『沈む夕日』
私には秘密がある──。
「ねぇ! テストも終わったことだし、パーッと飲み行こうよ!」
こちらを振り返って後ろ向きに歩くマキが、ほんのりオレンジ色に染まりかけた空に勢いよく腕を伸ばした。
「あのねぇ、そんなこと誰かに聞かれたら、なんか良くないことしてるみたいじゃん」
マキの提案にカエデがつっこみをいれる。
「いいじゃん、いいじゃん。学生だって、たまには息抜きも必要ってもんよ」
「あんたはいつも息抜きばっかでしょ?」
呆れた表情のカエデに対して、マキはとぼけたように斜め上に目線を上げた。
「んー、そうだっけ? まぁ細かいことは置いといて、私たち未成年は健全にジュースで乾杯しましょうよっ」
マキが屈託のない笑顔を浮かべて、前に向き直る。
「もぉ、まったくしょうがないなぁ。だったら会場はカラオケね。あたし、ここんとこ歌が足りてなかったんだよねー」
「えー! カエデとカラオケ行っても全然歌わせてもらえないじゃん」
「そんなことないよ。今日はちゃんとマイク渡すからさ。ねぇ、ミカもカラオケがいいよね?」
カエデが私の方を振り返って尋ねる。
「えっと……私は……」
2人の視線がまっすぐにこっちを見る。
喉のすぐそこまで「私も行きたい」と出かかっていた。
通り沿いの店の看板がカチカチっと音を立てて明かりを灯した。
「ごめん! うち門限厳しいから、今日はパスで!」
顔の前で両手を合わせ、目をぎゅっとつむる。
「あ、そっか。ミカんち厳しいんだっけ? でもさ、今日くらいダメなの? テスト頑張ったご褒美だしさー」
マキが唇を尖らせてそう言う。
「私もすっごく行きたいんだけどさ……」
私がそううつむくと、肩にポンとカエデの手が乗せられた。
「じゃあさ、日曜に改めておつかれ会しようよ。部活は午前中までだから、それが終わってからミカの門限まで。もちろん会場はカラオケね」
カエデがニッと私に笑いかけた。それを見て、まだ少し不満げだったマキが小さくため息をつく。
「わかった、じゃあ今日はやめよ。カラオケは3人で行った方が楽しさ100倍だしね」
そう言って笑顔に戻ったマキが、私の肩に腕を回した。
「そうそう。じゃあ決まりで」
カエデが満足そうに大きく頷いた。
夕暮れの空のオレンジ色は待ってくれるような素振りもなく、みるみるうちに鮮やかに変化していく。
「ありがと」と私が呟くと、マキが「いいってことよ」と笑った。
「じゃあまた明日」
「うん、またね!」
「また!」
ちょうど3人の家への分かれ道で、私たちはいつもそう挨拶をしてから別れる。
少し行ったところで私は振り返った。それぞれに歩く2人の背中の向こうで、太陽が真っ赤に染まって落ちていく。
2人の姿が完全に見えなくなる頃、太陽もそのほとんどが建物の向こうに隠れてしまった。
私は急いで辺りを見回し、人目につかなそうな路地に駆け込む。そして、しゃがみ込み、小さく丸まった。
「あ、黒猫さんだ!」
道を照らす街灯の下で、お母さんに手を繋がれた小さな子どもがそう声を上げた。
私はその横をスッと走り抜ける。
「──あ、行っちゃった……」
そう呟く声が後ろの方から聞こえた。
さっきまでは"昼"の街だったのに、あっという間に街並みが"夜"の雰囲気を醸し出す。
どっちが本当の姿なんてことはない。どちらも合わせて一つなのだ。
通りを抜けて少し進むと、足元にピンク色の花びらが一枚落ちていることに気づいた。
パッと顔を上げて左右を見渡しても、桜の木はどこにも見当たらない。この花びらは一体どこから来たのだろうか。
そんなことを考えながら、足先で花びらをつつく。
もうすぐ春も終わる。そうすれば、次は夏だ。
すっかり陽の沈んでしまった黒い空を、私はゆっくりと見上げた。明日はきっともう少し長く──。
私には秘密がある──、誰にも知られてはいけない秘密が。
そんな私は最近、夏を心待ちにしている。
『星空の下で』
星空の下で彼女と出会った。
その冬一番の澄んだ空には見たこともないほどの数多の星が浮かんでいて、彼女はその空を僕と同じように見上げていた。
