『後悔』
ふらりと立ち寄ったお店は、異国の匂いがした。
例えようのないエキゾチックな匂い。8年前、空港を出て最初に街を歩いた時に嗅いだ匂いと同じ。
あの時の景色が唐突にまぶたに浮かんだ。
行き交う異国の人々、飛び交う異国の言葉。初めて海外を1人で訪れた私は、活気溢れる市場の中で瞬く間に熱気と人混みに呑まれた。
漠然と憧れていた海外への一人旅を計画したのは、大学最後の夏休みことだ。計画と言ってもほとんど勢いで決めたようなものだったので、旅行に必要な最低限の準備と受験レベルの最低限の英語だけで、私はその国に乗り込んだ。
今にしてみれば、あれは本当に自分のとった行動なのだろうかと疑ってしまうほどだ。きっと若さ故の行動力だったのだろう。
私は目新しいものばかりのその市場を、あちこち夢中で見て回った。
その国独特の暑さと人の多さにもだんだんと慣れた私は、身振り手振りを交えながらのお店の人とのやりとりにも挑戦した。
そうして目についたお店を次々に渡り歩いていた時、反対側から歩いてきた現地の人らしき男と身体がドンとぶつかった。
私は咄嗟に「すみません!」と日本語で謝る。
顔を日除けのような布で覆ったその男は、そんな私に目もくれず早足で人混みの中へ消えていく。
そこに後ろから別の男性の声が飛んできた。
英語ではない現地の言語で、何と言っているかは分からない。だが、明らかに怒っているような強い口調だった。
最初は私に対してではなく、私にぶっかってきた男に対して放っていた言葉だったが、今度は私の方に何かを訴えかけてきた。
私が困惑してるのを見て言葉が通じないと悟ったのか、彼はキュッと口を結ぶと、去っていった男の後を追って全速力で走って行った。
私は訳も分からずただ呆然とそこに立ち尽くした。
二人が消えていった人混みの中をどれくらい見つめていたのか。しばらくすると、ふいに後ろから誰かに肩をポンポンと叩かれた。
振り返ると、そこには後を追っていった方の男性が両肩で息を整えながら立っていた。そして彼は、よく見慣れた財布を私の目の前に掲げた。
それを見てハッとした。すぐに肩に掛けた斜め掛けのバッグに視線をやると、チャックが全開になっている。
やってしまった。そう思った。
海外では珍しくないと聞いていた。だからこそ気をつけているつもりだった。でもいろんなものに夢中になって何度も財布を出し入れする中で、おそらくバッグの口を閉め忘れてしまった。そして、そこを狙われた。
私にぶつかってきたあの男が盗った財布を、この人は走って取り返してきてくれたのだ。
私は男性に何度も頭を下げてお礼を言った。英語と日本語、そして唯一知っていた単語を使って現地語でもお礼を言った。
彼はおそらく"気にしないで"とでも言っていたと思う。そう言いながら、何度も頭を下げる私を見て少し困ったように笑っていた。
狭い店内には、鮮やかな発色のカラフルな雑貨が所狭しと雑多に並んでいる。奥にあるレジのカウンターには店の人の気配はない。
しばらく忘れていた記憶に懐かしさが蘇った後、少し胸がキュッとした。
あの後、彼は私に街を案内してくれた。
1人にしておくには頼りないと思ったのだろう。英語を話せないらしい彼はついてきて、という仕草をすると、言葉がほとんど通じない私をいろんな場所に連れて行ってくれた。
旅行ガイドで見たような有名な観光地はサラッと通り過ぎ、地元の人しか知らないであろうおすすめのレストランや、丘の上から眺める美しい景色を紹介してくれた。
そんな彼にどうお礼をしたらいいか分からなかった私は、バッグから一枚のポストカードを取り出した。地元の空港を出発する前、何気なく買ったポストカード。裏には今も住み続けている故郷の景色。
