖昧だった。その曖昧さが心地よかった。だが今となっては、僕にはその曖昧さしか残っていない。
 それでは、何の意味もないじゃないか——
 
 砂浜に座って、僕は約束の日が終わるのを待った。
 彼女は来なかった。それが答えだ。
 目を閉じて、波の音を聴く。
 今日で、この場所のことは忘れてしまおう。
 波の音も、海の色も、風の匂いも、砂の感触も、彼女のことも、この気持ちも、すべて——忘れてしまおう。
「靴、濡れちゃうよ」
 そう声がしてハッと振り向くと、そこに女性が立っていた。記憶の中の少女の姿ではない。大人になった、彼女だ。
「靴を脱ぎ捨てるなんて、子どもみたい」
「どうして……」
「どうして、って言われてもなぁ」
 そうやって笑った顔は、あの頃のまま。
「大人が靴を脱ぎ捨てて海っていうのは……」
「じゃなくて」
 彼女はいつだって僕をじらす。悪い癖だ。
「——忘れられなかったから、でしょ」
「この場所が……?」
「うん」
 海の方を見て、彼女は頷いた。
 もうすぐ、今日が終わろうとしている。
「もし、って言ったの覚えてる?」
「うん」
「もし10年後に私たちが大人になって、新しい友達がたくさんできて」
「うん」
「恋なんかもいくつかして」
「うん」
「でも、この場所のことが忘れられなかったら……」
 彼女はあの日言った。
「10年後の今日、この場所でまた会おう」と。
「僕は忘れられなかった」
「うん、だね……私も」
 もう後悔はしたくない。だから、彼女に会えたら言おうと決めていたことがある——

 僕が彼女に贈った10年越しの言葉と、彼女が僕にくれたその返事は、僕らの秘密を知る海にそっと隠しておこうと思う。

3/8/2025, 8:49:45 PM