『さぁ冒険だ』
「いらっしゃいませ」
入り口の戸を引いた直後、食欲をそそる匂いとともに、伸びやかな声が飛んできた。テーブルの上を片付けていた女将さんと目が合い、会釈を交わす。
店主であるご主人と、その奥さんが2人でやっているこの定食屋は、こじんまりとしていて、いい意味でかしこまっていない落ち着いた雰囲気がある。
客席はキッチンに面したカウンターに3席、その背中側の壁際に並んだ2つのテーブルに4席ずつあって、今はカウンターに2人と、テーブル席に2人の先客がいる。
今日は昼飯時にしては空いているようで、俺は運良く空いていたカウンター席を選んで、いつものように腰を下ろした。
この街に引っ越してきた半年前から、毎週土曜日はこの定食屋でランチをするというのが習慣になった。これも毎週土曜に通っている近所の図書館の、その帰り道にこの店があるのだ。
奥で料理を作っているご主人とはほとんど面識がないままだが、接客を担当している女将さんとは、個人的な会話こそしたことがないものの、毎週通ううちに顔見知り程度には親しくなった。
もし仮に今日、俺が「いつものください」と言えば、きっと女将さんは〝いつもの〟を持ってきてくれると思う。もっとも、そんな勇気があればの話だ。もちろん、俺にそんな度胸はない。万が一、「いつもの……?」なんて疑問符がつこうものなら、恥ずかしすぎて、もうここには来られなくなるだろうと思うからだ。
そんな事を考えながら、一旦はメニューを一通り見回してみる。
だが、結局俺は、何とかの一つ覚えのように、毎回同じ注文を繰り返すことになる。
「——生姜焼き定食ください」
翌週もまた、図書館に行った帰り道にその定食屋を訪れた。
女将さんと会釈を交わし、カウンターに座る。そして、形式的にメニューを眺めた。まるで流れ作業をしているように。
ここで、いつもの俺なら、次に
「生姜焼き定食ください」
そう言えば良かった。女将さんもきっとそう予想していただろうし、もしかしたら料理を作っているご主人もそうだったかもしれない。
だが、今日の俺はかなり迷っていた。
見慣れたメニュー表の最後に1つ、新しい料理が書き加えられていたからだ。
〝アジフライ定食(期間限定)〟
俺はハッとして、隣の客を横目で確認した。そして、さり気なく、斜め後ろのテーブルの方も確認する。
テーブル席からサクッと軽快な音がして、断面から柔らかそうな肉厚のアジがのぞく。フライにかじりついたその客は、すぐさまご飯を口いっぱいにかき込んだ。
それを見て、俺は前に向き直った。再び、メニュー表と対峙する。
思い返せば、いつだって俺は冒険できないタイプだった。昔通っていたラーメン屋でも、どこにでもあるチェーンのファミレスでも、蕎麦屋でもうどん屋でも何でも、どこに行ったとしても、頼むのは結局、毎回同じ料理になってしまうのだ。
挑戦したいという気持ち自体はちゃんとある。他の人のを見て、美味しそうだなと思ったり、期間限定のメニューを試してみたいと思ったりはするのだ。
だが、間違いなく美味しいと分かっているいつものメニューがあるのに、リスクを犯して挑戦することが、自分にはできなかった。
ちょうど今日、図書館で通りがかった児童書のコーナーで、懐かしい本を見かけた。小さい頃に夢中になって読んだ、冒険物のシリーズだ。いつか、この世界の果てまで、お宝を求めて旅をしてみたい。漠然とそんなふうに夢見ていた。
大人になれば、そんな夢はいつしか忘れてしまった。今でも相変わらず本の虫ではあるが、過ごしている日常は、昔読んだワクワクするような世界とは大きくかけ離れている。
女将さんが料理を手に厨房から出てきた。料理を運び終え、振り返った女将さんと目が合う。
「ご注文、お決まりですか?」
そう聞かれて、言い淀んだ。まだどうするか決めきれてなかった。