「プレゼントフォーユー」
そう言って彼に差し出すと、彼は驚いた表情で首を傾げた。
私はもう一度同じように言って、その日のお礼の気持ちを込めてポストカードを手渡した。
それと一緒に、もう何度言ったか分からないほどの"ありがとう"という言葉を彼に告げると、受け取ったポストカードから視線を上げた彼も"ありがとう"と私に笑顔を向けた。
その日私をホテルまで送ってくれた彼は、別れ際、一生懸命私に何かを伝えようとした。何を言っているのか私も必死に読み取ろうとしたが、その戸惑いが表情に出ていたらしい。
それを見た彼は、伝えようとした何かを諦めたような複雑な表情で少しだけ笑った。
そして私たちはそのまま別れた。
ホテルの部屋に入り、ベッドの上に寝そべりながらその日の出来事を思い返していた時、私は彼の連絡先を聞きそびれたことに気づいた。
あぁ、きっと彼はさっきこの事を言いたかったんだ。
そう気づいた時にはもう遅かった。次の日、もう一度会えないかとホテルの前にしばらく立っていてみたり、彼と出会った市場に再び足を運んでみたりした。だが、彼と会うことはもうできなかった。
その事は帰国してからもずっと心残りだった。あの時、連絡先を聞かなかったことを何度も悔やんだ。せめてもう少し現地の言葉を勉強して行けばよかった。何度もそう思った。
店の中をゆっくり一周見て回る。あの時市場で買って、今も家に飾っているのと似たような物が売られていた。店主は現地で買い付けをしているのだろうか。
伝統的な工芸品をいくつか手に取って眺めた私は、せっかくだからと思い、その中の1つを手に会計に向かった。
「すみませーん」
店の奥に向かってそう声を出すと、すぐに「はーい」と男性の声が返ってきた。
「お待たせしました」
流暢な日本語で最初は気づかなかったが、顔立ちからすると日本の人ではないのだろうと思った。どことなくその顔を見たことがあるような気がするのは、きっと彼が昔訪れたあの国にルーツを持つからだろう。
最近はこの辺りでも外国人をよく見かけるようになったが、この人はどうして日本で、しかもこんな田舎でお店を開くことにしたのだろうかとふと考える。
「ありがとうございます」
そう商品を手渡されながら、私は何気なくあの言葉を思い出した。そして、ぼそっと口にした。帰国後に一時期本で勉強して覚えたいくつかの単語も、結局今はこの単語しか覚えていないことに、心の中で少し可笑しくなる。
この発音で合っていただろうかと思いながら、私があの国の言葉で"ありがとう"呟くと、彼はひどく驚いた顔をした。
そのまま彼が私の顔を凝視する。そんな顔を見つめ返しながら、私もハッとした。
「──もしかして」
私は忘れもしない彼の名前を呟く。
それを聞いた彼は一瞬間を置いた後、大きな声を出して笑い始めた。何がそんなに面白いのだろうかと私は困惑する。
「間違いない。確かにあなたはあの時の」
そう言いながらもまだ笑いが込み上げている。
それを不思議に思いながら眺める私に彼が言う。
「あの時もあなたは私をそう呼んでいました。私が何度か口にした私の故郷の街の名前を、あなたはやはり私の名前だと勘違いしていたんですね」
「え……街の、名前?」
ぽかんと口を開ける私に向かって、彼が笑いながら深く頷いた。途端に身体の中が熱くなってきた。同時にこらえられない笑いが私にも込み上げてきた。
彼は私に小さな椅子を持ってくると、昔一緒に飲んだ不思議な味の癖になる飲み物を出してくれた。そしてこれまでの話をしてくれた。
