『真夜中』
時計の針が深夜2時を回った。
外に出て見上げた空には、ちょうど半分こした月がぼんやりとした雲の合間から見え隠れしている。
「さて、今日は何を作ろうかな」
光の当たらないもう半分の方の月に目を凝らしながらそう呟くと、店主は店に明かりを灯した。
昼間は人通りの多いこの通りも、この時間になると人っ子1人、猫1匹見当たらない。
店の明かりも家の明かりも落ち、耳を澄ませばどこかの誰かの寝息さえも聞こえてくるような静けさに、辺りが包まれている、
街灯が等間隔に照らすレンガ造りの通りを、男は顔も上げずに歩いていた。
頭の奥でまだカンカンカンと踏切の音がしていた。電車が通った風が鼻先を掠めた感覚も、まだ鮮明に残っている。
どこをどう歩いてここまで来たのだろうか。
男はふと足を止めた。明かりを灯しているはずの街灯が1本、男の足元だけを暗くしている。周りを見ても、暗いのはそこだけだ。
ただ電球がきれてしまっただけで、そんなことはよくあることだと頭では理解していても、込み上げてきたものを抑え込めるほど心は冷静ではなかった。八つ当たりの感情を拳に込めて、そのまま電灯の柱にぶつける。
ぶつけた怒りや悔しさや情けなさは、あとからじわじわと痛みとなって増していった。足元の暗闇が滲んでいくのが男には分かった。
そんな時、どこからか風が吹いた。それもただの風ではない。気にする余裕もなかった空腹を否応なしに思い出させるような、おいしい匂いを乗せた風だった。
ぎゅっと両目をかたく瞑り顔を拭った男は、その風に導かれるように再び歩き始めた。
「いらっしゃいませ。お好きなお席にどうぞ」
〝お好きな〟といっても、カウンターだけの店内に椅子は3つだけだ。手前から、丸いクルクルと回る橙色の椅子、低い背もたれのある木製の椅子、そして滑らかな光沢のある古い革製の椅子の順に並んでいる。
虚ろな目を赤くした男性客は一瞬考える素振りをしたあと、入り口に一番近い橙色の椅子に控えめに腰を下ろした。
「この時間、外は冷えたでしょう。これは紅茶なんですが、ほんの少し生姜を入れました。よろしければ」
俯き加減の男性の視界に入るように、店主はそっとカップを差し出す。
立ち上がる湯気をしばらくぼんやりと見つめていた男性だったが、やがておもむろに目の前のカップに手を伸ばした。
強張っていた男性の表情が、紅茶を口に入れた瞬間少しだけ和らいだ。
「何か食べていかれますか」
2杯目の紅茶を注ぎながら、店主は尋ねた。
「……あの……この匂いって」
男性が遠慮がちにカウンターの中を見回す。
「あぁ、これですかね──」
店主は鍋の蓋を開けて、カウンターの向こうに見えるように少し傾けた。
「さっきとったばかりのお出汁です。いい香りでしょう。うちの店の料理は基本、これを使って作ります。よろしければ、これを使って何か軽めのお食事でも作りましょうか」
店主の言葉に一瞬間を置いた後、男性は小さく頷いた。
「何か食べたいものはございますか」
その問いに男性が首を横に振る。そして掠れた声で「おまかせします」と呟いた。
それを聞いた店主の口元に笑みが浮かぶ。
「承知しました」
玉ねぎを切る音が心地よく耳に響いた。冷蔵庫から取り出された卵が、ボウルの中で手際よくかき混ぜられていくのをぼんやり眺める。
紅茶を飲んで身体が温まり、気が抜けたからか、さっきからたびたびお腹が鳴る音がしている。
男は2杯目の紅茶を飲み干し、空腹を紛らわせる。
思えば朝から何も食べていなかった。どうりで腹もへるわけだ。
そうこうしていると、どこからか一風変わった鍋が出てきた。大きなお玉に鍋の取っ手が付けられたような、不思議な作りだ。
その上で煮込まれた具材の上に、溶いた卵がたらりと回し入れられる。そんな店主の手際の良さに見とれていると、あっという間に小ぶりの丼ぶりが目の前に置かれた。
「今日は卵料理の気分でしたので、親子丼にしてみました。熱いので、気をつけてお召し上がりください」
「──いただきます」