「あの……」
いつものように言葉が出てこないのを見て、女将さんが少し首を傾げた。
しばらく間が空き、俺はようやく心を決めた。
「——アジフライ定食、ください」
かすかに女将さんの目が見開かれる。だが、すぐにその表情も、いつもの穏やかな笑顔に戻った。
「アジフライ定食ですね、かしこまりました」
女将さんの後ろ姿を見送ってから、水を一口飲んで、息をついた。
図書館用にしているトートバッグから、本を1冊取り出す。いい大人が、つい懐かしくて、あの児童書を借りてきてしまった。
パラパラとめくるうちに、小さい頃の記憶がよみがえってくる。
「——お待たせしました」
女将さんの声がして顔を上げると、もう料理が出来上がっていた。
目の前で揚げたてのアジフライが湯気を上げている。
俺は読みかけの本を閉じて、箸を手に取った。
あの頃思い描いたようなものじゃないが、こんなちっぽけなことに、なぜか俺は高揚している。
さぁ、冒険だ——
「いただきます」
『魔法』
鏡を見て、テオは深いため息をついた。
テオの家は、代々魔法使いの家系だ。両親も、2人の兄も、両親の両親——つまり4人の祖父母もみんな、魔法が使える。彼らの吸い込まれるようなターコイズブルーの瞳が、その証だった。
だが、鏡に映るテオの瞳に、その輝きはない。テオの目は、光を通さない。真っ暗な闇の色なのだ。
階段を上がってきた足音がテオの部屋に迫ってきて、やがて止まった。そして、部屋のドアが開いた。
「テオ、何してるの。早く学校の支度をなさい」
母が鋭い眼差しでテオを見る。
「でも、具合が悪いんだ。だから今日は休む」
「バカなこと言わないで、テオ。朝食をおかわりまでして、具合が悪いなんてあるもんですか」
「それは……たった今具合がおかしくなったんだ——とにかく今日は休むから」
テオは母を部屋から押し出して、素早く部屋の扉に鍵をかける。そして、部屋の洋服ダンスを力ずくで押して、その扉の前を塞いだ。鍵を開けることなんて、魔法を使えば容易いからだ。
母を追い出してから程なくして、今度は父がテオの部屋の前にやってきた。
「テオ、早く出てきなさい。お前は人より努力をすべきだというのに、学校をズル休みするなんて、何を考えているんだ」
父が指を鳴らす音がするのと同時に、入り口の鍵が開く。目の前に立ちはだかったしょぼくれたバリケードを見て、父が口を開く。
「こんな事をしても無駄だと分かってるだろ。これ以上、父さんの手を煩わせないでくれ」
「だったら放っておけばいいじゃないか! 父さんは兄さんたちがいれば十分なんだ。あぁ、そうか。きっと僕だけ父さんたちの子どもじゃないんだ。そうさ、きっとそうだ。じゃなきゃ、僕だけこんな目をしていて、魔法が使えないなんておかしいよ。本当の親でもないのに、そんな風に僕に構わないで!」
とっさに近くにあった手鏡を手に取り、それを怒りに任せて部屋の隅に投げつけた。
「いい加減にしないか! あぁ、分かった。そこまで言うなら好きにしたらいい。学校も行かず、好きなだけここにこもっていればいいさ。お前の将来がどうなろうと、私がお前の親でも何でもないなら、関係ないからな」
そう言い残した直後、部屋の扉が音を立てて閉まった。
自分に、魔法が使えれば……
何度だって思ってきたことを、再び考える。そして、またため息をつく。
部屋に散らばったガラスの欠片から目をそらすように、テオはベッドに横になって、その目を固くつぶった。
テオが階段を降りてリビングに行くと、家族は誰もいなかった。
渋々片付けて、持ってきたガラス片を、ゴミ箱の隣に大ざっぱに置く。テオはそれを時間をかけて、1つ1つ手で集めた。これも魔法が使えれば一瞬で片付くのだなと、癖のようにいちいち考えてしまう。