私と別れた後、連絡先を聞けず落ち込んだこと。また会いに行きたかったけど、仕事があって行けなかったこと。あの時、言葉が通じなかったことを悔やんで必死に語学を勉強したこと。私が彼に言った日本語の"ありがとう"から、私が日本人だったと気づいたということ。私がプレゼントしたポストカードから、ここまで辿り着いたこと。
「3年前、やっとあのポストカードの景色を探し当てました。そしてすぐにここを訪れました。この街を歩きながらあなたを探したけど、それはとても難しいことでした」
私はカップに入った飲み物に口をつけながら、そんな彼を想像して小さく頷く。
「でも私はこの街がとても気に入りました。なので去年、ここにお店をオープンしました。大好きな故郷のものを、大好きなこの街の人に紹介したかったので」
彼が店の中を見回しながら嬉しそうに笑う。
「そしたら今日、あなたにまた会うことができました。ずっとあなたに言いたいことがあったんです。ようやく言えます」
私の方に向き直った彼が、私をじっと見る。
「ありがとう」
たった一言。それがよく知った言語だという以前に、私はその言葉の意味が本当の意味で通じた気がした。
胸を詰まらせながら私は静かに首を振る。
「こちらこそ──ありがとう」
そう笑みが溢れた瞬間、遠く異国の地に残した後悔が1つ、私の中にじんわりととけた。
『届かぬ思い』
「話があるんだけど……」
学校からの帰り道。そう切り出された時、ドキッとした。
さっきまでいつも通りの何気ない会話だったのに、今は打って変わって真剣な眼差しを歩幅の少し先に向けている。
「え、どうしたの急に」
上ずった声が出る。動揺を悟られまいと、語尾に明るさを意識する。
「優香ってさ──好きな人、いる?」
さり気なく横目でこっちを見るような視線を感じた。
私は気づかないふりをしながら平然と答える。
「う〜ん。どうかな」
それって、どういう意味? 本当はそう聞きたかった。でも聞けなかった。
風が吹いて、嗅ぎなれた香りが鼻をかすめた。柔軟剤の優しい匂い。前になんていう柔軟剤かと尋ねてみたけど、今度家で確かめてくると言われてそれきりだ。
私の答えが曖昧だったからか、沈黙の時間が過ぎる。
それに我慢できず、私は隣を見上げた。すらっと高い身長、制服から伸びる細くてしなやかな腕、黒髪はいつ見てもサラサラで私の天パとは大違い。いや、違うのは髪だけじゃなくて。身長も低く、どちらかというと肉付きのいい、全体的にまるっこい私の体型とはすべてが大違いだ。
そんなだから、時々、隣に並んでいるのが恥ずかしくなってしまう。
私は視線を前に戻して、さっきの言葉を頭の中で繰り返した。──好きな人。
その質問とよそよそしい態度で分かった。きっと今好きな人がいるんだろうなと。
違うと分かっているのに、そんなことありえないと分かっているのに、どうしても心がもしかして──と期待してしまう。
だが、それと同時に不安や恐れのようなざわざわとした感情が心の内側を這い上がってくる。私はきっと、この思いを伝えることもできぬまま、どこか誰にも見つからない場所にこれをしまわなければいけないのだ。
「好きな人がいる」
ようやく呟かれたその言葉が、一瞬知らない言葉のように思えて、でもその文字の羅列が何度も頭をめぐるうちに、やっと意味が私の中に入ってきた。
私は静かに頷く。ただ黙って前を向いたまま。
「────」
叶うならば、耳を塞いでしまいたかった。次に続く言葉なんて、本当は聞きたくなかった。
心が思考回路を閉ざしてしまったかのように、頭がぼーっとしていく。
何で私じゃないの? そう言いたかった。
もしあなたが──、もしあなたがあなたじゃなかったら。
それとも、もし私が私じゃなかったら。
もしあなたと私が異性に生まれていたなら、私はあなたに言えたのだろうか。あなたに思いを告げられただろうか。