輝くような半熟卵に待ちきれず、冷まさないままに口に運ぶ。案の定、口の中で具材を転がして熱さを逃がさなければならなかった。
食べる間、男は一言も喋らなかった。ボロボロと頬を伝う雫がカウンターに落ちるのにも構わず、男はただ口に丼をかき込み続けた。
そんな男を見ても店主は何も言わなかった。ただ、空になっていた男のカップに3杯目の紅茶をそっと注いだ。
「ごちそうさまでした」
そう机に置かれた丼ぶりには、米ひと粒も残っていない。
「本当においしかったです」
「ありがとうございます」
店主が微笑むと、男性も少しぎこちない笑みを返した。
きっと今夜はもう大丈夫だろう。
わずかに上がっていた肩を、店主はひっそりと下ろした。
「また食べに来てもいいですか」
「もちろんです。またお待ちしております」
心からの願いを込めて、店主は微笑んだ。
店を出て、男は再び明かりの消えた街灯の下で足を止めた。そして、頭上の空を仰ぐ。
暗い街灯の向こうに月が見えた。ちょうど半分に割ったような月が小さく浮かんでいる。
こうして月を見上げたのはいつ振りだろうか。街灯の光がないおかげか、月の欠けた部分もうっすらと見てとれた。
男は、店に入る前の出来事をすごく遠くのことのように感じた。
ただ、それと同じくらい、この先の未来もずっと遠くにある気がした。
男は深く長い息を吐く。
身体の中を空っぽにしてしまった男は、先の見えない暗がりの中に、1歩踏み出し歩き始めた。
『後悔』
ふらりと立ち寄ったお店は、異国の匂いがした。
例えようのないエキゾチックな匂い。8年前、空港を出て最初に街を歩いた時に嗅いだ匂いと同じ。
あの時の景色が唐突にまぶたに浮かんだ。
行き交う異国の人々、飛び交う異国の言葉。初めて海外を1人で訪れた私は、活気溢れる市場の中で瞬く間に熱気と人混みに呑まれた。
漠然と憧れていた海外への一人旅を計画したのは、大学最後の夏休みことだ。計画と言ってもほとんど勢いで決めたようなものだったので、旅行に必要な最低限の準備と受験レベルの最低限の英語だけで、私はその国に乗り込んだ。
今にしてみれば、あれは本当に自分のとった行動なのだろうかと疑ってしまうほどだ。きっと若さ故の行動力だったのだろう。
私は目新しいものばかりのその市場を、あちこち夢中で見て回った。
その国独特の暑さと人の多さにもだんだんと慣れた私は、身振り手振りを交えながらのお店の人とのやりとりにも挑戦した。
そうして目についたお店を次々に渡り歩いていた時、反対側から歩いてきた現地の人らしき男と身体がドンとぶつかった。
私は咄嗟に「すみません!」と日本語で謝る。
顔を日除けのような布で覆ったその男は、そんな私に目もくれず早足で人混みの中へ消えていく。
そこに後ろから別の男性の声が飛んできた。
英語ではない現地の言語で、何と言っているかは分からない。だが、明らかに怒っているような強い口調だった。
最初は私に対してではなく、私にぶっかってきた男に対して放っていた言葉だったが、今度は私の方に何かを訴えかけてきた。
私が困惑してるのを見て言葉が通じないと悟ったのか、彼はキュッと口を結ぶと、去っていった男の後を追って全速力で走って行った。
私は訳も分からずただ呆然とそこに立ち尽くした。
二人が消えていった人混みの中をどれくらい見つめていたのか。しばらくすると、ふいに後ろから誰かに肩をポンポンと叩かれた。
振り返ると、そこには後を追っていった方の男性が両肩で息を整えながら立っていた。そして彼は、よく見慣れた財布を私の目の前に掲げた。
それを見てハッとした。すぐに肩に掛けた斜め掛けのバッグに視線をやると、チャックが全開になっている。
やってしまった。そう思った。
海外では珍しくないと聞いていた。だからこそ気をつけているつもりだった。でもいろんなものに夢中になって何度も財布を出し入れする中で、おそらくバッグの口を閉め忘れてしまった。そして、そこを狙われた。