吐く息は白く、陶器のような白い肌は鼻先だけが微かに赤い。僕が着ているのよりもずっと薄いコートを羽織り、両手を温めるように擦りながら、彼女はじっと夜の星を眺めていた。
僕は自分の両手を見つめた。飾り気のない自分の灰色の手袋を。
「良かったらこれ」
考えるより先にそう話しかけていた。
突然差し出された手袋を見て、彼女がきょとんとした表情でこっちを見る。僕は慌てて言葉を続ける。
「今宵は一段と空気が冷たいようです。僕はこの通り温かくしてきたので、手袋一つくらいなくても平気です」
身につけた帽子とマフラー、そして重たいコートにボアのついたブーツを順に見下ろして、最後に彼女の目を見る。
「──いいんですか?」
その瞬間に初めて聞いた彼女の声は、僕が漠然と思い描いていた彼女の声そのものだった。薄いガラスのように繊細で透明な声。
「ご迷惑じゃなければ、ですが……」
「ご親切にありがとうございます。では少しだけお借りします」
喜びを含んだような笑みを浮かべた彼女が、僕が差し出した手袋に手を伸ばす。
その瞬間、微かに彼女の手が僕の指先に触れた。
僕は咄嗟に首をすぼめた。彼女の手の冷たさに驚いたからなのか、それとも不意に肌が触れたことに戸惑ったからなのかは分からない。
こんなに冷えて風邪をひいてしまわないだろうか、という僕の心配をよそに、彼女はそのまま手袋をつける。
「あったかいです、とても」
「それはよかった。ですが──それだけではまだ寒いでしょう。このマフラーもよければ……」
僕が首元に手をかけると、彼女は小さく首を振った。
「それはいけません。それではあなたが風邪をひいてしまいますし、こう見えて私、寒さには強いんです」
鼻の頭を真っ赤にした彼女がそう言って微笑む。
その言葉で心配が拭えるはずはなかったものの、僕は出かかった言葉を飲み込んで首に伸ばした手をゆっくりと下ろした。
彼女が再び空に視線を戻した後も、僕はたびたび彼女の横顔を見つめた。
彼女は今、何を思ってこの今にも吸い込まれてしまいそうなほどの美しい星空を眺めているのだろうか。
「──ねぇ、何を考えているの?」
あの日を思い出していた僕に彼女がそう尋ねた。
「何って、君のことに決まってるじゃないか」
僕がそう言うと「ほんとかしら」と彼女が僕の目を覗き込む。
「本当さ。ここで君と出会った時の、君の真っ赤な鼻先を思い出していたんだよ」
少し驚いたように息を呑んだ彼女は、すぐに頬をふくらませて、ふいっとそっぽを向いた。
そのいじけた表情を見て、僕は「冗談だよ」と笑う。
「本当はあの時の君の冷たい手を思い出していたのさ」
僕はそう言って彼女の手を握る。
だが、今日は彼女の手の冷たさを感じることはない。僕も彼女も今日は手袋をしているのだ。
僕はあれからずっと大事にしてきた灰色の手袋を。そして、彼女は真新しい濃紺の手袋を。
あの日みたく寒さに凍えないようにと今日のために用意したその手袋は、彼女が好きな夜空の色を僕が選んだ。
「──だってあの日は特別寒い夜だったから……ちょうど今日のように」
彼女が空を見上げるので、僕もあとに続く。
「それに私だって気づいてたのよ。あなたがこの美しい星空を差し置いて、こっちばかり見つめてたって」
「えっと、それは……」
焦る僕の隣で彼女がくすっと笑う。
「せっかくこんなにも美しい星の下にいるっていうのに、私ったらそればかりに気を取られてしまったわ」
「それは知らなかったよ……」
何気なく彼女の方を伺い見ると、自然と目があった。途端に笑いがこみ上げてくる。
その時、後ろからシャッターをきる音がした。
「なかなかいい写真が撮れたよ。ほら見てごらんよ、主役のおふたりさん」
そこに切り取られた満天の星の下には、特別な純白の衣装に、不似合いな防寒具を身をつけた2人が幸せそうに笑いあっていた。
「素敵……」
「ああ、本当に」
「じゃあもう一枚。次はみんなで」
その言葉を合図にして、散らばっていた人々が僕たちを取り囲むように集まってくる。家族、友人、どこを見ても大切な人たちばかりだ。