いつの間にか好きだった。これは本当にただの友達としての感情なのかと一度自分を疑ってしまうと、根拠はなくとも、そうじゃないという気がしてならなかった。何度否定しても、どうしようもなかった。
いっそ伝えてしまいたいと思ったことも一度や二度じゃない。でもいつもそこには大きな壁があって、私達は友達だったし、親友だったし、そして何より同じ性別を生きていた。
一緒にいるとこのひた隠しにしてる思いがバレてしまいそうで、でも隣で笑っていられる時間が何よりも幸せで。この時間が永遠になれと心の底から何度も何度も願った。
それと同時に、ほんの一瞬、私に向けるあなたの笑顔に胸がぎゅっと痛んだ。罪悪感だったと思う。友達に向ける純粋な笑顔に、愛情を探してしまう不純な私の罪悪感。
無意識にちょっとだけ隣との距離が開いた。
私はできる限りの笑顔を作って、そして彼女の方に向ける。
「私、応援してるから。私、美月のこと、ずっと大好きだから」
これが私にできる精一杯の伝え方だった。
きっと届くことのない私の最初で最後の告白。
「ありがとう」という彼女の笑顔は、今にも張り裂けてしまいそうな痛みとともに私の心に刻まれた。
この傷はこの先癒えたとしても、その傷跡はきっとずっと消えることはないのだろう。
『神様へ』
神様へ。先日、とある話を耳にし、突然ですが急ぎこの手紙を書いた次第です。不躾ではありますが、僕の願いを聞いてもらえませんか──
季節外れのいちじくに、彼宛ての手紙がくくりつけられ、川の下流まで流れてきた。
そこに綴られた文字からは書き手の必死の思いが見て取れる。
「ほお、よく用意したものだ」
感心しながら彼はそのいちじくを手に取る。そして、重なった藤紫の襟元に手紙をしまうと、ヘタを折ったいちじくの皮を慣れた手つきでめくり始めた。
一見すると黒髪のようであるが、太陽の光の下ではそれが濃い紫なのだと分かるような彼の髪は、腰のところできつく結ばれた若紫色の帯の下まで真っ直ぐに伸びている。そして、その艷やかな毛先は、和紙をよって作られた細い紐で束ねられていた。
生糸で織られた藤紫色の着物の裾からは細い足首と骨ばったくるぶしが覗いていていて、それはすらっとした彼の身長を支えるにはいささか心許なく思える。
日の光に透けるような長い睫毛は、一本にすっと通った鼻筋の向こうで動かす指先を、それは真剣に追っていた。
彼の足元を流れる御尽紫川(みつくしがわ)は、ここから少し道を登った先にある笠子山(かさこやま)を源流に、この先の東湾(あずまわん)まで一本に続いている。
数百年よりもさらに昔から、この町の人々の営みとともにこの川はあった。
笠を被ったようになだらかな斜面からなる笠子山の山頂付近には、昔の人々が建立した古い石の鳥居が立っていて、その鳥居のすぐ側から御尽紫川の水源が湧き出している。鳥居の横に立つこれまた古びた小さな石の祠には、何があるわけでもないのに、ひと月に数人ほど人が訪ねてくる。
その誰もが、この町の人々に密かに語り継がれるある話を聞いて、藁にもすがるような気持ちで足を運んでくるのだ。
御尽紫川にはツクシ様と呼ばれる神様がいる。この川の守り神であるツクシ様はいちじくに大層目がなく、いちじくを受け取る代わりに頼まれごとを引き受けてくれるらしい──
誰がそんなことを言い出したのかは定かではない。実際のところ、彼の仕事は一にも二にもこの川を守ることであり、願いを叶えたり頼まれごとを聞いたりするのは彼の範疇ではない。
ただしその話には事実も含まれていた。
そう、彼は確かにいちじくをこの上なく好いていた。