私にぶつかってきたあの男が盗った財布を、この人は走って取り返してきてくれたのだ。
私は男性に何度も頭を下げてお礼を言った。英語と日本語、そして唯一知っていた単語を使って現地語でもお礼を言った。
彼はおそらく"気にしないで"とでも言っていたと思う。そう言いながら、何度も頭を下げる私を見て少し困ったように笑っていた。
狭い店内には、鮮やかな発色のカラフルな雑貨が所狭しと雑多に並んでいる。奥にあるレジのカウンターには店の人の気配はない。
しばらく忘れていた記憶に懐かしさが蘇った後、少し胸がキュッとした。
あの後、彼は私に街を案内してくれた。
1人にしておくには頼りないと思ったのだろう。英語を話せないらしい彼はついてきて、という仕草をすると、言葉がほとんど通じない私をいろんな場所に連れて行ってくれた。
旅行ガイドで見たような有名な観光地はサラッと通り過ぎ、地元の人しか知らないであろうおすすめのレストランや、丘の上から眺める美しい景色を紹介してくれた。
そんな彼にどうお礼をしたらいいか分からなかった私は、バッグから一枚のポストカードを取り出した。地元の空港を出発する前、何気なく買ったポストカード。裏には今も住み続けている故郷の景色。
「プレゼントフォーユー」
そう言って彼に差し出すと、彼は驚いた表情で首を傾げた。
私はもう一度同じように言って、その日のお礼の気持ちを込めてポストカードを手渡した。
それと一緒に、もう何度言ったか分からないほどの"ありがとう"という言葉を彼に告げると、受け取ったポストカードから視線を上げた彼も"ありがとう"と私に笑顔を向けた。
その日私をホテルまで送ってくれた彼は、別れ際、一生懸命私に何かを伝えようとした。何を言っているのか私も必死に読み取ろうとしたが、その戸惑いが表情に出ていたらしい。
それを見た彼は、伝えようとした何かを諦めたような複雑な表情で少しだけ笑った。
そして私たちはそのまま別れた。
ホテルの部屋に入り、ベッドの上に寝そべりながらその日の出来事を思い返していた時、私は彼の連絡先を聞きそびれたことに気づいた。
あぁ、きっと彼はさっきこの事を言いたかったんだ。
そう気づいた時にはもう遅かった。次の日、もう一度会えないかとホテルの前にしばらく立っていてみたり、彼と出会った市場に再び足を運んでみたりした。だが、彼と会うことはもうできなかった。
その事は帰国してからもずっと心残りだった。あの時、連絡先を聞かなかったことを何度も悔やんだ。せめてもう少し現地の言葉を勉強して行けばよかった。何度もそう思った。
店の中をゆっくり一周見て回る。あの時市場で買って、今も家に飾っているのと似たような物が売られていた。店主は現地で買い付けをしているのだろうか。
伝統的な工芸品をいくつか手に取って眺めた私は、せっかくだからと思い、その中の1つを手に会計に向かった。
「すみませーん」
店の奥に向かってそう声を出すと、すぐに「はーい」と男性の声が返ってきた。
「お待たせしました」
流暢な日本語で最初は気づかなかったが、顔立ちからすると日本の人ではないのだろうと思った。どことなくその顔を見たことがあるような気がするのは、きっと彼が昔訪れたあの国にルーツを持つからだろう。
最近はこの辺りでも外国人をよく見かけるようになったが、この人はどうして日本で、しかもこんな田舎でお店を開くことにしたのだろうかとふと考える。
「ありがとうございます」
そう商品を手渡されながら、私は何気なくあの言葉を思い出した。そして、ぼそっと口にした。帰国後に一時期本で勉強して覚えたいくつかの単語も、結局今はこの単語しか覚えていないことに、心の中で少し可笑しくなる。
この発音で合っていただろうかと思いながら、私があの国の言葉で"ありがとう"呟くと、彼はひどく驚いた顔をした。
そのまま彼が私の顔を凝視する。そんな顔を見つめ返しながら、私もハッとした。
「──もしかして」
私は忘れもしない彼の名前を呟く。