テオはぐるりと辺りを見回した。静まり返った家に、テオ以外の気配はしない。両親は仕事に行ったのだろうし、兄も2人とも学校に行っている時間だ。
今頃学校に行っていれば、テオはまた嫌な思いをしていただろう。クラスメイトもみんな魔法を使える生徒ばかりなのだ。そこで魔法を使えないテオが浮くのは当たり前のことだった。
父も母も、そんなことは気にしていてもしょうがないと言う。気にしたところで何も変わらないのだから、魔法を使わずとも最低限生きていけるように、学校をいい成績で卒業しなさいと。
テオが学校で感じる辛さを、魔法が使える両親には分かるはずもない。かと言って、家にいても肩身が狭いのは変わらなかいのだが。
こんなに広い家に住んでいるのに、テオは自分の居場所がここにはないと思えてならなかった。
望んだ通りに学校を休めたものの、家で1人過ごす時間は退屈で仕方がない。いつもは何時間でも時間をつぶせるテレビやゲームも、兄の魔法がなければ動かせない。他にも、この家のほとんどの物に魔法が必要だ。だから、テオはただ部屋でぼーっとして時間をつぶしていくしかなかった。
そうやってしばらく経った時、ふと思い立って部屋を出た。
この際だから、誰もいない隙に家中を探索してみよう。
バレたら絶対に怒られるなと思いながら、上の兄の部屋、そして下の兄の部屋を物色した。他にも、物置きに入って何か面白いものはないかと探したり、客間になっているベッドに寝転んでみたりしてみる。
一通り満足して自分の部屋に戻ろうとしたが、テオはそこで足を止めた。
目の前にあるのは父の書斎だ。入り口には魔法で鍵がかかっていて、父しか入ることができない。テオはもちろん、兄たちもは入ったことがないらしい。
だが、テオは一度だけ、父がそこに入る瞬間を見たことがある。父の呪文と仕草を、テオはこっそりと眺めて、目に焼き付けた。だから、きっとあの時の再現はできるはずだ。
だが、問題はそこじゃなかった。唯一にして最大の問題、それはテオに魔法が使えないことだ。
テオは期待半分、ダメ元半分で、父を真似して呪文を唱えた。そして、ドアの前にかざした手を、弧を描きながらスライドさせる。
テオは耳をすませた。成功していれば、鍵が開く音がするはずだった。
音は——しなかった。
そう肩を落としたのも束の間、後ろから声がした。
「テオ、そこをどきなさい」
「え!?」
声のした方を振り返ると、そこに父が立っていた。
テオがしたのと同じように、父が呪文を唱え、手をかざす。
そして、ガチャリという音がして、扉が開いた。
「よし、入りなさい」
「え、でも……この部屋は、父さん以外入っちゃダメなんじゃ……」
「あぁ、そうだな。だから今回だけ、特別だ」
父がテオを見て言う。
「テオ、お前に見せたいものがある——」
「父さん、これって……」
書斎に入り、父に手渡されたのは、1枚の写真だった。
写真に映るのは、若い頃の父ともう1人、父によく似た男性だ。
それを見て、テオは息をのんだ。その男性は顔が父にそっくりなのに、瞳はテオと全く同じ色をしていた。
「ここに写ってるのは、父さんの弟なんだ。弟のアスタと父さんは、昔からとても仲が良かった」
父に弟がいたなんて知らなかった。家族の誰からも、そんな話を聞いたことは一度もない。
「もしかして、父さんの弟も……」
「あぁ、そうだ。アスタも魔法が使えなかった。そんなことは初めてだったんだ。みんな当たり前に魔法が使えたからな。だから、父さんの父さんはアスタを家から追い出した。そして、アスタの名前を話に出すことも、一族のタブーになった」
「じゃあ、今その人は——アスタさんはどうしてるの……父さんは仲が良かったんでしょ……?」
「そうだな。確かに私たちは仲が良かった。でも、父さんはアスタを守れなかった。そして、アスタも家族に逆らうことなく1人で出ていってしまった」