いちじくがもらえるなら、それは決して悪い話ではなかった。むしろ彼はそれを目当てに、本業に勝るとも劣らないような力の入れ具合で、副業として人々の頼みごとを引き受けるようになった。
こうして彼は川の神様でありながら、大好物のいちじくと引き換えに人々の頼みをきくという畑違いな仕事を始めた、少々風変わりな神様となったのだ。
彼はその華奢な指先でむき終えたいちじくを、ほいっと口の中に放り込んだ。
しばらくありつけていなかったからか、彼はいつもより時間をかけて舌の上で転がすように味わった。そして、名残惜しそうにごくんと飲み込んだ。
「では、とりあえず彼の元に参りましょうか──」
鮮やかな本紫色の鼻緒がすげられた下駄の先で、とんと片足地面を叩く。
ほんのり藤の花を思わせるような不思議な風が、刹那にその場で巻き上がったかと思うと、次の瞬間には川の方に消えていった。
その時、山の上の祠の側を流れる川面に、どこから探してきたのか新たないちじくが一つ、思い詰めた表情でぽちゃんと投げ込まれる音がした。
そのいちじくが携えた手紙の文頭はきっとまたこうだ。
"神様へ──"
『春爛漫』
「もういい加減にして! 泣きたいのはこっちなの!!」
そう叫んだあと、アパートに響き渡っていた泣き声が一瞬止まったかと思ったが、結果、さっきよりもっと大きな声で泣き出しただけだった。
「もう……どうすればいいの」
ベビーベッドの手すりを掴んだまま床にへたり込む。
目から涙がぼろぼろと出てくる。それを拭う気力もなく、次第に嗚咽が混じった泣き声が喉の奥から込み上げてきた。
ふと自分の中にある掴みどころのないどす黒い塊の影に気づいた。目の前で泣きわめくこの小さな生物をもっと簡単に泣きやませる方法があるじゃないか──
一瞬でもそう考えた自分が怖かった。やり場のない感情を力いっぱいに握った拳に込める。
手のひらに爪がささって痛い。痛いけど当然の報いだ。私はダメな母親だ。母親失格なんだ。
娘が産まれてからのこの半年間、私はなんとか踏ん張り耐えてきた。
初めての子育てに四苦八苦しながらも、最初の1ヶ月は育休を取ってくれた夫と力を合わせ、どうにか乗り越えられた。
あの頃も睡眠時間は充分とは言えなかったものの、まだ娘を見て"かわいい"と思う心の余裕はあった。何かにつけ写真を撮ったり、1日の様子を事細かに日記につける余裕もあったくらいに。
だが、いつからかそんな余裕もなくなっていた。
仕事を再開した夫が帰るのは夜遅くのため、日中は一人で世話をする。夫が帰ってくるまでの間、娘の面倒を見ながら家事をして、夕飯を作った。
飛行機で2時間ほどもかかる場所に住んでいる母に簡単に頼るというわけにもいかず、近くに住んでいる義理の母には気を使って頼ることができなかった。
そして、そのうち始まった夜泣きがさらに私の心に追い打ちをかけた。
昼夜問わず寝れない。気が休まらない。娘に笑いかけようにも、笑い方すら分からない。そんな自分に自己嫌悪した。
こんなはずじゃなかった……何度そう思ったか分からない。
私たち夫婦が待ち望み、やっと産まれた初めての子ども。
病院で初めて娘が笑った時、心に陽だまりができたような言葉にならないほどあたたかい気持ちになった。
そこから、"ひなた"と名前をつけた。このあったかい響きには平仮名の方がいいよね、と2人で相談して決めた。
「ひなた」と呼ぶと笑ってくれた。それがとてもかわいくてたまらなかった。かわいくないはずがなかった。なのに──
仕事終えて帰宅した夫がそんな私をみかねて、「週末3人で出かけようか」と言った。
「え……」
私は信じられない気持ちでいっぱいだった。
