今宵

Open App

『春爛漫』


「もういい加減にして! 泣きたいのはこっちなの!!」
 そう叫んだあと、アパートに響き渡っていた泣き声が一瞬止まったかと思ったが、結果、さっきよりもっと大きな声で泣き出しただけだった。
「もう……どうすればいいの」
 ベビーベッドの手すりを掴んだまま床にへたり込む。
 目から涙がぼろぼろと出てくる。それを拭う気力もなく、次第に嗚咽が混じった泣き声が喉の奥から込み上げてきた。
 ふと自分の中にある掴みどころのないどす黒い塊の影に気づいた。目の前で泣きわめくこの小さな生物をもっと簡単に泣きやませる方法があるじゃないか──
 一瞬でもそう考えた自分が怖かった。やり場のない感情を力いっぱいに握った拳に込める。
 手のひらに爪がささって痛い。痛いけど当然の報いだ。私はダメな母親だ。母親失格なんだ。

 娘が産まれてからのこの半年間、私はなんとか踏ん張り耐えてきた。
 初めての子育てに四苦八苦しながらも、最初の1ヶ月は育休を取ってくれた夫と力を合わせ、どうにか乗り越えられた。
 あの頃も睡眠時間は充分とは言えなかったものの、まだ娘を見て"かわいい"と思う心の余裕はあった。何かにつけ写真を撮ったり、1日の様子を事細かに日記につける余裕もあったくらいに。
 だが、いつからかそんな余裕もなくなっていた。
 仕事を再開した夫が帰るのは夜遅くのため、日中は一人で世話をする。夫が帰ってくるまでの間、娘の面倒を見ながら家事をして、夕飯を作った。
 飛行機で2時間ほどもかかる場所に住んでいる母に簡単に頼るというわけにもいかず、近くに住んでいる義理の母には気を使って頼ることができなかった。
 そして、そのうち始まった夜泣きがさらに私の心に追い打ちをかけた。
 昼夜問わず寝れない。気が休まらない。娘に笑いかけようにも、笑い方すら分からない。そんな自分に自己嫌悪した。
 こんなはずじゃなかった……何度そう思ったか分からない。
 私たち夫婦が待ち望み、やっと産まれた初めての子ども。
 病院で初めて娘が笑った時、心に陽だまりができたような言葉にならないほどあたたかい気持ちになった。
 そこから、"ひなた"と名前をつけた。このあったかい響きには平仮名の方がいいよね、と2人で相談して決めた。
「ひなた」と呼ぶと笑ってくれた。それがとてもかわいくてたまらなかった。かわいくないはずがなかった。なのに──

 仕事終えて帰宅した夫がそんな私をみかねて、「週末3人で出かけようか」と言った。
「え……」
 私は信じられない気持ちでいっぱいだった。
「もう外に連れていっても大丈夫なんだろ? 外は桜が見頃だし、ひなたに初めての桜を見せてあげたい」
「──何でそんな簡単に言うの」
 夫が不意をつかれたようにこっちを見る。そして戸惑ったように言う。
「別に、簡単なんて」
「そうでしょ! 自分はひなたの世話をずっと私に任せっきり。私は1日生きるだけでこんなに精一杯。なのにあなたはそんなふうにお気楽にして、その上私が悪者みたいに言って」
「俺がいつそんなこと言ったんだよ」
「言ったじゃない。私がひなたを全然お出かけに連れて行ってないって。ひなたが可哀想だって。ダメな母親だって……」
 自分でも感情が抑えきれなかった。
 分かってるんだ。夫は何も悪くない。悪いのは自分だ。今のは彼に向けてじゃなくて、自分に言いたかったことなんだ。
「──今日はもう寝る。夕飯は明日朝食べるから」
 そう呟かれた言葉だけが部屋に残って、そして静寂に消えた。

 次の日、ソファでうとうととしていた私が目を覚ますと、もう夫の姿はなかった。
 心当たりのない毛布が1枚私にかけられていて、冷蔵庫に入れておいた昨日の夕食の皿は、全部洗って水切りに置いてあった。
 ベビーベッドでは娘が珍しく静かに眠っている。
 私は起こさないようにそっと近づいた。両手を上げて寝る姿がいつも夫が寝る時の姿にそっくりだ。そうやって静かに寝息を立てる娘を見てると、なんだか無性にかわいくて愛おしくてたまらない気持ちになった。
 そう思うと私の頬は自然と緩んでいた。ああ、私にもまだちゃんとこんな感情があったんだ。そう気づいた。

 週末になり、私たち家族は初めて3人でちゃんとしたお出かけをすることになった。
 友人たちにもらった外出用のかわいい洋服を着せ、母にもらったくまの耳がついた小さな帽子をかぶせる。
「あれはいれたし、これもOK……これで全部かな?」
 荷物の多い乳児のお出かけのために、夫がほとんどの準備をしてくれた。
「うん、ありがと」
「よし、じゃあ行こうか」
 普段の買い物は夫に任せているため、外に出るのは久しぶりだ。
 1歩家から出ると外にはいつの間にかちゃんと春が来ていて、すっかり暖かくなった空気を吸い込むとなんとなく春の匂いがした。
「ひなたーお出かけですよー。桜を見に行くんですよー」
 私が抱いている娘に向かって、夫が歩きながらうれしそうにしゃべりかける。
「お父さんの方がはしゃいでるみたいだねーひなた」
 娘はそんな私たちに構うことなく、初めて見る景色に目を行ったり来たりさせている。
「ほら、あれ!」
 夫の声につられて視線を追うと、そこにはこれ以上ないくらい満開の桜が通り沿いにずらりと並んでいた。
 天気も申し分ないほどの花見日和だというのに、まだ少し時間が早いせいか車通りも人通りも少ない。
「こんなにすごい桜なのに、私たちがひとり占めだね」
 私がそう言うと、夫が「違う違う」と首を振る。
「三人占めだよ、それを言うなら。この桜はたった今、俺たち三人だけのもの。よし、ひなたおいでーお父さんと一緒に桜を見よう」
 夫がひなたを抱きかかえて、桜の枝の方にひなたの顔を向ける。
 その時、その枝から桜の花びらが1枚ひらりと落ちた。
 それを見てひなたが笑った。それは、この満開の桜にもこの光に満ちた春の陽気にも負けないほどの、まぶしい笑顔だった。
 ふと夫の方を見ると、向こうも同じくこっちを見ていた。
「笑ったね」と私が言うと、「うん、笑った」と彼も言った。

 娘はきっと、今日見たこの圧巻の桜も、今日感じたこの春のあたたかさも、この瞬間私たちがどんな顔をしていたかも、すべて覚えてないだろう。
 でも私たちは一生忘れない。世界中の幸せをかき集めても足りないほどの、溢れんばかりの幸せを。
「来年もまた来ようね」
 花びらの影の下で2人に向けて言う。
 夫が握る娘の手は、気づかないうちに大きくなっている。きっとこれからもあっという間に大きくなってしまうのだろう。
 夫がひなたの顔を私に見せるようにこっちを見た。
「うん。来年も、再来年も。もういい加減いやって言われるくらいになっても、毎年来よう」

「──うん」

4/10/2024, 6:42:52 PM