それを聞いた彼は一瞬間を置いた後、大きな声を出して笑い始めた。何がそんなに面白いのだろうかと私は困惑する。
「間違いない。確かにあなたはあの時の」
そう言いながらもまだ笑いが込み上げている。
それを不思議に思いながら眺める私に彼が言う。
「あの時もあなたは私をそう呼んでいました。私が何度か口にした私の故郷の街の名前を、あなたはやはり私の名前だと勘違いしていたんですね」
「え……街の、名前?」
ぽかんと口を開ける私に向かって、彼が笑いながら深く頷いた。途端に身体の中が熱くなってきた。同時にこらえられない笑いが私にも込み上げてきた。
彼は私に小さな椅子を持ってくると、昔一緒に飲んだ不思議な味の癖になる飲み物を出してくれた。そしてこれまでの話をしてくれた。
私と別れた後、連絡先を聞けず落ち込んだこと。また会いに行きたかったけど、仕事があって行けなかったこと。あの時、言葉が通じなかったことを悔やんで必死に語学を勉強したこと。私が彼に言った日本語の"ありがとう"から、私が日本人だったと気づいたということ。私がプレゼントしたポストカードから、ここまで辿り着いたこと。
「3年前、やっとあのポストカードの景色を探し当てました。そしてすぐにここを訪れました。この街を歩きながらあなたを探したけど、それはとても難しいことでした」
私はカップに入った飲み物に口をつけながら、そんな彼を想像して小さく頷く。
「でも私はこの街がとても気に入りました。なので去年、ここにお店をオープンしました。大好きな故郷のものを、大好きなこの街の人に紹介したかったので」
彼が店の中を見回しながら嬉しそうに笑う。
「そしたら今日、あなたにまた会うことができました。ずっとあなたに言いたいことがあったんです。ようやく言えます」
私の方に向き直った彼が、私をじっと見る。
「ありがとう」
たった一言。それがよく知った言語だという以前に、私はその言葉の意味が本当の意味で通じた気がした。
胸を詰まらせながら私は静かに首を振る。
「こちらこそ──ありがとう」
そう笑みが溢れた瞬間、遠く異国の地に残した後悔が1つ、私の中にじんわりととけた。
『届かぬ思い』
「話があるんだけど……」
学校からの帰り道。そう切り出された時、ドキッとした。
さっきまでいつも通りの何気ない会話だったのに、今は打って変わって真剣な眼差しを歩幅の少し先に向けている。
「え、どうしたの急に」
上ずった声が出る。動揺を悟られまいと、語尾に明るさを意識する。
「優香ってさ──好きな人、いる?」
さり気なく横目でこっちを見るような視線を感じた。
私は気づかないふりをしながら平然と答える。
「う〜ん。どうかな」
それって、どういう意味? 本当はそう聞きたかった。でも聞けなかった。
風が吹いて、嗅ぎなれた香りが鼻をかすめた。柔軟剤の優しい匂い。前になんていう柔軟剤かと尋ねてみたけど、今度家で確かめてくると言われてそれきりだ。
私の答えが曖昧だったからか、沈黙の時間が過ぎる。
それに我慢できず、私は隣を見上げた。すらっと高い身長、制服から伸びる細くてしなやかな腕、黒髪はいつ見てもサラサラで私の天パとは大違い。いや、違うのは髪だけじゃなくて。身長も低く、どちらかというと肉付きのいい、全体的にまるっこい私の体型とはすべてが大違いだ。
そんなだから、時々、隣に並んでいるのが恥ずかしくなってしまう。
私は視線を前に戻して、さっきの言葉を頭の中で繰り返した。──好きな人。
その質問とよそよそしい態度で分かった。きっと今好きな人がいるんだろうなと。
違うと分かっているのに、そんなことありえないと分かっているのに、どうしても心がもしかして──と期待してしまう。
だが、それと同時に不安や恐れのようなざわざわとした感情が心の内側を這い上がってくる。私はきっと、この思いを伝えることもできぬまま、どこか誰にも見つからない場所にこれをしまわなければいけないのだ。
「好きな人がいる」