「もう外に連れていっても大丈夫なんだろ? 外は桜が見頃だし、ひなたに初めての桜を見せてあげたい」
「──何でそんな簡単に言うの」
夫が不意をつかれたようにこっちを見る。そして戸惑ったように言う。
「別に、簡単なんて」
「そうでしょ! 自分はひなたの世話をずっと私に任せっきり。私は1日生きるだけでこんなに精一杯。なのにあなたはそんなふうにお気楽にして、その上私が悪者みたいに言って」
「俺がいつそんなこと言ったんだよ」
「言ったじゃない。私がひなたを全然お出かけに連れて行ってないって。ひなたが可哀想だって。ダメな母親だって……」
自分でも感情が抑えきれなかった。
分かってるんだ。夫は何も悪くない。悪いのは自分だ。今のは彼に向けてじゃなくて、自分に言いたかったことなんだ。
「──今日はもう寝る。夕飯は明日朝食べるから」
そう呟かれた言葉だけが部屋に残って、そして静寂に消えた。
次の日、ソファでうとうととしていた私が目を覚ますと、もう夫の姿はなかった。
心当たりのない毛布が1枚私にかけられていて、冷蔵庫に入れておいた昨日の夕食の皿は、全部洗って水切りに置いてあった。
ベビーベッドでは娘が珍しく静かに眠っている。
私は起こさないようにそっと近づいた。両手を上げて寝る姿がいつも夫が寝る時の姿にそっくりだ。そうやって静かに寝息を立てる娘を見てると、なんだか無性にかわいくて愛おしくてたまらない気持ちになった。
そう思うと私の頬は自然と緩んでいた。ああ、私にもまだちゃんとこんな感情があったんだ。そう気づいた。
週末になり、私たち家族は初めて3人でちゃんとしたお出かけをすることになった。
友人たちにもらった外出用のかわいい洋服を着せ、母にもらったくまの耳がついた小さな帽子をかぶせる。
「あれはいれたし、これもOK……これで全部かな?」
荷物の多い乳児のお出かけのために、夫がほとんどの準備をしてくれた。
「うん、ありがと」
「よし、じゃあ行こうか」
普段の買い物は夫に任せているため、外に出るのは久しぶりだ。
1歩家から出ると外にはいつの間にかちゃんと春が来ていて、すっかり暖かくなった空気を吸い込むとなんとなく春の匂いがした。
「ひなたーお出かけですよー。桜を見に行くんですよー」
私が抱いている娘に向かって、夫が歩きながらうれしそうにしゃべりかける。
「お父さんの方がはしゃいでるみたいだねーひなた」
娘はそんな私たちに構うことなく、初めて見る景色に目を行ったり来たりさせている。
「ほら、あれ!」
夫の声につられて視線を追うと、そこにはこれ以上ないくらい満開の桜が通り沿いにずらりと並んでいた。
天気も申し分ないほどの花見日和だというのに、まだ少し時間が早いせいか車通りも人通りも少ない。
「こんなにすごい桜なのに、私たちがひとり占めだね」
私がそう言うと、夫が「違う違う」と首を振る。
「三人占めだよ、それを言うなら。この桜はたった今、俺たち三人だけのもの。よし、ひなたおいでーお父さんと一緒に桜を見よう」
夫がひなたを抱きかかえて、桜の枝の方にひなたの顔を向ける。
その時、その枝から桜の花びらが1枚ひらりと落ちた。
それを見てひなたが笑った。それは、この満開の桜にもこの光に満ちた春の陽気にも負けないほどの、まぶしい笑顔だった。
ふと夫の方を見ると、向こうも同じくこっちを見ていた。
「笑ったね」と私が言うと、「うん、笑った」と彼も言った。
娘はきっと、今日見たこの圧巻の桜も、今日感じたこの春のあたたかさも、この瞬間私たちがどんな顔をしていたかも、すべて覚えてないだろう。
でも私たちは一生忘れない。世界中の幸せをかき集めても足りないほどの、溢れんばかりの幸せを。
「来年もまた来ようね」
花びらの影の下で2人に向けて言う。