それを聞いたテオはうつむいた。うつむいて、拳を力いっぱい握りしめた。
「父さん……父さんも僕を追い出したいの?」
テオがそう言うと、大きな手のひらがテオの頬に触れた。そして、その手がテオの視線を上げる。
「なぁ、テオ。お前は間違いなく私の子どもなんだ。魔法が使えないことなんて、関係ない。お前は父さんと母さんの大切な子どもなんだよ。もちろんアスタだって、父さんにとっては、今でも大事な家族さ」
父さんが「ほら」と、机の引き出しから手紙の束を引っ張りだす。
「これは全部、今までアスタと父さんがこっそりやり取りしてきた手紙なんだ」
テオはそれを手に取った。書かれた名前は確かに父さんの弟の名前で、そこには住所も書かれていた。
「テオ、お前に頼みたいことがある」
父さんの視線の先には、真新しい手紙が1通。
「あれをアスタに届けてくれないか」
「え……僕が……?」
「あぁ、お前に頼みたいんだ。アスタは今、魔法なんか使えなくても、1人で立派に生きている。そしてテオもまた、アスタのように強く生きていくんだ。分かるか、テオ。父さんはテオに、魔法を使えないことなんか関係ないくらい、強く、たくましく、生きていってほしいんだ」
頬に触れる父の手に力がこもるのを感じて、テオの深い黒色瞳に、たちまち涙があふれた。
「うん、分かった。分かったよ、父さん」
泣きながら、テオは何度もうなずいた。父がテオをぎゅっと抱きしめる。
テオは、その瞬間、父さんは間違いなくテオの父さんだと思った。瞳の色が違っても、魔法が使えなくても、テオは心から愛されている、父さんの息子なのだ。そう思った。
『みかん』
山越えの道路を車で行く途中、道沿いにぽつりぽつりと設けられた小屋のようなものが目に入った。
また少し先に見かけて、通り過ぎる瞬間にそれを確認する。木で造られた屋根のある小さな建物の中にはオレンジと赤……
それを見て、みかんだ! と思った。
赤いネットに入ったみかんが数袋、小屋の中に並んでいる。
そういえば、この辺りにはみかん畑がたくさんある。小屋は、そのみかんを売るための無人販売所なのだろう。
次に通り過ぎた小屋には、手書きの看板にペンキで〝みかん 100円〟と書かれてきた。
アオトは心の中でガッツポーズをした。
大好物のみかんが、こんなに安い。しかもスーパーのより絶対美味しい。
きっと詳しい人は、この中でさらに1番美味しいみかんを置く店を知っているのだろうが、アオトにはこの中からどこを選べばいいのか分からなかった。
よし、次に見えた店に止まろう。
そう決めてから次の小屋が視界に入るまではすぐだった。
慌ててスピードを緩め、道路脇の空地に車を停める。隣にもう1台車があった。どうやら先客がいるようだ。
車のドアを開けると首元に冷たい風が吹き込んできた。アオトは、身震いしながらダウンのチャックを上までグイッと引っ張り上げた。
小屋の前に立ったアオトは、この無人販売所は当たりかもしれない、と思う。
ここのみかんは赤いネットに入った袋を、さらに丸いかごに入れて並べるスタイルだ。見たところ、かごの数は10個かそこらだ。その中で、みかんを乗せているのは3つ。
そして、前にも客がいる。ここのみかんは結構人気らしい。
先客の女性がみかんを手に取った。そのまま手を伸ばし、もう1つ取る。
とうとう、かごのみかんはあと1袋になった。
幸い、女性はその2袋だけを抱えて車に戻っていった。残り物には福があるというし、ラッキーだ。
ポケットから財布を出す。無人販売なんてものがこうやって成り立っている日本は平和だな、と思いながら料金箱に100円玉を入れた。
そうやって最後のみかんに手を伸ばしたその時、後ろに近づいてきたエンジン音が止まった。
あっ、と思い振り返る。
アオトの車の横に、黄色の軽自動車が停まっている。そして、中から同い年くらいの若い女性が降りてきた。