ようやく呟かれたその言葉が、一瞬知らない言葉のように思えて、でもその文字の羅列が何度も頭をめぐるうちに、やっと意味が私の中に入ってきた。
私は静かに頷く。ただ黙って前を向いたまま。
「────」
叶うならば、耳を塞いでしまいたかった。次に続く言葉なんて、本当は聞きたくなかった。
心が思考回路を閉ざしてしまったかのように、頭がぼーっとしていく。
何で私じゃないの? そう言いたかった。
もしあなたが──、もしあなたがあなたじゃなかったら。
それとも、もし私が私じゃなかったら。
もしあなたと私が異性に生まれていたなら、私はあなたに言えたのだろうか。あなたに思いを告げられただろうか。
いつの間にか好きだった。これは本当にただの友達としての感情なのかと一度自分を疑ってしまうと、根拠はなくとも、そうじゃないという気がしてならなかった。何度否定しても、どうしようもなかった。
いっそ伝えてしまいたいと思ったことも一度や二度じゃない。でもいつもそこには大きな壁があって、私達は友達だったし、親友だったし、そして何より同じ性別を生きていた。
一緒にいるとこのひた隠しにしてる思いがバレてしまいそうで、でも隣で笑っていられる時間が何よりも幸せで。この時間が永遠になれと心の底から何度も何度も願った。
それと同時に、ほんの一瞬、私に向けるあなたの笑顔に胸がぎゅっと痛んだ。罪悪感だったと思う。友達に向ける純粋な笑顔に、愛情を探してしまう不純な私の罪悪感。
無意識にちょっとだけ隣との距離が開いた。
私はできる限りの笑顔を作って、そして彼女の方に向ける。
「私、応援してるから。私、美月のこと、ずっと大好きだから」
これが私にできる精一杯の伝え方だった。
きっと届くことのない私の最初で最後の告白。
「ありがとう」という彼女の笑顔は、今にも張り裂けてしまいそうな痛みとともに私の心に刻まれた。
この傷はこの先癒えたとしても、その傷跡はきっとずっと消えることはないのだろう。
『神様へ』
神様へ。先日、とある話を耳にし、突然ですが急ぎこの手紙を書いた次第です。不躾ではありますが、僕の願いを聞いてもらえませんか──
季節外れのいちじくに、彼宛ての手紙がくくりつけられ、川の下流まで流れてきた。
そこに綴られた文字からは書き手の必死の思いが見て取れる。
「ほお、よく用意したものだ」
感心しながら彼はそのいちじくを手に取る。そして、重なった藤紫の襟元に手紙をしまうと、ヘタを折ったいちじくの皮を慣れた手つきでめくり始めた。
一見すると黒髪のようであるが、太陽の光の下ではそれが濃い紫なのだと分かるような彼の髪は、腰のところできつく結ばれた若紫色の帯の下まで真っ直ぐに伸びている。そして、その艷やかな毛先は、和紙をよって作られた細い紐で束ねられていた。
生糸で織られた藤紫色の着物の裾からは細い足首と骨ばったくるぶしが覗いていていて、それはすらっとした彼の身長を支えるにはいささか心許なく思える。
日の光に透けるような長い睫毛は、一本にすっと通った鼻筋の向こうで動かす指先を、それは真剣に追っていた。
彼の足元を流れる御尽紫川(みつくしがわ)は、ここから少し道を登った先にある笠子山(かさこやま)を源流に、この先の東湾(あずまわん)まで一本に続いている。
数百年よりもさらに昔から、この町の人々の営みとともにこの川はあった。
笠を被ったようになだらかな斜面からなる笠子山の山頂付近には、昔の人々が建立した古い石の鳥居が立っていて、その鳥居のすぐ側から御尽紫川の水源が湧き出している。鳥居の横に立つこれまた古びた小さな石の祠には、何があるわけでもないのに、ひと月に数人ほど人が訪ねてくる。
その誰もが、この町の人々に密かに語り継がれるある話を聞いて、藁にもすがるような気持ちで足を運んでくるのだ。
御尽紫川にはツクシ様と呼ばれる神様がいる。この川の守り神であるツクシ様はいちじくに大層目がなく、いちじくを受け取る代わりに頼まれごとを引き受けてくれるらしい──