夫が握る娘の手は、気づかないうちに大きくなっている。きっとこれからもあっという間に大きくなってしまうのだろう。
夫がひなたの顔を私に見せるようにこっちを見た。
「うん。来年も、再来年も。もういい加減いやって言われるくらいになっても、毎年来よう」
「──うん」
『これからも、ずっと』
それは、お昼ご飯を食べ終えた私が休憩室の時計を眺めながらぼんやりしていた時のことだった。
「畑野さんって、音楽やってたんですか?」
「え!?」と咄嗟に振り返ると、同僚の斎藤さんが後ろに立っていた。肩までの茶髪を傾けた彼女がこっちを見る。
「えっと……どうしてですか?」
「いやぁそれ、ちょくちょく見かけるなと思って」
斎藤さんが机の上に置かれた私の両手に視線を移した。
何を言ってるのか分からないといった表情をした私に、彼女が続ける。
「それって、ピアノでこの曲弾いてるんですよね? 私はちっちゃい頃にほんの少し習ってた程度なので詳しくないですけど、畑野さんってもしかしてピアノすごくお上手なんじゃないですか?」
私はハッとした。
私が事務として勤めるこの整骨院では、BGMにクラシックのCDを流している。仕事中は業務に集中しているためおそらくこんなことはしてないはずだが、気が抜けている休憩中には曲に合わせて勝手に指が動いていたらしい。それもおそらく今日が初めてではなく、度々。
「そんなそんな。私も昔ピアノやってだけです。今はもう全然弾いてないですし。今のも無意識でした。すみません」
申し訳ない気持ちといたたまれない気持ちで頭を下げる。
「何で謝るんですか。すごいことじゃないですか。私なんて指が動くどころかこの曲の名前すら覚えてないんですよ。ピアノ習わせてくれた親には申し訳ないくらいです」
斎藤さんはそう言って苦笑いを浮かべた。
そこに、「何の話?」と院長が休憩室に入ってきた。
「畑野さんが昔、ピアノを習ってたって話ですよー」
斎藤さんが答える。「そうなの?」と興味を示す視線が私の方に飛んでくる。
そんな状況から今すぐにでも逃げ出したくてたまらない私の頭に、思い出したくない記憶が蘇ってきた。
「──ダメだった……」
そう両親に告げたあの日、私はピアノをやめた。高校3年生の夏休みのことだ。
3歳からピアノを習い始めた私は、すぐに音楽に夢中になった。毎日何時間もピアノの前に座り、友達と遊ぶよりピアノを弾いてる時間の方がずっと長い幼少期を過ごした。
だんだんと上達する自分が誇らしくて、家族やうちを訪れた人々には積極的に演奏を披露した。あの頃の私は、みんなに褒めてもらえるのがたまらなく嬉しかったのだ。
小さい頃の私はピアノのことがとにかく大好きで、その分上達も早かった。小学校低学年の時に初めて参加したコンクールでも賞をとったし、それからも小さな大会ばかりとはいえ、コンクール上位の常連組の一人となった。そして、将来の夢もピアニストになった。
ただ、そんな日は長く続かない。
歳を重ねるごとになかなか思うように上達しなくなり、中学生の頃には音楽を楽しめなくなっていた。成長しないから楽しくないのか、楽しめないから成長しないのか。
ただはっきりしていたことは、自分は今全然楽しくないということだった。
それでもこれまで続けてきたピアノを辞めてしまう勇気はなく、高校に入ってもピアノは続けた。
「お前の音を聴いていても楽しくない」
中学から指導を受けていた先生にそう言われた時、私は怒りや悲しみというより、妙に納得した気持ちになった。そりゃそうだろう、だってこっちも楽しくないんだから、と。
「このコンクールで賞とれなかったら、ピアノ辞める」
高3になってすぐ、私はそう宣言した。