そっちを見ていたアオトと目が合う。
「すみませーん、もう売り切れですかー?」
伸びのある声が飛んでくる。
「あ、えっと。あと1袋……」
みかんをチラッと見てそう言う。
「よかった、ラッキー」
小走りでやって来る彼女。アオトは内心、しまった、と思っていた。自分がはっきり言わなかったせいで勘違いをさせてしまった。
心底嬉しそうな彼女に、このみかんが自分のだと主張することなんて、アオトにはできなかった。
どうすべきか分からなくて、その場に立ち尽くす。
料金を箱に入れた彼女が最後のみかんを手に取り、遂にみかんは完売となった。
アオトは心の中でため息をついた。
そんなこととは思いもしないだろう。嬉しそうな彼女の背中に軽く会釈をして、アオトは車へと向かった。
「あの!」
よく通る明るい声で呼び止められた。驚いて後ろを見る。
「みかん!」
「え?」
「このみかん! もしかしてあなたが買うつもりでした?」
両手を空っぽにしたアオトを見て、彼女がそう言った。
「えっと……はい……あ、でも気にしないで下さい。僕は他のとこを探すんで」
アオトが再び車に戻ろうとすると、再び「待って」と呼び止められた。
「よかったら、このみかん、半分こしませんか」
「え、半分こ……?」
「私、この辺のみかんは全部食べたけど、ここのが1番美味しいと思う。だから、譲ってもらったお礼に半分もらって下さい」
少し気が引けるような気もした。でもそれ以上に、そこまで美味しいみかんなら、アオトは食べてみたかった。
「じゃあ、お言葉に甘えて……」
「よかった!」
結局、最後のみかんは2人で半分ずつ分け合った。
自分の分のみかんを袋に移し終えた彼女は、その中から1個取って、その場でみかんを食べ始めた。
「う〜ん! 甘い! うまい!」
彼女があまりに美味しそうに食べるので、アオトも彼女の真似をしてみることにした。
「あ、ほんとだ! すごい美味しい!」
「でしょ」
少し自慢気に彼女が笑う。
「僕、絶対また買いに来ます」
「うん! でもお互い、今度はもっと早くにね」
そう笑い合って、彼女と別れた。
口の中が甘くて、ちょっとだけ酸っぱい。
今日食べたみかんの味はきっと、忘れない。
『てぶくろ』
〝てぶくろあり〼〟
ふとそんな立て看板が目に入り、私は足を止めた。
そこは大通りを一本入った細い通りの道沿いで、時々車が通り過ぎる他に人通りはほとんどなかった。
両隣の建物にぎゅっと挟まっているかのように間口が狭く、おそらく奥行きもそれほどない。
木製の扉は滑らかにやすりがかけられた丸ノブがついていて、足元にある小窓からは温かい明かりが外にもれている。
視線を上げると、突き出し看板が主張もなくそこに存在していた。
「──てぶくろ屋」
初めての響きを、口に出して確かめてみる。
ここは手袋の専門店なのだろうか。
私はその店にとても興味を惹かれた。ちょうど新しい手袋を探していたところだったのだ。
今、時刻はちょうど夕方を過ぎた頃だったが、表に立て看板が出てるのだから店は開いているのだろう。
日が落ちた通りに冷たい吹き込み、思わず肩をすぼめる。
私はコートのポケットに突っ込んでいた手を外に出して、店の入り口に伸ばした。
扉を開けるとカランコロンと音がした。
店に入ると他に客はおらず、店の造りは見回すまでもなくとてもシンプルだった。
小さな店だから、そのスペースをいっぱいに使ってたくさんの手袋が並ぶのかと想像していたが、実際には店の幅と同じだけのショーケースが店の奥の方に1つあるだけだ。
「いらっしゃいませ」
ショーケースの向こうに立つ店主らしき女性と目が合う。
思わず、私はドキッとした。