「──はい、撮りますよ! 3、2、1 ……」
この日。星空の下で、僕たちは2人の未来を星に誓った。
『大切なもの』
「これからあなたは、大切なものを毎日少しずつ失っていきます」
そう言われたのは昨年、年の瀬のことだった。職場の同僚に半ば強引に誘われて占いに出向いた時に告げられた言葉だ。
「え、大切なものって……」
「あなたにとって、とても大切なもののはず。何かってところまでは──そうね、今はまだ分からないですが」
いかにもな怪しいベールで顔を覆った占い師は、これまたいかにもなセリフを平然とした口調で述べた。
彼女が指し示した手元のカードの意味は私にはよく分からなかったが、そのイラストが平和な絵ではないことは一目瞭然だった。
「じゃあ、私はどうしたらいいんですか」
曖昧な忠告に、私は若干苛立ちながらそう尋ねる。
「うーん。もしかしたら何かそれに気づくきっかけがあるかもしれないですね。例えば──そうね、誰かとの出会いとか」
「え〜! それって男の人ですかぁ〜?」
占い好きだという同僚が甘い声で嬉しそうにそう尋ねる。
まだ微かながらその場に残っていた私の興味は、その時点でその次に控えるちょっとお高いランチへと焦点を移した。
そんな出来事を何気なく思い出したのも、職場での部署移動が決まり、今の部署に残るその同僚ともしばらく顔を合わせることはないんだろうな、などと考えていたからだろう。
年度末最終日の午前中、お世話になった部署の面々に簡単に挨拶をすませた私は、引き継ぎのために新しい部署を訪れた。
「すみません……」
そう声をかけると、一人の男性が入り口の方までやってきた。
「もしかして百瀬さんですか?」
男性が私にそう尋ねる。
「あ、はい。そうです。百瀬です」
「僕は田口といいます。百瀬さんに業務を引き継いでもらう予定の者です」
そう名乗った彼は今年度で退職が決まっており、そのためにちょうど私物をダンボールに詰めているところらしかった。
シャツのボタンは一番上を一つ開け、袖は肘までまくっている。
「あ、そうでしたか。お忙しいところすみません」
「こちらこそまだ片付いてなくてすみません。引き継ぎにいらしたんですよね。散らかってますが、どうぞ中へ」
引き継ぎ内容はすでに彼によって丁寧にデータにまとめられていて、それについて質問を交えながら分かりやすく説明がなされた。
「ざっとですが、大体はこんな感じです」
ふとパソコンから視線を上げて壁掛け時計をさり気なく見上げると、時刻はもうすでにお昼の1時を回ろうとしていた。
そんな私の視線に気がついたのだろうか。彼がハッとした表情を浮かべる。
「もしかして、お昼まだでしたか? すみません。そこまで気が回らなくて」
「大丈夫です、そんなにお腹すいてないですし。それにこれが終わったらもう今日は上がりなので、あとで下のコンビニにでも寄って何か買って帰ります」
「あ。──あの、サンドイッチお好きですか?」
「え……?」
「いやその、近くにおいしいサンドイッチのお店があって。ご存知ですか?」
「いえ……知らない、と思います」
「じゃあ、もしお嫌いじゃなければですが。僕の業務を引き継いでもらうお礼に、ランチ奢らせてもらえたりしませんか」
いきなりの申し出に私は目を見開いた。
「えっと、サンドイッチは好きですけど、そんな奢ってもらうなんて……」
慌てて大きく首を振る。
「僕も今日で当分はこの辺に来ることもなくなりますし……そうだ、これも引き継ぎですよ。おいしいランチのお店の引き継ぎ」
そうもまっすぐな笑顔で言われて断るに断れなかった私は、まぁ今日ぐらいはいいか、という気持ちなりその提案を受け入れた。
建物を出ると外はすっかり春めいていた。朝着てきた上着は羽織らずに手に持つくらいでちょうどいい、過ごしやすい気温だ。
同じようなことを考えていたのか「春ですね」と彼が言い、「そうですね」と私が返す。
会社から歩いて5分ほど行ったところ、少し路地に入った場所にその店はあった。