誰がそんなことを言い出したのかは定かではない。実際のところ、彼の仕事は一にも二にもこの川を守ることであり、願いを叶えたり頼まれごとを聞いたりするのは彼の範疇ではない。
ただしその話には事実も含まれていた。
そう、彼は確かにいちじくをこの上なく好いていた。
いちじくがもらえるなら、それは決して悪い話ではなかった。むしろ彼はそれを目当てに、本業に勝るとも劣らないような力の入れ具合で、副業として人々の頼みごとを引き受けるようになった。
こうして彼は川の神様でありながら、大好物のいちじくと引き換えに人々の頼みをきくという畑違いな仕事を始めた、少々風変わりな神様となったのだ。
彼はその華奢な指先でむき終えたいちじくを、ほいっと口の中に放り込んだ。
しばらくありつけていなかったからか、彼はいつもより時間をかけて舌の上で転がすように味わった。そして、名残惜しそうにごくんと飲み込んだ。
「では、とりあえず彼の元に参りましょうか──」
鮮やかな本紫色の鼻緒がすげられた下駄の先で、とんと片足地面を叩く。
ほんのり藤の花を思わせるような不思議な風が、刹那にその場で巻き上がったかと思うと、次の瞬間には川の方に消えていった。
その時、山の上の祠の側を流れる川面に、どこから探してきたのか新たないちじくが一つ、思い詰めた表情でぽちゃんと投げ込まれる音がした。
そのいちじくが携えた手紙の文頭はきっとまたこうだ。
"神様へ──"
『春爛漫』
「もういい加減にして! 泣きたいのはこっちなの!!」
そう叫んだあと、アパートに響き渡っていた泣き声が一瞬止まったかと思ったが、結果、さっきよりもっと大きな声で泣き出しただけだった。
「もう……どうすればいいの」
ベビーベッドの手すりを掴んだまま床にへたり込む。
目から涙がぼろぼろと出てくる。それを拭う気力もなく、次第に嗚咽が混じった泣き声が喉の奥から込み上げてきた。
ふと自分の中にある掴みどころのないどす黒い塊の影に気づいた。目の前で泣きわめくこの小さな生物をもっと簡単に泣きやませる方法があるじゃないか──
一瞬でもそう考えた自分が怖かった。やり場のない感情を力いっぱいに握った拳に込める。
手のひらに爪がささって痛い。痛いけど当然の報いだ。私はダメな母親だ。母親失格なんだ。
娘が産まれてからのこの半年間、私はなんとか踏ん張り耐えてきた。
初めての子育てに四苦八苦しながらも、最初の1ヶ月は育休を取ってくれた夫と力を合わせ、どうにか乗り越えられた。
あの頃も睡眠時間は充分とは言えなかったものの、まだ娘を見て"かわいい"と思う心の余裕はあった。何かにつけ写真を撮ったり、1日の様子を事細かに日記につける余裕もあったくらいに。
だが、いつからかそんな余裕もなくなっていた。
仕事を再開した夫が帰るのは夜遅くのため、日中は一人で世話をする。夫が帰ってくるまでの間、娘の面倒を見ながら家事をして、夕飯を作った。
飛行機で2時間ほどもかかる場所に住んでいる母に簡単に頼るというわけにもいかず、近くに住んでいる義理の母には気を使って頼ることができなかった。
そして、そのうち始まった夜泣きがさらに私の心に追い打ちをかけた。
昼夜問わず寝れない。気が休まらない。娘に笑いかけようにも、笑い方すら分からない。そんな自分に自己嫌悪した。
こんなはずじゃなかった……何度そう思ったか分からない。
私たち夫婦が待ち望み、やっと産まれた初めての子ども。
病院で初めて娘が笑った時、心に陽だまりができたような言葉にならないほどあたたかい気持ちになった。
そこから、"ひなた"と名前をつけた。このあったかい響きには平仮名の方がいいよね、と2人で相談して決めた。
「ひなた」と呼ぶと笑ってくれた。それがとてもかわいくてたまらなかった。かわいくないはずがなかった。なのに──
仕事終えて帰宅した夫がそんな私をみかねて、「週末3人で出かけようか」と言った。
「え……」
私は信じられない気持ちでいっぱいだった。
「もう外に連れていっても大丈夫なんだろ? 外は桜が見頃だし、ひなたに初めての桜を見せてあげたい」