艶のある黒髪は肩の上でぷつりと切りそろえられていて、小さな顔は陶器のように澄んだ肌をしている。そして何より、彼女はこの上なく美しい顔立ちをしていた。それはまるで、誰かによって完璧に作られた人形なんじゃないかと思ってしまうほどに。
「寒い中、ようこそおいで下さいました」
同性であるにも関わらず、その美しさから目を離せない私に向かって、店主が小さく微笑みかける。
私は精一杯の気持ちで会釈を返す。
「てぶくろをお探しでしたら、どうぞこちらをご覧下さい。きっとお気に召す品があるかと思います」
店主に促されるままに、私はショーケースの中を覗き込んだ。
そこに並ぶ手袋は、数にして10にも満たない。
だが、何故だろう──頭に疑問が浮かぶ。
どうしてここにある手袋は全部片方だけなのだろうか。
レイアウトとして手袋を片手だけ並べることはあるのだろう。だがおかしな事に、目の前の手袋はそれぞれ右手用だったり左手用だったりと、てんでばらばらに並んでいるのだ。
「あの……どうしてここには手袋が片手ずつしか置かれていないんでしょうか」
そう尋ねた私に店主が再び微笑んだ。
「片方だけを必要とされているお客様がいらっしゃるからです」
店主の言葉に頭をひねる。
そんな客など本当にいるのだろうか。
そう思いながら再びショーケースに視線を落としたその時、見覚えのある手袋が1つ、目に飛び込んできた。
「これ!」
そこにあったのは、先日失くしてしまった手袋と全く同じ手袋だった。それも、私が失くしたのと同じ右手用だ。
今日、私はこの店に新しい手袋を探しに入ったものの、本当は前の手袋のことを諦めきれずにいた。あれは昔、母に貰って以来とても大事にしていた手袋だったからだ。
こんなことがあるなんて、と思うものの、目の前の片方の手袋は確かに私が1番欲しかった手袋だ。
随分昔のことなので、もう手に入れることはできないと思っていた。失くさなかった方の手袋は、今もちゃんと家の押入れにしまってある。
「あの、この手袋を下さい」
自然と声が弾む。
「かしこまりました」
店主が手袋を綺麗な紙で丁寧に包んでくれた。
私はその包みを、もう二度と失くさないようにしっかりと胸に抱きかかえる。
店を出る時、彼女の言葉を思い出した。
振り返って、店を見上げ、そして思う。
──この店がある理由が、今やっと分かった。
『泣かないで』
妻が飲酒運転の車にはねられた。
電話口で警察官にそう告げられた俺は、急ぎの仕事を投げ出し、すぐに彼女が運ばれた病院へと向かった。
「——残念ですが」
だが駆けつける間もなく、彼女は死んだ。医師が言うには、おそらく即死だったという。
その瞬間、目の前が真っ暗になった。
「ねぇパパ、ママどこ?」
クローゼットの奥から引っ張りだして着てきた喪服の裾を、息子の小さな手が引っ張る。
無邪気に尋ねる息子のハルキを見て、葬儀に参列した人々からいたたまれないというような視線が飛んでくる。
「ハルくん、パパは今忙しいからばぁばとお外で遊ぼうか」
俺と、隣に座る義母に気を遣ったのだろう。訃報を聞いて遠方から駆けつけた母が息子の手を引いて外に向かう。
その姿を俺は虚ろな目で捉えた。
あれは……春に入園式で来た服か。
今さらながら息子の格好に気がつく。そして、その時の記憶が蘇った。
「ねぇ何してるの! 早くして!」
「うん、あとちょっと。もうすぐカメラの充電終わるから……」
「え!? まだ充電なんかしてるの!? 式、遅刻しちゃうよ!」
入園初日の朝からそんなやり取りで妻に怒られながらも、どうにか式には間に合った。
ついこの前まで赤ん坊だった息子が、照れながらも大人の顔負けの小さなスーツ姿で歩く様子を見て、感動の涙が止まらなかったのは妻ではなく俺の方だった。
「ちょっと、しっかりしてよ」と小声で呟く妻に、「ごめん」と鼻水まじりの声で返す。
そんな俺を見て、妻は半分呆れながらも綺麗にアイロンのかかった淡い水色のハンカチを俺に差し出した。