彼は慣れた様子で注文をする。
「僕はオリジナルサンドイッチとアイスコーヒーで。百瀬さんはどうしますか?」
メニューにさっと目を通す。メニューに添えられた写真のサンドイッチはどれもおいしそうで、値段も思ったより手頃だ。
「じゃあ私も同じものを」
「はい。では、オリジナル2つとアイスコーヒー2つですね。店内で召し上がっていかれますか」
店員さんがこっちを見る。私が隣に視線を送ると、彼は少し考えたあと前を向き微笑んでこう答えた。
「テイクアウトでお願いします」
「あの、どこに行くんですか?」
お店でサンドイッチを受け取ったあと、「せっかくだからちょっと歩きましょうか」と彼は言い、どこかへ向かって歩き始めた。
「もう見えてきますよ──ほら!」
彼の視線の先を見ると、ベンチとブランコが1つずつあるだけの小さな公園があった。そしてその真ん中に大きな桜の木が薄桃色の花びらをいっぱいにつけて咲き誇っていた。
「うわー!」
ちょうど満開で見頃を迎えた美しい桜に、私は言葉を失った。
「どうでしょう、この桜。綺麗でしょう。ここ、僕のおすすめランチスポットなんです。いつ来てもあのベンチは空いてるのでおすすめなんです」
彼がいたずらな笑みを浮かべる。
「さぁ、そこに座ってお花見しながらサンドイッチ食べましょう」
ほとんど初対面の人間と、こうしてベンチで桜を見ながらお昼を食べていることがなんだかおかしく思えてきた。でも不思議と嫌な気持ちではない。
春の心地に身を委ねると、時の流れが心なしかゆっくりに感じる。
「本当に綺麗ですね。それに何と言うか、すごく生命力を感じます。この今しかない美しさを存分に見てって言われてるような」
私がそう言うと、彼もゆっくり頷いた。
「分かります。負けてられないって、僕も思います」
その声のトーンは、さっきまでとどこか少し違うように感じた。さり気なく隣を見ると、彼の視線はただぼんやりと桜の木の方を見つめていた。
「桜、あと何日持ちますかね」
静かに彼がそう尋ねるのと同時に、肌寒い風が吹いて、花びらをいくつか落とした。
「どうですかね、来週くらいまで持つでしょうか。もう新芽も開きそうですし」
「そうですね。でもやっぱり植物は強いですね。咲いて散っても、すぐに葉をつけてまた来年には咲く。ずっと何十年も何百年もそれを繰り返す。人間は散ったら終わり。もう咲くことはできない……生まれ変わったら僕も桜になろうかな」
彼はそっと微笑んだ。風に散ってゆく花びらと同じくらい、儚げに。
私は彼の言った言葉の意味を考えながら、ただ黙って満開の桜を眺めた。
それから数カ月が経ち、朝礼で上司から話があった。
数日前に彼が病院で息を引き取り、すでに近親者のみで葬儀を終えたという。
後から聞いた話では、私が彼と桜を見ながらお昼ご飯を食べたあの時、もうすでに彼は病気で余命を告げられていたらしい。彼には自分の命の残り時間が分かっていたのだ。おそらくあれが最後に見る桜だということも。
まだ若かったのに──などと弔えるほど私は彼のことを知らない。ただ彼と見た桜を、私はきっと一生忘れない。
あれからふと考えることがある。前に占い師が言った言葉。
『これからあなたは、大切なものを毎日少しずつ失っていきます』
人は生きていれば、当然日に日に残りの時間が短くなっていく。気づかないうちに、大切なものが少しずつ減っていくのだ。
でもそのことに気づけば、もうそれはその時間を"失う"ことにはならない。残りの時間をどう使うか、何を得るか何を失うかは全て自分次第なのだ。
私にそう気づかせてくれたのが彼だった。
『星が溢れる』
流れ星たちは、これまで多くの願い事を託されてきた。
星たちはその輝きで願いに光を当て、それが叶うように力を貸してくれる。だが残念なことに、必ずしもすべての願いが叶うわけではない。
宿った願いが叶った星は役目を終えてその光を落とすが、願いが叶わないままの星は、流れ着いた場所で微かな光を残したまま、いつかその光が消える日がくるのををただずっと待ち続ける。
