『さぁ冒険だ』
「いらっしゃいませ」
入り口の戸を引いた直後、食欲をそそる匂いとともに、伸びやかな声が飛んできた。テーブルの上を片付けていた女将さんと目が合い、会釈を交わす。
店主であるご主人と、その奥さんが2人でやっているこの定食屋は、こじんまりとしていて、いい意味でかしこまっていない落ち着いた雰囲気がある。
客席はキッチンに面したカウンターに3席、その背中側の壁際に並んだ2つのテーブルに4席ずつあって、今はカウンターに2人と、テーブル席に2人の先客がいる。
今日は昼飯時にしては空いているようで、俺は運良く空いていたカウンター席を選んで、いつものように腰を下ろした。
この街に引っ越してきた半年前から、毎週土曜日はこの定食屋でランチをするというのが習慣になった。これも毎週土曜に通っている近所の図書館の、その帰り道にこの店があるのだ。
奥で料理を作っているご主人とはほとんど面識がないままだが、接客を担当している女将さんとは、個人的な会話こそしたことがないものの、毎週通ううちに顔見知り程度には親しくなった。
もし仮に今日、俺が「いつものください」と言えば、きっと女将さんは〝いつもの〟を持ってきてくれると思う。もっとも、そんな勇気があればの話だ。もちろん、俺にそんな度胸はない。万が一、「いつもの……?」なんて疑問符がつこうものなら、恥ずかしすぎて、もうここには来られなくなるだろうと思うからだ。
そんな事を考えながら、一旦はメニューを一通り見回してみる。
だが、結局俺は、何とかの一つ覚えのように、毎回同じ注文を繰り返すことになる。
「——生姜焼き定食ください」
翌週もまた、図書館に行った帰り道にその定食屋を訪れた。
女将さんと会釈を交わし、カウンターに座る。そして、形式的にメニューを眺めた。まるで流れ作業をしているように。
ここで、いつもの俺なら、次に
「生姜焼き定食ください」
そう言えば良かった。女将さんもきっとそう予想していただろうし、もしかしたら料理を作っているご主人もそうだったかもしれない。
だが、今日の俺はかなり迷っていた。
見慣れたメニュー表の最後に1つ、新しい料理が書き加えられていたからだ。
〝アジフライ定食(期間限定)〟
俺はハッとして、隣の客を横目で確認した。そして、さり気なく、斜め後ろのテーブルの方も確認する。
テーブル席からサクッと軽快な音がして、断面から柔らかそうな肉厚のアジがのぞく。フライにかじりついたその客は、すぐさまご飯を口いっぱいにかき込んだ。
それを見て、俺は前に向き直った。再び、メニュー表と対峙する。
思い返せば、いつだって俺は冒険できないタイプだった。昔通っていたラーメン屋でも、どこにでもあるチェーンのファミレスでも、蕎麦屋でもうどん屋でも何でも、どこに行ったとしても、頼むのは結局、毎回同じ料理になってしまうのだ。
挑戦したいという気持ち自体はちゃんとある。他の人のを見て、美味しそうだなと思ったり、期間限定のメニューを試してみたいと思ったりはするのだ。
だが、間違いなく美味しいと分かっているいつものメニューがあるのに、リスクを犯して挑戦することが、自分にはできなかった。
ちょうど今日、図書館で通りがかった児童書のコーナーで、懐かしい本を見かけた。小さい頃に夢中になって読んだ、冒険物のシリーズだ。いつか、この世界の果てまで、お宝を求めて旅をしてみたい。漠然とそんなふうに夢見ていた。
大人になれば、そんな夢はいつしか忘れてしまった。今でも相変わらず本の虫ではあるが、過ごしている日常は、昔読んだワクワクするような世界とは大きくかけ離れている。
女将さんが料理を手に厨房から出てきた。料理を運び終え、振り返った女将さんと目が合う。
「ご注文、お決まりですか?」
そう聞かれて、言い淀んだ。まだどうするか決めきれてなかった。
「あの……」
いつものように言葉が出てこないのを見て、女将さんが少し首を傾げた。
しばらく間が空き、俺はようやく心を決めた。
「——アジフライ定食、ください」
かすかに女将さんの目が見開かれる。だが、すぐにその表情も、いつもの穏やかな笑顔に戻った。
「アジフライ定食ですね、かしこまりました」
女将さんの後ろ姿を見送ってから、水を一口飲んで、息をついた。
図書館用にしているトートバッグから、本を1冊取り出す。いい大人が、つい懐かしくて、あの児童書を借りてきてしまった。
パラパラとめくるうちに、小さい頃の記憶がよみがえってくる。
「——お待たせしました」
女将さんの声がして顔を上げると、もう料理が出来上がっていた。
目の前で揚げたてのアジフライが湯気を上げている。
俺は読みかけの本を閉じて、箸を手に取った。
あの頃思い描いたようなものじゃないが、こんなちっぽけなことに、なぜか俺は高揚している。
さぁ、冒険だ——
「いただきます」
2/25/2025, 5:58:27 PM