「ありがど」
そのハンカチで涙を拭きながら撮った息子のビデオは、ピントも中心もめちゃくちゃで、後で見返した時に妻からこっぴどく叱られることになった。
その日の帰り道、彼女が言った。
「——ほんと、よかった」
「うん、最高の入園式だった。こんなふうにあっという間に大きくなっていくんだな」
「それはもちろんそうだけど、それだけじゃなくてさ」
「あ、朝ギリギリだったから? その件は本当に……」
「もう、そうじゃなくて! 保育園のこと、あらためてここに入れて本当に良かったなって」
「あぁうん、だね」
家計のために共働きをすると決めていた俺達にとって、息子の通う保育園がなかなか決まらないことは、とても深刻な問題だった。
このまま預け先が決まらなければ、どちらかが仕事をセーブしなければならないと話し始めた矢先、少し遠くの保育園に空きが出た。
正直、本当はもっと家やお互いの職場に近いところが良かった。だが、贅沢は言っていられない。
話し合った末、きっと大変なことも多いだろうけど、2人でどうにか協力してそこに通わせようと決めた。
曜日ごとに保育園にお迎えに行く決まりを作ったはいいものの、それを実現するのはなかなかに大変だった。
上司や同僚に頭を下げて早く帰らせてもらう代わりに、持ち帰ることの出来る仕事は持ち帰って、家で仕事をした。
だが夜がどんなに遅かったとしても、朝も早く起きなければ仕事に間に合わない。
仕事復帰直後にも関わらず同じく忙しそうな妻も同様に、心も身体もギリギリの日々がずっと続いていた。
『今日どうしても仕事で抜けられなくて、お迎え間に合いそうにないです。申し訳ないけど、代わりに頼めませんか』
妻が亡くなった当日、俺は彼女にメッセージを送った。
『そんなこと急に言われても、私だって困るんだけど』
そう言いながらも、彼女が俺の代わりにハルキを迎えに行ってくれることになった。
そして、その道中で彼女は事故に合った。
どうして妻が——
何度そう問いかけても、妻は帰ってこない。
加害者への深い憎しみと同時に、俺は自分自身も許せなかった。
自分が迎えに行けば彼女は死なずに済んだ。まだ小さな息子から母親を奪ったのは俺自身なのだ。
あの瞬間から、世界はずっと暗闇の中にある。
隣ですすり泣く義母に掛ける言葉もなく、自分は泣くことも許されない。
悲しみと憤りに包まれた葬儀場で、手を引かれ遠ざかる息子の背中に視線を送る。
これからもっと大きくなるだろうあの背中を、妻はもう見られない。誰よりも見たかったはずなのに。
そう思うともう息子の方を見ることも出来なかった。俯いて感情を押し殺すように唇を噛みしめる。
音も、光も、何もかも届かない。
いっそこのままそんな場所に閉じこもってしまいたい。
そう思った瞬間、目の前に一筋の光が現れた。
驚いて顔を上げると、そこには心配そうに顔を歪めた息子の姿があった。
「パパ、泣かないで」
自分の方こそ泣きそうな顔をした息子がこっちを見て言う。
「ほら、泣かないで」
もう一度そう言った息子の手には、水色のハンカチが握りしめられていた。入園式で妻が貸してくれたあの淡い水色のハンカチ。
ハンカチを差し出す息子に、妻の面影が重なる。
必死に堪えた涙も、もう止めることが出来なかった。
「ありがとう」
そう言ってせきを切ったように泣き出した俺を見て、息子も声を上げて泣き始めた。
俺はその泣きじゃくる小さな体をきつく抱きしめた。それは情けない父親に出来る精一杯のことだった。
「ハルキ、ごめんな。ママとはもう会えないんだ。でもね」
息子の頬を伝う涙を妻のハンカチで拭う。
「でも、もうパパ、泣かないから」
真っ暗な闇の中を照らすこの大切な光を守れるのは、もう俺しかいない。妻が残したこの優しさを、俺が守るのだ。