願いを叶えられなかったそんな星々が辿り着く場所を、いつからか誰かが『星捨て場』と呼ぶようになった。
誕生してから途方もないほどの長い年月を経た星たちは、最後の最後にそこに流れ着いた。そして、それからまた途方もないほどの年月をここで過ごしている。
ここにある願いのほとんどがもう叶うことはない。叶わないならば、消えゆくこともできないのだ。
幾年が過ぎ、星捨て場の星は時が経つにつれてその数を増やしていった。夜空の光が一つ、また一つと落ちていくたびに、その中から小さく寂しげな光がそこに集まっていく。
そして、空の星のほとんどが願いとともに流れ落ちてしまった頃。最初は別々だった小さな光たちは、徐々に1か所に押し集められていた。
だんだんと、だんだんと集まった光たちは大きくて明るい1つの光へと変わっていき、最期には目もくらむほどの眩い光を放って空に弾け散った。
叶わなかった数多の願いは光となって空に散らばり、また幾千もの新しい星々が暗い夜空に誕生した。
再び星でいっぱいになった空に、またすぐに願い事が託される。
消えゆく光もあれば、消えることのできないままの光も確かにそこに存在する。星たちはただ、自分の運命をまっすぐに受け入れるのだ。
一度からっぽになった星捨て場。でももしかしたら、すでにそこは再び流れ着いた次の世代の星々によって、僅かな光を帯びはじめているかもしれない。
『ずっと隣で』
「もうええわ! どうもありがとうございました」
まばらな拍手に追い立てられるように、舞台袖の狭い階段を下りる。
舞台を下りた俺と相方の間に会話はない。控室まで無言の時間が続く。
「あ、おつかれっす」
控室に戻ると、出番を待つ芸人の視線がパラパラとこちらに向く。後輩の形ばかりの挨拶に俺は「うっす」と軽く顎を引いた。
大部屋の芸人たちの中で、俺達はもう中堅近くの立ち位置となった。後輩でも、売れれば個室があてがわれていく。シビアな世界だ。
芸歴が長いからと言って、もれなく後輩たちから尊敬されるというわけでもない。面白いか、面白くないか。それは舞台上だけでなく、舞台を下りて、生身の人間としての生き方にも求められる。
つまり俺達は彼らにとって、舞台の上でも下でも面白くない先輩だということだ。
相方であるアツムとは大学で入った漫才サークルで出会った。
学年でいうと1つ下だったが、アツムは1浪していたため年は俺と同じで、なんだかんだとすぐに意気投合した。
アツムの考えたネタを初めて聞かせてもらった時、コイツは天才なんじゃないか俺は本気で思った。
漫才を見たり真似したりするのは好きで、漫才師として売れることを夢見る俺だったが、ネタ作りの方はからっきしだめだった。だからアツムにネタ作りに才能があると分かった時には、大きく胸が高鳴った。
「一緒にやらないか」
心の準備に数日を費やした俺は、一応の先輩としての、それに一友人としての見栄もプライドもすべて捨ててアツムにそう声をかけた。
しばらく沈黙があった後、考え込むように口を開いた。
「お前とまったく同じことを、ついこの間先輩にも言われたよ」
思ってもみなかった言葉に、俺は頭を殴られたような衝撃を受けた。
「……そっちと、組むのか?」
掠れた声で尋ねた。アツムの目は見られなかった。
「時間をくれ」
アツムはそう一言言い残してその場を立ち去ると、それからしばらくサークルに顔を出さなくなった。
そんなアツムが久しぶりに顔を見せたのは、アツムを相方に誘った日から1ヶ月ほどが過ぎた時だった。
「なぁ! ついに出来たぞ!」
アツムが脇目も振らず大声でそう言いながら、まっすぐに俺の元へやってくる。
「出来たって、何が!?」
「何がじゃないだろ? ネタだよネタ! 俺とお前がする初めての漫才のネタ!」
「な、それってつまり、俺と組むってことか?」
「何言ってんだよ今さら。この1ヶ月、何のために頭を捻りに捻ってネタを考えてきたと思ってんだ」