「──何でそんな簡単に言うの」
夫が不意をつかれたようにこっちを見る。そして戸惑ったように言う。
「別に、簡単なんて」
「そうでしょ! 自分はひなたの世話をずっと私に任せっきり。私は1日生きるだけでこんなに精一杯。なのにあなたはそんなふうにお気楽にして、その上私が悪者みたいに言って」
「俺がいつそんなこと言ったんだよ」
「言ったじゃない。私がひなたを全然お出かけに連れて行ってないって。ひなたが可哀想だって。ダメな母親だって……」
自分でも感情が抑えきれなかった。
分かってるんだ。夫は何も悪くない。悪いのは自分だ。今のは彼に向けてじゃなくて、自分に言いたかったことなんだ。
「──今日はもう寝る。夕飯は明日朝食べるから」
そう呟かれた言葉だけが部屋に残って、そして静寂に消えた。
次の日、ソファでうとうととしていた私が目を覚ますと、もう夫の姿はなかった。
心当たりのない毛布が1枚私にかけられていて、冷蔵庫に入れておいた昨日の夕食の皿は、全部洗って水切りに置いてあった。
ベビーベッドでは娘が珍しく静かに眠っている。
私は起こさないようにそっと近づいた。両手を上げて寝る姿がいつも夫が寝る時の姿にそっくりだ。そうやって静かに寝息を立てる娘を見てると、なんだか無性にかわいくて愛おしくてたまらない気持ちになった。
そう思うと私の頬は自然と緩んでいた。ああ、私にもまだちゃんとこんな感情があったんだ。そう気づいた。
週末になり、私たち家族は初めて3人でちゃんとしたお出かけをすることになった。
友人たちにもらった外出用のかわいい洋服を着せ、母にもらったくまの耳がついた小さな帽子をかぶせる。
「あれはいれたし、これもOK……これで全部かな?」
荷物の多い乳児のお出かけのために、夫がほとんどの準備をしてくれた。
「うん、ありがと」
「よし、じゃあ行こうか」
普段の買い物は夫に任せているため、外に出るのは久しぶりだ。
1歩家から出ると外にはいつの間にかちゃんと春が来ていて、すっかり暖かくなった空気を吸い込むとなんとなく春の匂いがした。
「ひなたーお出かけですよー。桜を見に行くんですよー」
私が抱いている娘に向かって、夫が歩きながらうれしそうにしゃべりかける。
「お父さんの方がはしゃいでるみたいだねーひなた」
娘はそんな私たちに構うことなく、初めて見る景色に目を行ったり来たりさせている。
「ほら、あれ!」
夫の声につられて視線を追うと、そこにはこれ以上ないくらい満開の桜が通り沿いにずらりと並んでいた。
天気も申し分ないほどの花見日和だというのに、まだ少し時間が早いせいか車通りも人通りも少ない。
「こんなにすごい桜なのに、私たちがひとり占めだね」
私がそう言うと、夫が「違う違う」と首を振る。
「三人占めだよ、それを言うなら。この桜はたった今、俺たち三人だけのもの。よし、ひなたおいでーお父さんと一緒に桜を見よう」
夫がひなたを抱きかかえて、桜の枝の方にひなたの顔を向ける。
その時、その枝から桜の花びらが1枚ひらりと落ちた。
それを見てひなたが笑った。それは、この満開の桜にもこの光に満ちた春の陽気にも負けないほどの、まぶしい笑顔だった。
ふと夫の方を見ると、向こうも同じくこっちを見ていた。
「笑ったね」と私が言うと、「うん、笑った」と彼も言った。
娘はきっと、今日見たこの圧巻の桜も、今日感じたこの春のあたたかさも、この瞬間私たちがどんな顔をしていたかも、すべて覚えてないだろう。
でも私たちは一生忘れない。世界中の幸せをかき集めても足りないほどの、溢れんばかりの幸せを。
「来年もまた来ようね」
花びらの影の下で2人に向けて言う。
夫が握る娘の手は、気づかないうちに大きくなっている。きっとこれからもあっという間に大きくなってしまうのだろう。
夫がひなたの顔を私に見せるようにこっちを見た。
「うん。来年も、再来年も。もういい加減いやって言われるくらいになっても、毎年来よう」
「──うん」