学業をおろそかにしてまでも、私は最後の意地で練習に励んだ。結果次第では、今までの人生がすべて無駄になるような気がした。怖かった。
そんな恐怖と不安に追い立てられるように、私は毎日ピアノに向き合った。
これで最後だと決めたコンクール、私の結果は惨敗だった。
その時、糸が切れた音がした。胸の中でぷつりと。
次の日から、私は目標を受験勉強に切り替えた。すべての感情を取り払うように、私は無心で手を動かして受験勉強に励んだ。
あれから私は、音楽から距離を置いて生きてきた。
大学でも就職してからも、何かを演奏することはもちろん音楽を聴くことすらほとんどない。
ただ、街中で知っている曲が流れて来ると、無意識に耳がそれを追ってしまう。頭の中に、昔何度も練習した譜面が自然と思い浮かんでくる。その思考を止めることはできなかった。
「──ねぇ畑野さん。もし良かったらお願いできないかな」
顔を上げると、2人がこちらに注目していた。
「えっと……」
一体何の話だろうかと、頭の上に疑問符が浮かぶ。
「来月やる開業10周年記念の音楽会で、畑野さんも何か演奏してくれないかな」
「えっ!?」
あまりの驚きに声が裏返る。
「小さな集まりの予定なんだけど、僕の下手くそなバイオリンだけじゃ来てくれる人に申し訳なくってさ」
「でも、私もう何年もピアノ触ってないんです。なのに人前で弾くだなんてとても……」
「そっか。そうだよね……でも残念だな」
これで何とか断れそうだと思った矢先、斎藤さんが口を開いた。
「じゃあ練習しましょうよ!」
「──え!?」
「だって、今でもあれだけ指が動くんですもん! 1ヶ月練習すればきっと弾けるようになりますよ!」
なぜか自信満々な彼女がこちらを見た。私は必死に断る理由を探す。
だが、私がそれを見つける前に院長が笑顔を作った。
「そうなの? じゃあぜひ弾いてよ。畑野さんのピアノ、楽しみだな」
院長のその言葉でどうにも断ることができなくなった私は、途端に心の中に不安が襲ってきて、音を立てないように深くその場に息を吐いた。
本番当日。音楽会用に飾り付けた院内に、いつも通ってくれる患者さんや職員の家族が十数人ほど集まった。
始めて1年ちょっとだという院長のバイオリンの演奏に盛大な拍手が送られたあと、私の出番がやってきた。
院長がどこからか手配してきたアップライトピアノに手を乗せる。
あのコンクール以来、初めて人前で演奏する。胸が破れそうなくらいに強く鼓動を打つ。
小さく息を吸って鍵盤を押す。
練習して分かったことだが、曲を覚えていたのは頭ではなく何度も練習したこの指先の方だった。今もこうして緊張で真っ白になった頭に変わって、指先が自然とメロディを奏でていく。体に染み込んだメロディが弦を伝って、空気を振動させる。
それは懐かしい感情だった。楽しい。音楽って楽しいんだ。
そうやって心が弾むと同時に音が弾んだ。
そんな感情で胸がいっぱいになっていた私にとって、それは本当にあっという間だった。
椅子から立ち上がり後ろを振り返ると、その場の観客たちの拍手が私を包み込んだ。院長や斎藤さんをはじめとする同僚たち、患者さんや今日初めましての人でさえも私の方にこぼれんばかりの笑顔を向けていた。
その光景を、滲んでいく自分の目の中にしっかりと焼き付ける。そしてその感情を、私は心の中にしっかりと刻み込んだ。
きっと私は、この数年の間も決して音楽を嫌いにはなれなかった。むしろ嫌いになろうとしても、私は音楽の側からずっと離れられなかった。
なぜなら、私が音楽に出会ったあの時から、音楽は私のこの中にずっとあったから。
そして──これからもずっと、私の中にあり続ける。