後から分かったことだが、あの時の「時間をくれ」というのは俺とコンビを組むかどうかを考えるためではなく、俺とやるネタを考えるための時間だったらしい。
「まあそんなことはどうでもいい。とりあえず早く読んで感想聞かせてくれ」
俺達コンビの初舞台は──大成功だった。
俺が左で、アツムが右。その方が何かしっくりくるからとアツムが言い、俺も同意した。
テンポよく進む会話に、あちこちから笑い声が上がった。終わった時の盛大な拍手と客席のざわめきは、今でも忘れられない。後にも先にも、あんなに興奮する舞台はなかった。
「俺達、これからもやってけるだろうか」
舞台から下り、興奮が少し落ち着いた時俺はぽつりと呟いた。
「やるに決まってんだろ。まだ始まったばかりじゃないか」
大学を卒業した俺は、バイトをしながら劇場で漫才をさせてもらう日々を続けた。そしえ、アツムも実家の農場を手伝いながら漫才に明け暮れた。
周りの就職していったやつらのことが気にならなかったと言ったら嘘になる。だがそれでも、夢を追いかけ続けることに大きな誇りを持っていた。
「いつか絶対売れてやろうな」
「ああ。漫才でてっぺんとろう」
何度そのやり取りをしただろうか。
だがいつからか、お互いにそう口に出すこともなくなった。
思うようにお客さんを笑わせられないし、場の空気が掴めない。そんなだから、ネタを作る方もいろんな方向に迷走した。
衝突するたびに「だったらお前がネタ書けよ」と言われると、それ以上何も言い返せなかった。
ただ、俺の中で、アツムのネタで売れたいという気持ちは揺るがなかった。舞台の上で、他の誰かの横に立っている自分が想像できなかった。俺の右側にはアツム以外考えられなかった。
そう思っているのは俺だけじゃないと思っていたのに。信じていたのに。──現実は違っていた。
劇場からの帰り道、突然のことだった。
「この辺で終わりにしないか」
「──え……」
「終わり」という言葉が頭の中で反芻する。
「もう潮時だと思うんだ。この辺で夢はきっぱり諦めて、実家に戻って農家にでもなろうと思う」
俺は言葉を失った。
正直、いつかそう言われる日が来るかもしれないと考えることはこれまでにもあった。ただ、その"いつか"が"今"だとは少しも想像していなかった。
重たい沈黙が、暗い夜道に更なる影を落とす。
そんな沈黙を破ったのはアツムだった。
「お前は、俺のネタじゃなくてもやってける。だから、他の──俺よりもっと面白いやつと組んだ方がいい」
「何言ってんだよ!」
考えるより先にそう言っていた。
「お前の他にいるわけないじゃないか! 俺の隣はこれまでも、これからも、お前しかいないんだよ!」
驚いたように口を開けてこっちを見るアツムの表情で気がついた。俺は泣いていた。そして、そのまま泣き叫ぶように続ける。
「ああいいよ! 分かったさ! お前が辞めるなら俺も辞めるよ!」
そう叫び残して俺は早足で歩き始める。そんな俺の背中に後ろから声が飛んでくる。
「お前には……お前には! 漫才でてっぺんとるって夢があるだろ!」
アツムがこっちに走り寄って、俺の肩を掴んだ。
「俺の分まで、その夢叶えてくれよ……」
アツムの声が滲む。
「俺の夢は、そんなんじゃない。お前がいない漫才なんて楽しくないし、お前が隣にいないなんて想像できないし、俺はアツムの隣でずっと漫才がしてたいんだよ!」
普段なら気恥ずかしく決して口に出せない言葉が、感情に任せて口から出た。
「──このままずっと売れなくてもか?」
俺の肩を掴むアツムの手に、さらに力がこもる。
「……いやまあ、そりゃ売れるに越したことはないけどもな」
俺がそう言うとアツムが笑った。そんなアツムを見て俺も吹き出した。
「俺達、まだやっていけると思うか」
ふと笑顔が消えたアツムがそう呟いた。
あの時──初舞台が終わった後、俺がアツムに聞いた言葉が重なる。
体中からかき集めたありったけの自信をこめて、俺は答える。
「やるに決まってんだろ。まだ終わってたまるもんか」
「やるからには絶対売れてやろうな」
「ああ。漫才でてっぺんとろう」